せたがや百景 No.71-80の紹介
昭和59年に世田谷区と区民によって選定された「せたがや百景」のNo.71-80の紹介です。詳細は個別のページをご覧ください。
No.71 岡本もみじが丘
綾錦のような紅葉に松の緑を点々と散りばめた秋景は息を呑むようで、多摩川八景(行善寺八景)の一つ「岡本紅葉」とうたわれた。今、開発の手から守ろうとする地元の熱意は強い。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:岡本2-33(岡本静嘉堂緑地) 備考:ーーー

なかなか魅力的な名が付いた丘なのですが、実際にはそういった名が付いた丘があるわけではありません。静嘉堂文庫のある丘、岡本静嘉堂緑地一帯の丘を、地元の人が岡本もみじが丘と呼んでいるだけです。・・・、いや、「呼んでいた」といった過去形になるでしょうか。
静嘉堂文庫のある丘は、今では緑地になっている部分もありますが、かつては丘全体が岩崎財閥の土地でした。昭和初期まではきちんと岩崎家によって手入れがされていましたが、その後は静嘉堂文庫などの建物の周り以外は人の手が入らなくなり、放置されました。
モミジが多く生えていた丘も雑木林状態となり、今でもモミジを見ることはできますが、モミジの紅葉がきれいかと言われると、そうでもなく、モミジの多い自然林といった状態になっています。
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- ・岡本もみじが丘(百景71)
No.72 岡本民家園とその一帯

瀬田から移築復元された茅葺きの古民家を中心に、農家のありさまが再現されている。鶏の遊ぶ庭先、野菜や草花の植えられた畑など当時そのままの姿を見ることができる。民家園の隣には岡本の鎮守様八幡神社が深い木立の中に鎮まっている。また民家園のある岡本公園の一角ではホタルを養殖しているが、これは崖線から湧き出る清冽な水が利用できるからだ。夏の夕辺にはホタルの飛びかう姿を見に多くの人が岡本公園を訪れる。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:岡本2-19-1 備考:ホタル園は廃止

岡本の丸子川沿いに岡本公園があります。とても環境のいい公園で、丸子川沿いは湿地帯のようになっていて、水生植物が多く植えられています。背後の国分寺崖線からは湧水も流れ出ていて、園内にはせせらぎも設けられています。
百景の説明文では湧水を使ってホタルの養殖をしているとありますが、これは随分と過去のことで、現在では行われていません。その代わりとは言っては何ですが、園内の水辺にはザリガニなどの水生生物が沢山いるので、子供たちが川などに入りザリガニ釣りなどをしています。アスファルトとコンクリートに囲まれた今の世田谷では、こういった環境はとても貴重です。
岡本公園のもう一つの特徴は、古民家園があること。ここには瀬田から移築してきた古民家を中心に、蔵や畑、竹林などがあり、昔の農家をイメージした世界観がつくられています。
しかも、ただ古民家を展示しているだけではなく、季節ごとにひな祭りや七夕まつりなどといった古来からの風習を再現したイベントが行われたり、草鞋づくりなどといった昔の文化体験教室も行われています。世田谷にいながら生きた昔の生活体験できるということで、とても貴重な存在になっています。
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- ・岡本民家園とその一帯(百景72)
No.73 岡本静嘉堂文庫
門を入るとイチョウや杉など木々の間を縫って、ゆるい坂道が続く。モダンな造りの静嘉堂には旧三菱財閥の岩崎弥之助、小弥太父子によって収集された和漢の典籍が保存され、時おり展示もされる。斜面に造られた庭園は武蔵野のたたずまいを残し、静嘉堂一帯は深い緑に包まれている。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:岡本2-23-1 備考:ーーー

幕末、明治維新の混乱期に巨万の富を得たのが岩崎彌太郎(弥太郎)。三菱財閥の創始者です。その弟で、2代目を継いだのが弥之助。彼は実業界に入る以前は漢学を学んでいました。その時の師が重野成斎氏で、彼の研究を援助する目的から古典書の収集を始め、和漢の古書、古美術品などの収集を熱心に行いました。
その蔵書コレクションを収蔵していたのが、静嘉堂文庫。名前の由来は、中国古典の詩経に出てくる大雅、既酔編の「邉豆静嘉」の句で、祖先の霊前に供える供物が立派に整うといった意味になるそうです。
関東大震災の翌年、岡本の地に移転してきました。その時に建てられたのが、現在の洋館です。設計したのは、イギリスで建築を学んだ桜井小太郎氏。鉄筋コンクリート製の2階建てで、洋風のスクラッチタイルが一面に貼り付けられています。残念ながら外から眺めるだけで、文庫内の見学はできません。
以前は美術館が併設されていて、ここで収蔵品を見ることができましたが、2022年に美術館の開館30周年、三菱創業150年(2020年)の記念事業の一環として、丸の内にある明治生命館に移転しました。
静嘉堂文庫のある丘は、弥之助の子、小弥太が父の三回忌に墓を建てるために購入しました。明治の終わりのことです。
そして建てたのが、聖堂風の岩崎家玉川廟。設計を行ったのは、日本近代建築の父であるジョサイア・コンドル氏。鹿鳴館の設計者としてよく知られている人物で、岩崎家との結びつきも強く、茅町本邸(1896年、重要文化財)、深川邸洋館(1889年、現存せず)、高輪邸(1908年、現三菱開東閣)なども手がけています。
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- ・岡本静嘉堂文庫(百景73)
No.74 多摩川灯ろう流し(廃止)
*せたがや百景の冊子 世田谷区企画部都市デザイン室制作から引用
お盆の灯ろう流しは夏の水辺の代表的な風物詩。多摩川の灯ろう流しは川筋をきれいにという市民運動から生まれた。夜の闇に流れていく灯ろうの明かりが郷愁をさそう。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:ーーー 備考:現在行われていません

残念ながら、現在、灯ろう流しは行われていません。かつて、鎌田にある二子玉川緑地運動場付近で灯ろう流しや盆踊りが行われていました。多くの人が訪れ、賑やかなイベントだったようです。
このイベントに世田谷区が協賛するような形で、昭和51年に第一回多摩川灯ろう流しが行われました。この時にイベントの余興として花火が打ち上げられたのが、現在の多摩川花火大会の原点になります。
その後、花火大会がメインイベントとなり、灯ろう流しは廃止。その花火大会も落雷事故で秋に移動してしまい、今では多摩川の夏の風物詩は子供たちによる手作り筏レースだけです。今こそ灯ろう流しの復活を・・・などと願ってしまいます。
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- ・多摩川灯ろう流し(百景74)
No.75 多摩川の緑と水
世田谷区の南の区境に沿って流れる多摩川は区内に残された最大の自然の景観といえる。水量こそ減ったが、周辺に残された緑また河川敷の広々とした空間は大変貴重なものだ。清流復活の願いも徐々に実り、野鳥や魚影を以前より多く観察することもできるようになった。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:多摩川一帯 備考:ーーー

世田谷と川崎の間を流れる多摩川。源流は山梨県と埼玉県の県境にある笠取山。全長は138km(全国33位)で、流域面積は1,240平方キロメートル(全国53位)の一級河川です。
かつては多摩川で生計を立てる人も多くいました。奥多摩の木材を多摩川に流して運んだり、砂利の採掘、夏のアユ漁や屋形船、多摩川の水を用水に引いて営んでいた農業などなど。今では水道水の利用ぐらいになってしまったでしょうか。
昭和の中ごろ、人口の増加と工業化によって多摩川の水が酷く汚染され、川に暮らす生物も激減しました。このままでは死の川になってしまう。流域の市町村が協力し、下水処理を徹底したことで、多摩川の水が再びきれいになりました。
この項目は多摩川の緑の水とテーマが壮大ですが、昭和59年に選定されたことを考えると、一番の核心は多摩川の水がきれいになりつつある喜びと、汚してしまった反省になるでしょうか。
現在では生物が多く暮らす川に復活しました。本来いるはずのない熱帯の生物の姿もあり、タマゾン川などと揶揄られるほどです。そんなきれいになった川で、夏には子供たちによる筏レースなども行われています。
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- ・多摩川の緑と水(百景75)
No.76 新二子橋からの眺め
多摩川を真中に左右に世田谷、川崎のまちの眺望がひらけ、さらに上流の光景も目に入ってくる。ふだん住みなれたまちなかでは感じられない、もう一つのまちの姿だ。このパノラマ風景を見ていると、河川や地形がまちの形成に深く関わっていることが納得できる。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:国道246号線の多摩川高架橋 備考:ーーー

世田谷を横断し、溝の口や厚木へ続いている国道246号は、かつての大山道をなぞって整備されました。大山道は二子玉川で多摩川に行く手を阻まれます。ここには橋は架けられていなく、二子の渡しが設けられていました。
大正14年になると、二子橋が架けられ、二子の渡しは役割を終えました。その後、増大していく交通に対処するため、バイパスの整備が行われ、二子橋の北側に新二子橋が架けられました。
完成は昭和53年6月。新たにできた橋の物珍しさと、橋の上からの開放感のある眺めから、せたがや百景に選ばれたのでしょう。
解説文には「河川や地形がまちの形成に深く関わっていることが納得できる。」とありますが、そういった壮大なテーマで眺めるには、少し高さが足りないでしょうか。でも、眺めがいいのは確かで、どんどん建てられていく高層ビルから、町が発展していく様子を感じることができます。
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- ・新二子橋からの眺め(百景76)
No.77 兵庫島

昔、新田義興が謀られて最期を遂げたとき、同じ船に乗っていた家臣、由良兵庫助の屍が流れついたところから、兵庫島といわれるようになった。この小島からずっと河川敷がつづき、野球場、サッカー場、テニスコート、ピクニック広場などのある二子玉川緑地運動場になっている。水辺に広がるスポーツ、レクリエーションゾーンとして多くの区民に利用されている。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:玉川三丁目付近の玉川河川敷 備考:ーーー

二子玉川駅は多摩川にせり出すように設置されています。その駅の下の橋脚部分は、多摩川の河川敷を利用した兵庫島公園になっています。
兵庫島と名がついていますが、現在は河川敷と繋がっているので島にはなっていません。ただ、過去においては島(中州)になっていたりと、多摩川の水量変化や洪水に寄って形を変えてきました。
なぜ兵庫島というのか。室町時代、お家の再興を図る新田義興と、それを阻止する足利家との戦がありました。新田義興軍は多摩川を渡る際に謀られ、敗北しました。その家臣、由良兵庫助は主君の後を追うように船上で自害するものの、その遺体は多摩川を流れていき、流れ着いたのがこの場所だったようです。
現在の兵庫島公園には、せせらぎや池が設けられ、多摩川とともに水辺に親しめる公園となっています。目の前には広大な多摩川があるので、とても開放感があり、のんびりと川風に当たりながらくつろぐと気持ちがいいです。休日にもなると多くの人が訪れています。
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- ・兵庫島(百景77)
No.78 多摩川沿いの松林
黒松の林は多摩川の堤に伸びる代表的な風景だったが、今はもうこのあたりを残すのみとなった。川風に吹かれる松籟が風流人たちを川辺に誘い、川魚の料亭が軒を連ねていたという。現在も料亭が一軒残っており、松林とともに当時の面影をとどめる。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:玉川1ー1付近 備考:ーーー

二子玉川駅のホームからも見えますが、二子玉川駅付近の多摩川沿いには、背の高い6本の松が聳えています。これが多摩川の屈指の名勝「二子玉川の六本松」・・・だったら誇らしいのですが、ひっそりと存在している名もなき6本の松です。
せたがや百景では多摩川沿いの松林が選ばれていますが、2009年から始まった堤防工事によって、松林はほぼ消滅してしまいました。この名もなき6本松がその名残になります。上流の狛江には有名な多摩川の5本松があります。それに対抗して1本多くしたのでしょうか・・・。
まとまって松林があったのは、現在の二子玉川公園が多摩川にせり出している付近になります。この一画は松林になっていて、松林の中に入ると世田谷とは思えないほど、落ち着いた雰囲気でした。
なぜ松林があったのか。かつて二子玉川の多摩川沿いには、川魚を出す料亭が並んでいました。料亭の周囲には松が植えられ、落ち着いた雰囲気になっていたようです。そういった料亭が宅地化していく過程で、どんどんと松が減っていきました。
そして、2008年頃からのライズビル群と二子玉川公園の建設に伴う再開発と、多摩川沿いの堤防の工事で、今ではすっかり川辺の風景が変わってしまいました。
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- ・多摩川沿いの松林(百景78)
No.79 多摩川土手の桜
東京で最も早く咲く桜として知られる。ありあまる春の光を全身に浴びるからだろうか。風に散る満開の桜が川辺に広がるタンポポのじゅうたんと一緒に多摩川堤ののどかな春の風景をかたちづくる。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:玉川1丁目~野毛2丁目の多摩堤通り沿い 備考:ーーー

二子玉川から南の多摩川沿いの土手には、桜が断続的に植えられています。広々とした河川敷に植えられた桜。存分に枝を伸ばしているので、とても桜らしい姿をしています。そういった桜が土手に並んでいる様子はとても美しく感じます。
具体的には、第三京浜の橋から南側に桜が多くあります。野毛付近では少しの区間になりますが、早咲の河津桜が植えられていて、3月上旬ころにも桜を楽しめます。第三京浜よりも北側は堤防工事や二子玉川公園の整備によって、ちょっと微妙な感じになってしまいました。
また、二子玉川駅から二子玉川公園までの区間では、旧堤防が多摩川から離れた多摩堤通り沿いにあります。面白い構造をしていますが、この土手にも桜が植えられていて、ライズビルを見ながら桜並木を歩くことができます。
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- ・多摩川土手の桜(百景79)
No.80 はなみずき並木の二子玉川界わい
まちのシンボルとなっている並木道。地元の熱意がつくりだした景観だ。桜の花の終わるころ、ハナミズキの赤い花が咲き始める。五月に花みず木フェスティバルも行われ、まちに初夏の到来を告げる。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:玉川3丁目玉川通り周辺 備考:ーーー

二子玉川では、町づくりの一環としてハナミズキを町の花(シンボルツリー)に指定しました。昭和53年から玉川高島屋、建設省、東京都、世田谷区などの協力を得て、着々と植え続け、今ではその数は500本以上になります。
なぜハナミズキを選んだのかはわかりませんが、駅前の旧国道246号沿い、再開発地区の街路樹として、或いはかつて走っていた玉電砧線の線路跡の遊歩道、二子玉川公園などにハナミズキが植えられています。
4月29日の昭和の日には、町を挙げて花みず木フェスティバルが行われます。メイン会場は兵庫島公園やその先のグラウンドで、出店やフリーマーケットが並び、ステージイベントも行われます。この他、商店街や商業施設でも関連イベントが行われます。
- <詳細ページ>
- ・はなみずき並木の二子玉川界わい(百景80)