世田谷散策記 タイトル
せたがや百景 No.78

多摩川沿いの松林

玉川1ー1付近

黒松の林は多摩川の堤に伸びる代表的な風景だったが、今はもうこのあたりを残すのみとなった。川風に吹かれる松籟が風流人たちを川辺に誘い、川魚の料亭が軒を連ねていたという。現在も料亭が一軒残っており、松林とともに当時の面影をとどめる。(せたがや百景公式紹介文の引用)
*堤防工事や再開発によって風景が変ってしまいました。

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1、多摩川沿いの松林と料亭街について

二子玉川の6本松の写真
二子玉川の6本松(2014年)

背の高い松が6本並べて植えられていました。

二子玉川駅のホームからも見えますが、二子玉川駅付近の多摩川沿いには、背の高い6本の松が聳えています。これが多摩川の屈指の名勝「二子玉川の六本松」・・・だったら誇らしいのですが、ひっそりと存在している名もなき6本の松です。

せたがや百景では多摩川沿いの松林が選ばれていますが、2009年から始まった堤防工事によって、松林はほぼ消滅してしまいました。この名もなき6本松がその名残になります。上流の狛江には有名な多摩川の5本松があります。それに対抗して1本多くしたのでしょうか。とても気になります・・・。

2017年の二子玉川周辺の航空写真(国土地理院)
2017年の二子玉川周辺

国土地理院地図を書き込んで使用

二子玉川といえば、近年、駅の南側の再開発が行われ、ライズビル群や二子玉川公園などが新たにでき、町の様子が一変しました。その再開発と同じ時期、多摩川の堤防工事も行われていたことはあまり知られていないでしょうか。

具体的には、二子玉川駅よりも下流部。現在、二子玉川公園がある辺りまでです。多摩川に沿って新しく堤防ができました。

新しくって、今まで堤防がなかったの?ってことになりますが、実はそうなのです。この二子玉川駅から二子玉川公園の間は特殊な地形をしていて、少し内陸を通っている多摩堤通り沿いに従来の堤防が設置されていて、その堤防よりも外側、多摩川の方にまとまって集落がありました。

二子玉川駅近くの多摩川土手の写真(再開発前)
多摩川から離れた場所にある旧堤防(再開発中)

他に写真が見当たらなかったので落書き付きで申し訳ありません。
落書きは絶対にやめましょう。

この堤防には、車などが通行できる広い通路が2か所あり、内側と外側の行き来は簡単にできるようになっています。えっ、それじゃあ堤防の意味がないんじゃない・・・。と突っ込まれそうですが、大丈夫。いざという時には通路部分に板をはめ込んで塞ぎ、二子玉川の町へ水が入ってこないようにします。正式には閘門というそうです。

要は、多摩川の水が溢れるような事態になったら、この堤防の外側の集落にいる人は、家などは諦めて、直ちに避難してください。ということになります。

おいおい、それってひどくない。なんでここに住んでいる人たちは村八分みたいな扱いをされているの。と思った人もいるかと思います。しかし、これは差別とかではなく、単にここが特殊な場所だったからです。

二子の渡し跡の石柱の写真
二子の渡し跡の石柱

区立玉川福祉作業所のところに建てられています。

それを書く前に少し二子玉川の歴史を紐解いてみましょう。江戸時代の街道、大山道は赤坂見附から雨乞いで知られる大山のある神奈川県の秦野まで続いていました。世田谷では池尻から三軒茶屋、ボロ市ので有名な世田谷代官屋敷の前を通り、そして用賀、瀬田では行善寺前の坂を下り、現在の二子玉川駅の南付近で多摩川に至っていました。

多摩川に二子橋が架けられたのは、大正14年のこと。それまでは、ここから多摩川を渡るのに二子の渡しを利用していました。

この付近は多摩川の幅が狭くなっているし、ここより北では野川も渡らなければならないし、南だと野毛の崖地があるので、ちょうどここが川を渡るのには最適だったと思われます。

川渡しの台座やはしごなど(島田宿大井川川越遺跡)の写真
川渡しの台座やはしごなど(島田宿大井川川越遺跡)

川の水かさによって料金が決まっていました。

街道に渡し、と聞けば、多くの旅人が川を行き来し、川近くには天候回復や朝を待つ旅人のための賑やかな宿場町がある様子を想像する人も多いでしょう。

しかし、それは東海道や中山道のように多くの人が行き来しているような街道のこと。規模の小さな大山道だったので、世田谷側の瀬田村にあったのは多摩川で捕れるアユなどの川魚をだす料理店が数軒程度。川崎側の二子村の方が少し賑わっていて、こちらには宿が数軒あったそうです。

昔は多摩川の水がきれいで、アユなどの川魚も多く、そして景色もよかったことで、瀬田村の多摩川沿いは交通の要所というよりも、ちょっとした川辺の行楽地として知られていたようです。

迎賓館赤坂離宮(港区)の写真
迎賓館赤坂離宮(港区)

明治時代の建物で、国宝になっています。

時代が明治に変わっても、さほどこの界隈の変化はありませんでしたが、世の中では西欧の技術が入り、東京の繁華街を中心に徐々に近代化が進んでいきました。その結果、コンクリート造りの建物や鉄道の敷設に使う砂利の需要が高まっていきました。

多摩川には豊富な砂利があり、東京から近い立地もあり、多摩川の川沿いは砂利産業で賑わっていくことになります。

大きな転機を迎えたのは、1907年(明治40年)。玉川電鉄(現・田園都市線)が開通し、渋谷と二子玉川が路面電車で結ばれました。

乗客よりも多摩川で採掘される砂利の運搬の為に造られた鉄道だったので、世間ではジャリ電などと呼んでいましたが、鉄道で二子玉川を訪れることができるようになったので、手軽に行ける郊外の行楽地として人気が高まります。

レトロな路面電車のイメージ(*イラスト:さゆうデザインさん)

(*イラスト:さゆうデザインさん 【イラストAC】

明治42年には乗客誘致のため、玉川遊園地が造られました。目玉は崖地に造られた玉川閣。崖地の落差を利用した建物は、大正博覧会で不要になった京都の清水寺の模造建築物を移築したもの。眺望がよく、また建物内には芝居などが行われる演芸場がありました。

その他は、自然を生かした庭園があり、そこに遊具が置かれていたり、動物が飼われていたりしていました。といっても明治時代なので、現在の感覚だと公園にある遊具が置かれている感じだったようです。

一段と人が訪れるようになり、川辺の界隈、最初に書いた堤防の外のエリアには川魚を出す料亭や宿がどんどんと増え、この界隈が賑やかになっていきました。明治時代の終わりに、玉川遊園地や料亭街によって花火大会が行われたという記録もあるので、その賑わいはなかなかなものだったようです。

この料亭街があった川辺には多くの松が植えられていました。場所によってはまとまって、場所によっては建物と建物の間にといった感じで、松のある風景が続いていたようです。

百景の説明文に、「川風に吹かれる松籟が風流人たちを川辺に誘い、川魚の料亭が軒を連ねていたという。」とあるように、とても風流で、趣きのある風景になっていたようです。

旧小坂邸の洋間(瀬田四丁目旧小坂緑地)の写真
旧小坂邸の洋間(瀬田四丁目旧小坂緑地)

富士山や崖下の眺望を楽しんだと思われます。

大正時代になると、郊外へ別荘を持つことが流行り、国分寺崖線付近には富裕層や政府高官などの別荘が並ぶことになります。

彼らの過ごし方は、等々力や駒沢にあるゴルフ場でゴルフをしたり、多摩川での水遊び、夜になると二子玉川の料亭で、或いは多摩川に屋台船を浮かべてアユ料理を楽しんだり、歓楽街での芸者遊びなどでした。

瀬田行善寺 猫塚
行善寺の猫塚

三味線に使用された猫を供養した塚です。

歓楽街では芸者遊びに欠かせない三味線が多く必要でした。昔の三味線は猫と深いかかわりがありました。実は猫の皮を張って造っていたのです。

多くの猫が三味線の材料となるために殺され、その霊を祀った猫塚が行善寺に残っています。なかなか立派な塚ですが、元々は歓楽街にあったものを開発の際に行善寺に移動したそうです。

歓楽街とくれば性病というのもあるわけで、瀬田玉川神社や慈願寺付近に瘡守稲荷神社があり、伝染病の広がりや病気平癒の願いを込めて勧請されたそうです。

1940年頃の二子玉川の航空写真(国土地理院)
1940年頃(戦前)

国土地理院地図を書き込んで使用

大正12年に関東大震災が起き、復興のために多摩川の砂利の需要が高まります。砧本村(現・駒澤大学砧キャンパス)まで玉電の支線、砧線ができたのはその翌年で、二子橋が架けられたのは大正14年になります。

おそらく、この二子橋が架けられたタイミングで多摩堤通りや堤防の整備が行われたのではないかと推測できます。

はっきりしたことは分かりませんが、川辺に堤防を造ろうとしたところ、多摩川への眺めが損なわれたり、川辺のアクセスが悪くなり、商売に支障をきたすということで、料亭街が反対して、多摩堤沿いに堤防が設けられたとか言われています。

機械で砂利を掘るイメージ(*イラスト:ニッキーさん)

(*イラスト:ニッキーさん 【イラストAC】

関東大震災後は、砂利の需要が高まったり、対岸と橋で結ばれたり、郊外への移住が促進されたりと、二子玉川界隈の人口や人の往来が多くなり、町が一段とにぎやかになりました。料亭街も更に賑わいが・・・となるはずでしたが、料亭街の賑わいは束の間だったようです。

機械化が進み、大量の砂利を重機で採掘し、鉄道で効率よく運ぶようになってから、様々な弊害が起きてきました。

まず、名物だったアユなどの川魚が獲れなくなってしまいました。また、河床や護岸を掘り過ぎたために、治水や農業用水に影響がでました。このままでは危ないということで、昭和7年には、二子橋より下流部での採集が禁止になり、その後、段階的に範囲が広がっていき、現在では多摩川での砂利の採掘は全面的に禁止となっています。

そして戦争が始まり、世の中が不景気になります。戦時中は料亭や屋台船が賑わうはずがありません。太平戦争後は再び賑わいを・・・とはいかず、工業化と人口爆発の時代となり、多摩川の汚染がひどくなり、川辺の料亭はどんどんと消えていくことになります。

二子玉川 料亭の名残りの写真
料亭の名残り

駅近くの川沿いにありましたが、営業しているのかは不明。

松林の中に料亭があるからこそ価値があるというもの。料亭じゃなければ松の木を敷地などに植えておく必要もなく、料亭が住宅などに変わる際に松は伐採され、松のある風景も減少していきました。

せたがや百景の選定が昭和59年。解説の文章に料亭が一軒残っているとのことで、もうこの時代には料亭がほぼなくなっていて、所々に残っている松林を見て、昔の様子を思い出すしかなかったようです。

二子玉川 伐採を待つ松林の写真
伐採を待つ松林

ささやかな反対活動もあったようです。

わずかばかり残っていた松林も、2009年から始まった堤防工事により、ほとんどが伐採されてしまいました。現在でも所々に松の木を見ることは出来ますが、昔の面影はありません。

一番最初に書いた、駅近くの背の高い6本の松はその時の松を移植したものでしょうか。詳しいことは分かりませんが、今後、二子玉川の発展を担った料亭街の存在を、後世に伝えていく存在になるでしょう。

多摩川五本松(狛江)の写真
多摩川五本松(狛江)

東京新百景に選定されている有名な松の風景です。

ちなみに、現在の感覚で言うと、多摩川に松林というのは珍しい風景なのですが、百景の紹介にあるように、かつては多摩川沿いには松林が続いていて、川辺に松のある風景はあちこちにあったようです。

きっと近代的な堤防工事を施したときに、取り除かれたり、桜などの別の木に植え換えられたりしたのでしょう。松林にして風や砂を防いだりといった悪条件の場所ではないのですから。

世田谷区ではありませんが、隣の狛江市にある多摩川五本松は東京新百景に選ばれていて、今でも美しい川沿いの松の風景を保っています。

ウルトラマンシリーズを見ると、頻繁にロケ地として登場していますし、他の特撮や時代劇、ドラマなどの撮影にも使われていて、この松林を見て何を思い浮かべるかはその人の年代や趣向によって違うのが面白いところです。

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2、堤防工事前と工事中の松林

1990年頃の二子玉川の航空写真(国土地理院)
1990年頃

国土地理院地図を書き込んで使用

かつて二子玉川の多摩川沿いには松林がありました。と言っても、私が知るのは堤防工事や二子玉川の再開発が行われる直前からです。

松林があったのは二子玉川駅の南側。川沿いに並ぶ住宅地に断続的に見られ、ひと際大きな松林があったのは、現在だと多摩堤通りを南に向かい二子玉川公園の敷地になる場所、ちょうど車道がトンネルになっている付近の川沿いでした。

ちなみに、多摩堤通り沿いにある土手には桜が植えられていて、桜並木になっています。この桜並木もちょうど松林付近が一番立派でした。こちらも二子玉川公園が整備される際に数を減らしています。桜並木については、次の項目「多摩川土手の桜」をご覧ください。

<2008年の様子>

二子玉川 再開発前の玉川一丁目河川広場の写真
玉川一丁目河川広場

河川敷沿いの松のあった公園です。

最初に松林を訪れたのは、2008年4月のこと。駅の南側ではライズビルを建てるための基礎工事が行われていて、町の中がガチャガチャした雰囲気でした。

一方、川沿いは落ち着いた雰囲気で、目の前には開放感のある多摩川の景色が広がっていました。町中の喧騒から隔離された場所といった感じで、昔、ここに料亭があったというのもわかる気がしました。

川沿いの道を下流の方へ歩いていくと、所々に松の木が植えられていて、大きな敷地を持つ個人のお宅にも背の高い松が植えられていました。

こういったお宅はかつて料亭だったお宅とか、その跡地になるのでしょうか。詳しいことは分かりませんが、松林に囲まれた料亭街があった歴史を知ってから眺めると、色々なことが頭をよぎります。

再開発後はなくなってしまいましたが、川沿いの道沿いには玉川一丁目河川広場があり、ここでもまとまって松を見ることができました。

二子玉川 再開発前 多摩川と松林の写真
多摩川と松林

この項目のタイトルにふさわしい図です。

二子玉川 再開発前 河川敷から見た松林の写真
河川敷から見た松林

それなりに存在感のある松林でした。

二子玉川 再開発前 松林の中の道の写真
松林の中の道

松林の中といった雰囲気がありました。

川沿いの道の一番奥に松林と呼んでもおかしくないほど、立派な松の林がありました。背の高い松の木が目を引くものの、ここには松の木だけではなく、他の木も植えられていて、この一画だけ木々が生い茂った林になっていました。

とても不思議な空間で、実際に松林の中を歩くと、どこか田舎の海岸にいる気分・・・というのは大袈裟ですが、世田谷区ではないような違和感を感じるのは確かでした。

二子玉川 再開発前の松林 木々に囲まれた飲食店の写真
木々に囲まれた飲食店

松林や木々の中にひっそりと飲食店がありました。

松林の中には少しお洒落なレストランがありました。松林に囲まれ、しかも土手の外という隔離されたような場所だったので、静かで穴場的な雰囲気でした。松林に囲まれ、川の眺めと川の風に吹かれながらランチをいただくというのは、現在の世田谷という環境で考えると、とても贅沢なことです。かつてこの付近にあった料亭もこんな雰囲気だったのでしょうね。

ちなみに、このレストランは現在でも残っていますが、敷地前の松林がなくなったので、川辺に佇むレストランといった立地になっています。多摩川の眺望がよく、川を眺めながら食事のできるフレンチレストランとして、とても人気があるようです。

<2009年春の様子>

二子玉川 平らになった河川敷と松林の写真
平らになった河川敷と松林

最初の工事で松林の前の河川敷が真っ平らにされました。

一年後の2009年4月に訪れると、二子玉川駅から松林付近の河川敷が真っ平らに整地されていました。なかなか広い平地となり、子供たちがサッカーなどしやすい状態でした。

護岸工事をするとは聞いていましたが、ここまで風景が変わっているとは思っていなかったので、驚きました。でも、平らにしただけではあまり意味がないような・・・。

二子玉川 松林と建設中のライズビルの写真
建設中のライズビル

最初の工事で松林の前の河川敷が真っ平らにされました。

一年前には基礎工事を行っていたライズビルもそれなりに成長していて、河川敷から見ると、松林の後ろにそびえるようになってきました。背の高い松の後ろにそびえるビル。こういった風景もいいかもしれません。

<2009年秋~冬の様子>

二子玉川 松林の背後にそびえるライズビルの写真
ほぼ完成したライズビルと松林

今までなかったものがあるると、違和感を感じるものです。

二子玉川 ライズビルと松林の写真
ライズビルと松林

少しの間でしたが、共存していました。

2009年の秋に訪れると、ビルはほぼ完成したようで、ビルに取り付けられていたクレーンは全部撤去されていました。

こうして145mという高層ビルが完成してみると、風景が全く変わってみえるもので、一気に都会になった感じがします。ビルがまだ低かったころは、松林とビルという図もいいかなと思ったのですが、完成してみると、どっちも浮いている感じがしてしまいます。松とビルというのは、あまり相性がよくないのかもしれません。

二子玉川 暗闇にそびえるライズビルと松林の写真
暗闇にそびえるライズビルと松林

室内の照明を使ったライトアップです。

2009年12月には三棟のビルが完成し、クリスマスイルミネーションをするということで、暗い時間に訪れてみました。

暗闇の中にそびえる三棟のライズビル。すっかりと風景が変わってしまったもので、松林の落ち着いた雰囲気もなくなってしまった感じがします。

二子玉川 ライズビルの照明アートの写真
ライズビルの照明アート

二子玉川のクリスマスイルミネーションの一貫です。

河川敷や松林から見ると、いまいちなイルミネーションですが、駅の方から見ると、ちゃんとビルに模様がライトアップされていました。入居前だから可能なライトアップになるでしょうか。

<2010年春の様子>

二子玉川 堤防工事と移植される松の写真
堤防工事と移植された松

河川敷に土が積まれ、堤防が造成されていきました。

2010年になると、平らになっていた河川敷が封鎖され、再び河川敷の工事が始まりました。今回の工事では、河川敷にどんどんと土が入れられ、高い堤防が造成されていきました。

平らにしただけではあまり堤防の意味がないよな・・・と思っていたのですが、そりゃそうですよね。これから本格的に工事が始まるのです。ようやく工事の趣旨に納得できました。

この時点で駅の南側にある6本の松も移植されました。根が定着するまでは頑丈な支えが取り付けられていて、手厚く保護されていました。

二子玉川 伐採を待つ桜とライズビルの写真
伐採を待つ桜とライズビル

川辺の道沿いには桜も何本か植えられていました。

この堤防工事の段階で、川辺の道沿いにあった松の木や桜の木が伐採されました。訪れたときはまだ多くが伐採前でしたが、伐採を待つ木には伐採反対の旨が記された弾幕が取り付けられていました。

まとまってあった松林の部分は、堤防と関係ないので、松林の外側に堤防を造って、松林はそのまま残すのかなと思っていたのですが、こちらも伐採されていくとかなんとか。すっかりと風景が変わっていくような感じです。

今まであったものがなくなるというのは、他の地域の人間でも寂しく感じるものですね。反対する気持ちもわかります。とはいえ、近年の半端ない雨の量を考えると、木の伐採と引き換えに付近の住民は少し安心感が得られたのではないでしょうか。

<2014年春の様子>

二子玉川 ライズビルと松の写真
ライズビルと松

松が残っているお宅もありました。

堤防工事が一段落し、二子玉川公園もできたということで、2014年に久しぶりに訪れてみると、河川敷沿いの道路が新しくなっていました。

川辺の区画も少し変更されている感じです。その道を進むと、今まで多くあった松や桜がなくなり、ずいぶんとさっぱりしてしまったといった印象です。なかにはまとまって残しているお宅もあり、そういった風景を見るとホッとします。

二子玉川 変わり果てた松林の写真
変わり果てた松林

松林があった付近は面影がほとんどなくなりました。

一番奥の松林を訪れると、何本かは残っていましたが、きれいさっぱり松林がなくなったといった状態でした。ここまで伐採されているとは思わなかったので、とても驚きました。

このへんは堤防と関係ないから、堤防から離れた部分の松は残されるとんじゃないと思っていたのですが、どうやら二子玉川公園との兼ね合いと、今までよりも道路が内陸側に移動してきたことで、松林が存在できなかったようです。

松林の中にあった飲食店の建物の一つは残されていましたが、今まで松に囲まれていた建物だったので、まるで殻のないカタツムリみたい・・・に思え、とても違和感を感じました。

3、2019年の台風被害に思うこと

台風のるイメージ(*イラスト:kimidoriさん)

(*イラスト:kimidoriさん 【イラストAC】

2019年10月、過去最強クラスの台風19号(令和元年東日本台風)が伊豆半島に上陸し、そのまま関東を直撃。東日本を中心に広範囲で記録的な大雨となりました。

この台風による被害は甚大で、各地で河川の氾濫が相次ぎ、多くの方が亡くなりました。世田谷でも多摩川の水位が上昇し、二子玉川の兵庫島の入り口から水が越水し、この付近の住宅地で浸水しました。

二子玉川はここ数年の再開発によって町が新しくなり、メディアに登場する機会が多かったので、この洪水は世間の注目も高く、同じく被害に遭ったタワマンの町、武蔵小杉とともに多くの報道が行われました。

それと同時に、普段見る人がほとんどいないこのページの閲覧数が凄いことになっていて驚きました。実は、せたがや百景の中でも不人気項目がこの「多摩川沿いの松林」で、普段はほとんど閲覧する人がいなかったりします・・・。私の書き方が悪いという可能性もありますが・・・。

二子玉川 堤防工事前の河川敷の写真
堤防工事前の河川敷 2008年

広々とした開放感ある場所でした。六本松がある付近です。

それはさておき、二子玉川が話題となったのは、メディアの注目度の高い町というだけではなく、堤防の内側に住居があるといったいびつな堤防構造と、「堤防があると景観楽しめない」といった住民の反対運動によってなかなか堤防が造られなかった経緯が蒸し返されたからです。

こういうごたごたは他人事を詮索するのが大好きなワイドショーや週刊誌の格好のネタとなり、何度も取り上げられました。

二子玉川 堤防工事前の河川敷の写真
堤防工事前の河川敷2

駅付近から多摩川を眺めた図です。

この当時、二子玉川駅周辺の堤防は駅から南側は完成していましたが、北側の540mは堤防がなく、その中でも一番低い兵庫島の入り口部分から越水しました。

多摩川を管理している京浜河川事務所によれば、昭和の初めごろから堤防を整備する計画があったものの、当時あった旅館や料亭の多くが「堤防があると景観を楽しめない」などと反対し、川沿いに堤防を造ることができなかったようです。

その後、昭和49年に上流で起きた狛江洪水を経て、堤防の整備計画が進められましたが、二子玉川周辺では「景観を大切にしてほしい」といった住民の声が根強く、なかなか折り合いがつきませんでした。

反対運動や裁判もありましたが、二子玉川駅南側の再開発とともに駅から南側は堤防工事が進められ、南部のみ完成し、北側はこれから整備にかかるという時に、過去最大級と言われる台風19号が関東に上陸し、今回の災害が起きてしまいました。

二子玉川周辺の地図(国土地理院)

国土地理院地図を書き込んで使用

地形的にみても広がった川幅が狭まっている場所であり、野川も合流するので、この付近は水が溢れやすい場所といえます。

駅の北側から整備しておけば・・・と、素人的には考えてしまいますが、実は平成19年(2007年)9月にやってきた台風9号により、駅の南側で多摩川が溢れそうになり、避難勧告が発令されています。

この時は川辺に土嚢約2,000袋を設置し、何とか水の侵入を食い止めました。そういった経緯があったから危険度の高いこの地域から先に行ったのでしょう。結果、二番目に弱かった兵庫島のところから浸水してしまいました。

もし住民運動がなければ・・・とも考えてしまいますが、本当にしんどい思いや死ぬような体験をしなければ、なかなか人間というのは何かを犠牲にしたり、今あるものを失うような行動は起こしにくいものです。

二子玉川 堤防工事前の河川敷の写真
堤防工事前の河川敷3

松林手前から駅の方を眺めた図です。

堤防工事前のこの付近は、目の前に多摩川の景色が広がっていて、開放感のあるいい場所でした。過去において、この景色を楽しむために川辺に料亭が並んでいた場所なのですから、当然です。堤防の壁ができたら嫌だな・・・と思う気持ちもわからなくもありません。

今まで大丈夫だったから、狛江の洪水でも大丈夫だったから、堤防は必要ない。そんな気持ちもあったことでしょう。でも、平成19年(2007年)に多摩川が溢れそうになり、堤防の工事が本格的に始まっていきました。

温暖化を含め、気象関係全般において、昔の経験則が通じない世の中になりました。今までとは天候が違うぞ。今後は気を付けたほうがいい。本来はそれで一件落着だった話です。

こういったことは教訓として生かすべきであって、昨今の世の中の風潮にあるように、一方的に誰かを責めたり、違う意見を徹底的に叩く風潮はどうなのかと思います。とても醜くく感じます。

兵庫島公園 多摩川水神様
兵庫島の多摩川水神様 2009年

昔はフェンスに囲まれた石の祠がありました。

散策人の視点からすると、兵庫島の水神様の祠を取り壊してから多摩川の水位が異常に上昇することが増えている気がします。これは水神様の祟りというやつではないでしょうか。祠をしっかりと直せば、収まるような気がします。(兵庫島の項を参照)

古来から、祭りをやるのが面倒だと若者が言えば、長老が「祭りを行わなかった翌年には疫病(飢餓)が起こったんだ」と脅し、田植で泥が飛んできたり、とんど焼きの火の粉が飛んできたら、それは「縁起がいいんだ」と言い訳をして誤魔化したり、なんでも神様のせいにしてきたのが日本人です。

あまりギスギスしないで、教訓として活かしながらみんなで前を向いて頑張っていった方がいいのではないでしょうか。

4、感想など

二子玉川 夕刻の桜と松林の写真
夕刻の桜と松林

2009年の様子です。

つい最近まで二子玉川にも小さいながら松林が残っていました。本当にひっそりとした場所にひっそりとあった松林で、隠れ家みたいな素敵な場所でした。

残念ながらその景色は失われてしまいましたが、二子玉川は大規模な再開発によって新しい公園やショッピングセンター、高い堤防ができるなど、新しい街へと変化していきました。

伝統を重んじたり、風景を守ることも大事でしょうが、暮らしている場所をよりよくしていくことも大事なことかと思います。新しくグレードアップした二子玉川と多摩川の風景。今後どう発展していくのか。楽しみです。

せたがや百景 No.78
多摩川沿いの松林
2025年7月改訂 - 風の旅人
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・地図・アクセス等

・住所玉川1ー1付近
・アクセス最寄り駅は田園都市線二子玉川駅。
・関連リンクーーー
・備考堤防工事や再開発によって風景が変ってしまいました。
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