世田谷散策記 タイトル
せたがや百景 イントロダクション

せたがや百景について

せたがや百景は、その名前の通り、世田谷区内の名所や寺社、特徴的な公園や風景などを100個選んだものです。

初めてその存在を知ったらなら、世田谷には魅力的なスポットが100個もあるんだ。どんな凄い場所があるのだろう・・・と、期待が膨らむことでしょう。しかし、世田谷というのは住宅が密集した都会の地。世間的に評価の高いスポットが多数あるわけがありません。

実際、あまり区民の間でも話題に上ることのないせたがや百景ですが、その選ばれた背景や、百景にまつわることを少し書いてみました。

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1、せたがや百景の概要

百景のシンボルマーク
せたがや百景シンボルマーク
(世田谷区)

「せたがや百景」とは、昭和59年(1984年)に世田谷区によって発案され、区民の投票によって決まった世田谷の風景、景観の百選です。

その趣旨は、「世田谷に住む人々にとって大切な風景とは何か、それを明らかにして今後の町づくりを考えてゆくきっかけにしよう。」というものです。

世田谷区発行のせたがや百景をテーマとした冊子の写真
せたがや百景の冊子
(世田谷区企画部都市デザイン室発行)

選定の過程は、まず区民に「好ましい風景」を推薦してもらい、それを委員会で類似項目などを整理し、200項目に減らした後に区民投票を行いました。

この時の「せたがや百景」の選定基準は
1、区民のだれもが見ること、加わることができる風景
2、多くの区民の愛着・共感を集めている風景
3、このまま持続することが期待できる風景
4、大小にかかわらず、その町の景観の顔となっている風景
5、区民の運動・努力の結果として守られている風景
6、地域の持つ歴史、風土、文化が現れている風景
7、ユニークさを持つ風景、あるいは、世田谷独特の風景
8、催し、行事などを含め、コミュニティーの雰囲気がにじみ出ている風景

(*以上、せたがや百景の冊子から抜粋)
となっていました。

投票は、昭和59年の7月から8月中旬に行われました。投票用紙には、ふさわしいと思う項目を5つ書き込めるようになっていて、投票箱は役所や出張所だけではなく、世田谷ふるさと区民まつりの会場、郵便局や地元の金融機関などにも置かれました。

投票のイメージ(*イラスト:うぐいすさん)

(*イラスト:うぐいすさん 【イラストAC】

最終的な投票総数は、9万2千票。選挙ほどの数字ではありませんが、比較的関心が高く、区全体で盛り上がっていたようです。

集計した結果を踏まえ、極端に項目や地域が偏っていた場合には委員会で調整を行うつもりだったようですが、その必要もなく、同年10月に正式に「せたがや百景」が決定しました。

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2、せたがや百景選定の背景など

武蔵野の森と富徳蘆花旧宅の写真
武蔵野の森と徳冨蘆花旧宅(大正時代の文豪宅)

世田谷といえば、都会、高級住宅街といったイメージがありますが、もともとは東京の中でも田舎だった地域です。しかも、農業用地としても利用できる場所が限られていたため、竹林や雑木林が多く、人口も少ない寂れた土地でした。

そんな過疎地域だった世田谷に脚光が当たるのは、大正12年の関東大震災後になります。震災では、都心部が甚大な被害を受けました。

激しい揺れで建物が倒壊したのは当然ですが、それよりも深刻だったのが、木造の住居が密集していたので、大火災が起きた事でした。実際、多くの人が火災に巻き込まれて亡くなりました。

また災害が起きたら大変だ。都心は人や建物が多く、避難する場所も限られる。郊外の方が土地も安いし、広々として空気もいい。と、震災を機に煩雑な都心部から郊外の住宅へ移り住む人が増えました。

問題があるとすれば、通勤や通学。それを解決したのが鉄道で、私鉄が開通した昭和初期から移住が加速していき、世田谷区内の各所で宅地開発が盛んに行われました。

昭和初期の駒沢ゴルフ場や駒澤大学(現・駒沢公園)の航空写真(国土地理院)
昭和初期の駒沢ゴルフ場や駒澤大学(現・駒沢公園)

国土地理院地図を書き込んで使用

とりわけ世田谷が人気となったのは、未開発の雑木林が多かったので、広大な用地取得をしやすかったから。大規模な宅地開発はもちろん、ゴルフ場や大学などといった大きな施設を建てやすい環境でした。

また農業に不向きな高台の土地は、交通やインフラの利便性が確保できれば、治水面、地盤が固いといった面で住宅地としては最適です。世田谷を代表する成城の高級住宅地が整備、分譲されたのも、昭和初期のことです。

戦後になると、世田谷をはじめ首都圏の人口が爆発的に増えていきます。さらには高度経済成長期が訪れ、土地の開発は一段と加速していきました。鉄道の駅周辺は建物で埋め尽くされ、駅から離れた場所にも開発の手が加わり、この前まで雑木林だった土地があっという間に住宅地となってしまうというのも、日常的な様子でした。

開発すればするほど利益につながるので、自然豊かな風景とか、風情のある風景などといったことは、二の次。それに、住民の建築反対などという声が届かなかった時代。いや、反対と言っている間に建築が終わってしまっているほど勢いがあった時代だったので、あっという間に町の景観が変わってしまいました。

住民の反対運動のイメージ(*イラスト:poosanさん)

(*イラスト:poosanさん 【イラストAC】

そんな町の様子に、「無秩序な開発はやめようではないか。」「町の風景のいい部分は残そうでないか。」といった地元住民の機運が高まったのは想像に硬くありません。住民運動によって参道の並木が残された羽根木神社の参道などがいい例です。

そういった世田谷の歩みや、百景が設立されたのがバブル前の好景気という昭和59年だったことを考えると、せたがや百景というのは、「区外に世田谷のいい所をアピールしよう」というよりも、「このままでは世田谷の良さがなくなってしまう」「地元のいい部分に目を向けようではないか」といった地元意識を高めるためのものだったのではないでしょうか。

今のように条例でどうのこうのといったことが一般的ではなかった時代だったので、住民の町造りへの関心を高め、区内において条例や法律的な規制ができない高層住宅開発や世田谷の良さを潰すような開発を食い止めようではないかといった行政側の狙いがあったようにも感じてしまいます。

現在、区内には多くの並木道などが残っています。無秩序な乱開発が進められた高度経済成長期の荒波にも負けずにこういった風景がきちんと残っているのは、もちろんその地域に住む住民の努力の賜物には違いありませんが、そういった住民の環境保全のやる気を高めるという意味も含めて、この「せたがや百景」の影響があったのかもしれません。百景を一通り周ってみて、そんな印象を受けました。

3、選定時と変わってしまった百景

昭和59年(1984年)に区民の投票によって決まったせたがや百景ですが、時代は昭和から平成、そして令和と進み、気が付けば制定してから40年もの時が過ぎました。

投票で決まったので、それなりにしっかりとした風景や景観、建物が選ばれているのですが、やはり40年という時の流れには逆らえなく、消滅したり、大きく姿を変えてしまった項目もあります。

著しい変化があり、訪れる際に支障をきたすと思われる項目をピックアップしておきます。

No.5 太子堂下の谷界わい
賑やかな商店街があり、朝市も行われていましたが、今では商店がほとんどなくなり、普通の住宅地になりつつあります。
No.7 北沢川緑道桜並木と代沢の桜祭り
かつては大規模な桜まつりが行われていたようですが、現在は行われていません。花見の時の賑わいは今も健在です。
No.13 下北沢北口の市場
下北沢駅の北口の線路沿いに古くからの市場がありましたが、再開発の際に取り壊され、現在は駅前広場になっています。
No.14 天狗まつりと真竜寺
下北沢駅の北側に大雄山最乗寺の分院、真竜寺がありましたが、移転し、跡地にはマンションが建っています。節分に行われる天狗まつりは、商店街が引き続き行っています。
No.29 経堂の阿波おどりと万燈みこし
かつては多くの担ぎ手が集まった万燈神輿ですが、今では担がれていません。阿波踊りの方は、経堂まつりの人気のイベントとして、今でも盛大に行われています。
No.34 下高井戸の阿波おどり
かつては下高井戸商店街で阿波踊り大会が行われていましたが、現在では行われていません。
No.58 野川と小田急ロマンスカー
かつては野川を渡る小田急線がよく見えていましたが、小田急線の高架化と車両基地ができたことで、走っている電車が見えなくなりました。
No.69 岡本玉川幼稚園と水神橋
玉川幼稚園は高橋是清の別邸を使用していることで選ばれましたが、その建物は取り壊され、現存しません。
No.71/73 岡本もみじが丘 / 岡本静嘉堂文庫
静嘉堂文庫美術館は移転し、岡本もみじが丘のある静嘉堂緑地は平日のみしか入れなくなっています。
No.74 多摩川灯ろう流し
かつては多摩川で灯籠流しが行われていましたが、現在は行われていません。
No.78 多摩川沿いの松林
二子玉川駅から南側の多摩川沿いには、松の木が多く植えられていて、一部、並木のようになっていましたが、二子玉川の再開発と、堤防工事の際に多くが伐採されました。
No.82 環八アメリカ村
環八の東京インター入り口付近に、かつてはアーリーアメリカンスタイルのレストランが並んでいましたが、全て取り壊され、当時の面影は残っていません。

4、せたがや百景の案内板について

せたがや百景の案内板
百景の案内板(無量寺)

せたがや百景に選定された場所には、この場所がせたがや百景であることを紹介する案内板が設置されています。設置された場所が再開発され、撤去されてしまったものや、所有者の都合によって新しく作り直されたものもありますが、多くのものは昭和に設置されたままなので、時の流れとともにボロボロになっています。

この案内板の存在は、百景の魅力を高めていると思っています。意外とバリエーションがあるし、敷地のどこに設置されているのだろう・・・と探すのもちょっとした楽しみの一つです。スタンプラリー的な感じでしょうか。きっと私のように見つけた案内板を写真に残し、訪れた証明や記念にしている人も多いのではないでしょうか。

色々な案内板があったので、ちょっと紹介しておきましょう。見つけるときの参考にしてください。

*せたがや百景の案内板の種類*

百景の案内板 切り絵をデザインとしたタイプのもの
切り絵のプレートタイプ

切り絵が描かれている一番スタンダードなものです。

百景の案内板 公園の地図と一体化したタイプのもの
公園の地図プレートタイプ

公園はこのタイプのものも多いです。

百景の案内板 史跡などの解説板と一体化したタイプのもの
案内板と一体型タイプ

お寺などはこのタイプが多いです。

百景の案内板 独特なデザインなもの
その他のタイプ1

所有者や団体などが設置したものでしょうか。

百景の案内板 独特なデザインのもの 大きな石柱に彫られたもの
その他のタイプ2

お寺だけあって石柱でした。一番豪勢な案内板になるでしょうか。

5、せたがや百景の切り絵について

せたがや百景の案内板の切り絵
百景の案内板の切り絵

せたがや百景の案内板の中には、切り絵が描かれたプレートが使われているものがあります。味のある独特の絵調で、この切り絵に興味を持たれた方もいるかと思います。

この切り絵の作者は、後藤伸行さん。一部の案内板にしか切り絵は使われていませんが、ちゃんと全ての項目の絵が揃っていて、中にはカラーで描かれたものもあったりします。

切り絵に関しては、図書館に置いてある「ふるさと世田谷百景」(世田谷サービス公社発行)という本で見る事ができます。興味があれば図書館に出向いてご覧になってみるといいでしょう。

世田谷区発行の「ふるさと世田谷百景」の表紙
世田谷区発行の「ふるさと世田谷百景」の内部のページ
後藤伸行氏の切り絵 「ふるさと世田谷百景」(世田谷サービス公社発行)

その本によると、後藤さんの切り絵のルーツは、百景にも出てくるさぎ草伝説(常盤伝説)で、この伝説を切り絵で描いて葉書で発行したのが始まりだそうです。

その後、新東京百景の切り絵入り葉書などを発行した後、世田谷区からの依頼で「せたがや百景」の製作を行ったようです。完成後、案内板に使用され、切り絵によるせたがや百景の絵葉書集も発行されました。これも図書館に置いてあります。

私個人的な感想としては、さりげなく人が描かれているのが好きなポイントです。私自身も写真にさりげなく人が写っているのが好きなので、なるべくさりげない感じで人が入るようなタイミングを狙っています。その方がより日常というか、自然な感じがするからです。

絵の場合は描き手の主観で好きな状況を描けるので、より制作者の個性が表れます。とはいえ、人を多く描けば、その分手間が増えます。それをあえて描いているという事は、後藤さんの人柄というか、人間に対する愛情の表れかなと思えます。そういった意味でもいい絵だと私は思っています。

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せたがや百景について
2025年5月改訂 - 風の旅人
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