世田谷散策記 タイトル
せたがや百景 No.77

兵庫島

玉川三丁目付近の玉川河川敷

昔、新田義興が謀られて最期を遂げたとき、同じ船に乗っていた家臣、由良兵庫助の屍が流れついたところから、兵庫島といわれるようになった。この小島からずっと河川敷がつづき、野球場、サッカー場、テニスコート、ピクニック広場などのある二子玉川緑地運動場になっている。水辺に広がるスポーツ、レクリエーションゾーンとして多くの区民に利用されている。(せたがや百景公式紹介文の引用)

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1、兵庫島と由良兵庫助伝説

『太平記 40巻』巻第三十三、巻第三十四,冨春堂,慶長8 [1603].(*国立国会図書館デジタルコレクション)

(*『太平記 40巻』巻第三十三、巻第三十四,冨春堂,慶長8 [1603].
国立国会図書館デジタルコレクション

南北朝時代を舞台にした太平記。室町時代に書かれた軍記物語で、何度も改訂を繰り返しながら現在まで伝わっています。

1991年にはNHKの大河ドラマにもなっているので、足利尊氏の物語といった印象を強く持っている人が多いかもしれませんが、太平記は全40巻あり、後醍醐天皇の即位から始まり、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政、室町幕府の樹立、南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去、細川頼之の管領就任まで、年号にすると1318年 (文保2年)から1368年(貞治6年)頃までの約50年間が描かれています。

その33巻の最後の章は、「新田左兵衛佐義興自害の事」になっていて、新田義貞の弟、義興が敵の策略に陥り、自害する場面が描かれています。この歴史的事件が兵庫島と深くかかわりがあります。

戦のイメージ(*イラスト:描き太さん)

(*イラスト:描き太さん 【イラストAC】

南北朝時代では、南朝、北朝と二つの政権がそれぞれ天皇を擁立し、兄弟同士、親戚同士でも激しく争いました。昨日の友は今日の敵、となることもあり、その戦いは壮絶でした。

足利家と共に鎌倉幕府を倒した新田家でしたが、後に袂を分かち、足利家と争います。新田義貞の次男である新田義興は、一度は鎌倉で足利家を破ったものの、その後、強烈な反撃を受け、越後へ逃れました。

体勢を立て直した新田義興は、正平十三年(1358年)、足利尊氏が他界したのを機に、再び関東に戻り、新田家再興のため鎌倉へ向かいました。

この当時、関東の政治の中心は、鎌倉。鎌倉には鎌倉公家方が置かれ、その役職についていたのは足利尊氏の4男、足利基氏でした。基氏は、厄介な奴がまた戻ってきた。戦わずに済ませたい・・・と思ったのか、江戸遠江守と竹沢右京亮に義興の謀殺を命じました。

「神霊矢口渡」天保14年 国貞(*Museum of Fine Arts Boston)

「神霊矢口渡」天保14年 国貞 AcNo:MFA-11.40071a
Museum of Fine Arts Boston

二人は言葉巧みに義興を誘い、矢口の渡し(大田区)から舟に乗ったところで、船の底に穴をあけ、身動きができないようにして、陸から矢を浴びせました。

新田義興は武将らしく、敵に落ちるよりかは・・・と、自害しました。義興の家臣には武勇で名の知れる由良兵庫助、新左衛門の兄弟がいました。彼らも、もはやこれまで・・・と、舳先に立ち、刀を逆手に取り、互いの首を切り落として壮絶な自害を遂げました。

義興一行が討ち取られた後、この界隈では落雷や火災などが続き、これは義興の祟りだ・・・となり、義興の霊を鎮めるために建てられたのが新田神社。矢口の渡しから少し内陸に入ったところにあります。

『太平記 40巻』巻第三十三、巻第三十四,冨春堂,慶長8 [1603].(*国立国会図書館デジタルコレクション)

(*菊池容斎 (武保) 著『前賢故実』巻第10,郁文舎,明36.7.
国立国会図書館デジタルコレクション

ここまでだと兵庫島は全く関係ないのですが、戦いが終わった後、敵将の首は手柄の証になるので、懸命に新田十勇士と誉れの高い由良兵庫助の遺骸を探すものの、見つかりませんでした。

戦から数日後、多摩川で漁をしていた漁師が兵庫助の遺骸を見つけました。心優しかったのか、祟りが怖かったのか分かりませんが、地元の漁師達は誉れ高き武者を悼み、密かに遺骸を多摩川の中洲に手厚く葬りました。そして、いつしかこの中州は兵庫島と呼ばれるようになりました。

多摩川流域の地図(国土地理院)

国土地理院地図を書き込んで使用

あれっ、おかしくない。なんで下流の大田区から上流の世田谷に流れてくるの?ってことになりますが、昔は堰がなかったので、満潮時にはこの付近まで海水が遡ってきたと言われています。

別の説では、調布にある矢野口の渡しのことを矢口の渡しと間違えて記載したのではとも考えられています。これだと鎧を着た武者が流れていくこともありえ、辻褄があいそうです。

もしくは派手な演出で自害したと見せ掛けて、ここまで命からがら逃げてきたとか・・・。などということもあるのかもしれません。真実は分かりませんが、何かしら由良兵庫助に関りがあるから、兵庫島という名が付いたのでしょう。

ちなみに、世田谷区内にはもう一つ新田義興一行についての不確かな史跡があります。それは松原にある半田塚。多摩川で戦って敗れた残党十五、六人が松原までたどり着き、塚の辺りで息絶えたという謂われが残っています。(*半田塚には色々な謂れが残っていて、はっきりとしたことは分かっていません)

兵庫島公園と二子玉川のビル群
兵庫島公園と二子玉川のビル群

緑の多い丘を中心とした公園になっています。

野川と兵庫橋
野川と兵庫橋

兵庫島の南端で野川が多摩川に合流します。

その兵庫島を昭和63年に世田谷区が整備し、公園にしたのが兵庫島公園です。兵庫島と名前に島がついていますが、現在の兵庫島は島ではなく、多摩川と支流の野川の合流点に位置する陸続きの河川敷です。

この付近は多摩川と野川のデルタ地帯である為、洪水や大雨の度に島の形が変わったり、川筋が移動してきました。2015年の豪雨や2017年の台風時に兵庫島が完全に孤島となった様子がテレビで流れましたが、そういったことが起きる度に地形が変わっていったと想像できます。

1940年頃の兵庫島の航空写真(国土地理院)
1940年頃

国土地理院地図を書き込んで使用

戦前の写真を見ても、野川が兵庫島の手前で分裂して多摩川に流れているので、兵庫島が島となっています。多摩川だけではなく、野川も影響するので、この場所はさぞ不安定だったことでしょう。

いっその事、島のままで存在させていた方が、世田谷に島がある。みたいな話題性とか、面白味とか、島だからこその風情とかがあっていいような気がします。

兵庫島公園 多摩川水神様
多摩川水神様 2009年

昔はフェンスに囲まれた石の祠がありました。

兵庫島公園 多摩川水神様
改修後の水神様 2014年

祟りが起きそうなぐらい、何かわからない状態になりました。

兵庫島公園の真ん中は小高い丘となっています。この部分が昔からの兵庫島の部分になります。この丘のどこかに伝説の由良兵庫助のお墓が・・・と期待したいところですが、残念ながらありません。

その代わりというか、わかりにくいところに多摩川水神様の祠がありました。もしかして長い月日をかけて、伝承が微妙に変化していき、由良兵庫助が水神様に変化してしまったとか・・・と推測していたのですが、2014年に訪れた時には、祠のあった土台に御神体のような石が置いてあるだけになっていました。

その祟りですかね。2015年の豪雨は。昔だったら「水神様の祟りじゃ!!!何てことをしてしまったんだ!!!お許しくだされ~~」ってことで、新たに大きな水神様の祠が建てられ、どうか二度とこのようなことは・・・ってな運びになるのでしょうが、現在では更に大きな堤防が整備されるだけでした。

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2、兵庫島公園について

二子玉川兵庫島公園 兵庫橋の写真
兵庫橋

野川に架かる橋で、二子玉川からの入り口になります。

兵庫島公園は、二子玉川の多摩川にある兵庫島を昭和63年に世田谷区が整備し、公園にしました。現在は島ではありませんが、二子玉川駅からだと二子橋の北側にある兵庫橋を渡ることになります。

この辺りではよく釣りをしている人を見かけますが、一体何が釣れるのでしょうか。この橋の下を流れているのは野川という事になりますが、昔の汚かった都市河川では考えられないことです。

二子玉川兵庫島公園 丘の上の写真
兵庫島の丘の上

丘の中は木々が多く、緑が多いです。

兵庫橋から渡ると小高い丘があります。この部分が昔からの兵庫島の部分になります。大雨で兵庫橋が冠水した映像を見たとき、兵庫島が島になっている・・・。やっぱり兵庫島は島だったんだ・・・。などと思った人も多いのではないでしょうか。

この丘の上には遊歩道が設置され、藤棚がある広場などがあります。石碑なども多く設置されていますが、伝説の由良兵庫助のお墓はありません。もしかしたらどこかの地面の中で眠っているかもしれませんが・・・。

二子玉川兵庫島公園 多摩川八景の案内板の写真
多摩川八景の案内板

昭和59年に選定されたものです。

丘の上には多摩川八景の案内板があります。これは国土交通省が多摩川への関心を高め、河川環境整備の方向性を探ることを目的として、市民の投票をもとに昭和59年(1984年)4月に選定したものです。

兵庫島も選ばれていて、この他には上流から「奥多摩湖」「御岳渓谷」「玉川上水」「秋川渓谷」「多摩川大橋付近の川原」「多摩川台公園」「多摩川の河口」が、多摩川八景になります。

選定時期はせたがや百景と同じです。こちらは不変的な自然景観なので、せたがや百景と違って今でも変わらずといった感じです。ちなみに言うと、新東京百景は昭和57年。この頃はこういったものを選ぶのが流行っていたのですね。

二子玉川兵庫島公園 ドナウ川との友好記念の碑の写真
ドナウ川との友好記念の碑

彫刻家「鈴木政夫氏」の制作レリーフです。

ドナウ川との友好記念の碑も設置されています。これは世田谷区が昭和60年(1985年)5月にウィーン市ドゥブリング区と姉妹都市提携を結び、この交流が発展し、昭和61年(1986年)10月に世田谷区とウィーン市との共同宣言により、多摩川とドナウ川が日本で初めての「友好河川」になったそうです。

それを記念し、また両都市の市民の友情の証として、更には多摩川もドナウ川もいつまでもその美しい流れを守り続けようという誓いのシンボルとして、ここ兵庫島に設置されました。

二子玉川兵庫島公園 若山牧水の歌碑の写真
若山牧水の歌碑

多摩川を詠んだ歌が刻まれています。

その他には若山牧水の歌碑もあります。歌碑には多摩川を詠んだ歌、「多摩川の砂にたんぽぽ咲くころは われにもおもふ人のあれかし」が彫られ、横の案内板に他の歌が紹介されていました。

若山牧水は、全国を旅してその土地土地でこういった歌を詠んだ、旅歌人。なので、松尾芭蕉同様に全国にこういった歌碑があり、世田谷や多摩川に深く関りのあった人物というわけではありません。

でも、牧水のように多摩川の流れに心を重ね、歌人のような気分で多摩川を見てみると、意外な発見があったりするかもしれません。

二子玉川兵庫島公園 兵庫池の写真
兵庫池

底がコンクリートのひょうたん型をした人工の池です。

河川敷側には兵庫池があります。真ん中付近が狭まって橋が架けられているといった典型的なヒョウタン型をした池で、池の底は大雨で水没したときなどに掃除がしやすいようにコンクリートで固めてあります。

人口の池ですが、池の周りには開放的な芝生の広場や子供の広場、川の流れ近くは砂利広場があり、座ってくつろげるようになっています。

二子玉川兵庫島公園 兵庫池の橋の写真
兵庫池の橋

真ん中部分に橋が架かっていて庭園みたいな風景になっています。

季節のいい休日には玉川高島屋などでお弁当購入して、芝生などでピクニックをしている家族連れの姿も多く、地元はもとより広い地域の人々が憩いと安らぎを求める場となっている感じがします。

もちろん平日は近くで働いている人が休憩時間に利用したり、学生が帰宅前にくつろいでいたり、子供を連れたお母さんの姿も多いです。

二子玉川兵庫島公園 休日の川崎側の河川敷の写真
休日の対岸の河川敷

川崎側はバーベキューができるので賑わいます。

平成11年より条例で兵庫島公園を含めた河原ではバーベキューや花火打上などの火気使用は全面禁止となっています。これはかなり徹底されていて河原や近くの路上駐車を取り締まる巡回パトロールを行っています。

理由は・・・、テレビでも度々取り上げられたぐらいなので書くまでもないと思いますが、マナーの悪さです。ゴミは放置し、深夜まで大音量で音楽を鳴らしたり、花火を打ち上げたりといった行為が多発したからです。

以前はゴールデンウィーク付近の休日には兵庫島や付近の河川敷には多くのバーベキュー客がいました。今では条例が守られつつあるので、バーベキュー客は規制のない川崎側の方で行っています。

休日になると、二子玉川側でバーベキューができないと知った人、あるいは二子玉川で集合し、食材を調達した人たちが、バーべキュー用の荷物を持って二子橋をぞろぞろ渡っていくといった光景が繰り広げられます。

もちろんマナーが改善されているはずもなく、テレビで知るところによると川崎の方ではバーベキュー無法地帯となっていました。ただ、今では川崎側でも条例が制定され、指定された場所でしか行えなくなり、しかも有料となったようです。かなり改善されたのではないではないでしょうか。

二子玉川兵庫島公園 売店と新二子橋の写真
売店と新二子橋 2008年

日よけのあるテーブル席があるので、休憩に利用できましたが、現在はありません。

兵庫島公園の北側には国道246号の新二子橋が頭上を通っています。せっかくの公園に人工的な橋とは何と無粋な・・・と思う人もいるかもしれませんが、実はとても重宝されています。日差しの強い時は日陰として、急に雨が降ってきた時には雨宿りができるからです。特に子供を見守るお母さんの強い味方となっています。

その新二子橋付近には売店があり、軽食や飲み物が売られていて、店の周辺にはテーブル席も用意されていました。しかし、2015年の豪雨による多摩川の増水で甚大な被害を受け、2017年にも台風の被害があったことで、現在、兵庫島公園内には売店は設置されていません。

トイレも、昔は水洗トイレがあったのですが、同様に被害に遭い、現在は簡易式のトイレが設置されています。

二子玉川兵庫島公園 せせらぎで遊ぶ人々の写真
せせらぎで遊ぶ人々

河川敷で安全に水で遊べます。水は兵庫池に流れています。

新二子橋の北側には人工的な水辺を造った枯れ流れや野草の広場があり、川べりでのピクニックだけではなく、水遊びや散策が楽しめるようになっています。

小さい子供たちに水遊びをさせるには、開放感があっていい場所です。でも、すぐ近くに本物の多摩川があるので、目を離さないようにしないと危険です。

このせせらぎや野草の広場までが兵庫島公園で、これより先はグラウンドが沢山並ぶ二子橋公園(二子玉川緑地)と、別の公園になります。

3、兵庫島でのイベント

二子玉川兵庫島公園 花みず木フェスティバルの写真
花みず木フェスティバル

この日は多くの人が訪れます。

イベントとしては、毎年4月29日に「花みず木フェスティバル」が兵庫島公園をメイン会場として、二子玉川商店街やショッピングセンターなど町全体で行われます。

これは花みず木の町二子玉川の町おこしといったイベントで、苗木が配られたり、出店やフリーマーケットが並んだり、ちょっとしたステージイベントが行われたりします。

イベントの詳細はNo.80の「はなみずき並木の二子玉川界わい」に載せています。

二子玉川兵庫島公園 246ハーフマラソンの写真
246ハーフマラソン

島がコースになっています。

かつては8月、夏の終わりの思い出になっていたのが、たまがわ花火大会でした。現在では10月に開催されています。兵庫島は同時に開催される川崎の花火大会と世田谷の花火大会の真ん中に位置しているので場所的にはちょうどいいのですが、どちらにしても橋が邪魔で見難いかもしれません。

11月に行われる246ハーフマラソンでは、ランナーが兵庫島を激走していきます。こんなところがマラソンのコースに・・・と書くと怒られそうですが、ここが公式マラソンのコースになっているのには驚きました。

4、感想など

二子玉川兵庫島公園 水辺の風景の写真
水辺の風景

開放感のある公園なので、気持ちのいい休日が過ごせます。

兵庫島公園は川辺の立地を生かした公園で、とても開放感があり、川辺の風を受けながら心地のいい時間を過ごせます。

それでいて、兵庫島公園のすぐ上に二子玉川駅があるように、とても交通のアクセスいいうえに、近くに大きなショッピングセンターもあることから弁当などにも困りませんし、遊んだ後はショッピングもできます。本当にこれでもかといったぐらい立地条件のいい公園です。

江戸から昭和初期にかけての二子玉川は、江戸の人々の川遊びの行楽地でした。鮎も取れたことから川辺には料亭が並び、屋形船も浮かんでいたようです。さすがに今では船を浮かべることはできませんが、多摩川の空間的開放感を求めて、あるいはショッピングやレジャーで多くの人が訪れています。

休日の混雑ぶりを見ると、今も昔も二子玉川は変わらなく人気のレジャースポットなんだな。風景はだいぶん変わったけど、人間の行動や価値観はさほど変わらないものなんだな・・・などと思ってしまいます。

せたがや百景 No.77
兵庫島
2025年7月改訂 - 風の旅人
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・地図・アクセス等

・住所玉川3丁目2−1
・アクセス最寄り駅は東急田園都市線二子玉川駅。
・関連リンク兵庫島公園(世田谷区)、多摩川リバーミュージアム(国土交通省)
・備考ーーー
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