* 吉田松陰について *
世田谷区役所のすぐ近くに安政の大獄で刑死した吉田松陰を祀った松陰神社があります。
29歳の若さで生涯を閉じた吉田松陰に関しては今更説明することもないでしょうが、一般的に幕末の思想家とか、松下村塾での教育者と知られ、また安政の大獄での悲劇の英雄とか、学問の神という事で温厚な先生といったイメージとして認識されています。
しかしながらその生涯を追っていくと、そういったイメージとは反対の面も多くあり、悲劇の・・・というのは明治政府の権力者によって作られたイメージなのかなと思えてしまいます。
教育者というのは事実で、幼い頃から「論語」「孟子」などの中国の古典を学び、山鹿流兵学師範を務め、代々藩主に講義をしたり、明倫館(藩の学校)で藩士に講義をしていた叔父の吉田家を6歳の時に継ぎ、学問に励みます。
11才の時には、藩主であった毛利慶親公に武教全書を講義し、18歳で林真人より免許皆伝を受け、22歳で三重傳という山鹿流兵学でもっとも高い免許を取得しています。
兵学だけではなく、九州の平戸で4ヶ月遊学し、陽明学者の葉山佐内と親交を結んだり、藩命による江戸留学で佐久間象山に師事したりと積極的に西洋文明も学んでいます。これは西欧から日本を守るためという愛国の思いが強かったからだそうです。
しかしながら勉強家である反面、行動はどんどんと過激になっていき、藩の規則を破って浪人となったり、アメリカやロシア艦隊の船に密航しようとしたりして捕まります。
弟子の金子重助と共に下田沖に停泊中であったペリーの軍艦に小船で乗り込み、軍艦に乗船し米国に連れて行ってもらえるよう懇願するといった事件は有名な話です。
これは認めてもらえず、翌朝自首し、江戸伝馬町の獄に投獄されてしまいます。
この後、萩に戻され野山獄に約1年2ヶ月間投獄されることになりますが、投獄されている間も学問への探求は怠らなく、獄中でも人に学を教えたり、教わったりしていたようです。
安政2年に蟄居の身となると、以前に叔父の玉木文之進が開いていた「松下村塾」という塾を開き、近隣の子弟の教育を始めます。松下村塾では、身分の上下や職業などは関係なく、それぞれの長所を見つけ伸ばすという教育を行いました。
松下村塾は僅か2年余の間しか開塾していませんでしたが、伊藤博文、木戸孝允、山縣有朋など、後の明治維新を成し遂げた数多くの若者達が巣立っていった事を考えると、とても優秀な人間が集まる環境だったことが伺えます。
安政五年に井伊直弼が大老となり、日米通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行してから再び松陰の人生の歯車が狂い始めます。
幕府や朝廷の派閥問題も絡み、これに反対する人々を投獄したり、罷免していきました。これが安政の大獄です。
こういった事態に松陰は日本の安全が脅かされると考え、藩主や塾生同志等に時局に対する意見書を送ります。直接行動として、老中暗殺も計画しました。
どんどんと過激になる松陰の思想に長州藩は慌て、塾を閉塾し、再び松陰を投獄しました。そして安政6年5月には取り調べのため、萩野山の獄を発ち江戸桜田の藩邸に護送されることとなります。
松陰に対する疑いは、梅田雲浜との関係と、京都御所内への落し文のことでした。
この落し文は長野主膳、島田左近、水野土佐守などを名指しで弾劾した無署名の文書で、これが松陰の手によるものではないかと奉行所は疑いを抱いていたのです。
最初の取り調べでこの尋問を受けたのですが、全く覚えがない松陰は雲浜とは学問のことを話し合っただけだと否定しました。役人もすぐに誤解を解いたのですが、松陰は拍子抜けしてしまったようです。
これでやめておけばと言うのは凡人的な考え方かもしれませんが、行動主義者の松陰は役人の話術もうまさもあり、自分の所信を話そうと意気込んで色々としゃべってしまったのです。
自分の理想を述べることでこの場で幕府の役人を動かし、やがては幕府内部からも革命を起こそうといった期待や自信があったのでしょうか。或いは誠意をもって話せば相手もわかってくれると思ったのでしょうか。
それに老中間部に対する暗殺計画のことも、奉行所は探知しているに違いないと思い込んでいた部分もあったようで、「伏見要駕策」や「間部要撃計画」についても正直に話してしまったのです。
結局、彼はあまりにも自分の理想に対して純粋でした。別の見方をすれば楽天的というか、自信過剰というか、行動が安易過ぎるとも言えるでしょうか。
最期の取り調べでも一切弁解をしなかったばかりか、自分の理想や思想について述べる始末。このようなことをしなければ島流し程度で済んだとも言われています。
辞世の句は「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」で、私の命がたとえこの武蔵野の野で終えることになっても、自分の思想はここに留めておこうといった意味となるようです。
この句を門下生が詠んで奮起しないわけがありません。明治という新しい世の中で松下村塾の門徒が活躍したのも頷けるような気がします。
* 松陰神社について *
松陰神社のある若林はかつての若林村にあたります。
若林村には古くから若林鎮守三社といわれる福寿稲荷神社、北野神社、天祖神社が鎮座していて、3つの神社では毎年順送りでお祭りが行われてきました。
現在では天祖神社は福寿稲荷神社に合祀されて若林稲荷神社となり、環七沿いにある北野神社は現存しているものの、規模がめっきり縮小され、お祭りはかつての若林鎮守三社祭という形式を残しながら若林稲荷神社で毎年行われています。
こういった若林に古くから土地の神様として存在していた神社とは異なる性質を持つのが旧格式で府社という高い格式を持つ松陰神社です。
若林村が発展したのは室町時代に吉良氏が世田谷城に居城を構えてからです。
吉良氏がこの地を追われた後の江戸時代には旗本領となり、寛文十二年(1672年)頃、西山谷地域の丘には長州藩の毛利家、毛利大膳大夫の抱え屋敷が建てられました。
毛利家の殿様は代々「大膳大夫」と称していたので、地元の人は大夫山と呼んでいたそうです。
なぜ若林の地に毛利家の抱え屋敷が建ったのか。それは江戸に火事が多かったというのが一因のようです。
長州藩は大きな藩なので、外桜田、青山など江戸の中心部付近に幕府から拝領した屋敷を幾つか持っていましたが、何時起こるか分からない火災、或いは有事に備えて郊外に用心屋敷を建てる事にしました。
長州藩は西国の国(現在の山口県)。江戸の西側で、青山の屋敷からそんなに離れていない場所ということで、ここ荏原郡若林村が選ばれたようです。
若林村は特に何があるといった村ではないので平穏に時が流れていましたが、幕末になると倒幕の首謀者である長州藩の抱え屋敷があるという事で色々慌ただしくなります。
そんな時代が加速度的に流れていく中、江戸幕府の大老井伊直弼などが勅許を得ずに日米修好通商条約に調印し、将軍継嗣を徳川家茂に決定するという事を行いました。
当然、こういった国が転覆しかねない諸策に反対する者が現れましたが、これを権力で封じ込めました。
これが俗にいう安政の大獄で、安政5年から安政6年(1858~1859年)にかけて吉田松陰、頼三樹三郎らが処刑されたのをはじめ、多くの人が粛正され、左遷され、罷免されました。
その井伊直弼自身も翌年の安政七年に桜田門外の変によって水戸藩士に暗殺されます。
その後も政治的な血なまぐさくい事件、報復合戦が起こり続け、慶応三年(1867年)に15代将軍徳川慶喜が政権を明治天皇に返上する大政奉還が行われ、江戸時代、徳川幕府が終わります。
ちなみに当時世田谷を治めていたのが彦根藩井伊家で、菩提寺が豪徳寺です。安政の大獄を行った井伊直弼の墓が豪徳寺、処刑された吉田松陰の墓が松陰神社とあまり離れていない場所にあるのも不思議なものです。
吉田松陰は安政六年(1859年)10月27日に江戸伝馬町の獄中にて29歳の若さで処刑されました。
遺体は小塚原回向院(東京都荒川区)の墓地に葬られましたが、刑死した4年後の文久3年(1863年)に高杉晋作など門人によって頼三樹三郎らと共に若林の屋敷内に改葬されました。
しかしながら翌年の元治元年(1864年)に蛤御門の変が起きると、幕府によって長州藩の江戸上屋敷と共に若林村の抱え屋敷も没収され、長州征伐の際に家屋、墓域などは破壊されてしまいます。
時代が明治になると抱え屋敷は毛利家に戻され、木戸孝允が墓所を修復、整備します。その時に設置した鳥居は現在も墓所の入り口にある鳥居です。
そして明治15年(1882年)11月21日、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建されました。松陰神社の始まりです。
この時は茅葺き屋根の小さな祠だったそうですが、昭和2年から3年にかけて現在の社殿が造営されます。当時の社殿は現在でも本殿の内陣として使われているようです。
昭和7年には府社となり、本格的に神社として整備されることとなります。今では学問の神としてすっかり定着し、初詣や受験シーズンには多くの受験生が合格祈願に訪れています。
現在の境内は整備が行き届いていて、整然とした印象を受けると思います。
正面の鳥居は東日本大震災後に倒壊の恐れがあるということから黒の鳥居に替えられました。鳥居の背後には桜の木があるので桜の季節はいい風景になります。
細長い参道の脇に神楽殿や御輿舎、松陰の像などがあります。
神楽殿は昭和7年、旧府社に昇格する際に毛利家より寄贈されたもので、平成12年には大改修され、増築されました。
拝殿近くのエリアは石灯ろうがずらっと並んでいます。この石灯ろうは明治41年の松陰50年祭の際に伊藤博文、木戸孝允、山県有朋、乃木希典などの門弟たちが石鳥居とともに寄進したものです。
それぞれに寄贈者の名が刻んであるので、自分の知っている歴史的有名人が寄贈した灯ろうを探してみてください。
拝殿の脇には萩にある松下村塾の復元家屋があります。昭和11年に建てられ、その後境内の中でも設置場所を移動してしているみたいです。
わざわざ復元してここに設置する必要があったのかなと思ってしまうのですが、設置されたのは戦前の忠君愛国思想が幅をきかされた時代です。
忠義の士である大石内蔵助や山中鹿之助などの話は教科書に載せられ、日本人のあり方的な教訓としてもてはやされていました。
同じように愛国心の固まりであり、近代日本の形成を行った人々の師である松陰は日本人の鏡的な存在であったようです。
そういった意味で当時の時代背景では必要なものだったからこそここに造られ、そして多くの人が訪れたようです。
手水舎の脇から案内板にしたがって左に曲がると松陰先生のお墓があります。ここには松陰のお墓が一つだけあるのではなく、松陰先生他烈士墓所といった墓域となっています。
神社に墓所があるというのも変な感じですが、木戸孝允氏寄贈の鳥居をくぐって一番奥の正面にあるのが松陰先生のお墓です。小さく、想像以上に簡素なお墓です。
そのすぐ脇にあるのは志を同じくして安政の大獄で刑死した小林民部氏、頼三樹三郎氏のお墓です。こちらも松陰と同じく千住小塚原回向院から改葬されました。
その他にも来原良蔵氏、福原乙之進氏、綿貫冶郎助氏などといった志半ばで亡くなった維新の志士達の墓が並びます。
また墓域内には維新後徳川家から謝罪のため寄進された灯籠と水盤があり、誇らしげに飾ってあるのが印象的でした。
この他にも長州藩邸没収事件関係者慰霊碑(井上新一郎氏建立)、長州第四大隊戦死者招魂碑(桂太郎氏建立)といった長州藩のために命を落とした人々のための慰霊碑もあります。
* 幕末維新祭り *
毎年、吉田松陰の命日である10月27日に近い10月第四週末に萩・世田谷幕末維新祭りが松陰神社や松陰神社通りで行われます。
境内には露店が多く並び、萩や会津の物産展やPRブースなどもあり、かなり賑やかです。駅から神社に続く商店街にも出店が出て、賑わいます。
主催は松陰神社通り商店街松栄会で、商店街主催のイベントとしては規模が大きく、平成22年に行われた第6回東京都商店街グランプリではこの「萩・世田谷幕末維新祭り」の開催実績で優秀賞を受賞しています。
イベント内容としては日曜日に行われる幕末の志士・奇兵隊パレードがメインイベントとなります。
小学生の鼓笛隊や大学生のマーチングバンドが先導し、役者が扮した吉田松陰などの志士やすぐお隣の国士舘中学の生徒が扮する長州奇兵隊、新撰組や幕府軍に扮した愛好会の人たちが続きます。
世田谷区役所を出発し、以前は世田谷通りを回って松陰神社通り商店街にやってきていたのですが、今では規模縮小というか、多分道路の使用許可の問題かと思いますが、路地を通って商店街通りにやってきて、松陰神社に向かいます。
松陰神社に到着すると、奉納演奏といった形で演奏を行ったり、寸劇のような形で鬨の声を上げたりしてパレードは終了します。
パレード以外にも境内では野外寸劇や幕末歴史講演会が行われたり、歴史関係のグッズを売る店もあり、遙々遠方から幕末の歴史好きが集まるイベントと知られているのも納得です。
歴史関係以外にも夜に境内で行われるジャズコンサートも人気となっているようです。
その他、会津の伝統芸能や地元の団体による阿波踊りやよさこい、太鼓演奏が行われたり、萩焼陶芸体験や萩や会津の物産展、観光PRなども催されます。
イベント以外の祭事は、社殿にて例大祭の神事が10時より行われ、2年に一度となりますが、神輿の町内渡御が行われます。
町内渡御といっても若林三社祭のように若林全体を回るのではなく、松陰神社に恩恵を受けているというか、奉仕しているというか、関係の深い周辺の商店街を回るといった限定的なものです。
担ぎ手は背中に吉田松陰の家紋であり、神社の神紋になっている五瓜に左万字の神紋が描かれている緑色の半纏を着用しなければならないので、担ぎ手は緑一色となります。
神輿は12時半から拝殿前にて入魂式神事が行われ、慌ただしく12時45分頃には宮出しが行われます。
幕末維新祭りの最大の見所であるパレードが13時に区役所を出発して、神社に向かってくるからです。
担ぎ上げると拝殿前で軽く揉んで、長い参道を通り、鳥居を出て若林駅の方へ向かいます。結構人が多いので境内から出るのが大変です。
神輿が出て少しすると今度は賑やかな鼓笛隊やら時代行列がやってて再び参道や境内が賑やかになります。
神輿は町域を回って夕方に松陰神社通り商店街へ戻ってきます。ここから神社への宮入がハイライトとなります。地元の商店街なので沿道からの歓声も多く、担ぎ手もノリノリ状態。とても元気よく担いでいました。
そして暗くなり観光客や参拝客が少なくなった神社に戻ってきます。神社に神輿が入ってくると境内は熱気に包まれ、最後に神輿を拝殿前で納めます。
* 感想など *
松陰神社は世田谷にある神社の中でも特殊な神社です。唯一府社の格付けが付けられ、祀られているのも幕末の元長州藩士と現実的な神様です。地域に根付いたものでもなく、地域の人が勧請したものでもなく、たまたま縁があって若林に鎮座することになった神社です。
冷めた見方をすれば長州藩が身内のために造った神社であり、なぜ罪人である吉田松陰が神になるの?受験になんのご利益もなさそうじゃない!って話になるのですが、否定的に考えるよりはプラス思考で考えるほうが物事は楽しいものです。
ここにあるのも何かの縁。訪れることで幕末や維新の時代に興味を持つきっかけになればいいし、松陰神社をきっかけに自分の信じる理想のために精一杯生きた幕末や維新の人々についても知ってほしいです。自分らしさとは何か、一生懸命生きるということはどういうことか、時代は違うけど学ぶべきことは多いはずです。
せたがや百景No.18-1 松陰神社と幕末維新祭り
ー 風の旅人 ー
2018年11月改訂