せたがや百景 No.11-20の紹介
昭和59年に世田谷区と区民によって選定された「せたがや百景」のNo.11-20の紹介です。詳細は個別のページをご覧ください。
No.11 淡島の灸の森厳寺

江戸時代の初め、徳川家康の次男結城秀康公の位牌所として建立された。建物に三葉葵の紋所が見られる。また境内には、樹齢400年のイチョウが一対と、お灸と2月8日の針供養で知られる淡島神社がある。森厳寺や北沢八幡、阿川家の屋敷林のあるこのあたりは緑深い木々に包まれている。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:代沢3-27-1(森厳寺) 備考:針供養は12月8日に変更


下北沢の南、北沢川緑道にほど近い場所に森厳寺があります。名は体を表すというか、森厳寺の名の通りと言いますか、境内に立派な巨木が多く、外から境内を見ると、まるで巨木の巣窟といった様相です。
特に素晴らしいと感じるのが、樹齢500年以上と言われる一対のイチョウの木。紅葉時期に訪れると、目がくらむような素敵な空間になります。

この森厳寺は、徳川家康の次男、結城秀康の位牌所として建てられたとされています。その為、徳川の家紋、三つ葉葵を本堂などに見ることができます。
どうしてこんな辺境の地に徳川家康の次男の位牌所があるの。このことは色々と不可解な点も多く、結城秀康という人物の生き方を含め、謎が多かったりします。

境内には淡島神社(淡島堂)があります。淡島は住吉大明神の妻で、女性の神として崇められています。その淡島様が住職の夢枕に立ち、持病の腰痛に効く灸を教えてくれたそうです。その通りにやってみると、見事に持病の腰板が治り、その施術を広く一般に行うと、たちまち江戸中の評判になり、門前町が栄えたと言われています。
また、紹介文にあるように淡島神社では2月8日に裁縫の針を供養する針供養が行われてきました。しかし、近年では針を使う人が少なくなり、12月8日に規模を縮小して行われています。
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- ・淡島の灸の森厳寺(百景11)
No.12 若者と下北沢のまち

本多劇場、ロングラン・シアター、ザ・スズナリなどの劇場があり、演劇の新しいメッカとなっている。まちにはたくさんの若者が訪れ、ユニークな店も目立っている。探れば探るほど、多くの顔を見つけることのできるまちといえるだろう。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:下北沢の駅周辺一帯 備考:ーーー


下北沢には幾つかの小規模な劇場があり、町中を歩いていると演劇団や舞台関係の会社の看板をちょくちょく見かけます。下北沢といえば、劇場の町・・・となるのですが、演劇界はマイナーな世界なので、知る人ぞ知るといった感じでしょうか。
下北沢にある劇場の多くは、本多グループのものです。その創始者は、本多一夫氏。映画俳優を目指していた方で、自分が若い時に苦労した経験から、若い演劇人に発表の場を与えたい!との思いで、下北沢駅周辺に貸し劇場を次々と建てたそうです。
毎年2月には、町をあげて下北沢演劇祭も行われています。せっかく下北沢を訪れたなら、演劇鑑賞を楽しんでみるというのも悪くないのではないでしょうか。

また、下北沢は若者の町ともいわれています。実際、下北沢を歩いていると、若い人の姿が多く見かけます。小田急線と京王井の頭線の乗換駅なので、学生が多いというのもありますが、下北沢には若者を引き付ける魅力があるからこそ、多くの若者が立ち寄り、町歩きを楽しんでいるのです。
その魅力は何か。百景の解説文にあるように、ユニークなお店の存在も大きいでしょうし、演劇の町という独特の雰囲気が好きな人もいるかもしれませんし、レトロな雰囲気や雑踏感が好きな人もいるでしょう。また、商店街などが行うユニークなイベントも魅力的です。下北沢では年間を通じて本当に多くのイベントが行われています。

ただ一つだけ言えるのは、この町では若い人が町のイベントの実行委員や、商店街などの町の運営に携わっています。町を形成する側にも下北沢が好きな若者が多いのです。
なので、町が醸し出される雰囲気にも若さや活気、自由さを感じます。そういった町自体からにじみ出る雰囲気に、魅力や共感、心地よさを感じる若者も多いのではないでしょうか。
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- ・若者と下北沢のまち(百景12)
No.13 下北沢北口の市場(*消滅しました)

暮らしに密着した食料や衣料などが所狭しと並び、活気に満ちている。通路が買い物客で身動きできないほど賑わう。戦後間もないころのことがふと思い出される。買い物客が引け、店が閉まった後の風情も捨てがたい。暮らしのエネルギーが残してきた風景といえよう。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:ーーー(元・北沢2-24) 備考:取り壊されました


下北沢駅の北口を出て、すぐ線路沿いに駅前食品市場がありました。が、小田急線の地下化に伴う再開発で取り壊され、現在では駅前広場になっています。
この市場は、寄せ集めたバラックを整備したような建物で、戦後とまではいかないにしても、昭和の雰囲気が漂った空間になっていました。
なぜ駅前の一等地に、このような市場が残り続けたのかは分かりませんが、最後の方は市場としてはあまり機能していなく、レトロな感じの飲み屋街として人を集めていました。
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- ・下北沢北口の市場(百景13)
No.14 天狗まつりと真竜寺(*寺は移転しました)

小田原大雄山最乗寺の分院真竜寺は昭和4年に下北沢に建てられた。小さな石段を上がって境内に入ると、大きな天狗の面が目につく。節分の日の天狗まつりには、天狗の面と大天狗、裃姿の年男などが豆をまきながら商売繁昌、家内安全を祈り、商店街を練り歩く。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:ーーー(旧所在地:北沢2-36-15)
備考:寺は移転しました 天狗まつりは継続しています


天狗寺として有名な小田原の大雄山最乗寺。その分院が下北沢駅北口の住宅地の中にありました。残念ながら2019年に取り壊され、跡地にはマンションが建てられています。
小さなお寺で、特に見所はなかったのですが、境内に置かれていた大きな天狗の面は一見の価値がありました。

地域にある天狗寺。その特徴を生かしてイベントを行おう。ということで、節分の時期、商店街と協力してしもきた天狗まつりが行われてきました。
その天狗道中では、天狗に扮した人や裃姿の年男、境内に置かれていた天狗の面が町を練り歩きながら、途中途中で福豆をまいていきす。こういった行事はなかなか他ではなく、下北沢らしい行事と言えます。

お寺は廃寺になってしまいましたが、天狗の面などは商店街が引き取り、行事自体は今でも引き続き行われています。宗教的なしがらみがなくなったので、以前よりもイベント色が少し強くなった感はありますが、天狗様が見守る豆まきはなかなか楽しいですよ。
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- ・天狗まつりと真竜寺(百景14)
No.15 下北沢の阿波おどり

8月、地元の諸連が総出で踊りまくる。下北沢のまちには阿波踊りが不思議なくらいよく似合う。今では、下北沢の夏には欠くことのできない一大イベントとなっている。工夫をこらしたそれぞれの踊りを見ていると、いつまでも飽きない。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:下北沢一番街商店街一帯 備考:ーーー


毎年8月、下北沢駅北側にある一番街商店街を中心に阿波踊り大会が行われます。開催日は年によってまちまちなので、商店街のサイトなどで事前に確認しておいた方がいいです。
下北沢の阿波踊りは、「下北沢名物阿波踊り」と公言しているだけあって、歴史が古く、昭和41年に始まりました。歴史を積み重ねているだけあって、下北沢に阿波踊りありと、その筋では有名です。毎年近隣を中心に多くの団体が参加しています。

下北沢の阿波踊りの良さは、ごちゃごちゃした路地で阿波踊りが行われることです。それはマイナスにも思えるのですが、両脇の建物に太鼓の音や人の声が響き、臨場感がもろに伝わります。演者との距離が近いので、一体感を感じやすいです。それに下北沢の雑踏的な町並みが、阿波踊りの雰囲気によく合います。
といった感じで、下北沢の阿波踊りはとても雰囲気がいいので、その場にいるだけでとても楽しい気分になれます。規模や見やすさ、アクセスなどもよく、初心者でも楽しめる阿波踊りだと思います。
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- ・下北沢の阿波おどり(百景15)
No.16 羽根木神社の参道

都水道局和田堀給水場近くに羽根木神社の小さなお社がある。今は家が建て込んで、農村だったころの面影はほとんどないが、社まで続いた参道のケヤキ並木が地元住民の運動によって一部残されている。風景変遷のものいわぬ証人だ。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:羽根木2-8 備考:ーーー


羽根木と聞くと、羽根木公園の周辺を思い浮かべる人も多いと思いますが、もっと北、和田掘り浄水場付近の小さな町域になります。
羽根木の氏神様は羽根木神社。神社は大戦中の空襲で焼失し、後に住民によって再建されました。百景の文章に「小さなお社」とあるように、現在の神社は、地域外の人にとってはあまり見るべきものはありません。

百景に選ばれているのは、神社ではなく、参道の方。さぞ立派な参道が残っているのだろう。焼失前の神社の格式を彷彿させるような参道なんだろうな。などと期待して訪れると、「あれ、これマンションの垣根じゃないの」といった感じで、酷くガッカリすることでしょう。参道の石碑がなければ、見落としてしまうような状態です。
住民運動で残すことができたのは、とてもよいことだし、誇れることだと思いますが、こんな状態の参道を百景に選ぶべきだったのだろうか。参道を眺めると、様々な大人の事情が浮かび上がり、色々と考えさせられてしまいます。
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- ・羽根木神社の参道(百景16)
No.17 梅と桜の羽根木公園

梅ヶ丘駅北口の小高い丘が区立公園になっている。以前は六郎治山とか根津山と呼ばれていた。梅林には梅の木が約650本植えられ、2月下旬紅梅白梅の咲きそろうころには多くの人々が訪れる。また春には桜の名所でもある。子ども達自身が遊びを工夫し、自由気ままに遊べるプレイパークも設けられている。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:区立羽根木公園(代田4-38) 備考:ーーー


小田急線の梅ヶ丘駅の北側に、小高い丘があります。この丘を利用して、区立羽根木公園が設置されています。野球場やテニスコートなどは頂上の平坦部分が利用され、斜面部分は梅林だったり、子供の遊び場として使用されています。
丘に広がる梅林は、まさに梅ヶ丘の地名にピッタリで、地名の由来となったのだろう・・・などと考えてしまいますが、この梅林は昭和42年に世田谷区議会に当選した55名が、55本の梅の木を植樹したことに始まるので、地名とは関係ありません。
とはいえ、現在では梅の木は700本に増え、東京23区内で屈指の梅林となったことから、梅ヶ丘や羽根木公園の知名度が広まりました。結果オーライといった感じです。
開花時期には、羽根木公園の丘が美しい光景と、清々しい匂いに包まれます。そして、2月には「せたがや梅祭り」が行われ、近隣から多くの人が訪れます。

百景のタイトルには、梅の他に桜の文字もあります。羽根木公園を建設する際に、運動施設の周辺の通路に並木のように植えられたのが桜になります。
芝生とかに植えられたものではないので、お弁当を持参して花見をするには厳しいですが、桜の時期に園内を散策すると、とても気持がいいです。

百景の文章には、羽根木プレーパークの記載があります。「自分の責任で自由に遊ぶ」をモットーに、1979年に日本で最初に開設されたプレーパークがここになります。
いつ訪れても、プレーパークから賑やかな子供の声が聞こえてきます。40年以上も区と地域住民と世話人会の協力で維持・運営されていて、梅とともに羽根木公園の顔と呼べる存在となっています。
No.18 松陰神社と若林公園

安政の大獄で刑死した吉田松陰は、南千住の回向院に葬られた後、門下であった高杉晋作らの手によって若林村の毛利家抱屋敷内に移されたが、明治になってここに社殿が建てられ松陰神社となった。社殿の左手奥に松陰と志を同じくした人々の墓がある。隣接の若林公園の木立は盛夏涼しい木陰を作り、人々の憩いの場となっている。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:若林4-34、35 備考:ーーー


世田谷区役所のすぐ近くに、区立若林公園と松陰神社があります。若林公園は付近の役所関係の人たちや、国士舘の生徒たちの憩いの場となっていて、常にそれなりに人がくつろいでいるといった感じです。
若林公園には憩いの場としてよりも大事な使命があり、災害時に区役所に集まってきた人たちを守ったり、周辺で開催が起きたときに、区役所を守るといった役割を担っていて、防災に強い公園となっています。

若林公園の隣には松陰神社があります。名前の通り、幕末の長州藩士であった吉田松陰を祀っている神社になります。
なぜ世田谷にあるのか。もともとこの場所には長州藩の予備屋敷があり、ここに安政の大獄で処刑された松陰の墓を作ったことに始まります。特に松陰に所縁の地というわけではありません。
神社の奥には墓域があり、吉田松陰などの墓が並んでいたり、松下村塾のレプリカが建てられていたりします。萩に行かなくても・・・といった感じでしょうか。

毎年10月末の週末には、神社や松陰神社商店街を舞台に幕末維新祭りが行われます。イベントでは、パレードや寸劇、神輿渡御や奉納演芸が行われ、萩や会津の物産展も行われます。この日は各地から歴史好きが集まり、とても賑わいます。
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- ・松陰神社と幕末維新祭り(百景18-1)
- ・若林公園一帯(百景18-2)
No.19 上馬の駒留八幡神社

鎌倉時代後期、このあたりの地頭だった北条左近太郎入道成願は、八幡宮の勧請を誓い、乗った馬の留まったところに社殿を造ろうとした。これが現在の地で、馬が留まったところから駒留と名付けられたといわれる。戦国時代には吉良氏との縁も深く、常盤と死産した吉良頼康の子が祀られている。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:駒留八幡神社(上馬5-35-3) 備考:ーーー


環七と世田谷通りが交差する若林交差点。その交差点にほど近い場所に駒留八幡神社があります。創建は鎌倉時代にまでさかのぼり、この地の領主だった北条左近太郎入道成願が、自身が信仰している八幡様を勧請したのが始まりと伝えられています。
境内には背の高い松が生えていて、社殿の武骨さと相成って、武家屋敷風な雰囲気のする神社といった印象です。

この駒留八幡神社には、戦国時代に世田谷を治めていた吉良家の伝説も残っています。
永禄年間(1558~70)、世田谷城主であった吉良頼康の側室、常盤は、他の側室たちの策略によって不義の疑いをかけられ、子どもを身籠もったまま自害するという事件が起きました。いわゆる常磐伝説です。
頼康は死産した子どもをこの神社に祀り、若宮八幡と改称しました。また、常盤を弁財天として厳島神社に祀ったとされています。ただ、これが実話だった可能性は限りなく低いので、似たようなお家のごたごたがあったのかもしれません。
- <詳細ページ>
- ・上馬の駒留八幡神社(百景19)
No.20 さぎ草ゆかりの常盤塚

世田谷城主吉良頼康の側室常盤の悲しい物語にまつわる塚が、上馬のまちの家と家との間にひっそりとある。常盤の放った白鷺があわれ頼康の鷹狩の手にかかり、その骸を葬った地には一面のさぎ草が咲いたという。現代のまちの中に伝説を蘇らせる一隅の小風景だ。(せたがや百景公式紹介文の引用)
場所:常盤塚(上馬5-30-19) 備考:ーーー


上馬の世田谷通り近くの住宅地の一画に常盤塚があります。戦国時代の世田谷を治めていたのは、名門吉良氏。その側室に入った常盤は、他の側室よりも可愛がられ、やがて子を懐妊します。
しかし、他の側室は面白くありません。謀略を企て、常盤を貶めることにしました。身の危険を察した常盤は、慌てて城から脱出します。しかし、身重な身体。このままでは追手から逃げ切れないと覚悟し、自害しました。後に真実を知った殿は激怒し、他の側室を処罰し、常盤が自害した場所に塚を築きました。
というのが、常盤伝説になるのですが、あくまでも伝説であり、常盤が実在したという記録はありません。似たようなお家のごたごたがあったのか、或いは、地域の風習によって設置された塚を、後世の誰かがファンタジーに仕上げてしまったのかもしれません。

更に話に尾ひれがついて、常盤が飼っていた鷺を放していたときに、その鷺を奥沢付近の狩場で射止めてしまったのが吉良の殿様で、それが縁で二人は知り合ったとか。その時に白鷺の亡骸を埋めた場所に咲いたのが、さぎ草だったとか。
別の話では、常盤が自害するときに飼っていた白鷺に遺書をしたためて放ち、それを殿様が狩りの最中に撃ち落とし、事の真実を知ったとか。こちらは鷺草伝説と言われ、色々と話のバリエーションがあります。
一昔前は、真実に近い伝説といった感じで紹介されていたので、サギ草は昭和43年に世田谷の「区の花」に選ばれています。ただ、サギ草は育てるのが難しいので、あまり広まっていないのが実際です。
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- ・さぎ草ゆかりの常盤塚(百景20)