* 豪徳寺と参道の松並木 *
世田谷線の宮の坂駅の東に広大な敷地を擁する豪徳寺があります。
近年では井伊家の菩提寺としてNHKの大河ドラマに何度も登場し、また招き猫の寺として大量に奉納されている招き猫がテレビやSNSで話題となり、区内だけではなく、広く世間に知られる存在となったのではないでしょうか。
豪徳寺の広大な敷地は次の項目で紹介する世田谷城の本郭部分にあたるのではと言われていますが、世田谷城がどの程度の大きさだったのかはっきりしていないので、その真偽は定かではありません。
豪徳寺の寺伝よれば、今から500年前に世田谷城内の「弘徳院」と呼ばれていた小庵が寺の起源になるとのことなので、世田谷城の一部であったことは間違いなさそうです。
この弘徳院は文明十二年(1480年)に吉良政忠が伯母の供養ために建てたもので、その法号「弘徳院殿久栄理椿大姉」に因んでいます。
その後天正十二年(1584年)に門菴宋関住職が中興開山し、臨済宗から曹洞宗に改宗しました。
この門菴宋関住職は忠臣蔵で有名な高輪泉岳寺を開山を行っていて、豪徳寺は泉岳寺の末寺という関係にもなっているようです。
戦国の世の終わり、豊臣秀吉の小田原攻めで北条家が滅亡し、従属関係の世田谷吉良氏もこの地を追われ、世田谷城は廃城となりました。
吉良家の後ろ盾がなくなってしまったので、寺は廃れていくことになります。
江戸の世となり、しばらくすると寺の状況が変ります。寛永十年(1633年)に彦根藩世田谷領が成立した後、彦根藩主井伊家の菩提寺として取り立てられることとなりました。
中興開基を行った二代目藩主井伊直孝の没後に、彼の法号「久昌院殿豪徳天英大居士」から豪徳寺と寺号が改められ、仏殿の建立など寺の伽藍が整えられていきました。
そして以後、江戸で亡くなった彦根藩主やその家族だけではなく、藩士もここに葬られることになります。
長い歴史を感じるような古めかしい寺標が城山通りにあり、ここから豪徳寺の参道が始まります。
寺標の後ろには白い壁と門柱があり、白色の壁がコントラスト的に後ろの松並木を引き立てていて、すっきりとしているというか、おしゃれというか、センスを感じるような門前となっています。
参道の松並木は黒松です。背が高く、立派な松がずらっと並んでいる様子はとても素晴らしく、この先にある豪徳寺がどんな寺だろうと期待がどんどん膨らんでいきます。
実際に松のトンネルとなっている参道を歩くと、松に包まれているかの様な感覚で心地よく感じることでしょう。
この参道の右側、豪徳寺住宅側が高くなっています。これはかつての土塁跡ではないかとも言われていますが、どうもはっきりしないような感じです。
この豪徳寺住宅ができる前には、寺や檀家さんなどの力でその用地を買収して大型バス用の駐車場を作り、景観を保とうといった計画もありました。
寺の敷地を維持するのは何とかなるとしても、参道までとなるとどうしても地価の高い東京では資金面で難しいものがあります。
そういった努力や美しい松並木の景観が評価され、この参道は第三回せたがや地域風景資産に選定されました。
* 豪徳寺境内について *
松並木の参道を抜けると、背の高い大きな山門が目の前にそびえています。
昭和初期に再建されたものですが、馬上で入るのが容易な高さがあり、大名の菩提寺としての格式が伺えます。
門に掲げられている扁額は「碧雲閣」。名の通り雲のような高さに掲げられているといった感じなのですが、その扁額付近にも千社札がベタベタ貼ってあったりします。
貼った人達は長いはしごを持参して参拝したのでしょうか・・・。
2009年に取り壊されてしまいましたが、山門の横にはお供え用の花を販売している山崎商店がありました。
百景の文章に「福を呼ぶ招き猫が門前で売られている」とあるのはこの山崎商店のことで、店の前には招き猫の立て看板が置かれていて、ここで招き猫を買うことができました。
聞くところによると、元祖はこちらで、後から社務所でも売られるようになったそうです。
山門から境内に入っていくと、正面に真っ黒で大きな香炉があります。とても存在感のある香炉です。
香炉の中央には金色に輝く寺紋がつけられていて、香炉の上では獅子が金色の毬で遊び、よく見ると下では三匹の鬼が支えています。
この黒の香炉は、新緑の季節には緑の中に穏やかにたたずみ、紅葉の季節には赤の中でも冷静にたたずみ、葉のない冬ではドシッとした感じでたたずんでいます。
季節を問わず存在感を放ち、境内を引き締める存在となっています。
香炉の後ろには仏殿があります。井伊直孝の娘(掃雲院)が藩主真澄の菩提を弔うために延宝四年(1676年)に建設を初め、翌年に完成したものです。
建設には工匠の星野市左衛門氏らが関わり、当時流行していた黄檗様式が随所に見られ、また絵様肘木などという特異な様式も使われていて、建築学上価値の高いものとなっています。
青い文字で書かれている仏殿の扁額には「弐世佛」・・・ではなく、漢数字「弐」の下の二のところを三にした「三世佛」と書かれています。三世というのは「過去」「現在」「未来」のことです。
仏殿内にある仏像5体はいずれも木造で、同じく掃雲院が造らせたものです。胎内銘札によると、こちらは父直孝の菩提を弔うためになるようです。
仏像の製作者は洛陽仏工師祥雲。目黒不動近くにある五百羅漢寺の像を彫った人としても有名です。
普段は窓越しにしか見ることが出来ませんが、正月訪れたときは扉が開けられていて中を伺いやすくなっていました。と言っても堂内は暗い上に広いので、気持ち程度しか見えませんでしたが・・・。
山門を入って左手には立派な三重の塔があります。この塔は平成18年(2006年)5月14日に落慶と、比較的最近に造られたものです。まだ木の新しさが残り、境内の中ではまだちょっと浮いた感じの存在です。
この塔の特徴としては一階部の屋根の下あたりに、一つの面に三個づつ、十二支の彫り物が飾られている事です。真北を向いた面の真ん中のところから、時計回りに鼠、牛、寅、兎・・・・となっています。
更に塔には驚くべき秘密が隠されて・・・、というのは大袈裟ですが、豪徳寺らしいユーモアあふれる細工がしてあり、所々に猫の彫り物がさりげなく施されています。特に干支のネズミのところは必見です。是非探してみてください。
ちなみに三重の塔とか、五重の塔はどういった意味を持つ建物か知っていますか。ちょっとうんちくを書くと、こういった塔はお釈迦様のお墓になります。
といっても塔自体はそこまで意味もなく、一番てっぺんの棒部分がお墓の部分で、残りは簡単に書くなら飾りとなります。東南アジアでよく見られる円錐形のパゴダも同じです。
そのため一番下の階のみ御霊が降りてくる場所として祭壇が設けられていますが、残りの階の部分は階ごとに部屋が造られているわけではなく、骨組みだけの空洞となっているのが一般的です。
境内入って右側に鐘楼があります。鐘楼付近には銀杏やモミジが植えられているので、紅葉の時期は日本の秋といったとてもいい雰囲気になります。
鐘楼に吊り下げられている梵鐘は延宝七年(1679年)に製造された由緒ある鐘で、区指定の文化財に指定されています。
区内に伝わる鐘としては一番古いとされ、その形は細身で均整が取れていて、工芸品としてもなかなかのものだそうです。制作者が江戸の名のある鋳物師だったというから納得です。
また世田谷代官の大場氏が幹事となって製作をしているのも興味深いところです。
仏殿の北側に法堂(本堂)があります。豪徳寺の敷地内の建物は禅宗伽藍配置の基本通りに、手前から山門、仏殿、法堂(本堂)と一直線上に建てられています。
木製で古い山門や仏殿に対して法堂は昭和42年に鉄筋コンクリート造りに改築されたので、観光客にはあまり面白味がないようで素通りしていく人が多いです。
ただ近年では仏殿と法堂が分かれている寺が少なくなってきているので、世田谷区内でこういった贅沢な配置になっていること自体が貴重ともいえます。
普段は非公開になっていますが、本堂の更に裏側には開祖堂があります。開祖堂には曹洞宗の高祖道元禅師のほかに木造釈迦如来坐像、木造阿弥陀如来坐像、歴代の豪徳寺住職の像が納められています。
また大名井伊家の菩提寺だったことから、中興開基を行った井伊直孝公をはじめ、井伊家の像も収められています。興味があれば初詣を兼ねて正月の三が日などに訪れてみてください。
境内の右奥にあるのが庫裡(社務所)などです。南側にある玄関部は寺とは思えないほど立派な造りをしています。これは千葉の佐倉藩藩主堀田家で使われていた大名屋敷の玄関を移築したものです。
堀田家は順天堂大学の創始者であり、医学の分野で多大な貢献をしたという家柄です。現在も佐倉では旧堀田家の家屋は一般に公開されています。
この他、一般には公開されていませんが、井伊家から忠臣遠城謙道謙道に贈られた直弼遺愛の茶屋「種月庵」も移築されているようです。
現在のものは再建されたものですが、東京では名が知られる存在のようです。この茶室は社務所の裏にあるようで、残念ながら外からは見えません。
社務所の前にはたまにゃんの置物が置いてあり、おいでおいでと手招きしています。社務所内では招福の招き猫やお守り等を購入することができます。
区内には豪徳寺と同じ曹洞宗で有名なものがあります。それは駒澤大学です。駒澤大学は他所から移転してきたので直接的には関係ありませんが、以前に同じ宗派からか仏教学部に通う生徒が寄宿していると聞きました。
休日に若い僧が社務室で招き猫を売っている姿を見るとそうかなと思ってしまうのですが、どうなのでしょう。
* 招き猫と招福堂 *
三重の塔の北側、仏殿の西側に招福堂があります。小さなお堂には「招福観音」が祀られていて、「家内安全」「商売繁盛」「心願成就」というご利益があるそうです。
ここが招き猫で名が知れる豪徳寺の由縁となる場所で、堂の前にある絵馬掛けにかけられているのは、絵馬ならぬ絵猫。そして堂の横の奉納所には多数の招き猫が返納されています。
なぜ豪徳寺に招き猫?といった疑問や興味がわいてくるかと思います。
それはこの寺に伝わる招き猫伝説によるものです。
色々な説があるようですが、一般的なものを簡単に書くと、世田谷吉良氏の滅亡後、世田谷城が廃城となり、城内にあった豪徳寺(当時は弘徳院)はどんどんと廃れ、貧乏寺になってしまいました。
その一方、世の中は江戸時代となり、江戸(東京)は日本の中心地としてどんどんと整備され、発展していました。
そんな不景気真っ最中の住職が我が子のように可愛がっていた猫に「私の恩がわかるならば、何か果報を将来せよ。」と無茶な注文を言いました。
その数ヶ月後の夏、鷹狩の帰りの武士達が寺の前を通りかかると、山門の前で「おいで、おいで」と手招きする猫がいました。
なんだろうと不審に思った武士は休憩がてら寺に寄ってみることにしました。
そして住職が渋茶をもてなしていると、急に空が曇りだし、激しい雷雨が降ってきました。
もし寺に寄っていなければ大変な事になっていたところだ。これも猫が招き入れてくれたおかげだ。と武士はこの幸運を喜びました。
この武士が彦根藩の二代目藩主井伊直孝公であり、福を招く猫がいるこの寺を東京における井伊家の菩提寺とすることに決めました。
その後、井伊家の財力によって寺の境内が整えられ、名も豪徳寺と改め、井伊家の菩提寺として栄えていくことになります。
猫が他界したのち、住職はこの猫の墓を建て、後世にこの猫の姿を招福猫児(まねぎねこ)と称えて崇め奉るようになりました。・・・といった話です。
そういえば、「猫が顔を洗うと雨になる」という迷信がありますが、その仕草も招き猫のような感じですね。迷信通りなら降るべくして雨が降ったという事なのでしょうか。
案外「招き猫」と「猫が顔を洗うと雨になる」という迷信は同じ根源かもしれませんね。
豪徳寺では禅寺らしく真っ白でシンプルな招き猫が社務所で売られています。
この招き猫を家の玄関などに置いて福を家に呼び込んだり、玄関に置かなくても願をかけるだけでもいいそうです。
そしてご利益があったり、願いが成就したり、一年ぐらいたったらお寺に返納します。そうすることで更にご利益が得られるとのことです。
一くくりに招き猫と言っても、様々な種類の招き猫があるというのはご存知でしょうか。
白や黒、金色など毛の色によって御利益が違ったり、右手を挙げていると金運アップ、左手を挙げていると人を呼び込むとといった違いがあるそうです。
招き猫の専門のサイトやマニアックなサイトも数多くあり、調べていて招き猫の奥の深さにちょっと驚いてしまいました。
ここ豪徳寺の招き猫は色が白いことから全般的な福を招き、右手を挙げていることから金運アップといった効果があるようです。
一般的には右手を挙げた金運アップの招き猫は小判を持っていることが多いのですが、ここはあくまでも禅寺なのでちょっと控えめに金運アップも含めて・・・といった感じでしょうか。
招福堂の横に招き猫の奉納所があるのですが、見てビックリ、カオス状態です。まるで大勢の猫が決起集会を開いているようです。
訪れる時期によって数が多かったり、少なかったりしますが、かなりの数の招き猫が置かれているので、初めて訪れた人は「なんじゃこれ~」「わぁ~すご~い~」などと思わず声が出てしまうことでしょう。
達磨などと同じ縁起物なので、地元の人は初詣に返納して新しいのを買って帰るパターンが多く、以前は正月頃が一番奉納所が賑わっていたように思うのですが、最近は有名になり過ぎて、いつでも多いような感じです。
大量にたまって置くスペースが少なくなったらバッサリと処分していたのを、いつ訪れても参拝者が楽しめるようにとお寺側が配慮しているようです。
奉納所に置かれているのは豪徳寺の白い招き猫がほとんどなのですが、よく見ると変わった招き猫がさりげなく混ざっていたりします。
高価そうな陶器製のものだったり、キティーちゃんのぬいぐるみだったりと、居心地が悪そうにしている様子に思わず笑みがもれてしまうこともあります。
豪徳寺の社務室の前には白い招き猫が描かれているプレートが設置されています。招き猫の豪徳寺らしいオブジェで、時々観光客の人が楽しそうに写真を撮っていたりしています。
この白い猫の名前は「たまにゃん」です。名付けられた理由は探しても見つかりませんでしたが、サザエさんの飼い猫も「たま」だし、多摩川、玉電とたまと付く名が世田谷には多いので、その名前にも納得でしょうか。
招き猫伝説は元々彦根藩主井伊家に伝わるもの。彦根城にも同じように猫のキャラクターがいて、その名を・・・、有名になりすぎて改めて紹介することもないでしょうが「ひこにゃん」です。こちらも白い猫なのですが、どうやら豪徳寺の招き猫を参考にしたという話です。
近年では豪徳寺を訪れる観光客が増えているし、世田谷線に招き猫電車も走っているし、ぜひ「たまにゃん」には元祖として「ひこにゃん」を越えてもらいたいところです。
* 彦根藩主井伊家墓所 *
五重塔、招福堂を通り過ぎると墓域になりますが・・・、その手前には通る人が必ず立ち止まってしまうような碑が建っています。
無名戦士慰霊記念碑なのですが、とてもインパクトのあるデザインです。おまけに碑から木が生えていたりして、通る人に強烈な残像を残してくれます。
その先には白い石灯篭と六地蔵があり、そこからの一角、・・・いや広大な一角が国指定史跡に指定されている彦根藩主井伊家の墓所になります。
井伊家の墓所は奥の方に豪徳寺開祖の直孝をはじめ、藩主の墓石が並び、その付近に側室、入り口付近や隅っこには井伊家の人間だけではなく、藩にかかわる人の墓が並んでいます。小さな墓石を含めると300基もの墓石があるそうです。
ここに眠っている藩主は2代目直孝、6代目直恒、9代目直禔、10代目直幸、そして都史跡になっている13代目井伊直弼、14代目直憲(明治35年没)と6人です。
その他の藩主は清涼寺(滋賀県彦根市)、永源寺(滋賀県東近江市)に眠っていて、この三カ所の墓所が一括して平成20年、国指定史跡に登録されました。
都内の大名家の墓所をよく知っている人が見ると、あれっ?と感じるかもしれません。
まず墓石が質素です。
多くの大名の墓石は巨大な五輪塔となっていて、さらには門や鳥居が付いていたりと圧倒的な存在感があり、さすがは庶民とは格が違うなといった感じがします。
しかしここの墓は普通の人よりもちょっと大きいぐらいです。真似しようと思えばなんとかできるかなといったぐらいの大きさです。
これは2代目の直孝が唐破風笠付位牌型で墓石を造ったので、後世の人が先代よりも派手なのは・・・ってな感じでそれを真似たからです。
そしてもう一つ、東京都内にある大名墓地でこれだけスカスカな配置なのも珍しいです。地方の墓所のようにえらく広々としています。
多くの大名家は国元の菩提寺が本墓所となり、江戸で死んだ場合や人質として江戸で暮らす正室と子女たちのための墓を江戸に作っていました。
もともとそこまで規模が大きくないというのもありますが、現在では地価の高騰や墓不足などの事情で規模が縮小されたりして、ちょっと窮屈な感じのところが多くなっています。
ここは昔と変わらないままの状態で、いかにも大名の墓所といった貫録のある広々とした感じで残っています。
墓所の一番奥には都史跡に指定されている井伊直弼の墓があります。
井伊直弼は世子(直系の跡継ぎ)が病死したことで井伊家13代目の藩主となり、大老の役にまで上り詰めると、幕末の荒れる世の中で政治を行い、最後は桜田門外の変で暗殺された人物です。
直弼が政治を行った幕末は討幕と国内が荒れていただけではなく、諸外国からの開国の圧力が殊更強い時期でした。
そういった寸断も許さない状況の中で独断で天皇の勅許を待たずに日米修好通商条約の調印を行ったことが多くの反感を受け、更には反発を抑え込もうと安政の大獄という大なたを振るい、吉田松陰などが処刑されました。
世の中を色々と騒がせた結果、直弼は安政七年三月三日に桜田門外の変で脱藩した水戸藩士などに殺されてしまいます。
殺害後、幕府は事の鎮静化を図るためにしばらくその事実を隠しました。墓石に刻まれている命日が「三月二十八日」となっているのもそういった事情です。
近年墓域の修復の際に発掘調査が行われましたが、調査の結果、井伊直弼の墓の下は空っぽだったそうです。
復讐に燃える維新志士や水戸藩士などに掘り返されたりしては大変だと別の場所に埋めたのでしょうか。色々と想像を掻き立てられます。
それにしても・・・、ここ豪徳寺と松陰神社は歩いていける距離です。安政の大獄を行った井伊直弼(彦根藩)と安政の大獄で処刑された吉田松陰(長州藩)が同じ世田谷、しかもそんなに離れていない場所に埋葬されているのも不思議な感じです。
自分の生涯をかけて志を成して死んだ者。自分の生涯をかけて志を成そうとして死んだ者。二人とも日本の未来を思って死んでいった人物です。
命を懸けて自分の信念を貫くといった魅力的な生き方をした人物だからこそ、どちらも多くの人が訪れる聖域となっています。
* 豪徳寺の四季 *
毎年初詣は豪徳寺に。と決めているのは地元の人がほとんどだと思いますが、三が日は境内に売店や甘酒の接待所が出て、正月らしい風景になります。
また仏殿や開祖堂なども開帳されているので、遠方からの参拝客も多いです。
ここ豪徳寺では招き猫は置物だけではありません。招福もなかといった食べられる招き猫も売られています。
特にこれといったものがない世田谷ですが、この招福もなかは区外から来た方に人気の世田谷土産となっています。
豪徳寺には立派なソメイヨシノが植えられているので、春には桜のある美しい境内となります。
山門から仏殿の間に植えられている桜が見事で、特に散り始めたころ、地面がピンク色のコケに覆われているかのような光景になり、得も言われません。
豪徳寺にはソメイヨシノ以外にもしだれ桜が幾つか植えられています。
仏殿前のしだれ桜も味があっていいのですが、仏殿横にある紅枝垂れはとても枝の存在感があり、満開の様子は美しいです。
五月の連休ごろ満開を迎えるのが、藤です。休憩所の前に立派な藤棚があり、足を止めている観光客も多くいます。
5月ごろ、牡丹の花が咲き、社務所の前が華やかになります。
豪徳寺とボタンの関係は分かりませんが、豪徳寺のボタンは有名で、以前は豪徳寺ボタンまつりが行われていました。
5月の第二日曜日には「豪徳寺たまにゃん祭り」が行われます。もともと牡丹祭りとして開催されていたのを2008年から地域や商店街の活性化のために「たまにゃん祭り」と名称を改めたようです。
豪徳寺商店街にはフリーマーケットや出店が出て、よさこいなどの演技も行われます。
特徴的なのは「たまにゃん」にちなんで猫の無料相談所があるところでしょうか。(*今はやっていないかもしれません)
私が通ったときには相談希望の猫がいませんでしたが、どのくらい猫が相談に訪れたのでしょうか。進路相談や家庭の悩みなど相談したのでしょうか。ちょっと気になるところです。
夏の豪徳寺は木々の葉が深い緑になり、木陰を作ってくれます。蝉の声が鳴り響き、お盆のころには線香の香りが漂ってきます。
この時期だけとは限りませんが、招福堂の周辺はコケがとても美しいです。木々の緑、地面のコケ、強烈な太陽の光のコントラストを楽しむことができます。
豪徳寺といえば紅葉。モミジが多く植えられているので、本当に見事な空間になります。
世田谷の紅葉といえば九品仏浄真寺も素晴らしいのですが、個人的には豪徳寺の方が好きです。
2008年には週末に紅葉のライトアップが行われました。闇に浮かぶ三重の塔と紅葉の様子は、ちょっと大袈裟ですが、ここは京都かというぐらい美しいものでした。
このライトアップのイベントは観光ボランティアの人たちが豪徳寺に協力をお願いして行われたもので、あくまでも有志の方と豪徳寺の善意によって行われたものです。
その後行われていないところをみると、訪れた人のマナーがよくなかったのでしょうか。
近年は豪徳寺の知名度が上がり、観光客も多くなってしまったので、ライトアップを行ったら大混雑して大変なことになりそうです。
そう考えると、再びライトアップされることはないかもしれません。
* 感想など *
NHKの大河ドラマで「篤姫」に始まり、「花燃ゆ」「おんな城主 直虎」と井伊直弼や井伊家が取り上げられたので、区外からの観光客が増えました。
更には今では空前の猫ブーム。招き猫の寺、猫の聖地的な存在として猫好きの若い人も多く訪れるようになり、招き猫の数も絶賛増殖中です。
私のとっての豪徳寺は招き猫や井伊直弼公の墓よりも紅葉です。広い空間があるのでモミジにもよく日が当たり、晴れた日にはとても素敵な雰囲気になります。
もちろん紅葉以外にも季節ごとに雰囲気の違いを楽しみたい場所であり、今日は招き猫がどのぐらい手招きして待っているだろうかといった楽しみもある場所です。
せたがや百景No.21 招き猫の豪徳寺
ー 風の旅人 ー
2018年11月改訂