* 世田谷代官屋敷と郷土資料館 *
世田谷代官屋敷の門
普段は閉まっているので、駐車場の方から出入りします。
世田谷線の上町駅と世田谷駅の南側、世田谷通りよりもさらに南側にボロ市通りがあります。通りの名前から想像できるように、冬には世田谷ボロ市が行われます。
現在のボロ市通りは、世田谷通りから一本入った通りなので交通量はさほど多くなく、通り沿いには飲食店などの商店や銀行が並ぶ桜栄会商店街となっています。
この通りの中程、ちょうど世田谷信用金庫本店の前にとても古めかしい立派な門があります。
これは世田谷代官屋敷の門で、この中にある代官屋敷が江戸時代の世田谷の行政の中心でした。
一般に公開されていて、それに付随するような形で世田谷区郷土資料館も建てられています。
この界隈がかつての世田谷の中心だったことから、現在でもこの通り沿いの住所が名誉ある世田谷1丁目となっています。
代官屋敷(裏側)
古民家とあまり変らないたたずまいです。
江戸時代に入って三代将軍家光は2代目彦根藩主井伊直孝に江戸屋敷の賄料として世田谷領の一部と下野国佐野領を与えました。
世田谷領に関しては、最初は15ヵ村、後に20ヵ村となり、およそ二千三百石ほどの生産があったそうです。
領主は彦根藩の井伊家でしたが、実際に統治を行う代官職に命じられ、代々世襲したのが大場家でした。
大場家は桓武平氏の末流である大庭景親の子孫と伝えられています。
大庭影親は一度は源頼朝に戦で勝ったものの、後に頼朝に滅ぼされてしまいます。その後、子孫は三河に逃れ、そこで吉良氏に仕え、吉良氏が東進した際に一緒に世田谷に定住したと言われています。
天正十八年(1590年)の吉良氏没落後は世田谷にとどまって帰農し、寛永十年(1633年)に彦根藩主井伊氏が世田谷領を賜ったときに、代官に命じられ、それ以後230年もの間代官職を勤め続けました。
途中、元文~天明年間を用賀の飯田氏が、天明~文政年間を宇奈根の荒井氏が大場氏と共に政治を行ったようですが、一時的なものだったようです。
桜の時期の代官屋敷
季節の趣を探すのも散策の醍醐味です。
代官職というのは、領内の年貢の取り立てが一番の職務で、その他領内の治安維持などを行います。
時代劇にでてくる代官様は地元の商人とつるんで、「そちも悪だの~」などと言いながら町民から悪どく年貢を取り立てたり、「お代官様~お許し下さい」と言いすがる善良な町民に濡れ衣を着せて投獄したり、美人の娘をあの手この手で自分の妾にしているような悪役が多く、そこへ水戸黄門様が更に大きな権力で「ひかえ~、ひかえ~、この紋所が・・・」といった印象が強いかと思います。
でも実際はそこまでの悪代官はいなかったようです。少しでも悪い評判が立つと罷免させられるからです。
テレビのドラマ設定では悪役が必要だし、勧善懲悪や判官贔屓のストーリーの方が受けがいいので代官がそういう設定として定着してしまったようです。
もちろん大場氏もまっとうな代官だったからこそずっと世襲し、200年以上も続ける事ができたのです。恐らくですが・・・。
代官屋敷の土間
土間まで入れます。さすがに梁や柱の太さが半端ではありません。
この世田谷代官屋敷は大場家の邸宅兼代官所だったようで、地元では大場代官屋敷とも呼ばれていたようです。
屋敷自体は代官の陣屋として建てられたのではなく、この地の名主であった大場家の住宅を役所として改造したもので、代官所としての特徴も見られますが、江戸時代の豪農の邸宅としての特徴の方がよく現れています。
大名領の代官屋敷としては都内唯一のもので、江戸時代中期の上層民家の旧態をよく残した貴重な建造物であることから、昭和27年(1952年)に都史跡に指定され、昭和53年には国の重要文化財の指定を受けました。
白州通用門
裏口といった感じです。罪人を調べた白州跡もそばにあります。
主屋と表門は記録によると元文二年(1737年)と宝暦三年(1753年)に建てられたり、改築されているようです。
昭和42年の修繕の際には、この当時の資料を基に大改修が行われ、当時の状態に復元されました。
ボロ市通りにある表門は質素な茅葺き門です。代官所といえば武家風の門で少なからず武装してといった印象があったのですが、小さな小窓が取り付けられていることぐらいしか武家風といった趣はありません。
世田谷村は東京の外れの田舎だったので、この程度で大丈夫といった感じだったのでしょうか。これを見てしまうと、西澄寺にある武家門がなんと立派に見えてしまいます。
母屋の方は内部を公開されていますが、入れるのは土間までです。実際に中に上がることができないので何ともいえませんが、大きな古民家といった感じで、次大堀公園民家園の建物とあまり変わらないような・・・といった感想になるかと思います。
建物の詳細は、茅葺きの寄棟造、建築面積は約230㎡。内部は役所、代官の居間、名主の詰め所、切腹の間などがあります。
庭にある白州跡というのは罪人を取り調べた場所になります。
世田谷区立郷土資料館
入場無料なのでお気軽にどうぞ。
代官屋敷の奥には世田谷区立郷土資料館があります。区政30周年の記念事業の一環として、また「世田谷区史」編纂を契機として、区内資料の収集・保存と公開を目的として昭和39年(1964年)に開館したものです。
二千数百点の古文書があり、うち1366点は代官職を勤めた大場家の書簡等です。この大場家文書は都の有形文化財に指定されているほど貴重な資料となっています。
展示としては場所柄、ボロ市関係が充実しています。その他は野毛町公園の野毛大塚古墳や吉良氏に関する事、近代では玉電に関することなど幅広く展示してあります。
特に縄文時代から古墳時代までの展示が充実していて、資料から世田谷は意外に古墳や貝塚が多いというのが新たな発見でした。昔から住みやすい地域だったのですね。
代官屋敷共々入場料は無料ですし、ボロ市の開催時にも時間を延長して開館しているので、是非訪れてみてください。
ちなみに普段は代官屋敷の門は開いていません。行事の時だけ門から入ることができますが、普段は隣の駐車場から入るようになっています。
* 世田谷ボロ市について *
ボロ市のマスコット?
2008年には大きな招き猫がいました。
代官屋敷前の通りに多くの店が並ぶ世田谷ボロ市。近年では東京の山の手の冬の風物詩としてニュースで取り上げられることも多くなりました。
地方に住む友人から「ニュースで見たけど、ボロ市っていうのがやっているんだってね」と連絡がきたので、全国的に知名度も上がっているような感じです。
ボロ市が開かれるのは年に4日で、曜日に関係なく毎年12月15、16日と1月15、16日です。
毎年開催期間中には700近くの露店が軒を連ね、一日20~30万人の人で賑わうというから集客の多さにも驚きます。
特に週末と重なったときの混み具合はアメ横並みです。身動きが取れなくなることもあります。
それだけの人を路面電車仕様の世田谷線で普通にさばけるはずもなく、期間中には4分半ごとに一本の臨戦状態で運行されます。
それでも最寄り駅世田谷駅、上町駅は大混雑し、なかなか電車に乗れません。
ボロ市の様子1
1月の開催では神具を扱うお店があります。
ボロの起源は北条氏政が世田谷新宿で天正六年(1578年)に楽市(市場税を免除した特別な市)として認めた六斎市が始まりだと言われています。
六齋市は1と6が付く日に行われる市のことで、一か月に6回開かれていました。
しかし北条氏が滅び、世田谷城も廃城となり、六斎市の開催もなくなりました。
更には江戸時代になると、江戸を中心に東海道と甲州街道が整備され、狭間となってしまったこの地域は廃れていき、市の開催が年1回だけ12月15日に行われる歳市(としのいち)だけとなってしまいました。
歳の市と名が付きながらも農業が盛んな世田谷地域だったので、正月を迎える為の市というよりは年に一度の農耕具や古着を売買する貴重な市となっていたようです。
明治になって太陽暦が用いられると、新しく正月に当たる1月にも市が開かれるようになり、年2回の開催となりました。そのうち翌16日も開催されるようになり、現在のスタイルである年4日の開催となりました。
ボロ市の様子2
高そうに見えるのですが、人が多いので落ちたら・・・と考えると、
実は安物なのか・・・と思ってしまうのは私だけでしょうか。
なぜボロ市というのでしょうか。それは農家の作業着のつくろいや、わらじになえこむボロが安く売られていて、それが市の目玉的存在で、いつとなしにボロ市の名が生まれたようです。
とりわけ草鞋(わらじ)をボロと一緒になう(編み込む)と何倍も丈夫になるというので、民は争って買ったようです。
これぞボロ儲け!(*ボロ儲けは「ぼろい儲け」の言葉で全く関連はありません)
明治中頃にはボロ専門の店が十数件もあり、午前中にはほとんど売切れになったほどの盛況ぶりだったとか。この時期にボロ市の名前が世間一般的に確立したようです。
現在では骨董品の店が多く並び、ボロ市=ガラクタ市といった勘違いしてしまいやすいですが、ボロ市のボロの由来はちゃんとボロにあるのです。
ボロ市保存会によるボロの展示
ボロ市保存会による展示です。いわゆるこれがボロで、ボロ市の起源です。
なぜ世田谷でボロなのか。
昔の世田谷は農地や雑木林ばかりで、あまり豊かな土地ではありませんでした。
多くの農家にとって農閑期に行うボロを使ってのわらじ作りなどは、大切な現金収入の副業となっていたのです。
関東大震災以降は世田谷は急激に都市化、住宅地化されていきました。
農家や農地が減り、草鞋を履く人も少なくなり、昭和十二、三年頃には、市でボロを売る店はほぼなくなりました。
今ではボロ市らしさを再現しようといった試みもあり、保存会の方が製作したボロを編み込んだ草履が本部付近に並べられています。
ちょっと今風でお洒落過ぎる気もしますが、かつてはこういったものがボロ市に並んでいたのかなと想像することができます。
ボロ市の様子3
多くの人が訪れ、賑わいます。
世田谷から農家が減り、ボロが売られなくなることで、ボロ市の存在意義が・・・、活況が・・・、といった心配はありませんでした。
人が増えたことで逆に市の活気は増し、出店数は多いときは二千店にもなったそうです。
単なる市というよりも縁日的な娯楽の対象となっていき、見世物小屋や芝居小屋まで建てられる年もありました。
近年では交通規制などの事情により場所がせばめられたので、出店数は六、七百店に減りました。
売られているものもどこにでもあるような食品や雑貨がほとんどです。そういった店の中に骨董品やリサイクルの店が多く並んでいるところが、他とは違ってボロ市らしいかなといった感じです。
今の東京ではこういった市で重たい農具などを買う人はまずいなく、日常的にフリーマーケットも多く行われているし、通信販売やネットオークションも盛況なので、こういった場所で買うものも限られているかなといった気がします。
ボロ市の様子4
ここの店主は毎年雰囲気のある展示をしています。
ボロ市の開催時間は午前9時から午後9時までとなっています。
といっても朝早くから営業している店もあれば、骨董品店などは暗くなったら商品を片付けている店も多いです。
どちらかというと昼間は観光客が多く、夕方前ぐらいから地元の人が多くなるといった感じでしょうか。
地元の人はそうそう骨董品なんて買わないし、掘り出し物を探しに来る人は早い時間帯に来るだろうし、古美術や骨董関係の店が早々にたたんでしまうのも納得です。
12月と1月に開催されていますが、店によっては12月の市では正月用品が売られ、1月の市では縁起物などが売られていて微妙ですが雰囲気が違います。
でも全体から見ると風情を感じるような店は少数なので、大きな違いは感じられません。
ボロ市の様子5
多くの人が訪れ、賑わいます。
最近のボロ市は何でもありといった雰囲気です。フリーマーケットと歳の市が混じったような感じでしょうか。売られているものも骨董品からアジアン雑貨まで多種多様です。
特に近年はアジア雑貨を売る店が増えたなといった感じを受けます。ペット関係の店も多くなりました。
出店で一番多いのは食品関係の店です。行列ができているのも食品関係の出店ばかりです。
祭りの縁日的な感じで、おいしそうとか、家族に買って帰ると喜びそうとか、手軽に衝動的に買ってしまうものがよく売れている感じです。
とりわけ代官餅はボロ市名物とも呼べる商品になりつつあるようで、毎回大行列ができています。
代官餅は本部のある世田谷信用金庫の裏側で売られています。「きなこ、あんこ、からみ」の三種類が各600円で、その場で蒸して造っているので温かく、またボリュームもある事から人気となっているようです。
私自身昼間は混んでいるし、夜市の雰囲気が好きなので夕方以降に訪れることが多いのですが、必ず売り切れていて、私の中では幻の代官餅となっています。
* 代官見廻り行列と地域風景資産について *
ボロ市の代官見廻り行列
何年かに一回、特別なときに行われます。
代官行列の様子
鉄砲隊から農民まで様々です
何周年記念とかいった記念年の15日には代官行列が行われます。これは当時の代官による見回りを再現したもので、当時を模した衣装を身につけてボロ市を練り歩きます。
行列の先頭を努めるのは地元の小学校と中学校の音楽隊で、その後から大人の代官行列が続きます。私が訪れたときは代官様役は代官の直系である大場家の人が行っていました。
この行列・・・、高張り提灯に露払い、代官様にその従者、鉄砲隊やら農民といまいち統一感がありません。やはり代官様なので、宿場町などで行っている大名行列とは格が違うようです。
店のシャッターに描かれた代官行列
幾つかのお店でこういった絵を見ることができます。
また、「せたがやボロ市が開催される大山道」としてせたがや地域風景資産にも指定されています。
管理団体の活動の一環として、通りの商店のシャッ ターに昔の街道風景を描いた絵を「シャッター絵巻」として貼付けていて、ボロ市が開催されていないときに訪れてもボロ市の雰囲気や代官の見廻り行列を・・・とまではいかないにしても、ボロ市通りを通っているんだなと感じてもらえるような活動を行っています。
* ホタル祭りとサギ草市 *
オープニングの太鼓演奏
ボロ市と同じように代官屋敷の門の前で行われます。
ホタルが公開されるホタルドーム
代官屋敷の中に設置され、暗くなってから公開されます。
さぎ草と植木市
さぎ草以外にも多くの植木が売られています。
夏のイベントになりますが、ボロ市通りや代官屋敷、そして天祖神社前の広場でホタル祭りとサギ草市が開かれます。
妙な組み合わせですが、世田谷の花は鷺草伝説にちなんでさぎ草。夏に咲く花です。ホタルの方は・・・、昔は農村地帯だったので至る所にたくさんいたのでしょう。
夜の通りの様子
夏祭りといった感じでにぎわいます。
盆踊りの様子
地元の婦人会の方を中心に多くの人が踊りを楽しんでいました。
ホタル祭りとサギ草市では天祖神社前の広場に食べ物などの屋台が並び、鷺草などが売られる植木市もたちます。
そして広場の真ん中には櫓が組まれ盆踊りが行われ、婦人会の方を中心に盆踊りの大きな輪ができます。
代官屋敷では暗くなると設置されたホタルドーム内や籠などに入れられたホタルが公開されます。過大な期待を込めて訪れるよりも、ホタルが光っているのを見れるといったぐらいの気持ちで訪れるのがいいかと思います。
今の世田谷では見ることのできないホタルが見れ、盆踊りも楽しめるので子供達には大盛況で、時間によってはかなり混み合うイベントとなっています。
* 感想など *
ボロ市の提灯
提灯が並ぶ様子がよかったので。
世田谷の冬の風物詩ボロ市。世田谷では数少ない古くから続く伝統的な行事であり、世田谷自慢の賑やかな市です。
今ではその名が広く知られるようになり、区外からも多くの人が訪れるようになりました。ボロ市の名前からして覚えやすく、また親近感があっていいですね。ずっと世田谷で親しまれてきたのもその親しみやすい名前だったからかもしれません。
周辺には豪徳寺や松陰神社、吉良家の墓所のある宮ノ坂勝光院など見どころも多いので、ぜひボロ市に合わせて世田谷散策を楽しんでみてください。
せたがや百景No.23 ボロ市と代官屋敷
ー 風の旅人 ー
2018年11月改訂