ボロ市と代官屋敷
せたがや地域風景資産 #2-18せたがやボロ市が開催される大山道
世田谷1-29-18(代官屋敷)ボロ市通りには毎年12月と1月の中旬にボロ市が立つ。北条氏の楽市を起源に持つこのボロ市は、四百年の伝統を持ち、今も賑わいを見せている。通りの中ほどには茅葺の武家屋敷門の代官屋敷がある。これは江戸時代の中ごろ、初代の代官に任ぜられて以来、代官を勤めた大場家の屋敷が残されたものだ。敷地内には世田谷区立郷土資料館もある。(せたがや百景公式紹介文の引用)
1、世田谷代官屋敷と郷土資料館

*国土地理院地図を書き込んで使用
世田谷線の上町駅と世田谷駅のすぐ南側を世田谷通りが通っています。その一つ南側の筋がボロ市通りになります。通りの名前から想像できるように、冬にはこの通りが封鎖され、世田谷ボロ市が開催されます。

*国土地理院地図を書き込んで使用
このボロ市通りは、古い時代の主要道路、大山道や登戸道(津久井往還)が交わる交通の要所であり、世田谷の中心部になっていました。
現在、ボロ市通りとなっているのは、かつての上宿だった部分になります。宿は枡形になっていて、東側の突き当りから世田谷道りにかけての短い区間が、横宿。再び折れ曲がった先が下宿。ここは現在の世田谷通りと重なります。
かつてのボロ市通りは交通量が多かったようですが、戦後にボロ市通りを避けるように世田谷通りが整備されたので、現在ではあまり交通量は多くありません。

普段はのんびりとした感じの通りです。
現在のボロ市通りには飲食店などの商店や銀行が並んでいて、桜栄会商店街を形成しています。商店街というと、駅前のごちゃごちゃした商店街が思い浮かびますが、ここは道幅が広いのもあり、ガチャガチャした感じではなく、商店が淡々と並んでいるといった感じです。
ボロ市開催時の混雑や賑やかさしか知らないで訪れたなら、あまりの人通りの少なさ、そして閑散とした様子に驚くことでしょう。そう、ボロ市の時が異常で、普段はとても静かな感じの通りなのです。

茅葺屋根の門です。
ボロ市通りの中程、ちょうど世田谷信用金庫本店の前に、茅葺のとても古めかしい立派な門があります。これは世田谷代官屋敷の門で、この中にある代官屋敷が江戸時代の世田谷の行政の中心となっていました。
現在、代官屋敷は一般に公開されていて、それに付随するような形で世田谷区郷土資料館も設置されています。通常時は、この代官屋敷の門は閉ざされていて、駐車場の方から出入りするようになっています。初めて訪れると、あれ、今日は休館日なの・・・と戸惑ってしまうかもしれません。
ちなみに、かつては代官屋敷を中心としたこの界隈が世田谷の中心だったことから、この通り沿いの住所は名誉ある世田谷1丁目となっています。

石垣が整えられているように見えますが、土塁の簡素な城でした。
少し時代をさかのぼって歴史的な話をすると、室町、戦国時代の世田谷は、世田谷城を居城とする吉良氏が支配していました。この吉良氏は室町幕府を開いた足利家の分家という家柄。源氏の血を引く家柄や、時の権力者の血筋ということで、他の勢力からも一目置かれる存在でした。
しかし、戦国乱世になると、足利家は没落し、室町幕府も形骸化。下剋上の風潮も強まり、家柄はよくても、戦力的には実力のなかった吉良氏は、事実上、関東を支配する小田原北条氏の傘下に組み込まれました。
その小田原北条氏は、豊臣秀吉の小田原城攻めで滅亡。その際、吉良氏は城を開け渡し、世田谷から離れました。
江戸時代になると、三代将軍家光は2代目彦根藩主井伊直孝に江戸屋敷の賄料として、世田谷領の一部と下野国佐野領を与えました。世田谷領は、最初は15ヵ村、後に20ヵ村となり、およそ二千三百石ほどの生産があったそうです。
新たな領主として彦根藩の井伊家を迎えることになりますが、井伊家の拠点はあくまでも滋賀県の彦根。東京(江戸)でも江戸城に近い江戸屋敷(永田町)で生活していたので、井伊家が世田谷に居を構え、統治することはありませんでした。

古民家とあまり変らないたたずまいです。
世田谷領の統治を任されたのは、この土地の有力者であった大場氏。代官職に命じられ、代々世襲しながら世田谷の統治を行いました。
この大場氏は、吉良氏の重臣だった家柄で、桓武平氏の末流である大庭景親の子孫と伝えられています。大庭影親というのは、石橋山の戦いで源頼朝に勝利するものの、後に安房で再興した頼朝に滅ぼされたという名のある武将です。
その子孫は三河に逃れ、後に吉良氏に仕え、以降、代々吉良氏に仕え、吉良氏とともに世田谷に定住したとされていますが、事実関係ははっきりとはしていません。
天正十八年(1590年)の吉良氏没落後は、世田谷にとどまって帰農し、寛永十年(1633年)に彦根藩主井伊氏が世田谷領を賜ったときに、代官に命じられ、それ以後230年もの間代官職を勤めました。
途中、元文~天明年間を用賀の飯田氏が、天明~文政年間を宇奈根の荒井氏が大場氏と共に政治を行ったようですが、一時的なものでした。

季節の趣を探すのも散策の醍醐味です。
代官職というのは、領内の年貢の取り立てが一番の職務で、あとは領内の治安維持などを行います。
時代劇にでてくる代官様といえば、地元のあくどい商人とつるんで、「越後屋、そちも悪だの~」などと言いながら町民から悪どく年貢を取り立てたり、「お代官様~お許し下さい」と言いすがる善良な町民に濡れ衣を着せて投獄したり、美人の町娘をあの手この手で自分の妾にしているような悪役が多いです。
そして、水戸黄門などの権力者が現れ、更に大きな権力を振りかざし、「ひかえ~、ひかえ~、この紋所が・・・」といった場面がすぐに思い浮かぶことかと思います。
代官、イコール、悪いやつ。そういった印象が強いかと思いますが、実際はそこまでの悪代官はいなかったようです。少しでも悪い評判が立つと罷免させられるからです。
テレビのドラマ設定では悪役が必要だし、勧善懲悪や判官贔屓のストーリーの方が受けがいいので、代官がそういう設定として定着してしまったようです。
大場氏もまっとうな代官だったからこそ、ずっと世襲し、200年以上も続ける事ができたと言えます。とはいえ、なかには使い込みをし、罷免になってしまった方もいたようですが・・・。

土間まで入れます。さすがに梁や柱の太さが半端ではありません。
この世田谷代官屋敷は、大場家の邸宅兼代官所になっていました。なので、地元では大場代官屋敷とも呼ばれていたようです。
建物は、代官の陣屋として建てられたのではなく、この地の名主であった大場家の住宅を役所として改造したもので、代官所としての特徴も見られますが、江戸時代の豪農の邸宅としての特徴の方がより強く表れています。
大名領の代官屋敷としては都内唯一のもので、江戸時代中期の上層民家の旧態をよく残した貴重な建造物であることから、昭和27年(1952年)に都史跡に指定され、昭和53年には国の重要文化財の指定を受けました。

裏口といった感じです。罪人を調べた白州跡もそばにあります。
主屋と表門は、記録によると元文二年(1737年)と宝暦三年(1753年)に建てられたり、改築されているようです。
昭和42年の修繕の際には、この当時の資料を基に大改修が行われ、当時の状態に復元されました。
ボロ市通りにある表門は、質素な茅葺き門です。代官所なので、防御のしやすい武家風の門がふさわしく感じますが、小さな小窓が取り付けられていることぐらいしか武家風の趣はありません。
世田谷村は東京の外れの田舎だったので、この程度で大丈夫といった感じだったのでしょうか。これを見てしまうと、西澄寺にある武家門がとても立派に見えてしまいます。
母屋の方は開館時間内なら内部に入ることができますが、入れるのは土間までです。実際に中に上がることができないので何ともいえませんが、広く、天井の高い土間以外は大きな古民家といった感じで、次大堀公園民家園の建物とあまり変わらないような・・・といった感想になるかと思います。
建物の詳細は、茅葺きの寄棟造、建築面積は約230㎡。内部は役所、代官の居間、名主の詰め所、切腹の間などがあります。また、庭にある白州跡というのは罪人を取り調べた場所になります。

入場無料なので、気軽に入ることができます。
代官屋敷の奥には世田谷区立郷土資料館があります。昭和39年(1964年)に区政30周年の記念事業の一環として、また「世田谷区史」編纂を契機に区内資料の収集・保存と公開を目的として開館しました。代官屋敷共々入場料は無料ですし、ボロ市の開催時には時間を延長して開館しているので、是非訪れてみてください。
展示の目玉は、二千数百点の古文書となり、うち1366点は代官職を勤めた大場家の書簡等になります。この大場家文書は都の有形文化財に指定されているほど貴重な資料です。とはいえ、普通の人が見てもあまり面白くはないでしょうが・・・。
一般的な展示としては、場所柄、ボロ市関係が充実しています。その他では、野毛町公園の野毛大塚古墳や、室町・戦国時代に世田谷を統治していた吉良氏に関する事、近代では玉電に関することなど幅広く展示してあります。
意外かもしれませんが、縄文時代から古墳時代までの展示が充実しています。初めて訪れたなら、世田谷には古墳や貝塚が多いというのが新たな発見になるかもしれません。
きっと昔から住みやすい地域だったのでしょう。ただ、大きな遺跡は少なく、また地価の高い住宅地であることから、記録保存といった感じで、多くの遺跡が発掘調査後に宅地になっています。
ちなみに、宇奈根にも小さな宇奈根考古資料室があり、こちらでは時々考古学の企画展を行っています。
2、世田谷ボロ市について

2008年には大きな招き猫がいました。
世田谷ボロ市。近年では東京の山の手の冬の風物詩としてニュースで取り上げられることも多くなりました。
地方に住む友人から「ニュースで見たけど、世田谷ではボロ市っていうのをやっているんだってね・・・」と連絡がきたので、全国的に知名度も上がっているような感じです。
ボロ市が開かれるのは、年に4日間。曜日に関係なく毎年12月15、16日と、1月15、16日です。
毎年開催期間中には、代官屋敷前のボロ市通りを中心に700近くの露店が軒を連ね、一日20~30万人の人で賑わいます。特に週末と重なったときの混み具合はアメ横並みで、身動きが取れなくなることもあります。
最寄り駅となっているのは、路面電車仕様の世田谷線の世田谷駅と上町駅。小田急線なら豪徳寺駅から1.6km。田園都市線なら桜新町駅から1.5km、駒澤大学駅から1.8kmと、普通の鉄道駅からは離れています。
これだけ多くの人を2両編成の路面電車でスムーズにさばけるはずもなく、期間中には4分半ごとに一本という朝ラッシュ時並みの臨戦状態で運行されます。
それでも両駅は大混雑し、なかなか電車に乗ることができない状態になります。急がば回れではないですが、高井戸方面に向かうなら世田谷駅を、三軒茶屋方面に向かうなら上町駅を利用する方が、早く電車に乗れるのではないでしょうか。

1月の開催では神具を扱うお店があります。
ボロ市の起源は、北条氏政が世田谷新宿で天正六年(1578年)に楽市(市場税を免除した特別な市)として認めた六斎市が始まりだと言われています。
あれ、世田谷は吉良氏が治めていたんじゃなかったの?ってことになりますが、この時の吉良家当主は、北条から養子として迎えられた吉良氏朝です。もはや北条の一部といった状態だったのです。
で、この六齋市というのは、1と6が付く日に開催される市のことで、一か月に6回開かれていました。
しかし、1590年に北条氏が滅び、世田谷を治めていた吉良氏は世田谷を追放され、世田谷城は廃城となりました。それに伴い、六斎市の開催はなくなりました。
江戸時代になると、江戸を中心に東海道と甲州街道が整備され、狭間となってしまったこの地域は廃れていき、市の開催が年1回、12月15日に行われる歳市(としのいち)だけになりました。
農業が盛んな世田谷地域だったので、歳の市と名が付きながらも、正月を迎える為の市というよりは、年に一度の農耕具や古着を売買する貴重な市となっていたようです。
明治になって太陽暦が用いられると、新しく正月に当たる1月にも市が開かれるようになり、年2回の開催となりました。大正期になると、世田谷の人口が増加していき、市に活気が出て来るようになりました。そのうち翌16日も開催されるようになり、現在のスタイルである年4日の開催となりました。

高そうに見えるのですが、人が多いので落ちたら・・・と考えると、
実は安物なのか・・・と思ってしまうのは私だけでしょうか。
なぜボロ市というのでしょうか。現在のボロ市では骨董品の店が多く並び、ボロ市=ガラクタ市といった勘違いしてしまいやすいですが、ボロ市の由来はちゃんとボロにあったりします。
それは農家の作業着のつくろいや、わらじになえこむボロが安く売られていて、それが市の目玉的存在となっていたからで、いつとなしにボロ市の名が生まれたようです。
とりわけ草鞋(わらじ)をボロと一緒になう(編み込む)と、何倍も丈夫になるというので、民は争って買ったようです。これぞボロ儲け!・・・というのは、言葉の意味が違い、ボロ儲けは「ぼろい儲け」の言葉で全く関連はありませんでした・・・。
明治中頃にはボロ専門の店が十数件もあり、午前中にはほとんど売切れになったほどの盛況ぶりだったとか。この時期にボロ市の名前が世間一般的に確立したようです。とはいえ、正式にボロ市という名称になったのは、戦後のことのようですが。

ボロ市保存会による展示です。いわゆるこれがボロで、ボロ市の起源です。
なぜ世田谷でボロが盛んに造られていたのか。昔の世田谷は農地や雑木林ばかりで、あまり豊かな土地ではありませんでした。多くの農家にとって農閑期は大事な副業の機会。ボロを使ってのわらじ作りなどは、大切な現金収入となっていました。
関東大震災以降は世田谷は急激に都市化、住宅地化されていきました。農家や農地が減り、草鞋を履く人も少なくなり、昭和十二、三年頃には、市でボロを売る店はほぼなくなりました。
今ではボロ市らしさを再現しようといった試みもあり、保存会の方が製作したボロを編み込んだ草履が本部付近に並べられています。
ちょっと今風でお洒落過ぎる気もしますが、かつてはこういったものがボロ市に並んでいたのかなと想像することができます。

多くの人が訪れ、賑わいます。
世田谷から農家が減り、ボロが売られなくなることで、ボロ市の存在意義が・・・、活況が・・・、といった心配はありませんでした。
宅地化が進んだことにより人口が増え、逆に市の活気は増しました。多いときは二千もの出店が並んだそうです。もはや単なる市ではなくなり、縁日的な娯楽の対象となり、見世物小屋や芝居小屋まで建てられることもありました。
かつては世田谷通りを通行止めにするほどの規模で開催されていましたが、近年では交通規制が難しくなり、場所がせばめられたので、出店数は昔ほどではありませんが、それでも多くの店が並び、また、区外の人にも認知が進み、多くの人が訪れています。
売られているものは、率直に言うならどこにでもあるような食品や雑貨がほとんどです。そういった店の中に骨董品やリサイクルの店が多く並んでいるところが、他とは違ってボロ市らしいかなといった感じです。
まあ、普通に考えるなら、今の東京ではこういった路上マーケットで重たい農具やら、大きな古道具などを買う人はまずいなく、日常的にフリーマーケットも多く行われているし、通信販売やネットオークションも盛況です。
あわよくばいい品がが見つかればいいかな・・・といった感じで、雰囲気を楽しむことを第一目的で訪れる人がほとんどでしょうか。

ここの店主は毎年雰囲気のある展示をしています。
ボロ市の開催時間は、午前9時から午後9時までとなっています。といっても、朝早くから営業している店もあれば、骨董品店などは暗くなったら商品を片付けている店も多いです。
ボロ市を訪れる人は、昼間は観光客が多く、夕方前ぐらいから地元の人が多くなるといった感じです。地元の人はそうそう骨董品なんて買わないし、掘り出し物を探しに来る人は早い時間帯に来るだろうし、古美術や骨董関係の店が早々にたたんでしまうのも納得でしょうか。
12月と1月に開催されていますが、店によっては12月の市では正月用品が売っていて、1月の市では縁起物などが売っていたりと、微妙ですが雰囲気が違います。
でも、全体的には風情を感じるような店は少数だし、季節的にも同じ冬だし、12月と1月で大きな違いは感じられません。

多くの人が訪れ、賑わいます。
最近のボロ市は何でもありといった雰囲気です。フリーマーケットと歳の市が混じったような感じでしょうか。売られているものも骨董品からアジアン雑貨まで多種多様です。
特に近年はアジア雑貨を売る店が増えたなといった感じを受けます。ペット関係の店も多くなりました。売られているものは流行が影響するので、毎年訪れていると、出店の様子で流行り廃れを感じることができるでしょう。
店で一番多いのは、食品関係です。行列ができているのも食品関係の出店ばかりです。祭りの縁日的な感じで、おいしそうとか、家族に買って帰ると喜びそうとか、衝動的に買ってしまうものがよく売れている感じです。
中でも、本部のある世田谷信用金庫の裏側で売られている代官餅は、ボロ市名物とも呼べる商品になりつつあるようで、毎回大行列ができています。
「きなこ、あんこ、からみ」の三種類が各600円でずっと売られていましたが、近年、徐々に値上がりしていき、今では1000円になってしまったようです。そこそこ値段がしますが、その場で蒸して造っているので、温かく、またボリュームもある事から人気となっているようです。
私自身、昼間は混んでいるし、夜市の雰囲気が好きなので、夕方以降に訪れることが多いのですが、必ず売り切れていて、私の中では幻の代官餅となっています。そこそこ値段がするし、長い行列に並んでまでして買いたいと思わないというのが、本心ですが・・・。
3、代官見廻り行列と地域風景資産について

何年かに一回、特別なときに行われます。

鉄砲隊から農民まで様々です
何周年記念とかいった記念年の15日には、代官見廻り行列が行われます。これは当時の代官による見回りを再現したもので、当時を模した衣装を身につけた代官様一行がボロ市を練り歩きます。
私が訪れた2012年時は、行列の先頭を努めるのは地元の小学校と中学校の音楽隊で、その後から大人の代官行列が続いていました。そして代官役は・・・、なんと代官の直系である大場家の人が行っていました。
なかなか魅力的に思える代官行列ですが、所詮は田舎の代官の見廻りの行列なので、宿場町などで行っている大名行列とは全く様子が違います。高張り提灯に露払い、代官様にその従者、鉄砲隊やら農民と、いまいち統一感のない行列でした。あまり壮大なものを期待せずに訪れたほうがいいかと思います。

幾つかのお店でこういった絵を見ることができます。
また、「せたがやボロ市が開催される大山道」としてせたがや地域風景資産にも指定されています。
管理団体の活動の一環として、通りの商店のシャッ ターに昔の街道風景を描いた絵を「シャッター絵巻」として貼付けていて、ボロ市が開催されていないときに訪れてもボロ市の雰囲気や代官の見廻り行列を・・・とまではいかないにしても、ボロ市通りを通っているんだなと感じてもらえるような活動を行っています。
4、ホタル祭りとサギ草市

ボロ市と同じように代官屋敷の門の前で行われます。

代官屋敷の中に設置され、暗くなってから公開されます。

さぎ草以外にも多くの植木が売られています。
夏のイベントになりますが、ボロ市通りや代官屋敷、そして天祖神社前の広場でホタル祭りとサギ草市が開かれます。
あまり馴染みのない組み合わせに感じますが、世田谷の花は鷺草伝説に因み「サギ草」です。サギ草は夏に咲く花です。ホタルの方は・・・、昔は農村地帯だったので至る所にたくさんいたのでしょう。2000年の初めころまでは、岡本公園にホタル園があり、ホタルの飼育をしていました。

夏祭りといった感じでにぎわいます。

地元の婦人会の方を中心に多くの人が踊りを楽しんでいました。
ホタル祭りとサギ草市では、天祖神社前の広場に食べ物などの屋台が並び、鷺草などが売られる植木市もたちます。
そして広場の真ん中には櫓が組まれ盆踊りが行われ、婦人会の方を中心に盆踊りの大きな輪ができます。
代官屋敷や郷土資料館の敷地では、暗くなると設置されたホタルドーム内や籠などに入れられたホタルが公開されます。過大な期待を込めて訪れるよりも、ホタルが光っているのを見れるといったぐらいの気持ちで訪れるのがいいかと思います。
今の世田谷では見ることのできないホタルが見れ、盆踊りも楽しめるので、子供達には大盛況で、時間によってはかなり混み合うイベントとなっています。
5、感想など

提灯が並ぶ様子がよかったので。
世田谷の冬の風物詩ボロ市。世田谷では数少ない古くから続く伝統的な行事であり、世田谷自慢の賑やかな市です。
今ではその名が広く知られるようになり、区外からも多くの人が訪れるようになりました。ボロ市の名前からして覚えやすく、また親近感があっていいですね。ずっと世田谷で親しまれてきたのもその親しみやすい名前だったからかもしれません。
周辺には豪徳寺や松陰神社、吉良家の墓所のある宮ノ坂勝光院など見どころも多いので、ぜひボロ市に合わせて世田谷散策を楽しんでみてください。むしろ電車が混み合うので、散策をしながら帰路につく方がいいかと思います。
せたがや百景 No.23ボロ市と代官屋敷 せたがや地域風景資産 #2-18
せたがやボロ市が開催される大山道 2025年2月改訂 - 風の旅人
・地図・アクセス等
・住所 | 世田谷1-29-18 |
---|---|
・アクセス | 世田谷線世田谷駅、上町駅から徒歩 |
・関連リンク | 世田谷区立郷土資料館(世田谷区)、世田谷代官屋敷(世田谷区)、世田谷のボロ市(世田谷区) |
・備考 | ボロ市の開催は毎年12月15、16日と1月15、16日、東京都指定無形民俗文化財、世田谷代官屋敷は国の重要文化財 |