さぎ草ゆかりの常盤塚
上馬5-30-19世田谷城主吉良頼康の側室常盤の悲しい物語にまつわる塚が、上馬のまちの家と家との間にひっそりとある。常盤の放った白鷺があわれ頼康の鷹狩の手にかかり、その骸を葬った地には一面のさぎ草が咲いたという。現代のまちの中に伝説を蘇らせる一隅の小風景だ。(せたがや百景公式紹介文の引用)
1、常盤伝説について

室町から戦国時代の世田谷には、小さな城が幾つもあり、世田谷城を居城とした吉良氏が全体を統治していました。
吉良氏は、足利義継を祖とする高貴な家柄で、一時期はせたがや殿と賞されるほどで、小田原の北条氏も一目を置く存在でした。しかし、ただそれだけの存在でした。

常盤塚の敷地内に設置されています。
戦国の時代も終盤に差し掛かった頃、実在したとされる七代目城主吉良頼康と、その側室常盤にまつわる常盤伝説が後世に伝えられています。
常盤伝説を簡単に書くと、吉良頼康は家臣である奥沢城主大平氏の娘である常盤を側室に迎え、とても寵愛しました。
しかしながら、他にも多くの側室を抱えていたので、ないがしろにされる側室たちはたまったものではありません。常盤は、他の側室から妬みの対象になってしまいました。

(*イラスト:cocoancoさん 【イラストAC】)
常磐が側室に入ってから2年の月日が経った頃、頼康の子を懐妊しました。子供がいなかった頼康を始め、家臣はたいそう喜んだものの、他の側室は面白くありません。
常盤を陥れてやろう・・・と策を謀り、常盤が寵臣の家臣と密通していたと、頼康に進言しました。
常盤の不貞の話を聞いた頼康は激怒して、まず寵臣とその家族を殺しました。
危険を察した常盤は、せめて子供が産まれるまでは身を隠そうと城から脱出したものの、身重の体では到底逃げ切れるはずもありません。
覚悟を決め、「君をおきて仇し心はなけれとも 浮名とる川 沈みはてけり」と頼康宛てに辞世の句を残し、自害して果てました。常盤19歳、胎児は8ヶ月だったそうです。
自害した場所は現在常盤塚がある場所だと言われています。

駒留八幡神社境内にあります。
後日、家臣の進言で真相を知った頼康は、憤り狂い、この事態を企んだ側室12人を打ち首にしました。それらは13塚(常盤塚を含む)と呼ばれ、常盤塚と共に街道沿いにあったそうです(環七を通した際に撤去されたようです)。
胎児は近くの駒留八幡神社に若宮八幡宮として祀り、常盤も弁財天を勧請して、常盤弁財天として祀られました。
とまあ、こんな側室の浅はかな調略に騙されるような当主では先が長いはずもなく、その後北条家からの養子(8代目)に家督を奪われ、北条氏の滅亡と共に世田谷吉良家は消滅しました。

常盤が開基したお寺で、寺名も法号「寶樹院殿妙常日義大姉」に因んでいます。
この悲しい伝承は江戸時代の刊本「名残常盤記」に書かれていたそうです。
とはいえ、伝説とは様々な脚色がついてしまうものです。例えば、常盤の腹から出てきた胎児の胞衣に吉良氏の五七の桐紋が現れたとか。鷺の宮の霊が頼康に真相を語ったとか。
どこまでが史実でどこまでが作り話なのかは分かりませんが、実際に頼康には実子がなくて、小田原北条氏から入った妻子に家督を譲っている事を考えると、少なからずこういったお家のごたごたがあったのかもしれません。
それに常盤塚や十三塚というのは、世田谷に限った話ではなく、他の街道沿いにもある風習です。街道筋なので、諸勢力同士、或いは村同士で、小さな小競り合いがあり、戦死者が出て供養したものかもしれません。或いは、室町時代に流行った十三仏信仰の名残かもしれません。
常盤が実在したという記録はないので、設置されている塚を見たファンタジー好きな後世の人が、色々と話を膨らませ、常盤伝説を生みだしたのかな・・・と思うのですが、実際はどうだったのでしょう。
2、常盤とさぎ草伝説

伝説の地である奥沢の八幡中学校に描かれています。
常盤伝説とは別にさぎ草伝説(サギソウ伝説)があります。これは常盤伝説以上に話の種類が多く、解説に困ってしまいます。
常盤が飼っていた鷺を放していたときに、その鷺を奥沢付近の狩場で射止めたのが頼康で、それが縁で二人は知り合ったそうです。
射止めた際に鷺の足に手紙がくくってあり、「素晴らしい筆だ。これは誰が書いたものか?探せ!」ってな感じで探したとかなんとか。
この頼康が射殺してしまった鷺の遺骸を埋めた場所に、後日咲いたのがさぎ草だったとか。

(*イラスト:うめみさん 【イラストAC】)
別の話では、常盤が自害するときに飼っていた鷺に遺書をしたためて放ち、それを頼康が狩りの最中に撃ち落とし、事の真実を知ったとか。
色々文献はあるものの、微妙に話が違っていますし、ここまでくると、完全に日本昔話の世界です。
それに、実際に頼康に嫁いだとされる北条氏康の娘、崎姫にも同じような話が伝わっていたりします。
こちらの場合はさぎ草は出てきませんが、薬師如来様のお告げで白鷺の足に短冊を付けて飛ばし、それを捕らえたのが頼康の鷹だったとかなんとか。
とまあ伝説はあくまでも伝説と考えないと、頭がこんがらがってきてしまいます。正直なところ、私も常盤伝説とさぎ草伝説の区別がついていません。
といった事で、真実のほどはおいておいて、こういったさぎ草や常盤伝説が世田谷に伝わっている経緯もあり、さぎ草は昭和43年に公募によって世田谷の「区の花」に指定されました。

とても小さい花です。
さぎ草(サギソウ)というのは、夏に鷺(さぎ)のような形の白い花を咲かせるラン科の多年草です。
青森以北を除く日本各地の日当たりのいい湿地に自生します。ただ、近年では湿地帯が少なくなっているので、自生地が激減しています。
区内でも昔は自生していたようですが、現在では湿地帯がなくなったために自生地はありません。
伝説の地である奥沢の奥沢城跡地にあたる九品仏浄真寺には、小さな池に鷺草園が作られていて、自然に生えていたらこんな風に咲いているんだろうなといった感じで鑑賞する事ができます。

数でいうなら大蔵の妙法寺もなかなかのものです。ただここは鉢植えでの展示となります。
また、ボロ市通りでも7月にさぎ草の市が開かれていたり、区の広報をみると春先などにさぎ草の植え方の講習会みたいなことをやっていたりします。
どうやら区はさぎ草があふれかえるような町にしたいみたいですが、育てるのがちょっと難しいので、なかなか広まっていかないのが現状でしょうか。
3、常盤塚

*国土地理院地図を書き込んで使用
この常盤伝説にまつわる常盤塚が、世田谷通りからほんの少し入った一角にあります。ちょうど若林3丁目バス停の所から入っていく道で、以前は角にラーメン屋がありましたが、今ではバーに変わっているようです。
家一軒分ぐらいの広さがある敷地には、山型の少し大きめな常盤塚と書かれた石碑と、伝説を刻んだ石や解説版があるくらいで、あまり訪れたことに満足感を得られるような場所とはなっていません。

家一軒弱ぐらいの敷地に常盤塚があります。
でも、訪れて驚いたのが、敷地がとてもきれいだったことです。花はちょっと古くなっていましたがちゃんと供えられていて、敷地内にはゴミはなく、手入れが行き届き、荒れた感じがぜんぜんしませんでした。
地元の人がやっているのでしょうか。それとも碑の裏側に書かれた常盤塚顕彰協賛会の方がやっているのでしょうか。

山型の石の塚が置かれています。
江戸時代の観光ガイドブック的な存在である「江戸名所図会」にも常磐塚は紹介されていて、「按に、北はしより二十歩ばかり東の方、道より北側に松を植えたる塚あり、是を常盤の墓と云、上に不動の石像あり、又同じ南の方にも塚あり、是なりといえど、いづれが実ばらん」と書かれています。
当時は塚(盛り土)の上に石像が置かれていたようです。しかもなぜか不動様。優しい感じの観音様の方がふさわしいような気もしますが・・・。
ただ、百景に選ばれる前の古い写真を見ると、石像ではなく、小さな木製の社が建っていました。塚には江戸時代と同様に松の木もあり、常盤伝説はあながち伝説ではないかも・・・と思ってしまうような雰囲気が感じられました。

また、同じく「江戸名所図会」に「二子街道中馬牽沢村世田ヶ谷入口、三軒茶屋の往還角の所より向へ三町計入て、小溝に渡す石橋をしか(常盤橋)名づく」とあり、「江戸砂子」にも「瘧を病む者が常盤橋の辺りに甘酒を供えると忽ち治る」とあります。
常盤を葬ったのが常磐塚で、その上に植えられたのが常盤の松で、すぐ近くの小川に架けられていた橋が常盤橋となっていたようです。
一説によると、常盤塚から世田谷通りを西へ向かって最初の信号付近に常盤番所(簡易的な関所)があり、その壕を兼ねて小川が掘られ、そこに掛けられていた橋が常盤橋だったとか。昔の世田谷通りは大山道や矢倉沢往還と被っていて、そこそこ往来が多かったようです。

近くの駒留八幡神社にあります。
駒留八幡には常盤橋と記された石盤が置かれています。ほんの1m程度の小さな橋という事になり、「小溝に渡す石橋」という表現は正に言い得ています。かつて橋に設置されていたものなのでしょうか。それとも境内造られていた弁天池などに使われていたものでしょうか。どちらか分かりませんが、かつて世田谷道で使われていたものなら、ちょっとロマンを感じます。
ちなみに、現在でも常盤橋は引き継がれていたりします。世田谷通りが環七と交差する若林交差点は、環七側がアンダーパスになっていて、世田谷通りに橋が架けられています。その橋の名が常盤陸橋となっています。
4、感想など

鉢植えよりも地植えの方が花が尖って美しいような気がします。
歴史を後付けで話す場合、都合のいい解釈で美談にすることもできますし、正義と悪をすり替えることもできます。
伝説は特に顕著で、それを書いた人の解釈次第で判官びいきだったり、教訓っぽかったり、皮肉が混ぜられていたりと、感情を含めて後世に伝わってしまいます。
だからこそ伝説は自分の目で見て、歴史背景を考え、そして話を伝えた人の心情を想像することが大事です。きちんとした答え、いわゆる真実はあるのでしょうが、色々と想像してみるのが楽しいのが伝説です。
常盤塚を訪れても、そこにあるのは常盤塚と書かれた大きな石碑だけです。これを見て感動する人はいないと思います。
でも、せっかく興味を持って訪れたのですから、戦国時代にこの地で起こったかもしれないことに思いを巡らせてみてください。そして自分なりの常盤伝説を考えてみるというのも楽しいのではないでしょうか。
そう、例えば・・・、常盤が恋仲の家臣と協力して吉良家の財宝とともに世田谷城を脱出し、財宝を隠した場所に目印としてさぎ草を植えたという常盤伝説を想像してもいいのでは・・・。
せたがや百景 No.20さぎ草ゆかりの常盤塚 2025年2月改訂 - 風の旅人
・地図・アクセス等
・住所 | 上馬5-30-19 |
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・アクセス | 最寄り駅は世田谷線松陰神社駅。 |
・関連リンク | 常盤塚(世田谷区) |
・備考 | ーーー |