* 常盤伝説について *
伝承が書かれた石碑
常盤塚の敷地内に設置されています。
室町から戦国時代の世田谷には世田谷城があり、吉良氏が治めていました。
戦国の時代も終盤に差し掛かった頃、実在したとされる七代目城主吉良頼康とその側室常盤にまつわる常盤伝説が後世に伝えられています。
常盤伝説を簡単に書くと、吉良頼康は家臣である奥沢城主大平氏の娘である常盤を側室に迎え、とても寵愛しました。
しかしながら他にも多くの側室を持っていたので、ないがしろにされる側室はたまったものではありません。妬みの対象となってしまいました。
常磐が側室に入ってから2年の月日が経った頃、頼康の子を懐妊しました。子供がいなかった頼康を始め、家臣はたいそう喜んだものの、他の側室にとっては面白くありません。
陥れてやろうと策を謀り、常盤が寵臣の家臣と密通していたと頼康に進言しました。
常磐弁財天(厳島神社)
駒留八幡神社境内にあります。
常盤の不貞の話を聞いた頼康は激怒して、まず寵臣とその家族を殺しました。
危険を察した常盤はせめて子供が産まれるまでは身を隠そうと城から脱出したものの、身重の体では到底逃げ切れるはずもありません。
覚悟を決め、「君をおきて仇し心はなけれとも 浮名とる川 沈みはてけり」と頼康宛てに辞世の句を残し、自害して果てました。常盤19歳、胎児は8ヶ月だったそうです。
自害した場所は現在常盤塚がある場所だと言われています。
後日、家臣の進言で真相を知った頼康はたいそう憤り、そして嘆き、この事態を企んだ側室13人を打ち首にしました。それらも13塚と呼ばれ、常盤塚と共に街道沿いにあったそうです(環七を通した際に撤去されたようです)。
胎児は近くの駒留八幡神社に若宮八幡宮として祀り、常盤も弁財天を勧請して常盤弁財天として祀られました。
とまあ、こんな浅はかな調略に騙されるような殿様では先が長いはずもなく、その後北条家からの養子(8代目)に家督を奪われ、北条氏の滅亡と共に消滅してしまいました。
弦巻の常在寺
常盤が開基したお寺で、寺名も法号「寶樹院殿妙常日義大姉」に因んでいます。
この悲しい伝承は江戸時代の刊本「名残常盤記」に書かれていたそうです。
とはいえ、常に伝説とは様々な脚色がついてしまうものです。例えば、常盤の腹から出てきた胎児の胞衣に吉良氏の五七の桐紋が現れたとか。鷺の宮の霊が頼康に真相を語ったとか。
どこまでが史実でどこまでが作り話なのかは分かりませんが、実際に頼康には実子がなくて、小田原北条氏から入った妻子に家督を譲っている事を考えると、少なからずこういったお家のごたごたがあったのかもしれません。
それに常盤塚や十三塚というのは他の街道沿いにもある風習です。そういった風習とお家のごたごたが混じってこの地に常盤伝説が生まれたのかなと思ってしまったのですが、実際はどうだったのでしょう。
* 常盤とさぎ草伝説 *
常盤姫と白鷺の絵
伝説の地である奥沢の八幡中学校に描かれています。
常盤伝説とは別にさぎ草伝説(サギソウ伝説)があります。これは常盤伝説以上に話の種類が多く、解説に困ってしまいます。
常盤が飼っていた鷺を放していたときに、その鷺を奥沢付近の狩場で射止めたのが頼康で、それが縁で二人は知り合ったそうです。
射止めた際に鷺の足に手紙がくくってあり、「素晴らしい筆だ。これは誰が書いたものか?探せ!」ってな感じで探したとかなんとか。
そして頼康が鷺の遺骸を埋めた場所に後日咲いたのがさぎ草だったとか。
別の話では常盤が自害するときに飼っていた鷺に遺書をしたため放ち、それを頼康が狩りの最中に撃ち落としたとか。
色々文献はあるものの、微妙に話が違っていますし、ここまでくると昔話です。
それにおそらく実際に頼康に嫁いだとされる北条氏康の娘、崎姫にも同じような話が伝わっています。
こちらの場合はさぎ草は出てきませんが、薬師如来様のお告げで白鷺の足に短冊を付けて飛ばし、それを捕らえたのが頼康の鷹だったとかなんとか。
とまあ伝説はあくまでも伝説と考えないと、頭がこんがらがってきてしまいます。正直なところ、私も常盤伝説とさぎ草伝説の区別がついていません。
といった事で、真実のほどはおいておいて、こういったさぎ草や常盤伝説が世田谷に伝わっている経緯もあり、さぎ草は昭和43年に公募によって世田谷の「区の花」に指定されました。
鷺草(さぎ草)
とても小さい花です。
さぎ草(サギソウ)というのは、夏に鷺(さぎ)のような形の白い花を咲かせるラン科の多年草です。
青森以北を除く日本各地の日当たりのいい湿地に自生します。ただ、近年では湿地帯が少なくなっているので自生地が激減しています。
区内でも伝説にあるように昔は自生していたようですが、現在では湿地帯がなくなったために自生地もありません。
伝説の地である奥沢の奥沢城跡地にあたる九品仏浄真寺の小さな池に区立の鷺草園が作られ、自然に生えていたらこんな風に咲いているんだろうなといった感じで鑑賞する事ができます。
数でいうなら大蔵の妙法寺もなかなかのものです。ただここは鉢植えでの展示となります。
またボロ市通りでも7月にさぎ草の市が開かれていたり、区の広報をみると春先などにさぎ草の植え方の講習会みたいなものをやっていたりします。
どうやら区はさぎ草があふれかえるような町にしたいみたいですが、育てるのがちょっと難しいので、なかなか広まっていかないのが現状でしょうか。
* 常盤塚 *
常盤塚のある敷地
家一軒弱ぐらいの敷地に常盤塚があります。
この常盤伝説にまつわる常盤塚が世田谷通りからほんの少し入った一角にあります。ちょうど若林3丁目バス停付近、現在ではラーメン屋の裏手になります。
家一軒分ぐらいの広さがある敷地には山型の少し大きめな常盤塚と書かれた石碑があるくらいで、あまり訪れたことに満足感を得られるような場所とはなっていません。
でも訪れて驚いたのが、敷地がとてもきれいだったことです。花はちょっと古くなっていましたがちゃんと供えられていて、敷地内にはゴミはなく、手入れが行き届き、荒れた感じがぜんぜんしませんでした。
地元の人がやっているのでしょうか。それとも碑の裏側に書かれた常盤塚顕彰協賛会の方がやっているのでしょうか。
常盤塚
山型の石の塚が置かれています。
江戸時代の観光ガイドブック的な存在である「江戸名所図会」にも常磐塚は紹介されていて、「按に、北はしより二十歩ばかり東の方、道より北側に松を植えたる塚あり、是を常盤の墓と云、上に不動の石像あり、又同じ南の方にも塚あり、是なりといえど、いづれが実ばらん」と書かれています。
当時は塚の上に石像が置かれていたようです。しかもなぜか不動様。優しい感じの観音様の方がふさわしいような気もしますが・・・。
ただ百景に選ばれる前の古い写真を見ると、石像ではなく、小さな塚(盛り土)の上に小さな木製の社が建っていました。塚には伝説通り松があり、常盤伝説はあながち伝説ではないかも・・・と思ってしまうような雰囲気が感じられました。
常盤橋の石盤
近くの駒留八幡神社にあります。
また、同じく「江戸名所図会」に「二子街道中馬牽沢村世田ヶ谷入口、三軒茶屋の往還角の所より向へ三町計入て、小溝に渡す石橋をしか(常盤橋)名づく」とあり、「江戸砂子」にも「瘧を病む者が常盤橋の辺りに甘酒を供えると忽ち治る」とあります。
常盤を葬ったのが常磐塚で、その上に植えられたのが常盤の松で、すぐ近くの小川に架けられていた橋が常盤橋となっていたようです。
駒留八幡には常盤橋と記された石盤が置かれています。かつて橋に設置されていたものなのでしょうか。ほんの1m程度の小さな橋という事になり、「小溝に渡す石橋」という表現は正に言い得ています。
でも小溝に渡す橋に使われていたにしては少々大袈裟な感じもしますし・・・。どうなのでしょう。
今でも世田谷通りはそれなりに往来の多い通りですが、昔も矢倉沢往還としてそこそこ往来の多かった通りです。
一説によると常盤塚から世田谷通りを西へ向かって最初の信号付近に常盤番所があり、その壕を兼ねて小川が掘られ、そこに掛けられていた橋が常盤橋と名付けられたのだとか言われています。
現在では常盤橋はなく、名残というべきなのかわかりませんが、世田谷通りと環七が交差する陸橋が常盤陸橋となっています。
* 感想など *
鷺草
鉢植えよりも地植えの方が花が尖って美しいような気がします。
歴史を後付けで話す場合、都合のいい解釈で美談にすることもできますし、正義と悪をすり替えることもできます。
伝説は特に顕著で、それを書いた人の解釈次第で判官びいきだったり、教訓っぽかったり、皮肉が混ぜられていたりと感情を含めて後世に伝わってしまいます。
だからこそ伝説は自分の目で見て、歴史背景を考え、そして話を伝えた人の心情を想像することが大事です。きちんとした答え、いわゆる真実はあるのでしょうが、色々と想像してみるのが楽しいのが伝説です。
ここにあるのは常盤塚と書かれた大きな石碑だけです。これを見て感動する人はいないと思います。
でもせっかく興味を持って訪れたのですから色々と戦国時代にこの地で起こったかもしれないことに思いを巡らせてみてください。そして自分なりの常盤伝説を考えてみるというのも楽しいのではないでしょうか。
そう、例えば・・・、常盤が恋仲の家臣と協力して吉良家の財宝とともに世田谷城を脱出し、財宝を隠した場所に目印としてさぎ草を植えたという常盤伝説を想像してもいいのでは・・・。
せたがや百景No.20 さぎ草ゆかりの常盤塚
ー 風の旅人 ー
2018年11月改訂