* 桜上水の黒松群について *

立派な松が路地にせり出して生えています。
京王線に桜上水駅があり、その南側には桜上水の町が広がっています。なかなか響きのいい地名ですが、その歴史は浅く、昭和になって生まれた地名です。地名の由来はこの辺りを流れる玉川上水・・・といっても杉並区になるのですが、その土手(堤)に続く桜並木が見事だったので地元の人が桜上水と呼んでいたのが定着し、昭和12年には京王線の駅名となり、そして昭和41年の新住居表示の際に上北沢が分割され東半分が桜上水と名付けられました。
というように歴史を紐解いていくと、現在の上北沢と桜上水をあわせた地域が昔の上北沢村となります。上北沢が発展していくのは戦国時代で、甲斐の武田氏と小田原北条氏の合戦の後に北条氏の武将だった鈴木氏一族が上北沢に移り住み、所領として治めるようになります。北条氏が滅亡した後はこの地で帰農し、代々名主として地域の発展に尽力してきました。
その鈴木氏が居宅を構えていたのが、現在の「緑丘中学校」「早苗幼稚園」の敷地付近になります。具体的には早苗幼稚園の辺りは前庭といった感じで、緑丘中学校が邸宅部分になります。敷地へのアプローチは早苗幼稚園の西側にある道で、ちょうど緑丘中学校のフェンス辺りに大きな茅葺きの長屋門があり、校庭のところに母屋がありました。残念ながら建造物は空襲などによって残っていませんが、次の項に出てくる「緑丘中学校・校庭の大ケヤキ」は鈴木家の邸宅のすぐ後ろにそびえていたものです。
この項の「江戸城御囲い松の兄弟松」は早苗幼稚園の東側の道沿いにあります。松の種類は黒松で、南側に大きく、枝振りが見事な古木が2本、フェンスから道路にせり出すような感じで存在しています。かつての鈴木家の敷地の様子を見ると、早苗幼稚園の敷地部分には池があり、そして敷地の横を水路が流れていました。その水路の部分に敷地の垣根のように植えられていたのが、この江戸城御囲い松の兄弟松となるようです。

斜めに生えているので今後補強が必要となりそうです。

こちらは子孫の松になるのでしょうか。
なかなか立派な名前が付けられた松になりますが、名前の通り江戸城に御囲松として植樹された苗木と同じ黒松となるようで、樹齢も約390年といわれているといった由緒ある古木となります。この二本の松の奥には新しい松があり、穂積稲荷の祠があります。この稲荷も鈴木家縁のものとなるようで、「穂積」とは鈴木家の神話時代に賜った苗字となり、その後25代経って「鈴木家」になったとか。現在の日本大学の敷地部分にあったものですが、土地を売った際にここに移されました。
なぜ江戸城に関わりのある松がここにあるのか。まず江戸城について書くと、江戸城は徳川幕府の本拠地であり、江戸時代の日本の行政の中心地でした。元々は大田道潅によって1457年に築城された平城で、後に北条氏によって攻め落とされるものの、北条氏は秀吉に滅ぼされ、1590年には秀吉の命で関東に配置換えとなった徳川家康の居城となります。
秀吉亡き後、関ヶ原の合戦で勝利した家康が江戸幕府を開き、基盤が固まりつつある1606年から約30年かけて大改修が行います。まずは本丸、二の丸、三の丸と整備していき、寛永年間の1627~8年ごろには江戸城御囲いの松が植えられる事となり、松苗木納入の命令を受けたのが当時植木職人として江戸城に出入りしていた上北沢の鈴木家でした。
このことから鈴木家は江戸城に出入りできる家柄と権威があった事が分かります。また植木職としても、江戸時代には鈴木家の所有する牡丹園が上北沢の「凝香園」として知られていて、「東都近郊図」には「鈴木左内の庭には牡丹数百品あり」と記されていたそうです。これは幼稚園と道を挟んだ場所にあったようです。

皇居前の広場には黒松が数千本植えられています。

旧江戸城内にも立派な松が多くあります。
現在、皇居の松といえば皇居前広場にある数千本の黒松が真っ先に思い当たりますが、これらは明治21年に植えられたものなので当時の松ではありません。具体的に当時どこに植えられたのか分かりませんが、御囲松という事から皇居の周囲に植えられていたのでしょうか。現在では皇居周辺では桜や銀杏、ユリノキなどが植えられていて松を見かける事はありません。皇居内には立派な松が多いのでもしかしたらその中に当時植えられたものがあるかもしれませんし、或いは千鳥ヶ淵や外苑など周辺のどこかでひっそりと兄弟、あるいはその子孫が生き残っているのかもしれません。