世田谷散策記 せたがや百景項目一覧

せたがや百景 No.1-10の紹介

昭和59年に世田谷区と区民によって選定された「せたがや百景」のNo.1-10の紹介です。詳細は個別のページをご覧ください。

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No.1 世田谷公園

世田谷公園の案内図

中央広場の噴水を挟んで北側がスポーツ施設。南側の公園ではプレイパークが開かれている。園内の小高い丘には区制50周年(昭和57年)を記念して、子ども達から50年後の子ども達へのメッセージなどを入れたカプセルが埋められている。ミニSLは土・日や祝日、学校の休みに合わせて走り大変な人気を集めている。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:池尻1-5-27(世田谷公園) 備考:世田谷区立公園。

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世田谷公園 中央広場の噴水

こじゃれたレストランが並ぶ三宿通り沿いに、世田谷区立の世田谷公園があります。

世田谷の名を冠している公園ということで、園内の施設には力が入っていて、開放感のある噴水広場を中心に、野球場、プール、テニスコート、洋弓場、交通児童公園、タイムカプセルの丘、SL広場、遊具広場、プレーパーク、平和資料館が縦長の敷地に所狭しと設置されています。

舗装された部分の多い都会的な公園といった印象ですが、開放感ある噴水広場を中心に、心地よく、楽しい時間を過ごせる公園となっています。

世田谷公園 ミニSL「チビクロ号」

世田谷公園で一番特徴的なものは、百景の説明文にあるミニSL「チビクロ号」です。区制50周年を記念して、昭和57年5月に設置されました。土日祝日に運行しています。

料金は、小学生以下は無料で、小学生が50円、中学生以上は100円。お手ごろな値段設定になっているので、子供たちにとても人気があり、長い順番待ちの列ができていることもあります。

No.2 大山道と池尻稲荷

池尻稲荷神社 涸れずの井戸の碑

大山道の面影を訪ねることができる。街道沿いにあった池尻稲荷には「涸れずの井戸」がいまもこんこんと湧いている。江戸市中を発った旅人は道筋ここまで飲み水がなく、この井戸で喉を潤したという。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:池尻2-34-15(池尻稲荷神社) 備考:ーーー

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池尻稲荷神社 旧道側の入り口

渋谷から三軒茶屋、二子玉川を通って厚木に続いている国道246号は、雨乞いで知られる大山阿夫利神社(伊勢原市)に続いていることから、昔は大山道と呼ばれていました。

かつては多くの旅人が、江戸の中心部から大山へ雨乞いや巡礼旅に向かいました。伊勢や富士山は遠いので、比較的手軽に行ける大山は人気があったようです。

公共交通のない昔の旅は、徒歩が基本。赤坂や渋谷の深い谷を越えてきた旅人が当てにしていたのが、池尻稲荷神社の井戸で、多くの旅人の喉を潤したそうです。この井戸は涸れずの井戸と呼ばれていて、今でもその水脈は枯れていなく、手水舎に水が引かれています。

池尻稲荷神社 社殿

池尻稲荷神社は池尻地域の氏神様となっていて、夏には盆踊り、秋には例大祭が盛大に行われています。

今も昔も地域の人々に大事にされている神社であることは変わらないものの、神社自体は、渋谷にほど近い立地のうえ、大きな国道にも面しているので、境内がビルの谷間に埋もれてしまっているといった都会的な景観に変わってしまいました。

古くからの大山道沿いにある神社ということで、昔ながらの神社を期待して訪れると、少々失望感を感じることでしょう。

No.3 世田谷観音とその一帯

世田谷観音 不動堂
不動堂

昭和新選江戸三十三観音礼所のうちの三十二番礼所にあたる。戦後建立の寺で、区内で最も新しい。京都の六角堂を模した不動堂には、運慶の孫の康円の作といわれる、国の重要文化財の不動明王と八大童子が納められている。また、太平洋戦争で散った特攻隊員を祀った特攻観音堂がある。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:下馬4-9-4(世田谷山観音寺) 備考:ーーー

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世田谷観音 特攻平和観音堂
特攻平和観音堂

世田谷観音と聞くと、巨大な観音像がそびえている様子を思い浮かべてしまう人もいるかと思いますが、ここには巨大な観音像はありません。

でも、境内には、元国宝だった不動明王と八大童子をはじめ、特攻観音やら平安時代の仁王像、清時代の狛犬、有名建造物を模した建物などなど、話のネタになりそうなものが多くあります。

戦後に建てられた新しいお寺ということで、昔は地元の人(檀家さんを除く)よりも、面白い場所が大好きなB級スポットマニアなどがよく訪れているといった感じのお寺でしたが、今では月に一度朝市が開かれたりと、地元の人の交流の場や散策スポットとなっているようです。

No.4 世田谷線(玉電)が走る

世田谷線 踏切待ちの様子

東急世田谷線は三軒茶屋と下高井戸を結んでいる。住宅街を縫って走る沿線にはのんびりとした風情がただよい、百景に選ばれた所も多い。玉電(たまでん)と呼ばれて、多くの区民から愛されている。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:三軒茶屋から下高井戸の間 備考:ーーー

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世田谷線 環七の若林踏切
環七を横切る世田谷線

田園都市線の三軒茶屋と、京王線の下高井戸の間を路面電車の東急世田谷線が走っています。走っているのは、色とりどりのカラフルな2両編成の路面電車。世田谷の町をゆっくりと走る様子に親近感を感じる人は多いはずです。

世田谷線は路面電車として事業登録されていますが、普通の電車と同じように鉄道専用の軌道を使用し、線路を横切る道路には遮断機の付いた踏切が設置されています。

ただ、一か所だけ環七を横断する若林踏切(交差点)には遮断機がなく、ここでのみ路面電車らしく一般の信号に従って電車が進んだり止まったりします。なので、路面電車といった定義になっているのです。

百景のタイトルや紹介文に玉電とあるのは、東急が経営する以前は玉川電気鉄道が経営していて、玉電といった呼ばれ方をしていたからです。随分と昔の話なので、現在ではその呼び方をする人はいないように思います。

世田谷線 宮の坂駅 旧車体を使用した待合室

今はカラフルで可愛らしい車体の電車が走っていますが、一昔前は緑色の独特な車体が走っていました。その姿から青虫といった呼ばれ方をしていたようです。その車体は宮の坂駅の待合室として使われています。

世田谷線の特記すべきことは、かつての世田谷の中心地を横切っていることです。その為、沿線には豪徳寺や松陰神社、ボロ市で有名な世田谷代官屋敷、世田谷城址跡などといった世田谷の名の知れた観光地が点在しています。

一日乗り放題切符もあるので、世田谷観光の際には世田谷線を利用してのんびりと観光してみてはどうでしょう。

No.5 太子堂下の谷界わい

百景の切り絵 太子堂下の谷界わい

太子堂2丁目、4丁目 茶沢通りの中ほどから入ったところに下の谷商店街がある。下町情緒の懐かしい雰囲気の店が並んでいる。第一、第三日曜日の朝9時から10時まで朝市が立ち、賑わう。まちと人々がつくり出す原風景とでもいったものが見られる一帯だ。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:太子堂2丁目、4丁目辺り(下の谷商店会)
備考:現在、朝市は行われていません。商店もほとんどありません。

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下の谷商店会の様子
下の谷商店会の様子(2008年)

三軒茶屋の北側、太子堂で有名な太子堂円泉寺の南側に下の谷と呼ばれている地域があり、ここには活気のある下の谷商店会がありました。

かつては多くの店が並び、賑やかに朝市も行われていましたが、時は流れ、現在では店は少なくなってしまい、そういった様子を見ることはできなくなってしまいました。

百景の文章に下町情緒を感じられるとあるのは、戦時中に下町の本家本元といってもいい谷中商店街の店舗が、ここに集団で疎開してきた事に拠ります。

No.6 太子堂圓泉寺とけやき並木

百景の切り絵 太子堂圓泉寺とけやき並木

聖徳太子を祀った太子堂の由来から地名が生まれたという。明治4年、境内に「郷学所」が設けられ、世田谷の教育発祥の地となったところだ。ケヤキの大木の並木は、農村だったころ区内随所に見られた屋敷林の名残ともいえる。秋の境内は紅葉したケヤキやイチョウの落葉で黄色のカーペットが敷かれる。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:太子堂3-30-8(太子堂圓泉寺) 備考:ーーー

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円泉寺の太子堂
太子堂

三軒茶屋駅の北側には広大な太子堂町域が広がっています。この太子堂の町名の由来となったのが、太子堂3丁目にある円泉寺で、境内には聖徳太子を祀る太子堂があり、これが地名の由来となったとされています。

由緒ある太子堂ということになるのですが、現在ではコンクリート製の建物の二階部分に木造のお堂が移築されていて、ちょっと味気ない感じになっています。

円泉寺の本堂と大銀杏
本堂と大銀杏

円泉寺はこの地に古くからあるお寺で、江戸時代に流行した大山参りでは、聖徳太子の縁起をかついで参拝に立ち寄る人が多く、門前町も栄えたと言われています。

現在は普通のお寺といった感じで、参拝客もまばらですが、境内にそびえている樹齢500年以上とされるイチョウの大木は圧巻です。

太子堂円泉寺 敷地沿いに並ぶケヤキ並木
敷地沿いに並ぶケヤキ並木

円泉寺の門前の道路沿いにはケヤキが植えられていて、ちょっとした並木道となっています。かつては屋敷林として寺を囲むようにケヤキが植えられていたそうです。

並木にある一本は、上部が切り取られた姿で保存されています。この木は樹齢700年ほどで、かつて都の天然記念物に指定されていました。倒木の恐れから上部を伐採されましたが、幹の空洞部分に庚申塔が収められていて、現在でも道を行き来する人を見守っています。

No.7 北沢川緑道桜並木と代沢の桜祭り

せたがや百景 北沢川緑道桜並木と代沢の桜祭りの案内板

代沢地区の北沢川緑道の両側には、桜並木が続いている。満開になると花のトンネルになり、花見の宴が繰り広げられる。地元主催の桜祭りには甘酒の無料接待やパレードなども行われる。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:代沢3~5丁目(北沢川緑道) 備考:桜まつりは行われてません

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北沢川緑道桜並木 桜の時期

都会では鉄道が高架、或いは地下に敷かれているのと同じで、小さな川も地下に追いやられてしまい、町並みから小さな川がある風景というものが消えつつあります。

この北沢川緑道では小川のようなせせらぎが・・・と書くと大袈裟ですが、地下に川の流れが移行した後、地表部にせせらぎが設けられ、川の流れがあった頃の様子が再現されています。

かつての川筋には桜が植えられ、並木となっていました。その桜並木も残されているので、桜の季節はとても美しい散策道になります。

北沢川緑道桜並木 花見の様子

百景の文章には桜まつりの記載がありますが、現在では桜まつりは行われていません。ただ、桜の時期の賑わいは今なお健在で、週末にもなると花見客がどっと押し寄せ、緑道を埋め尽くします。その様子は圧巻です。

No.8 代沢の住宅街

代沢の住宅地

関東大震災後の区画整理で誕生した世田谷の代表的な住宅街。戦前から高官や著名人が居を構えた。坂が織りなす地形の表情が変化に富み、散歩には好適。生垣に四季の移ろいを楽しむことができる。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:代沢2~3丁目の一帯 備考:ーーー

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代沢の住宅地

世田谷の高級住宅地といえば、成城の知名度が群を抜いていて、全国的にその名が知られています。が、世田谷には成城の陰に隠れるように、それよりも品のある高級住宅地が幾つもあります。本当のお金持ちやステータスのある人は、世間的に目立つようなことを自ら発信しないといった感じでしょうか。

代沢もその一つで、関東大震災後に土地開発が行われ、高官や著名人が移り住んできました。現在でも古くからのお屋敷が並んでいて、歩いていると敷地内の豪勢な建物、立派な植木、そして長い石垣に目を奪われます。

ちなみに、この当時、この地域の建築重要の高まりから、浅草などの下町から多くの建築関係の職人も移り住んできました。彼らが暮らしたのは、代沢の北側、池之上駅から東北沢駅周辺。高級住宅地と下町が隣接しているというのも、下北沢らしい部分です。

No.9 代沢阿川家の門

百景の切り絵 代沢阿川家の門

江戸時代にこの一帯の名主だった阿川家の門は美しい紅殻色に塗られている。屋敷林の緑、そして紅葉のとき、門の色に照り映えても見事である。門越しにのぞく母屋も昔の名主屋敷の遺構を残し、代沢のまちの歴史をとどめた静かな一角だ。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:代沢3-9-16 備考:個人宅、現在は門の傍に近づけません。

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代沢 阿川家の門のある一画
門のある一画(2008年)

古くからの高級住宅地として名高い代沢にある旧家、阿川家。その敷地には立派なケヤキの木がそびえ、その奥には享保6年(1721年)に建てられた大きな赤い門を見ることができます。

百景の文章にある古い主屋は取り壊されてしまいましたが、門は阿川家の誇りのようで、今なおいい状態で維持されています。ただ、以前は門の傍まで近づくことができましたが、現在では遠くから眺めるだけになっているようです。

No.10 北沢八幡神社の秋祭り

百景の切り絵 北沢八幡神社の秋祭り

世田谷北辺の守護神として、吉良家によって勧請された。世田谷七沢八社随一、正八幡と称され、人々の尊崇を集めてきた。秋の例大祭には30台もの神輿が出て、境内一帯は人々で賑わう。とくに神輿が境内に繰り込む時は圧巻で、まるで絵巻物を見るようだ。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:代沢3-25-3(北沢八幡神社) 備考:9月第一日曜日

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北沢八幡神社の秋祭り 宮入りしてくる神輿
宮入りしてくる神輿

世田谷を代表する繁華街下北沢の氏神様は、北沢八幡神社になります。毎年9月上旬に行われる秋祭りでは、多くの神輿が下北沢の町を賑やかに練り歩き、町全体が活気づきます。

また、町会神輿が集まり、連合で神社に宮入りする様子は圧巻で、境内が人と神輿であふれかえります。その光景は、まさに百景の文章にある「まるで絵巻物を見るよう」という表現通り。その場にいるだけで感動します。

北沢八幡神社の秋祭り 境内にあふれかえる人と神輿
境内にあふれかえる人と神輿

なぜ下北沢の祭りはこんなにも盛り上がるのか。それは商業地だからというのもありますが、下北沢周辺には下町から移住してきた大工関係者が多かったからです。

下北沢周辺では、早くから住宅地としての需要があり、土地が分譲されました。大工の需要が多く、東京の下町から多くの大工関係者が大正時代に下北沢に移住してきました。そして、下町の祭り文化を持ち込み、下北沢に神輿文化を根付かせました。

北沢八幡神社の秋祭り 太鼓車と老人
太鼓車と老人

下北沢といえば、若者の町とか、演劇の町とか、芸術の町などと言われ、町は文化的で、町にいる人々が生き生きとしているように感じます。

そういった土地柄、北沢八幡神社の祭礼でも、担ぎ手一人一人に人間臭さ、ドラマ性を感じ、奉納演芸の踊り手は舞台に立つ女優のように輝いて見えてしまいます。

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