世田谷の秋祭りについて
近所に神社があるけど秋祭りやっているの?といった方から、祭り参加するのが好きな人、通な人、あるいは祭りを訪れるのをライフワークにしている人など様々な人がこのページにやってきているはずです。
私自身、祭りとか、神輿について詳しいわけではありません。ちゃんとした民俗学的な知識や日本古来の祭りの知識を持ち合わせているわけでもありません。制作を進めながら少しは勉強しましたが、未だによくわからないことだらけです。そういった素人が制作したサイトなので、素人の祭り見学スケッチ的なページとしてご覧いただくのが一番かなと思っています。
世田谷の秋まつりの現状
戦前までの世田谷は農村地帯で、人は少なく、畑や雑木林ばかりの土地でした。戦後になってから爆発的に人が増えていくのですが、そういった農村の名残で現在でも世田谷では多くの秋祭りが行われています。
その数が50以上もあり、こんなに多いとは・・・・と調べ始めてから驚きました。それがまた大体9~10月の週末に集中して行われるので、祭礼をきちんと見学しようとすると、どうしても何年か掛かってしまいます。なるべく効率よく祭礼を見学するにはどうしたらいいだろう。上手い具合にはしごして多くのデーターを集めたい。あれこれ考えながら見学していること自体が楽しかったように思います。
数の多い世田谷の祭りですが、その多くは昔と比べると規模が縮小しています。それが顕著に現れているのが露店の数です。ここ10年ぐらいで一気に減ってしまった神社も多いです。祭りをやっても人が集まってこなければ露店商も商売になりません。商売にならないのなら来年からは他の神社の祭りへ出店しようというのは当然の流れです。格差社会という言葉をよく聞きますが、祭りに関しても露店が多いところは多い、少ないところは少ないと、極端な様相となりつつあります。
地域に暮らす住民自体は増え続けているので、住民が秋祭りに関心がなくなりつつあったり、露店の存在に魅力を感じなくなったり、自分の氏子神社がどこなのか知らなかったり、氏子地域とか関係なく好きな神社の祭りを訪れたりと、一般住民の祭りに対する意識の変化が大きいのかなと感じます。娯楽の多い現在の都会では秋祭り自体に高揚感を感じる人が少なくなっているのは確かです。
神輿に関しても昔ほど熱く担がれてはいません。血気盛んな若者が・・・なんていうのは過去のお話です。担ぎ手の数や渡御コースを含めた全体的な規模は縮小傾向にあります。神輿文化は村社会の象徴とも言え、村を上げてとか、村対抗といった言葉がよく似合います。川向こうとか、道の向こう、丘の向こうとかで分けられていた時代はまだしも、川は埋め立てられ、斜面にもびっしりと住宅が密集している現状ではそういった村意識がなくなるのも当然です。
それに町会という氏子よりも強力な地域組織が新たにでき、昔のように地域をあげて祭りに取り組むといった環境がなくなってしまいました。神様に頼むよりも町会で話し合って物事を決めたり、災害、防犯対策をした方が現実的な時代なのです。神輿をみんなで力を合わせて汗水たらして担ぎ、地域の結束をとか、隣の町域にわが村の結束を見せつけて・・・なんていうのは昭和のお話です。
担ぎ手の減少、高齢化に悩みながらなんとか神輿を運行している地域もあります。現在の娯楽の多い時代に神輿を担ぐことに楽しみを見出す人が減っていくのもしょうがないことです。台車を使用したり、渡御コースを短くしたり、近隣の神社の担ぎ手に応援を頼んだりと苦労しています。苦労しながらもなんとか神輿を出して・・・といった感じですが、なんやかんやで人口80万人も暮らす地域なので、小なりとも多くの祭りがこなせてしまうんだなといった方が的確かもしれません。
世田谷の祭りあれこれ
せっかく世田谷の祭りを全て載せているので特徴的なことをいくつかピックアップしてみました。
1、神輿、太鼓について
- ・古神輿
- 区内にあるほとんどの神輿は浅草などに注文して建造した江戸神輿(三社型)です。そんな世田谷にあって唯一例外で特別な神輿が駒留八幡神社にあります。この神輿は大正時代に縁あって赤坂氷川神社より譲り受けたもので、神輿には江戸時代の宝暦12年(1762)、文化15年(1818)、天保10年(1839)の銘があり、今より250年程前の神輿だと言われています。神輿の形も一般的な江戸神輿(胴体の部分がくびれている)とは異なり、その一時代前の形を残している鳳輦型(胴体が箱形になっている)と呼ばれるもので、東京にも数基しかない貴重なものです。大きさも台座が5尺、高さが6尺、重さ約90貫(約300kg)と大きく、担ぎ棒も親棒が6m、脇棒が5.5mあり、大きさとしてもなかなか立派なものです。この神輿は長年担がれることなく神輿庫に傷んだまま置かれていましたが、昭和53年に氏子の方々によって修復が行われ、不定期ながら再び担がれるようになりました。
- ・神輿の大きさ
- そこそこ大きな神輿はありますが、周辺地域に名を轟かせているような極端に大きな神輿はありません。北澤八幡神社の惣町睦会の神輿は同じ北澤八幡神社の氏子地域の四南睦にあったもので、戦時中に東京で3番目に大きい神輿と言われていました。昭和初期に作られたもので「百貫御輿」といった愛称で呼ばれているように、その重さは400キロ以上あります。
- ・川神輿
- 昔は多摩川沿いの町域では多摩川に神輿が入っていたこともありました。特に野毛では秋祭りとは別に水神祭が夏に行われ、川に入るための専用の神輿がありました。現在ではそういった渡御は行われていませんが、水神祭に使われていた神輿が野毛に残っています。
- ・万灯神輿
- かつては経堂の夏祭りで2基の万灯神輿が盛大に担がれていましたが、担ぎ手不足から行われなくなりました。現在区内では代田八幡神社に所属する下代田東町会のみが万灯神輿を秋祭りで担いでいます。昼間はあまり見栄えがしませんが、日が落ちて神輿に灯が入ると、とても美しく、また担ぎ手の魂にも灯が入るようです。
- ・大太鼓
- 大太鼓といえば関東では府中の大国魂神社が有名です。区内では大国魂神社に縁があったり、講の流れを汲む神社が幾つかあり、府中にあやかって大きな太鼓を持っている神社も幾つかあります。特に稲荷森稲荷神社の「あ・ん太鼓」は、大きさは直径六尺(約2m)、重さが2トンもあり、新調当時は全国で三番目の大きさだったとか。現在でも東京都23区内では一番大きい太鼓と言われています。給田六所神社の太鼓も大きく、区内では二番目になります。そのほか、坂の多い土地柄なのでハンドルや強力なブレーキを取り付けた自作の独特な太鼓車も見かけます。
2、神輿の担ぎ方、宮入
- 連合宮入
- 神輿には神社所有の宮神輿と町会や睦会が所有する町会神輿(町神輿)があります。宮神輿の場合は一基、あるいは女神輿が運行される場合は二基での宮入となりますが、町会神輿を運行している神社で所属する町会が多い場合には町会が集まって次から次へと宮入りする連合宮入が行われます。特に華やかなのは8つの睦会が所属する北澤八幡神社の宮入で、世田谷一の盛り上がりを見せます。このほかにも等々力の玉川神社、奥沢神社、三軒茶屋の太子堂八幡神社、松原の菅原神社、代田八幡神社、上馬の駒留八幡神社などでも年によって違う場合もありますが、連合での宮入が行われます。連合宮入というわけではありませんが、烏山では旧甲州街道を3町会の神輿が一駅分の距離を連合で渡御するといった連合渡御が行われていて、こちらも結構人気があります。
- 崖線の宮入
- 神社というのは見晴らしのいい高台にあって、村を見守る存在・・・というのは田舎のよくある風景です。世田谷では山がないのであまりそういった風景はありませんが、小さな丘の上や川沿いの高台などに立地している神社が多いです。山がない世田谷でも例外的に急な斜面があります。それは多摩川、野川沿いに続く国分寺崖線です。崖線を町域に持っている町では崖線上に神社が鎮座している所が多く、岡本八幡神社、瀬田玉川神社、上野毛稲荷神社、野毛六所神社、尾山宇佐神社などが崖線の斜面にあります。この中でも瀬田玉川神社の宮入は神輿にロープを付けて階段を引っ張りあげるといった山神輿みたいな大掛かりな宮入となります。岡本八幡では狭く急な階段を器用に担ぎ上げるといった素朴で、力強い宮入が行われ、野毛では派手ではありませんが、崖線の下から長い坂を一気に神社まで登るので地味に大変です。
- 城南担ぎ
- 奥沢神社に所属する「南町会睦」は奥沢銀座会(奥沢銀座商店会)と、その先に続く奥沢親交会商店街が中心となってりる奥沢4丁目の睦会です。ここの特徴は世田谷で唯一城南担ぎで神輿が担がれる事です。城南担ぎは一般的な江戸前神輿と違い、担ぎ棒が横に組まれ正面を向かず向かい合って担ぎ、もんだり、さしたりしながら「おいさ」のかけ声で横にカニ歩きのような形で進んでいきます。これはお神輿に乗っている神様にお尻を向けずに担ぐ為です。また神輿の堂の脇に括り付けられた「太鼓」とその周りで吹く「笛」の拍子に合わせ、「ちょいちょい」と小刻みに激しく神輿をもむのも特徴です。
3、文化習慣
- 奉納相撲
- 世田谷八幡神社では江戸時代から伝統的に奉納相撲が行われています。江戸時代、相撲は歌舞伎や神楽に並ぶほどの娯楽であり、各地で盛んに行われていました。世田谷八幡宮での奉納相撲もそういった娯楽の一部でしたが、その規模や知名度は高かったようで、江戸時代には「江戸三大奉納相撲」(江戸郊外三大奉納相撲かも?)に数えられるぐらい有名だったようです。現在奉納相撲を努めているのは農大相撲部で、神事、相撲の稽古、取り組みなどを見ることができます。ちゃんとした土俵に円形劇場のような観客席があり、ちょうど大相撲の秋場所とも重なるので、結構楽しめるかと思います。
- 厄除け大蛇のお練
- 奥沢神社では土曜日に藁で作った大蛇を担いで町内の各神酒所を回っていくといった古風な行事が行われています。これは 江戸時代中期の宝暦年間(1751~64年)に、奥沢の地に疫病が流行し、病に倒れる者が続出したとかで、村人が困り果てていると、ある夜、名主の夢枕に八幡大神が現われ、「藁で作った大蛇を村人が担ぎ村内を巡行させるとよい」というお告げをしたそうです。早速、村人は新藁で大きな蛇を作り、その蛇を担いで村内を巡行すると、たちまちに疫病が収まっていき、村人は相談してその大蛇を八幡神社の鳥居にかかげたというのが、この行事の始まりとなっています。現在でも鳥居に大蛇が巻かれていて、厄除大蛇として親しまれ、疫病退散、健康を祈念する人が多いそうです。
- おひねり
- 祖師谷といえばウルトラマンが有名で、商店街もウルトラマン商店街と名づけられています。この商店街を神輿が進むときに、おひねり(小銭を紙で包んだもの)をお神輿に投げるといった変わった習慣があります。神輿におひねりを投げること自体珍しく、このほどの規模で行われるのは極めて珍しいといえます。小銭とはいえ投げられたものが当たると痛いし、道に落ちたものを拾うのも面倒だし、用意するほうも大変です。そういった理由で世間一般的に行われないのは見ていて一目瞭然です。でもこの地域ではずっと続いているというのは、なんていうか面倒をものともしないといった地域の絆が強いからかもしれません。
- 神楽・囃子
- 現在でも比較的大きな神社では神楽を行っていますが、どこも区外の社中(団体)に依頼しています。昔は神楽を舞う人が区内にいましたが、徐々にその内容を理解できる人が少なくなり、担い手もいないことから衰退しました。神楽が行われている時の境内の閑散とした様子を見ると、時代の流れだなと感じ、今後も神楽を行う神社の数が減っていくのではないかと思います。お囃子の方は、戦前など他の地域にも遠征するほど盛んに行われ、世田谷の囃子はそこそこ有名でした。しかしながら徐々に担い手がいなくなり、お囃子の文化も衰退しました。近年では古い文化を残そうと各地域の保存会の方々が継承に取り組んでいるものの、お囃子を熱心に耳を傾ける人は少なくなっているのが実際です。ビンゴ大会や餅撒きの前座になってしまっている感があります。
- 奉納演芸
- 祭りの楽しみは奉納演芸を見ること。というのはやっぱり過去の話となるでしょうか。昔は景気のいい年や式年大祭には芝居を呼んで村中の人がやってきたといった話が残っています。現在では地元団体の舞踊や演奏、カラオケ大会などが一日、もう一日はプロの人を呼んでパントマイム(道化)や演歌などの演奏を行っているところが多いです。ただ、よほど有名な人とか、面白いものを呼ばない限り境内が人で埋め尽くされるということはなく、一部の人が楽しんでいるといった感じです。娯楽の多い時代に若い人がこういった奉納演芸に積極的に訪れるといったことはなくなり、お金も掛かることから奉納演芸を行っていない神社もあります。また奉納演芸をやっても人が集まらないので、ビンゴ大会を行ったら人が沢山集まるようになったという神社もあります。人を集めようとすると何かしらメリットがないと難しい時代なのでしょうね。
著作権や使用画像など
最後にこのページに関してですが、載せている文章、画像等は特に断りがない限り、風の旅人に起因します。但し、「せたがや百景」「せたがや地域風景資産」についての事柄、題名、説明文章に関しては世田谷区や関係団体に拠るものです。神社やその祭礼に関しては氏子の方々が守ってきた事柄なので、意に反するような内容や写真があれば速やかに対処したいと考えています。逆にあまり情報の多い分野ではないので情報提供をいただけると助かります。背景に使用している紅葉っぽい図柄の壁紙は「篆刻素材AOI」様のを使わせていただいています。秋祭りということで秋っぽいイメージの壁紙を探していて、この画像に出会いました。
2015年10月 風の旅人管理人