若林稲荷神社と若林鎮守三社例大祭
若林2-18-1昔は村内に鎮座している三社で順送りに秋祭りが行われてきましたが、今では若林鎮守三社祭という風習を守りながら若林稲荷神社で盛大に行われてます。
1、旧若林村と若林の神社
*国土地理院地図を書き込んで使用
かつての若林村は、北は代田村、東に太子堂村、南に馬引沢村(三軒茶屋や上馬)、西に区役所などのある世田ヶ谷村と、由緒ある村に挟まれるように立地していました。
村の起源については分かっていなく、1401年の書物にそれらしき名があり、これ以前に村があったのだろう・・・としか分かっていません。
若林という地名についてもはっきりしたことはわかっていなく、若林という名称からして、新田、新町といった類の新たに造成された土地で、そこに木材などに利用する樹木が植林され、若い木々が茂っている様子が印象的で、そう名付けられたのでは・・・と推測されています。
世田谷が吉良氏の領地となったのを確認できるのが、1376年。実際に世田谷に居を構え、世田谷城を整備して地盤を固めたのは、次の世代か、その次の世代と言われています。
吉良氏が世田谷にやってきたタイミングで、それまであった太子堂村や馬引沢村などの隅っこの人が住んでいない場所を寄せ集めて、新しい村を造って直轄領にしたとか、配下に与えた・・・というのが、一番すっきりするような気がします。
若林村は、吉良氏が世田谷を支配するようになってから発展していき、吉良氏が滅びた後の徳川時代には、旗本領や幕府の鷹場になりました。
また、江戸時代には村の西方の丘を長州藩が買い、毛利家の抱え屋敷が建てられました。このため幕末、明治維新後にはのどかだった村が時代の波に少しさらされることになります。
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現在の若林町域は、縦横およそ1000mの正方形に近い形をしています。
町域の真ん中を縦に環七が通り、中央付近を世田谷線や烏山川が横切っていて、北端を淡島通り(旧滝坂道)が通り、南端には世田谷通り(旧大山道)が通っています。実に説明しやすいというか、分かりやすい町域です。
都心へ直結している鉄道駅はないものの、世田谷の中心付近にあるし、幹線道路が町域を通っているしと、交通の便は悪くなく、暮らすにはいい立地環境と言うことができます。
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ただ、暮らしやすいかと言うと、別の問題があり、若林の多くの地域、特に三・四丁目地区では、ちゃんと区画整理を行わずに宅地化されたので、住宅地に入り込むと、とても路地が入り組んでいて、袋小路も多く、住宅も極度に密集してます。
ごみ収集車が入れない場所では、区の軽トラックにゴミを載せ、少し広くなった場所で収集車に積み替えたり、タクシーや救急車を呼んでも家の前まで来てもらえないなど、道路事情がとても悪いです。
なんでも、車のカーナビゲーションの正確さを検証するため、実車走行の場としてこの地区を含めた若林が選ばれているとかなんとか。笑ってはいけないのでしょうが、笑ってしまう話です。
住宅が密集する地域の水路を整備した道です。
でもまあ・・・、率直に言ってしまえば、こういったことは暮らしている人の問題であって、自己責任という言い方もできてしまいます。洪水や土砂崩れの起きやすい場所に暮らしているのと一緒であり、離島や過疎地に暮らしていると、そもそも救急対応はできません。
こういった個の問題ではなく、全体の問題、いわゆる大局的な問題があります。それは火事の際に消防車が入れないことです。ここは古くからの木造住宅が密集しているし、さらに広げて考えるなら、周辺一帯も住宅が密集しています。
そう、ここは大都会東京。東京の大地は見渡す限り家屋で埋め尽くされています。もし初期消火に失敗し、周辺にも燃え広がるようなことになれば、万単位の人が焼け出されるような大惨事になりかねません。
この地域では所々に張ってあり、法の周知と理解を広めています。
なので、現在は防災対策が進められていて、「若林3・4丁目地区防災街区整備地区計画」や世田谷区役所周辺地区防災街区整備地区計画」の指定を区から受けています。
このことにより、新しく住宅などの建築物を建築する際には、建築基準法第67条の2の規定により幾つかの制限を受けることになるので、この点においては色々と暮らすのに制限を受けることになります。
住宅地の中に普通な感じであります。
というように、極度に住宅が密集していて問題になっている若林ですが、空襲の被害は受けましたが、それ以外では大きな被害なくやってきています。
それは若林には古くから若林鎮守三社といわれる福寿稲荷神社、北野天満宮、天祖神社があり、明治になってからは松陰神社が建てられるなど、神様に縁深い地域だからかもしれません。
松陰神社は長州藩の毛利家の抱え屋敷内に造られた吉田松陰の墓にちなんで造られた神社なので、若林の歴史とは縁のない神様や神社なので別として、古くからある3つの神社では1年ごとに交代でお祭りが行われてきました。
現在では、天祖神社は福寿稲荷神社に合祀され、若林稲荷神社と称されています。お祭りも若林鎮守三社祭として若林稲荷神社で毎年行われています。
ひっそりとした感じで存在感がほとんどありません。
若林鎮守三社の中で一番古く、由緒があるのは北野天満宮です。別名、若林天満宮、北野神社、石天神、牛天神とも言うようで、資料ごと名称が違っていてややこしいです。
この神社は、応永八年(1401年)武蔵国深大寺の僧、 花光坊長弁が、世田谷の若林石天神で連歌の法楽を奉納したと「長弁私案抄」に書いているので、それ以前からこの地に祀られていたことになります。この記録が先に書いた若林を記した一番古い記録になっています。
敷地内は狭く、めぼしいものはありません。
天神様なので、祭神は学問の神の菅原道真公となりますが、古くは霊石をご神体としてお祀りしていたので、石天神とも呼ばれていました。
江戸時代になると、牛天神と呼ばれるようになります。牛は菅原道真公の乗り物として天神様には欠かせないもの。駄洒落が多い天神様信仰のこと、石(いし)と牛(うし)の読みが似ていることから牛天神と言われるようになったとかなんとか。
そのことに因み、戦前まではご神体の牛が置かれていましたが、戦後のどさくさでなくなってしまったとか。しかしながら、平成22年、氏子の努力によりご神体の牛が60年ぶりに復活したそうです。
天満宮とだけ書かれています。
かつてはお参りすると「虫歯によく効く」と言われていたり、結婚式が行われたりと、付近の住民がことあるごとにお参りしていました。そして、お礼参りに持ってくる梅の盆栽が境内に所狭しと並んでいたそうです。
今ではそういった賑やかな様子はなく、敷地も環七が通されるときに大きく削られ、狭い敷地内にひっそりと社殿があるといった状態。手入れはされているものの、ちょっと寂れた雰囲気を感じます。もし自分が受験生で、願掛けに訪れたのなら、ちょっと考え、あまり流行っていなさそうだから松陰神社の方へ行こう・・・となってしまいそうです。
住宅地の中に埋まっています。
若林稲荷神社は、烏山川緑道の北側、住宅地を歩いていたら、あら神社があるといった感じであります。
この神社は、元々、福寿稲荷神社でしたが、天祖神社(神明社)が合祀され、名称も若林稲荷神社と変えられました。拝殿の額には、稲荷神社と合祀された天祖神社の名が仲良く並んで書かれています。
稲荷神社と天祖神社が並んで書かれています。
元の福寿稲荷神社の創建年代は不詳ですが、明和6年(1769年)に地頭より社領を奉納されていて、また元禄5年(1692年)の手水鉢が残されていることから、江戸時代初期から中期ぐらいの間に創建されたのでは・・・と推測されています。
合祀された天祖神社は、常林寺の内宮として存在してた神社で、寺門の右側に祀られていたそうです。
明治10年(1877年)に常林寺が焼失し、廃寺となってしまったために稲荷社に移されました。最初は本殿の右側に祀られていましたが、後に本殿に合祀したとのことです。
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若林稲荷神社のすぐ近くに太子堂八幡神社があります。同じように烏山川緑道の北側の丘に位置していている神社で、広い境内には緑が多く、いかにも神社という佇まいをしています。
それに比べると若林稲荷神社は、境内の樹木は少な目だし、狭いし、社殿なども近代的だし、住宅地の中に埋まっているといった状態です。神社の規模の大小は、かつての村の大きさ的にしょうがないとしても、あまりにも雰囲気が違いすぎます。
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これには理由があり、空襲に遭い、神社や周辺一帯が焼け野原になってしまったからです。昔の記録では樹木がうっそうと茂り、大木に囲まれた神社だったそうです。実際、戦争前の写真を見ると、太子堂八幡神社には及ばないものの、木々に囲まれている様子が見てとれます。
階段の右側は神楽殿の建物です。
昭和59年に建てられた新しい建物です。
戦災で焼失してしまったことを踏まえ、鳥居から入って階段を上ると、社殿のある広場に出ます。正面には立派な朱塗りの新しい社殿があります。これは昭和59年に氏子の努力によって再建されたものです。
それ以前のものは昭和20年の空襲で焼失してしまい、その後は他の神社から買い取ったお宮を移設して使用していたそうです。
変わっているのが、振り返ると神楽殿があることです。参道の階段の横に建物があり、それを見ながら階段を登っていくことになるのですが、上に登ってみるとこの建物が神楽殿になっているといった仕掛けになっています。
省スペースで効率的ですね。ちょっと驚きました。とはいえ、拝殿と向き合っている神楽殿というのは神楽の盛んな地域ではたまに見かけますが、普通の神社ではちょっと違和感を感じる配置となるでしょうか。
昔は弁財天などもあったようです。
天祖神社もこんな感じだったのでしょうか。
昔は末社として弁財天、大黒天、毘沙門天が本殿の横に祀られていて、弁財天を祀る池も境内にあったと言われていますが、現在では大黒天が本殿の左側に祀られているだけです。
神社や村が空襲に遭ったことから、本殿向かって右には招魂社が建てられていて、戦争で戦死した人々の霊が祀られています。かつてはここに天祖神社の社が置かれていました。
昭和59年に造り直された神社なので、全体的には歴史の重さとか、幽玄といった雰囲気よりも、新しく近代的な神社といった印象になるでしょうか。
2、若林鎮守三社祭について
若林村には古くから若林鎮守三社といわれる福寿稲荷神社、北野天満宮、天祖神社があり、3つの神社で毎年順送りでお祭りが行われてきました。
現在では北野天満宮は神社の規模が縮小され、天祖神社は福寿稲荷神社に合祀されて若林稲荷神社となり、昔のようなきちんとした三社ではなくなってしまいましたが、お祭りはかつての若林鎮守三社祭という形式を残しながら若林稲荷神社で毎年行われています。
昔は9月21、22日が若林の祭礼日でした。その前日の20、21日は池尻村の池尻稲荷神社の祭礼にあたるのですが、池尻では蛇の祟りによって祭りの日は必ず雨に祟られていたようです。そのとばっちりなのかわかりませんが、若林でも祭礼に雨が降ることが多かったという記録が残っています。
現在では氏子などの都合によって9月第二日曜日に本祭、その前日に宵宮が行われています。祭礼日が変わり、雨の呪縛からは解き放たれたのでしょうか。
幔幕(まんまく)に稲荷社と天祖神社の紋が仲良く並んでいました。
境内には提灯が多数取り付けられ、賑やかな雰囲気になります。
祭礼は土曜日に宵宮祭、日曜日に本宮祭となります。訪れると、提灯が参道、境内と、沢山つるされているのが印象的でした。
これだけ多くの提灯が灯っていると、とても賑やかな雰囲気となり、歩いていても楽しい気持ちになります。提灯の効果なのかわかりませんが、提灯が灯る時間帯になると、人がどっと増えます。
また、拝殿に取り付けられる幔幕に稲荷社の社紋と天祖神社の社紋が仲良く並んでいるのも、この神社ならではとなるでしょうか。
景気づけに祭りの初めに行われます。
ちょっと変わっているのは、宵宮祭。祭事自体は17時から社殿で普通に行われるのですが、その後、投げ餅が行われます。
祭りの最後に持ち投げをやるところは多いですが、ここでは総代などが祭りの開始の宣言と挨拶を行い、その後に景気づけとして行われます。寄せ太鼓ならず、寄せ餅といったところでしょうか。
前半はよさこいなど、後半はカラオケが行われます。
宵宮、本宮とも、18時から神楽殿で奉納演芸が行われます。私が訪れた2009年、2013年では、前半にフラダンスや舞踊、よさこいが行われ、後半は演歌中心のカラオケが行われていました。全体的にお年寄り向けといった感じでした。
最近のプログラムを見ると、カラオケが中心なのは変わりませんが、小学生・幼児の部ができ、少し若者、いや少し若返って中年向けになったかな・・・といった印象です。
かつては(昭和初期ごろ)お囃子が盛んだったようで、祭りのはじめには三番叟を踊り、蛇殺し(おろち退治)でしめくくったとのことです。今でもお囃子連はありますが、こぢんまりとした感じで活動しているようです。
神輿が通るころに訪れると、神事を行った状態のままになっていました。
日曜日の本宮の日は、9時半から天満宮での祭礼。10時半に神輿が出発し、11時から稲荷神社の祭礼。17時に神輿が帰ってきて、その後奉納演芸が行われるといった流れになります。
路上に屋台が並んで神社周辺が賑わいます。
若林稲荷神社の祭礼では、神社の前の通りに露店が並びます。近年の世田谷では、普通の住宅街に露店が並ぶというのはあまり見られなくなったので(隣の太子堂八幡は規模が異次元なので別として)、ある意味懐かしく感じる祭り風景となるでしょうか。
地域のおばちゃんが頑張る安心安価のお店です。
町会のお店も出店していて、地域のご婦人方が精を出していました。値段が安くて、知った人がやっているお店があると、安心ですね。
神輿の宮入に合わせて訪れると、子供たちであふれかえっていました。
夕方にもなると人が増え、賑やかになります。
昼間はひっそりとしているのですが、提灯が灯る夕方ぐらいから人が増え始め、夜にもなるとかなり混雑し、お祭りらしい雰囲気になります。
今後ともこういった雰囲気が続いてほしいのですが、路上で行っている以上周辺住民とのトラブルが起きてしまうと急に屋台が出なくなってしまうかもしれません。
3、神輿渡御の様子
三社の紋が屋根に取り付けられています。
若林鎮守三社例大祭では、本祭の日に宮神輿が運行されます。神社所有の神輿は、比較的小ぶりで、稲荷神社拝殿に合わせて唐破風屋根の勾欄造り。梨色の屋根には、稲荷神社、天祖神社、天満宮の三社の紋が取り付けられています。
年によって違うかもしれませんが、朝10時半頃から発輿祭が行われ、45分頃に宮出しが行われ、町内を回っていき、17時ころ宮入りをします。若林の町域は四角形に近い形をしているので、ぐるっと反時計回りに一周するような形になります。
子供神輿や子供山車も運行されますが、大人の神輿とは完全に別となり、土曜日の夕方頃4丁目界隈を、日曜日の昼過ぎに4丁目界隈や1丁目界隈を回ります。
・2009年の宮出しと宮入り
2009年は宮出しと宮入りを見学しました。
空が青く、秋らしいさわやかな朝でした。
出発前の神事です。
半纏を着た人達が並んでいる様子はカッコいいです。
神事後は挨拶やお神酒の乾杯などが行われます。
10拍の手締めを行ってから神輿が上がります。
境内で少しだけ練ります。
いよいよ出発です。
階段+鳥居なので、ちょっと大変です。
地元の人などに見送られて出発していきました。
神社付近も道が広くないので、窮屈な感じで進んでいきます。
お囃子の車が先導し、高張提灯、神輿と続きます。
狭い路地が多いので、機動力のある小型トラックが使われます。
烏山川が低地でその南北は高台になり、小さなアップダウンがあります。
テンション高く、入って来るなり喧嘩が始まっていました・・・。
境内が熱気に包まれていました。
祭りのクライマックスになります。
なかなか呼吸が合わなく、何度もやり直していました。
神輿が収まり、手締めで終了します。
・2013年の宮出しと環七渡御と宮入り
2013年は宮出しと、環七での北野天満宮への差し上げ、宮入りを見学しました。
この年はぐずついた空模様でした。
出発前の神事です。
神輿が上がると、境内で少しもみます。
警固の人が見守る中、神輿が階段を下ろされます。
毎年苦労しています。
お昼ごろの渡御の様子です。
道狭いので、電信柱や樹木に当たらないように気を使います。
ここの接待所は、普通の住宅地にありました。
夕方前、世田谷通りの方から環七に入ってきます。
ハイライトの環七渡御。舞台に上がるような感じでしょうか。
(*神輿を上から見るとバチが当たることもあります。)
一時的に環七を封鎖します。
若林の三社祭のらしい光景です。
世田谷線と被ってくれるとよかったのですが・・・。
大通りではとても楽しそうに担いでいました。
夕方から雨になり、宮入前には土砂降りになりました。
宮沢賢治を思い出しました
奮闘といった感じです。
無事に収まりました。
若林の神輿渡御は、朝10時半から発輿式が行われ、その後挨拶や注意事項などの説明、お神酒を飲んだ後、神輿が上がります。
境内で少しだけもんだ後、狭い階段を下って宮出しが行われます。狭くて急な階段、そして鳥居をくぐらなければならないので、ちょっと大変です。
宮出しされた神輿は若林1~5丁目を反時計回りに一回りしていきます。若林の町域は正方形に近い形をしているので、同じ場所を行ったり来たりするのではなく、ぐるっと一回りする感じになります。
若林は世田谷の中心付近にありながら、特に何もない地域。そんな印象が強く、神輿渡御も、何の変哲のない住宅街や商業地を回るだけの単調な神輿渡御になりそうな感じがしますが、ここの町域はなかなかどうして、けっこう特徴的です。
若林といえばカーナビの試験に使われるとかいわれるほど狭い道がごちゃごちゃしている町域です。窮屈に狭い路地を進んだかと思えば、町域の真ん中を縦断している東京の大動脈環七を封鎖して渡御が行われたり、世田谷線が町域を横切っているので、何度も踏切を横切ったり、下町的な雰囲気のある商店街を進んだりと、担ぐ人には色々と風景が変わって面白いことでしょう。
ただ、町域の真ん中を横切っているのは烏山川。現在では緑道になっていますが、この烏山川緑道部分が低地となり、その南北が高台になっているので、それなりにアップダウンがあります。
ここの渡御のハイライトの一つは、環七を進んで三社の一つ北野天満宮の前での差し上げるところです。渡御自体は一車線で行いますが、差し上げるときは2車線使わないとできないので、ちょっとの間環七を封鎖します。
環七や環八を横切る際に、交差点の信号を全部赤にして封鎖することはあっても、何もない場所で封鎖してしまうのは、ここだけではないでしょうか。環七を封鎖せよ!ってな感じで、消防の人が頑張って封鎖していました。
この他、先導する高張り提灯には若林三社神社祭禮と書かれ、その左右に天神様の梅紋と稲荷社の稲紋が描かれていたり、お神輿の屋根に三つの神社の紋が仲良く取り付けられていたり、狭い道が多いからなのか、先導するお囃子が小型トラックの荷台に太鼓だけ座り、笛は歩きながらだったりするのも、ここの特徴になります。
宮入は夕方17時頃。クライマックスといった感じで、担ぎに熱が入り、何度も境内でもみ、境内が熱気に包まれます。
4、感想など
担ぎ手で道があふれています。
かつて若林村には大きな地主がいなかったという話です。だから村は比較的平等な環境で平和的にお互いが助け合って暮らしていたとか。俗に「若林の人々は豪徳寺の鐘の聞こえない所へは行かない」といわれ、村の字の中の者同士で親密に付き合い、互いに助け合う習慣が長い間受け継がれてきたそうです。
現在でもそういった習慣は受け継がれていて、町は生活しにくいごちゃごちゃした路地が多い反面、人間的には下町的で親しみやすいといった事も耳にします。
お祭りもやはり平等とか、協力といった言葉がふさわしく、村にある三社で順送りに行われ、それぞれの当番が交代で祭りを行ってきた歴史があります。
現在では若林稲荷神社一社でのお祭りになってしまいましたが、こういった若林独特の地域性が今でもよく表れて・・・、と言いたいところですが、こういう内部の運営事情のようなことは外部の人間がちょこっと見学しただけではわかりません。お祭り自体はとてもいい雰囲気だったので、きっと今でもそういった風習が残っている事でしょう。
そういった事を思いながら、生活するには不便しそうな細い路地を進んでいく神輿渡御の様子を見ると、どことなく若林の町に親近感がわいてくるかもしれません。
世田谷の秋祭り #7若林稲荷神社と若林鎮守三社例大祭 2025年9月改訂 - 風の旅人
・地図・アクセス等
| ・住所 | 若林2-18-1 |
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| ・アクセス | 最寄り駅は世田谷線若林駅 |
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