* 旧若林村と若林稲荷神社などについて *
若林はかつての若林村だった地域で、北は代田、東に三軒茶屋や太子堂、南に上馬、西に区役所などのある世田谷に面している縦横およそ1000mの正方形に近い地域です。地域の中央を縦に環七が通り、中央付近を世田谷線や烏山川が横切っていて、北端を旧滝坂道が通り、南端を世田谷通り(旧大山道)が通っているといった交通の要所であり、大きな繁華街はないものの立地的には世田谷の中心部にある地域です。

若林村は吉良氏が14世紀半ば頃に世田谷にやってきてから発展していきました。地名についてははっきりしたことはわかっていなく、新田、新町といった類の新たに造成された土地に植林された若い木々といった事を意味しているのではといわれているそうです。
吉良氏が滅びた後の徳川時代には旗本領、幕府の鷹場となりました。また村の西方の丘には長州藩の毛利家の抱え屋敷も建てられました。このため幕末にはのどかだった村が時代の波にさらされることになります。

若林村には古くから若林鎮守三社といわれる福寿稲荷神社、北野天満宮、天祖神社があり、明治になってからは長州藩の毛利家の抱え屋敷内にある吉田松陰の墓にちなんで松陰神社が創られるなど、神様に縁深い地域です。松陰神社は新しい神社なので別として、古くからある3つの神社では1年ごとに交代でお祭りが行われてきました。
現在では天祖神社は福寿稲荷神社に合祀され、若林稲荷神社と称されています。お祭りも若林鎮守三社祭として若林稲荷神社で毎年行われています。

若林鎮守三社の中で一番古く、由緒があるのは北野天満宮です。別名、北野神社、石天神、牛天神とも言うようで、資料ごと名称が違うので困ってしまいます。この神社は応永八年(1401年)武蔵国深大寺の僧、 花光坊長弁が世田谷若林石天神で連歌の法楽を奉納したと「長弁私案抄」に記録が残っているので、それ以前からこの地に祀られていたとされています。
天神様なので祭神は学問の神の菅原道真公となりますが、古くは霊石をご神体としてお祀りしていたので石天神と呼ばれていました。江戸時代になると牛天神と呼ばれるようになります。牛は菅原道真公の乗り物として天神様には欠かせないものです。駄洒落が多い天神様信仰のこと、石(いし)と牛(うし)の読みが似ていることから牛天神ともいわれるようになったようです。それに因んで戦前まではご神体の牛が置かれていましたが、戦後のどさくさで紛失してしまったとか。平成22年には60年ぶりにご神体の牛が復活したそうです。

かつてはお参りすると「虫歯によく効く」と言われていたり、結婚式が行われたりと付近の住民がことあるごとにお参りし、そしてお礼参りに持ってくる梅の盆栽が境内に所狭しと並んでいたといった記録が残っていますが、今ではそういった賑やかな様子はありません。環七沿いにある神社は環七が通されるときに大きく土地を削られ、今では狭い敷地内に社殿があるぐらいで特に何もなく、ちょっと寂れた感じのする神社となっています。

若林稲荷神社は烏山川緑道の北側にある小さな稲荷神社で、福寿稲荷神社に天祖神社(神明社)が合祀されたものです。福寿稲荷神社の創建年代は不詳ですが、明和6年(1769年)に地頭より社領を奉納されていて、また元禄5年(1692年)の手水鉢が残されていることから、江戸時代初期から中期ぐらいの間に創建したと推測されています。
昔は末社として弁財天、大黒天、毘沙門天が本殿の横に祀られていて、弁財天を祀る池も境内にあったと言われていますが、現在では大黒天が本殿の左側に祀られているだけです。合祀された天祖神社はかつて代田村に所属していた時期もある常林寺の内宮で、寺門の右側に祀られていたそうです。明治10年(1877年)に常林寺が焼失し、廃寺となってしまったために稲荷社に移されました。最初は本殿の右側に祀られていましたが、後に本殿に合祀されました。

現在の若林稲荷神社は住宅地の中に埋まっているといった感じで立地しています。鳥居から入って階段を上ると社殿のある広場に出ます。正面には立派な朱塗りの新しい社殿があります。これは昭和59年に氏子の努力によって再建されたものです。それ以前のものは昭和20年の空襲で焼失してしまい、その後は他の神社から買い取ったお宮を移設して使用していたそうです。拝殿の額には稲荷神社と合祀された天祖神社の名が仲良く並んで書かれています。
変わっているのが振り返ると神楽殿があることです。階段を上るときに横に建物があったのが、上に登ってみると神楽殿になっているとはビックリ。省スペースで効率的ですが、拝殿と向き合っている神楽殿というのは神楽の盛んな地域ではたまに見かけますが、普通の神社ではちょっと違和感があります。

烏山川緑道の北側の丘に位置している神社といえばすぐ近くの太子堂八幡神社など緑の多い印象がありますが、ここでは樹木は少なめです。昔の記録では樹木がうっそうと茂り、大木に囲まれた神社だったそうですが、これも戦災の影響で樹木が焼失してしまったそうです。
神社や村が空襲に遭ったことから本殿向かって右には招魂社が建てられていて、戦争で戦死した人々の霊が祀られています。この社は移設された天祖神社のものを使用しているのかはわかりませんが、かつてはここに天祖神社の社が置かれていました。全体的には昭和59年に整備されただけあって新しい感じのする神社です。