烏山寺町
北烏山2、4、5丁目東京の小京都といわれるこの一帯は寺院が連なり、静かで緑濃いたたずまいとなっている。関東大震災後、被害にあった都心の寺院が移転して寺町はできた。景観を守るために、地域の住民の手で自主的に環境が保持されていることにも注目したい。一日ゆっくり寺々を訪れれば、それぞれ見所の多いところでもある。(せたがや百景公式紹介文の引用)
1、烏山寺町の歴史

*国土地理院地図を書き込んで使用
京王線の千歳烏山駅の北側、世田谷区の北西の外れといった表現がふさわしく感じるような場所に、「烏山寺町」と呼ばれている寺院が集まった地区があります。
京王線の千歳烏山駅や旧甲州街道からは徒歩で20分程もの距離になるので、なんでこんな辺鄙な場所に寺町が・・・と考えてしまうのは、散策好きな人間なら自然な事だと思います。
普通に考えるなら、古くからの繁華街から歩いて行ける場所とか、旧街道の裏筋や宿場町の外れなどに寺町が形成されることが多いからです。
その理由は、この寺町が大正後期から昭和初めにかけて形成された新しい町並み、この土地の歴史とは関係ない新興住宅街ならぬ、新興寺町だからです。

江戸時代中期のもので、関東大震災時に猛火に包まれ、破損しました。
烏山寺町は大正13年(1924年)に建設が始まり、大正15年までに6寺、昭和3年までの間に16の寺が引っ越してきました。その後、昭和30年までに4寺が増えて、現在では26の寺院で形成されています。
ここに寺町が形成された理由は、前年の大正12年に関東大震災が起こり、震災で焼け出された浅草や築地にあった寺などが、この地に集団で移転してきたことにあります。
もっとも、寺町の形成にはもうちょっと複雑な事情があり、例えば大正中頃の首都整備計画では、都市中心部の寺には墓地を置かないようにし、なるべく寺を郊外に移動させるといったような案が検討されていました。江戸時代の古風な町並みから脱却し、近代的な都市への脱皮を政府が考えていたからです。
そういった矢先に大震災が起きたので、ここぞとばかりに瓦礫化となった町の復興計画は綿密に練られました。そしてイギリスやドイツの都市計画を手本にして区画整備が行われ、昭和通りなどの幹線道路が配置されました。
その時に元の場所で復興が出来なかったお寺や、都市計画によって移転を余儀なくされた寺を中心に烏山に移転してきたというわけです。

昔は寺院通りと呼ばれていました。5番までのバス停があります。
なぜ烏山なのか・・・。先に書いたように、墓地を郊外に移転させる計画があったときに検討されていたのが、烏山だったとか、なんとか。元々ここに寺町を造る予定だったので、迅速に事が運んだ・・・とか。辻褄が合っていて、もっともらしいのですが、事実は曖昧のようです。
あるいは、この震災の時、築地にあった大本山の築地本願寺は、ほぼ全壊しました。当時の築地本願寺は58か寺の寺中子院で構成されるほど巨大な寺院でした。
復興にあたって、本寺は所在地で再建が許可されたものの、墓所や他の寺院の許可は下りなかったので、墓所と分院を陸軍省火薬庫跡地である和田堀(杉並)に移転させることが検討されました。
本願寺が和田掘りに行くなら、あまり離れていない烏山に移転しよう。土地が安いし。と、同じ宗派の寺院があまり離れていないこの地を選択し、寺町ができるなら我が寺も・・・といった感じで、他宗派も追従し、寺町の形成に至ったという説もあります。実際、烏山寺町には築地から移転してきた浄土真宗本願寺派の寺が多いです。
なぜ烏山だったのかは、ちょっと曖昧ですが、不便な土地ゆえに地価はかなり安かったようです。広い土地が必要な寺にとっては、土地が安いことはとても大事です。被災して懐事情も寂しかったことでしょう。
更には、住宅が密集した中に寺があれば、線香の煙がうんうんとか、周囲の住民に気を使うことが多いし、なにより、再び同じような震災が起きたときに、周囲からの火災に巻き込まれかねません。周囲に畑しかないような辺境の土地ならそういった心配がなく、都合のいい面も多かったようです。

かつての武蔵野の風景を連想してしてしまいます。
おまけに、大正13年と言えば、世田谷区では上北沢住宅街などといった郊外の新興住宅地が造られたり、成城学園の校舎建設が始まった時期です。郊外へ都市機能が広がり、どんどんと世田谷が切り開かれた時期でもあります。
そういった世の中のトレンドに乗った移転であれば、都落ちというよりは、新たな門出といった気持になれるというものです。そう考えると、まさに新興寺町といった表現がぴったりのように思います。

各寺には寺町形成以前からのケヤキやイチョウの立派な保存樹が多くあります。
寺町ができる以前の北烏山はどんな場所だったのか。突然、多くの寺が押し掛け、寺町を造っても問題なかったのか。ってことになるのですが、寺町ができる以前の烏山は、旧甲州街道沿いは間の宿としてそこそこ家が建ち並んでいましたが、街道を外れると人口も少なく、武蔵野の雑木林と畑が続く、純粋な農村といった土地でした。
街道からかなり北に外れている北烏山一帯は、一段と寂れていて、以前は桑畑を中心に養蚕業を営んでいましたが、養蚕業の衰退と共に畑も荒れた状態だったようです。

*国土地理院地図を書き込んで使用
そんな寂れた土地に寺町が造られていくわけですが、ちゃんとした道のない場所では寺院の建設もままなりません。甲州街道までのトラックが通れる道と、下水を整備する事が、土地を提供する地主に対して寺側が出した条件だったそうです。
そして道が造られ、下水が整備され、寂れた場所にバラック建て建物が一つ、又一つと建てられ、徐々に寺町としての形が整えられていきました。畑しかない場所に寺町ができるわけなので、かなり異様な光景だったそうです。
寺の俯瞰が徐々に整えられていき、植樹した木がしっかりと根付いた頃には、異質な存在だった寺町も周囲の風景に馴染む存在になったことだと思います。
道やインフラが整備されたので、少しずつ周囲に人が暮らすようになり、戦後になると、北烏山の畑だった場所に大きな集合住宅が次々と建ちました。そうなると、いっそう違和感が薄れていきます。
世の中に勢いがあり、人口も多かった昭和の高度成長期には、お寺にも檀家にも経済的なゆとりができ、多くの寺院で本堂などが建て替えられ、今日目にする寺町となりました。
2、現在の寺町と地域風景資産

比較的まとまっているので散策がしやすいです。
現在の寺町は、26の寺で構成されています。中央自動車道の南側に1寺、北側に25寺あり、南側にある妙高寺だけが仲間外れのような配置になっています。古い地図を見ると、元々妙高寺だけがちょっと離れていて、その間をうまく高速道路を通したようです。
寺町を歩いてみると、26もの寺があるので、それなりに広く、そこそこ歩くことになりますが、比較的まとまっているので、散策するにはちょうどいい感じです。
寺町の雰囲気は閑静といった表現がぴったりかと思います。これも世田谷の象徴である高級住宅街と共通するような感じかもしれませんが、寺町自体閑静であることが多いので、殊更強調することではないですね。少し緑の多い寺町といった表現が適切でしょうか。

樹木と寺の山門、長い塀が寺町らしさを出しています。

寺によって門前の雰囲気が違うので、通りを歩いているだけでも楽しいです。
百景の文章には東京の小京都と書かれていますし、せたがや地域風景資産でも世田谷の小京都となっていますが、散策してみると、実際にはそこまで大袈裟なものではないと感じるはずです。
小京都とは、名前の通り町並みや風情が京都に似ている土地に付けられる愛称ですが、厳密には「全国京都会議」というものが存在し、それに加盟している市町が正式に小京都の称号を名乗れるようです。
加盟基準は「京都に似た自然と景観」、「京都との歴史的なつながりがあること」、「伝統的な産業と芸能があること」の三点のようです。残念ながら烏山の寺町はこういった基準を全く満たしていないので、京都観光局が認める小京都になることはできません。

真宗大谷派のお寺です。
とはいえ、「小京都」というのはあくまでも愛称であったり、褒め言葉だったりするので、全国京都会議に加盟していなくても、全国的に観光宣伝などで自称、他称の「小京都」を名乗っている地域は多いようです。
なので、世田谷の小京都という表現が必ずしも間違いというわけではないのですが、ただ・・・、もしこの寺町が多くの人が認めるような小京都なら、世田谷一の、いや、東京でも名の知れた観光地となっている事でしょう。
烏山寺町を端的に言うなら、寺が26も集まっているので、「そこそこの規模で和風の空間が広がっている、閑静で緑の環境が多い寺院地区」といったところでしょうか。小京都といった雰囲気を期待しないで訪れたほうが、期待外れ感を感じなくていいかと思います。

第2回せたがや界隈賞も受賞しています。
烏山の寺町で注目すべきは、日本で最初に住民自らの手で地域の自然環境を保全する事を宣言した「環境協定」を制定したという事です。
この協定では「地域環境の維持向上」「地下水の保護」「自然環境の整備保全」「町並みの維持整備」といった事について自主的に決まり事をつくり、昭和54年12月12日に世田谷区から「みどりのモデル地区」として指定を受けました。

烏山弁天池特別保護区に指定されています。
正式には「烏山寺町自然保護モデル地区」という名称で、自然環境の保護及び回復に関する条例に基づいたものです。
このきっかけは、地下水の保護でした。この寺町付近は独特の地質をしていて、地下1~2m付近に大きな帯水層があります。これは宙水とも呼ばれ、浅い井戸で水を汲み上げることができます。その水の出口の一つが高源院にある弁天池です。
宙水を支えているのが、水を通さない粘土層。高層マンションの建設で地中深くまで杭を打ったり、寺院でも巨大な地下室を造るとなると、この粘土層に大規模な穴を開けることになり、宙水が下に流れ出てしまいます。まあ少々穴を開けたところで、そこまで影響はないとは思いますが、数が多くなると、最悪、宙水が消失してしまいます。
実際、ここの宙水と繋がっているとされる井の頭公園の池は枯れてしまい、今では人工的に地下水を汲み上げて維持しています。それを考えると、規制を行わないと、ここでも同じようなことが起きかねません。

寺町では多くの木が保存樹に指定されています。
もしそんなことになったら、弁天池が枯れるだけではなく、それを吸い上げていた寺町にある木々も枯れるおそれがあります。また、地中に空洞ができ、地盤沈下が起こる可能性もあります。
宙水を破壊しかねない大規模な工事をきっかけに、寺町の寺院と地域の住民が話し合い、この協定が制定されることになりました。環境の景観とか、緑を守ろうというのは一般的ですが、地下水を守るために大規模な地下の採掘は禁止されているのが、ここの協定の特徴です。

江戸に名が知れていた太田六右衛門の作品になります。
こういった協定や寺の関係者や住民の努力で守られてきた寺町は、第二回せたがや地域風景資産に選定されるのですが、なぜか「世田谷の小京都 釜六の天水桶」といった中途半端なものでした。
申請する段階では「世田谷の小京都」と寺町全体をイメージしていたようですが、申請団体の活動がそこまで全体的なものではなかったのか、テーマがあまりにも漠然とし過ぎているということなのか、個別の対象になってしまったようです。
これは最近の寺町が連携していない事の表れなのでしょうか。やはり寺町は寺町であって、個別の事案で地域風景資産に登録するのは、ちょっと違うような気がします。タイトルに付けている小京都的な意味合いからも矛盾しますし・・・。
無理をしてでも全体で登録すべきだったのではと思っていたのですが、第三回せたがや地域風景資産ではきちんと寺町として登録してきました。
こういった選定の経緯を鑑みると、登録される事自体よりも登録するきっかけで地域や団体が団結したり、意思確認ができたり、同じ方向に向かう事に意義があるのかなと感じ、せたがや地域風景資産というのは、結構有意義な制度なのかもしれないな・・・と、改めて思ってしまいました。
3、寺町の文化財など

都の旧跡に指定されています。
寺町にある26の寺を個別にここで解説すると大変なので、とりあえず有名な事柄だけをピックアップして行きます。
まず、専光寺には、都の旧跡に指定されている江戸時代の浮世絵師、喜多川歌麿(秋圓了教信士)の墓があります。美人画で有名な方です。
その他、寺町だけあって世間的に名が知れている・・・といっても知る人は知るといった方々の墓が、それぞれのお寺にあります。

区の史跡。ツツジの季節は周囲が華やかになり、美しいです。
妙寿寺の客殿は、明治期の鍋島候爵邸を移築したもので、世田谷区指定文化財に指定されています。客殿前にはツツジが植えられていて、つつじの季節にはとても美しい光景になります。これは檀家である西沢ツツジ園で有名な西沢さんがツツジを寄進したものです。
もしツツジの開花時に客殿が一般公開されるようなら、迷わず訪れましょう。2階から眺めると壮観です。

そんなに珍しいものではありませんが、雰囲気よく置いてあります。

浅草にあったころの名残でしょうか。力石を利用しているのが珍しく感じます。
幸龍寺境内には日本国歌「君が代」の歌詞にある「さざれ石」が置かれています。「さざれ石」自体はそこまで珍しいものではありませんが、そこそこ大きく、目立つ場所にあるので、思わず写真を撮りたくなってしまいます。
また、力石を利用した力士の碑も置かれています。お寺が浅草にあった時の力石を利用したのでしょうか。

住職の打つそばが有名となり、修行の妨げになることから建てたそうです。
稱往院(称往院)の門前にはちょっと変わった蕎麦禁制の石碑が置かれています。
浅草に寺があったころ、住職の打つそばが大評判となり、そば切り寺として知られるようになったそうです。蕎麦ばかり打っていては、修業や精進の妨げになると、住職が天明六年(1786年)にこの石碑を門前に建てたそうです。

寺町の桜の風景として知られています。
この他、源正寺には第二回地域風景資産にも出てくる釜六の天水桶があります。江戸幕府から「御成先御用釜師」を命じられた鋳物師、太田六右衛門の作品になります。いい具合に変色していてなかなか味があります。詳しくは風景資産のページで紹介しています。
百景の次の項、高源院の鴨池も、池の中央に赤い弁天社があり、寺町の象徴的な風景となっています。ここは烏山弁天池特別保護区に指定されています。
また、春の桜の季節、秋の紅葉の季節を初め、自然豊かな場所なので四季折々の風情を楽しむ事ができます。桜は玄照寺の枝垂れ桜が有名です。
4、烏山寺町の花まつり

お稚児さんとお釈迦様を載せた白象が寺町を練り歩きます。
寺町が一年で一番活気付く時期と言えば、お盆とお彼岸になるのでしょう。しかし、それは檀家さんが集中的に墓参りをするといった感じなので、あくまでもお寺と檀家さんとの事。寺町全体が異様に線香の匂いが充満しているぐらいで、何か特徴的な行事が行われているわけではありません。
それ以外で寺町がにぎわうのが、お釈迦様の誕生を祝う「烏山花まつり」です。以前は4月3日に行われていましたが、現在ではその近くの土曜日に行われています。この行事では各寺が協力してイベントを行っていて、寺町全体で行われる唯一の行事となっています。

おじいちゃん、おばあちゃんが孫のために張り切っているのが印象的でした。
この花まつりは、寺町が形になり始めた昭和3年から行われているもので、寺町に定着した寺町らしい仏教行事だと言えます。回数を積み重ねているので、曾祖母が花祭りに参加している孫を見て、昔を思い出すと言ったこともありそうですね。
花祭り自体は、全国的に行われているものと同じで、いわゆる白像を引っ張る稚児行列と稚児さんの健康を成長を願う法要が行われます。毎年、出発する寺と、到着して法要を行う寺が持ち回りで変わるので、年ごとに祭りの様子というか、背景が違います。

楽隊、僧侶、白象とともに寺町を歩きます。
私が訪れたときは、ちょうど枝垂れ桜で有名な玄照寺から浄因寺まで寺町を行列していきました。しだれ桜の玄照寺での様子はとても絵になっていて、美しい風景でした。やはりここでの開催は別格です。
寺町自体緑が多く、雰囲気がいいので、どういったルートでも寺町を歩く稚児行列は絵になりそうです。季節的にも桜の時期なので、花祭りに合わせて寺町の散策を行うのもいいのではないでしょうか。
5、感想など

狸の置物がたくさんあるお寺です。
烏山寺町を小京都と称すにはちょっと無理があるような気がしますが、小さな風景を探しながらのんびりと散策をする分には、なかなか楽しい場所です。
26もの寺があるので、寺巡りをすると、それぞれのお寺の個性を楽しむことができます。でも、もう一ひねり加え、桜の時期に風情を感じる寺、新緑や松の時期に風情を感じる寺、ツツジやアジサイが美しい寺、紅葉が見事な寺などを、探しながら散策してみるのも楽しいです。
それぞれのお寺が持つ雰囲気と、紅葉や桜などの季節の風景がうまく重なると、情緒のあるいい風景になります。ぜひお気に入りの風景を探してみてください。

インド調の建物で異国情緒を感じてしまいます。
実際に全部のお寺を回ってみると、同じようなお寺の集まりのように感じるのですが、宗派の違いや寺の規模などによって、建物や敷地の雰囲気の違いがけっこうあります。
また宗派とかではなく、お寺の公開の仕方や敷地内や墓地の手入れの仕方など、経営の姿勢というか、住職の個性というか、檀家さんや地域とのつながり方にも温度差があることにも、気が付きます。
最近はマナーの悪い参拝者も多く、都内のウォーキングスポットとなっている小さなお寺などでは、檀家さん以外の参拝はお断りと方針転換したお寺もあります。
逆に、積極的に説法会や写経会を開いたりする住職もいれば、お寺の建物を利用してお茶会や演奏会を開き、地域の交流の場にしている住職もいます。
そういったことをやっている住職は、素晴らしい人格者だ。と言うのは簡単ですが、こういったことは色々と余裕がないとできないことでもあります。

浄土真宗本願寺派のお寺です。
後継者不足やら少子化の問題は、伝統工芸や農業、漁業だけではなく、家族経営が基本の小規模なお寺さんにもいえる事です。ご高齢の住職夫妻を中心に何とか切り盛りしていたりすると、寺と墓地の保全と、檀家さんの法事だけで一杯一杯となり、それ以外のことには余裕ができにくくなるものです。
それぞれのお寺の事情によって運営方針が異なるのはしょうがない事です。そういった事も考慮に入れつつ、決められた約束事を守ってマナー良くお寺巡りなどをするようにして下さい。

寺町でも賽銭箱を置いているお寺と置かない寺とあります。
それから、2008年の11月26日の産経ニュースによると、近年世田谷区内の寺院で賽銭泥棒が相次いでいるとかで、烏山の寺町でも10月23日午前3時ごろ、男性容疑者(47才)が幸龍寺本堂に侵入し、仏具や賽銭を盗もうとしたところ、男性僧侶(36才)に気付かれ、持っていたカッターナイフを振り回し、僧侶の右腕を切りつけ重傷を負わせた疑いで逮捕されたようです。
更に記事によると、寺町ではこの半年間で約10件の賽銭の盗難被害があったとか。結構多いんですね。ちょっとビックリしました。それ故に防犯対策として敷地を閉鎖的にしているお寺もあるようです。

真宗大谷派のお寺です。可愛らしいお堂が印象的です。
私の友人は田舎でだだっ広いお寺を一人で守っているのですが、少ない人手で広大な敷地やら、大きな本堂を守るのはとても大変です。墓掃除に出れば、本堂は無防備になるし、法事などで外出するような事も多く、盗難に遭わない事を前提にしていないとやってられないとか。
そもそも本尊にしても、境内の燈篭などにしても、檀家さんなどの善意によって寄進されたものが多く、人の善意を疑ってかかるのは・・・といった気持ちも多分にあるようです。
最近は、法要の依頼が少なくなり、墓仕舞いも増え、お寺の経営が苦しい所も多いとか聞きます。お寺の関係者には、世知辛い世の中に変わりつつあるのかもしれません。
せたがや百景 No.42 せたがや地域風景資産 #3-19烏山寺町 2025年5月改訂 - 風の旅人
・地図・アクセス等
・住所 | 北烏山2、4、5丁目 |
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・アクセス | 最寄り駅は京王線千歳烏山駅。駅から少し離れています。 |
・関連リンク | 寺町(烏山寺院連合会)、寺町ドットコム |
・備考 | その他行事は公式サイトで確認できます。 |