みどりと静けさの北烏山九丁目屋敷林
北烏山9ー1ー38江戸時代からの農村風景と暮らしが感じられる貴重な風景である。所有者は現在も農業を営んでおり、屋敷林に囲まれた庭、古民家、納屋・蔵・井戸・竹林等などの資源が現存し使用されている。市民緑地として一般開放されている。(公式紹介文の引用)
1、北烏山九丁目屋敷林について

*国土地理院地図を書き込んで使用
甲州街道の烏山総合支所入り口交差点の北側に、高層ビルのエルザ世田谷タワーがあります。この界隈には他に背の高い建物がないので、遠くからでもよく目立ち、烏山を訪れるときのランドマークにしています。
そのビルの奥に、昭和大付属烏山病院があります。発達障害の分野において、とても権威のある病院になるようです。この烏山病院やエルザタワーと道を挟んで、この項目の北烏山九丁目屋敷林市民緑地があります。
ちなみに、烏山病院のすぐ北側にはツツジで有名な西沢つつじ園と烏山ツツジ緑地があります。ツツジの開花時期には、広いツツジ畑では色とりどりの花を咲き、その様子はまるでツツジのカーペットを敷いたよう。情報サイトにも掲載されているので、区外からも多くの人が訪れています。
このツツジ園の西沢さんも、この北烏山九丁目屋敷林市民緑地の下山さんと同様に、この地で古くから農業や植木をやっていた地主さんになります。

*国土地理院地図を書き込んで使用
烏山は、江戸時代に整備された甲州街道に沿って発展しました。現在の甲州街道はバイパス化された際に道筋が変えられたもので、昔はもっと南側、環八と甲州街道が交わる上高井戸の交差点の少し西側から京王線の北側を通る道が、かつての甲州街道の本筋になります。
街道沿いは上宿、中宿、下宿と分かれ、世田谷の中では珍しく農業以外で生計を立てている人が多い地域でもありました。
その反面、街道を少し外れると家もまばらで寂しい状態でした。特に街道の北側に広がる広大な地域、現在でいう北烏山一帯は雑木林が広がり、農家もまばらで、養蚕が盛んに行われていました。
時代が江戸から明治、そして大正に変わると、養蚕が廃れていきます。ちょうどその頃、関東大震災が起き、郊外への移住が盛んになりました。烏山の寺町は震災を機に都内にあった寺院が集団で移転してきた事で知られますが、養蚕が廃れ、土地が安かった事でこの地が選ばれたといった事情もあったりします。

戦後になると、東京は住宅難となります。どんどんと宅地開発が行われ、広大な未開発の土地があった烏山では、多くの公営住宅や社宅、マンションが建つ事となります。
戦後の混乱が終わると、経済が上向いていき、高度経済成長期に入ります。東京への一極集中が進み、更なる住宅難となり、烏山にあった畑はどんどんと宅地に変わっていきました。
それでも、平成の初めぐらいまでは比較的畑の多い地域であり、昭和59年に選定されたせたがや百景では、「北烏山の田園風景」として登録されているほどでした。
しかしながら、近年では相続などを機に、更なる畑の宅地化が進んでいて、オープンスペースが少なくなったと感じる地域です。

結構広い緑地で、緑が多いです。
比較的近年まで田園風景が広がっていた北烏山で、かつての養蚕の名残や昭和時代の農家の面影を感じられる場所があります。それがこの項の北烏山九丁目屋敷林市民緑地です。
市民緑地というのは、そこそこ広い土地の所有者が、特に使っていないけど、売ったり、土地活用したくない場合、税制が優遇される代わりに一般に緑地として開放するといった制度です。
ほとんどの場合が、本宅の横とか、近くの土地で、所有者の生活の場とはっきりと分かれていることが多いのですが、ここの場合は現在の住居や畑も同じ敷地内にあり、生活の場所以外が公開されているといった感じになっています。

ケヤキの木がそびえ、バス停が目の前にあります。
入り口は、バス通りにもなっている烏山通りに面しています。ちょうど入り口のところがバス停となっていて、停留所名も北烏山九丁目屋敷林となっています。
入り口には二本の大きなケヤキが聳えています。高い場所で電線が横に通っているので、まるでラグビーのゴールポストのように感じてしまったりします。もちろん入り口だけに木が植えられているのではなく、屋敷林と名付けられている通り、敷地全体が木に囲まれています。

正面にタワマンが重なってしまいます。
ラグビーのゴールポストのような入り口を入っていくと、内部へのアプローチもケヤキ並木となっています。こういったお屋敷だったり、別荘だったり、寺社だったりの並木道は、分譲される際にそのまま残されることもあり、小さな趣きのある風景としてせたがや百景などに選ばれていたりします。
例えば、松原のミニイチョウ並木だったり、成城の桜とモミジの並木道だったり。ここもそういった雰囲気のいい並木道なのですが、振り返ると、正面に背の高いタワーマンションがあり、ガッカリしてしまいます。

ここ下山家で開発された白菜にちなんだ碑です。
ケヤキ並木を進んでいくと、正面に「下山千歳白菜発祥の地」の碑があります。敷地内の一番目立つ場所に置かれているといった感じです。
下山というのはここの家主の名字で、江戸時代から代々農家を行っていた家系です。その下山家の下山義雄さんが昭和の初めに品種改良をして作ったのが、下山千歳白菜です。千歳は当時行政区分が千歳村烏山だったことから入れたのでしょう。
この白菜は普通の白菜の三倍もの大きさなのが特徴です。病気にも強く、戦後の食べ物の少なかった頃にはとても喜ばれたそうです。今でもこの下山家の畑で作られていて、学校給食にも利用されているとか。

品評会の様子です。一個200円。実は、世田谷産の野菜は安い・・・。
余り一般的ではない事や、こういった紹介の仕方から想像すると、大きいゆえに味の方に問題が・・・といった感じなのかなと思ったのですが、そうでもなかったようです。
ただ単に大きすぎて扱いに困るので、普通のサイズの白菜の方が主流になってしまったんだとか。普通の白菜ですら大きいですからね。
ちなみに世田谷の野菜収穫量(令和5年)を見ると、白菜は37トンで、9位になります。1位は大根で83トン。2位はトマトとジャガイモ。重さでのランキングなので、重たいものが多いですね・・・。
作付面積だと、1位がジャガイモで602a、2位コマツナ、3位大根の順になります。白菜は180aで、16位にまで下がります。

野草などが植えられています。
敷地内は低い垣根で仕切られていて開放感があります。
白菜の碑の右奥は普通の民家となっていて、現在の下山さんの生活スペースとなっています。とはいえ「ここから先立ち入り禁止」と案内板が設置されているだけで、柵とか垣根がなく、家の様子が覗けてしまえる状態です。これではプライベートが保たれていないような気もするのですが、このへんは昔ながらの農家の生活スタイルというか、家主の性格的なものかもしれません。
白菜の碑の奥は生活スペースとなっているので、左手に迂回して奥に進むようになっています。白菜の碑の後ろ付近には前庭があり、地域の人によって野草などが植えられていました。

二つあったうちの一つが残っています。

屋敷林の名の通りに背の高い木が敷地を囲っています。
野草が植えられている前庭の脇を進んで奥に進むと、土蔵や旧主屋があります。蔵は元々二つあったようですが、現在まで残ったのは一つだけ。この蔵は一階部分には米や麦などの食料、二階部分には着物などの生活用品などが保管されていたそうです。蔵があるのは敷地の南側で、屋敷林と共に主屋に吹く風などを防ぐ役割もしていたそうです。

現在では小さな離れとなっています。

切り取ると農村らしい景色になります。
旧主屋は明治20年頃に建てられたものです。それなりに雰囲気のある建物ですが、現在では小さな離れ的な建物になっています。
かつてはこの場所に主屋にふさわしい大きな建物がありましたが、新しい住居を建てた際に離れとし、多くあった部屋や土間などを削り、小さな離れとしたようです。

喜多見の次大夫堀公園民家園には、蚕や製糸の器具などが展示してあります。
かつて、広い主屋を利用して蚕を飼っていたそうです。蚕は「天」の「虫」と立派な漢字が当てられているように、当時は蚕様と大事にされ、人間の方が隅っこや空いたスペースで寝ていました。
昔はこれが普通のことでしたが、虫を触れなくなっている人が増えている現在の感覚では、想像するだけでぞっとしてしまうのではないでしょうか。天の虫とはいえ、見た目はそのまんま幼虫。慣れないと気持ち悪いのものです・・・・。

昔の農家の風景です。この先は畑なので入れません。
旧主屋の裏側には井戸があり、そして竹林があります。昔ながらの農家の風景といった感じです。昔の世田谷の農家では竹林はよくありました。農家にとって竹林はとても便利なもので、春にはタケノコが食料となり、育った竹は農業道具や生活用品を作る材料になっていました。
この竹林から先は立ち入り禁止となっていて、農機具が置かれた倉庫や畑が続いています。訪れた当時は、この家の方は現役で農家をしていて、ご先祖様が生み出した自慢の下山千歳白菜を生産していました。

裏から見ると屋敷林というのが実感できます。残念ながら今では宅地になっています。
敷地内からは畑がよく見えませんが、かつては敷地を出てぐるっと回ってみると、畑や屋敷林の様子がよく分かりました。
広い畑に家を囲むようにしてある屋敷林。昔は世田谷でも台風などの風よけにケヤキなどを防風林として屋敷の南側に植える家がよく見られましたが、現在で建物自体が丈夫になったり、土地が狭くなったり、倒木の恐れがあるために伐採されたりと、珍しい風景となってしまいました。

*国土地理院地図を書き込んで使用
最近の様子を航空写真やグーグルマップなどで確認してみると、広い畑が住宅地に変わっていて驚きました。相続があったのでしょうか・・・。
以前はこの畑で先祖自慢の下山千歳白菜を生産し、地元の小学校などに卸していましたが、そういったことももうなくなってしまったのでしょうか。
下山家は世田谷の農家の鏡的な存在に感じていたので、とても残念に感じますが、土地を多く持つ苦労や農業をやる苦労は、持たざる者、やらざる者にはわからない苦労です。しょうがないのでしょうね・・・。
この界隈、下山さんの土地を含めて、近年畑がめっきりと減っています。千歳烏山が住みやすい町と評判になり、さらに地価が高騰し、相続が大変なことになっているのかもしれません。それに、以前よりもさらに畑をやるよりも、土地を貸した方が儲かるのような世の中になっているのでしょう。
2、感想など

休めるように椅子なども置かれています。
くつろぐのには最適な雰囲気です。
この市民緑地でおやっと感じたのは、緑地と住居スペースの隔たりがほとんどなかったことです。
農業の基本は地域の共同作業です。お互い様や助け合いといった気持ちが大切になります。だから垣根を高くしたりする必要もないし、普通に生き、周りの人を信用していればプライベートを必要以上に隠す必要もありません。むしろ人が入りやすいような環境の方が、色々と都合がよかったりもします。
しかしながら農業がほとんど行われなくなり、住宅地や集合住宅に人が密集して暮らすようになった現在の世田谷では、そういった文化は消滅し、防犯優先で必要以上にプライベートを隠す生活スタイルが一般的になってしまいました。
それが当り前となった現在の世田谷において、ここでは昔ながらの人の温もりと、かつての農家の生活を感じることのできる素晴らしい場所に感じました。
喜多見の慶元寺周辺の畑も農の風景として表彰されるほど有名ですが、ここの風景もまた世田谷を代表するような素晴らしい生きた農の風景ではないでしょうか。ただ、自慢の白菜を育てていた広い畑がなくなってしまったのは残念です。
せたがや地域風景資産 #3-20みどりと静けさの北烏山九丁目屋敷林 2025年5月改訂 - 風の旅人
・地図・アクセス等
・住所 | 北烏山9丁目1−38 |
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・アクセス | 最寄り駅は京王線千歳烏山駅、徒歩10分弱 |
・関連リンク | 北烏山九丁目屋敷林(世田谷区)、世田谷トラストまちづくり(市民緑地) |
・備考 | 開園:午前9時~午後5時(11月~3月は午後4時まで) |