* 江戸氏と慶元寺 *
江戸太郎重長公の像
江戸氏の2代目。鎌倉幕府の記録である「吾妻鏡」に何度もその名が出てくる人物です。
近代人にも見えますが、狩姿を表しているそうです。
世田谷の左端、狛江市に面した場所に喜多見という地名があります。大きな商業圏でもなければ、有名な何かがあるわけでもなく、世田谷区の端といった場所柄、区内でも影の薄い場所といった印象を持ってしまいます。
しかしながら、よくよく調べていくと古くからの伝統的な風習がより濃く残った地域であり、江戸という地名のルーツがさりげなく喜多見に残っていたり、かつて喜多見藩というのがあったりとなかなか凄い土地で、世田谷区内でも独特な文化を持った地域と言うことができます。
江戸というのは、現在の皇居を中心とした地域の事で、江戸の地名の起源は、現在の日比谷辺りが東京湾の入江だったことから、「入江の戸口」略して江戸となった説が有力なようです。
その江戸を治めていたのが江戸氏だったのですが、もともとは武蔵平氏の名門である秩父氏の流れに属していて、12世紀の初めころに大手町付近に城郭を構え、地名を取って江戸氏と名乗り始めたようです。
喜多見を江戸氏が治めるようになったのは、江戸氏が源頼朝に助力し、鎌倉幕府の樹立に尽力した功によって喜多見を含む武蔵七郷を賜ってからです。江戸氏の本家は江戸城、いわゆる東京の真ん中に居城を構え、江戸氏一族は東京全体に広がって、豊島氏らとともに一世を風靡しました。
喜多見には庶流(母方の実家)の一族が暮らし、この地を治めたとされます。しかし、室町時代になると関東の内乱で太田道灌が台頭し、1457年には江戸氏は江戸の地を道灌に譲る形で明け渡し、一族がいた喜多見に移り住むこととなってしまいました。
その後は後北条家に属し、世田谷を治めていた吉良氏の配下に入り重臣として活躍しました。
江戸太郎重長公の座像と位牌
江戸氏の古い位牌などが残っています。
天正18年(1590年)に北条氏や吉良氏が滅亡すると、徳川家康に喜多見村500石を安堵され旗本となります。この時に新たに江戸を本拠とした徳川氏に遠慮して喜多見と性を改めました。
その後、喜多見重政の代、五代将軍綱吉の時代になるのですが、御側小姓、側用人とどんどん出世し、結果2万石の大名となり、この地に武蔵国喜多見藩を興しました。
将軍綱吉といえば犬将軍、生類憐れみの令がよく知られています。綱吉に寵愛された重政は犬大支配役に任命され、喜多見に犬小屋を建設したとされていますが、その場所や真偽は定かではありません。
喜多見藩ができてから約三年後の元禄二年(1689年)には、分家筋の喜多見重勝(茶道の達人で成城三丁目のお茶屋坂は彼の茶室があった事で名付けられたもの)の子重治が妹婿と江戸城内で刃傷事件をおこして斬罪となり、領地没収されてしまいました。
その後、元禄6年(1693年)に下された定で喜多見氏はお家取りつぶしとなってしまいました。(この改易騒動に関しては様々な説があり真相は定かではありません)
さすがに一族同士のいざこざでは忠臣蔵のような美談にはならなかったようです。・・・というか、身内の喧嘩を江戸城内でやるなよ!といった感じでしょうか。それにしても約3年間とは・・・、あまりにも短命だった喜多見藩でした。
慶元寺本堂の扁額
増上寺の法主椎尾弁匡による書です。
と、前置きが長くなりましたが、その江戸氏の菩提寺がこの慶元寺となります。正式には永劫山華林院慶元寺といい、浄土宗京都知恩院の末寺にあたり、本尊は阿弥陀如来座像です。
創建に関しては、文治二年(1186年)に江戸氏2代目の江戸太郎重長が現在の皇居内に位置する紅葉山に開基した寺が始まりで、当時は天台宗の岩戸山大沢院東福寺と号していたようです。
重長に関しては、鎌倉幕府の記録である「吾妻鏡」に何度もその名が出てきていて、三浦一族との戦いに出兵していたり、その勢力が強かった事が書かれています。
室町時代になると、急激に勢力を伸ばしてきた太田道灌に江戸を明け渡し、喜多見に移り住むことになりますが、その時に菩提寺である東福寺も一緒に移転してきました。
そして天文九年(1540年)には真蓮社空誉上人が中興開山し、その時に浄土宗に改められ、現在の永劫山華林院慶元寺と改称されました。
江戸氏(喜多見氏)の墓所
区の史跡に指定されています。
徳川の世の中に変わるころ、江戸幕府を開く徳川家に配慮し江戸から喜多見に改姓しました。その初代となる喜多見若狭守勝忠が文禄二年(1593年)に慶元寺の大改修を行っています。
江戸時代になると寛永十三年(1636年)には徳川三代将軍家光公より寺禄10石の御朱印地を賜っています。以降元禄6年(1693年)にお家取りつぶしになるまで喜多見家の菩提寺として守られてきました。
墓地内には江戸氏、喜多見氏の墓があります。史跡となっている墓所には、中央の奥に江戸氏初代江戸四郎重継(文治元年10月23日没)、二代江戸太郎重長(嘉禄元年8月12日没)の五輪塔があり、そして両側に歴代の墓が並んでいます。
さすがにお家断絶となってしまったので、大名家の墓所としては狭く、寂しい感じです。
* 慶元寺の境内について *
美しい杉並木の参道
とても雰囲気のいい参道です。
慶元寺やお隣の喜多見氷川神社の参道は世田谷区の中でも立派というか、昔の雰囲気のままで残っています。ここ慶元寺では参道の横に杉が多く植えられていて、山中にある古刹といった雰囲気です。
長い杉の参道を進んで行くと、山門の手前に江戸氏の2代目、江戸太郎重長公の銅像が設置されています。重長は1186年に慶元寺の前身である東福寺を江戸の紅葉山に開山した人で、昭和60年(1985年)11月3日に慶元寺の開山800年を顕彰して銅像が建てられました。
桜の時期の山門
趣のある山門と桜はよく似合います。
参道の正面には立派な山門があります。宝暦五年(1755年)に建立されたもので、昭和50年に改修されました。頭上には永劫山の扁額が掲げられています。
喜多見陣屋の門だったという言い伝えも残っているそうですが、これはあくまでも伝承で、その根拠は何も見つかっていないようです。
そういった伝承よりも現在のこの門の脇には立派な桜の木が植わっていて、春には山門と桜で絵のような素敵な光景を作ってくれます。
慶元寺本堂
区内の寺では最古の建物です。大きく傾斜のきつい屋根が特徴的です。
山門を入ると正面に本堂があります。とても屋根が大きく、重厚感のある建物です。手入れが行き届いているので新しくも古くも見えますが、享保元年(1716年)に再建されたもので、現存する世田谷区内寺院の本堂では最古の建造物となるようです。
本堂内には一族の霊牌や開基江戸太郎重長と寺記に記されている木造が安置されています。
慶元寺の庫裏
前庭を含めて美しい建物です。
本堂横の庫裡も本堂に引けを取らない建物で、屋根の複雑さと重厚感が美しです。近年修復が行われたので、部分的に新しい木材が使用されています。
庫裡の奥にある庭園部分には喜多見古墳群中の慶元寺三号墳から六号墳まで四基が現存していますが、普段は公開されていません。
その他境内にある鐘楼堂は宝暦九年に建立されたものを戦後改修したものになります。
六地蔵と念仏車
墓所の入り口に祀られています。
無縁塔と子育水子地蔵尊
墓所を見守っています。
山門の右手には墓地が広がっています。入り口には六地蔵が祀ってあり、その横には念仏車が設置されています。
その正面には無縁塔や水子地蔵が祀られています。墓地内には史跡となっている江戸氏(喜多見氏)の墓所もあります。
三重の塔
背景を含めて美しい塔です。
墓地の正面には一際目立つ三重の塔が建てられています。塔のてっぺんの相輪が金ぴかに光っているのが印象的です。この塔は平成5年に建立された新しいものです。
境内の木々を背景にすると絵になっているのですが、境内の外、稲荷塚古墳辺りから畑の背後に存在する様子もよく、せたがや地域風景資産に指定されています。
桜と慶元寺幼稚園
慶元寺に面してあります。楽しそうな感じの幼稚園です。
境内の一角、喜多見中学校や喜多見緑道に面するように慶元寺幼稚園があります。本堂や庫裡の重厚な建物とは一転してとってもメルヘンチックな建物となっています。その対比がなんとも面白く感じます。
ここには桜が多く植わっていて、春の時期訪れると普段よりも一層楽しそうな雰囲気になります。
* 慶元寺の行事 *
花まつりの行事案内
喜多見での行事案内は黄色い紙が使われることが多いです。
慶元寺では春にはお釈迦様の誕生を祝う花まつり、夏には先祖の霊を慰める御霊まつりに秋には十夜法会が行われたりと様々な行事が行われています。
残念ながら花祭りは晴れてはいたのですが、午前中に降った雨によって中止となってしまい見学できませんでした。ちょっとの雨でも中止になってしまうようです。園児による白象のお練り供養や人形劇、甘茶や団子の接待があるようです。
* みたままつり *
太平洋戦争の慰霊塔前での法要
本堂に引き続き、墓地へ向かう前に法要が行われます。
墓施餓鬼の様子
僧侶の列が墓地を回ります。
盆踊りの様子
子供たちが楽しそうに踊っていました。
夏のみたままつりでは法要、墓施餓鬼、盆踊りと三つの行事が行われます。法要は最初に本堂で行い、そのあと境内にある太平洋戦争の慰霊塔などで行われます。
墓施餓鬼は僧侶がお経をあげながら墓地を回る行事で、その時に代表の檀家さんが餓鬼畜生に施す米などをまいて歩き、一般の檀さんが墓地で手を合わせて通り過ぎるのを待ちます。薄暗い時間帯に行われるので、少し行事の名前通りに不気味です。
盆踊りはだれでも参加できるものではなく、お隣の幼稚園の園児によるものです。可愛らしい浴衣姿の園児が踊る姿はほのぼのとしていいものです。
* 十夜法会 *
十夜法会の念仏行進
23区内とは思えない風景です。
十夜法会とは浄土宗独自の法要で、御仏や御先祖に秋の穣を供え、報恩感謝を表す法事の事です。十夜法会では念仏行進と双盤念仏が行われます。
念仏行進は講によるもので、独特の服装で念仏を唱えながら喜多見を回ります。知らないで遭遇するといくら喜多見とはいえビックリするようで、何これ~と立ち止まる人も多いです。行列がお寺に戻った後に農産物の無料配布も行っていて、そちらも人気があります。
双盤念仏
区の無形民俗文化財に指定されています。
双盤念仏は双盤という打楽器を使用する念仏のことで、太鼓一人、平鉦(双盤)4人が組になり、太鼓打ちが音頭を取り、鉦張り4人と共に調子を合わせて「引声念仏」を合唱します。
掛念仏とも言われ、独特の音色というか、阿波踊りとお囃子を足して適当に割ったような感じというか、なかなか面白い念仏です。近年では双盤を行える人が少なく、区の無形文化財にも指定されているといった貴重なものです。
* 慶元寺界隈といかだ道 *
慶元寺と喜多見氷川神社の間
歴史を感じる通りです。
慶元寺の屋敷林
白壁と樹木。ちょっと変った風景です。
慶元寺の界隈はせたがや地域風景資産に数多く登録されています。正直言ってやり過ぎといった感もありますが、「慶元寺三重塔の見える風景」は慶元寺の東側にある稲荷塚古墳から見た五重塔の風景で、「畑の間の土の道」は慶元寺の北側を通る土の道で、この畑の一部は先にあげた稲荷塚古墳から見える畑と被っています。こちらは歴史的な価値よりも農業の風景と言うことなので、別の項目に記載しています。
そしてもう一つが、「喜多見・歴史の道 慶元寺・氷川神社界わい」で、慶元寺と西隣にある氷川神社を含めた一帯ということになります。江戸氏の菩提寺である慶元寺、そして江戸氏が再興した氷川神社は古くから喜多見の文化の中心的存在であり、地域の人々の崇拝を集め、伝統が守られてきました。参道がよりよい状態で残っているのがその象徴で、この付近は比較的開発から免れている感じがします。
とりわけ慶元寺の白い塀と樫の並木がある部分が特徴的でしょうか。塀に引っ付くように並んでいる木はちょっと窮屈そうな感じですが、面白い風景を作り上げています。そして氷川神社との間の道は木がうっそうと茂り、世田谷らしからぬ風景というか、世田谷で一番歴史を感じる道となっています。
* いかだ道 *
小祠といかだ道
樹木が多く、味のある小道です。
それから百景の文章に出てくる「いかだ道」ですが、かつて奥多摩で伐採した木を江戸などに運ぶのに多摩川を利用して流していました。何本もの木を筏のように束ねてそれに筏師が乗って運ぶといったもので、3~4日掛けて多摩川の下流である六郷に運んでいたそうです。
木材を無事に下流へ運ぶと筏師は再び奥多摩に帰っていくわけですが、現在のようにバスや電車に乗ってという訳にはいかないので、なるべく最短距離になるように多摩川沿いを歩いて帰っていました。その道が筏道といわれているものです。
いかだ道は比較的高台を利用した道となっていました。増水すると道が使えなくなってしまうからです。そして道沿いには筏師が利用した食堂や簡易宿が所々にありました。
交差点の案内板
おもしろ案内板です。でもわかりにくいです。
実際にこの道が栄えていたのは大正時代までで、鉄道や車といった交通の発達によって大正末期にはいかだ流しは行われなくなりました。
いかだ道は今でも多摩川沿いのあちこちに残っているのでそう珍しい存在ではありませんが、このいかだ道と水道道路を覚えると迷路のように入り組んだ喜多見で迷う事が少なくなります。
* 感想など *
三匹の招き猫
古びたタッパに埃まみれの猫たち。風情があって好きです。どこにいるか探してみてください。
かつて小さいながら喜多見藩があった喜多見は世田谷の中でも異質な文化を持つ土地で、今でも畑が多く、特に慶元寺や氷川神社周辺は落ち着いた環境が残っています。昔ながらといった風景がよく残り、道がわかりにくく、慣れないとすぐに迷子になってしまいますが、迷子になって発見することも多い土地でもあります。
慶元寺は喜多見家の菩提寺であり、短い間ですが大名家の菩提寺という肩書がありました。なかなか見どころと伝統のある立派なお寺です。文化財に指定されている十夜法会などの伝統行事に合わせて訪れてみるのもいいかと思います。
せたがや百景No.60 喜多見慶元寺
ー 風の旅人 ー
2017年9月改訂