* 宇奈根と宇奈根氷川神社について *
多摩川と野川に挟まれた細長い地形に宇奈根があります。極端に例えるなら大きな中州みたいな場所で、高いところでも海抜20mと平坦で水の便がよく、また多摩川から堆積した肥沃な土壌があり、古くから稲作が盛んな地だったようです。
もちろんその反面、低い土地なので水害に悩まされてきました。多摩川と野川の二つの河川の影響を受ける場所なので、世田谷で一番水害に悩まされてきた土地でもあります。
水害によって家屋や田畑の被害が出るのは当然ですが、度々川の流れが変わってしまうのも厄介な問題でした。一時期、多摩川の流路が変わって中の島と呼ばれていた頃もあったようです。
水害の被害に溜まりかねて移住したのが桜丘にある宇山地区です。宇山は宇奈根山谷を略したもので、今でも宇山稲荷神社を中心に小さな地区で秋祭りや盆踊りなどを行っています。
また流路の変更で川の向こう岸である川崎側に取り残されてしまった地域もあります。こちらは宇奈根山野地区で、現在でも住所として川崎市高津区宇奈根として残っています。
かつては船を使った渡しで簡単に行き来できたので、そう離れた場所ではありませんでしたが、現在では橋の架かる場所まで大回りしなければならないので、特に交流はなくなってしまったそうです。
宇奈根という地名も変わっています。これは諸説色々ありますが、江戸時代後期、多磨郡の名所・旧跡が挿絵入りでまとめられた地誌「武蔵名勝図会」には、「上古の世には海比(うない)と号せしにや。万葉の古詠などにもありけり。それより唱えを転じてウナニともいいけるや。上古には溝渠をウナニと唱へける由・・・」と書かれています。
この溝渠は稲作用の用水路ではないかと推測すると、平陸の地で昔から農業(陸稲)が盛んだったと思われることからウナニが多くあり、これが転じてウナネになったとする説が一番有力視されています。
その他、宇奈根神(宇迦売神なら稲の神様)という穀物の神様説や、畦目(うなめ)、畝目(うねめ)からつけられたとする説など様々ですが、田畑にまつわる起源説が多いのも伝統的に田畑で生業を立ててきた宇奈根ならではの事かもしれません。
江戸時代、明治にかけては洪水以外は特に何事もなく、農村として順調に発展していた宇奈根ですが、大きな変化が訪れたのは関東大震災以後です。復興のために多摩川の砂利採集が盛んに行われるようになり、玉電の砧支線が二子玉川から宇奈根の砧本村(現在の駒大の多摩川キャンパスがある付近)まで開通しました。
その後、わかもと製薬の工場(現在の駒大の多摩川キャンパス)ができ、戦時中は軍事工場に利用され、付近の人口も増えました。
しかしながら終戦間際には軍事工場があるために空襲を受け、工場だけではなく、多くの家や神社が焼失することとなってしまいます。
戦後は再び農村として再出発しましたが、徐々に押し寄せる宅地化の波には勝てず、離農が進んでいき、今では畑などのオープンスペースが少なくなってしまいました。
宇奈根の氏神は宇奈根氷川神社なのですが、非常にわかりにくい場所にあります。たいていの神社は軸となる旧道なり大通りなりの曲がる場所さえ間違えなければ辿り着けるのですが、ここではそう簡単ではありません。
狭い路地をちょこちょこ曲がらないと行き着くことができないという分かりづらさ。初めて訪れる人は迷うことを覚悟したほうがいいかと思います。
水道道路沿いにある観音寺の山門からひたすら真っ直ぐ多摩川へ向かうか、思い切って多摩川沿いの土手から竜王公園を経由して向かうのが一番わかりやすいかもしれません。
宇奈根には考古学資料室といった小さな考古学の博物館があるのですが、そこへ行くのも大変で、多くの人が途中で迷い、人に尋ねて何とかたどり着いたといった話をよく聞きます。
これも宇奈根自体が昔の農村の面影を色濃く残しているからです。農村では大きな敷地を持った地主などの土地や畑をぬうように細い道が取り付けられています。人が少ないので立派な道や広い道は必要ないからです。
その土地が区画整理を行わずに分譲されると、細くジグザグだった農道がそのまま残った状態で家が立ち並ぶことになります。大きな土地を持った家や畑ばかりだった時は問題なくても、多くの人が住むと道の狭さなどに不便をしますし、家々が塀を取り付けると視界が悪くなり道がわかりにくくなります。
宇奈根氷川神社の創建などに関しては、新編武蔵国風土記稿には「小名中通りにあり、村内の鎮守なり、本社四尺五寸四方の東向、上屋二間半四方、前に木の鳥居を立つ、神体は白幣、いつの頃鎮座せしと云ことを云へず、村内観音寺持」とあるので、江戸時代に村の鎮守だった事ぐらいしか分かっていません。
伝承によると、鎌倉時代に多摩川の上流から龍ヶ渕(竜王淵)に三人の兄弟が流れ着き、その三人が宇奈根、喜多見、大蔵の氷川神社に祀られたとか伝えられています。
喜多見にある氷川神社は創建が740年といわれる伝統と格式を備えていますが、少し歴史を紐解いていくと延文年間(1356~1360)に多摩川の洪水によって社殿を流されています。
その時に神社があったのが宇奈根の龍ヶ渕だったのではと言われ、現在の竜王公園がある付近の多摩川沿いとなります。当時この付近は多摩川沿いに高い崖があって神秘的な場所だったとか。洪水を機にもっと内陸にと言うことで、現在の場所に移ったとされています。
喜多見と大蔵にある氷川神社とは三所明神といった関係になっている事を考えると、この洪水を機に内陸の三カ所に分社したという事も考えられるかもしれません。
また、同じ木から御神体をつくったといった伝承もあります。神社自体はそれぞれの歴史があるかもしれませんが、氷川神社を祭神として勧請し、祀ったり、改宗した時期は一緒だと考えるのが自然です。
大蔵村に残る大蔵氷川神社についてのいわれは、鎮座年歴不詳、社伝によると領主江戸氏が足立郡大宮(さいたま市大宮区)の氷川を移して当社、宇奈根、喜多見に祀るとあります。
更には大蔵出身で幕府の書物奉行にもなった石井至穀の書いた「大蔵村旧事項」によると、宇奈根に大己貴尊(一の宮)、大蔵に素戔嗚尊(二の宮)、北見(喜多見)に奇稲田姫(三の宮)、石井戸大神宮に手摩乳(四の宮)、岩戸八幡(狛江市)に脚摩乳(五の宮)が勧請されたとあります。
そして大蔵氷川神社には多くの棟札が残っていますが、その中に永禄八年(1565年)の「武蔵国荏原郡石井土郷大蔵村氷川大明神四ノ宮」と記されている棟札があります。石井戸のものを保管していたとするならつじつまが合いそうです。
となると江戸時代より前は三社のうち宇奈根の氷川神社が一番の格式があったのかもしれません。
江戸氏は源頼朝に助力し、鎌倉幕府の樹立に尽力した功によって武蔵七郷を賜っています。その一つが喜多見です。江戸氏の本家は江戸城、いわゆる東京の真ん中に居城を構え、東京全体に広がって、豊島氏らとともに一世を風靡しました。喜多見には一族の木田見氏が暮らしたとされます。
1457年には内乱に乗じて台頭してきた太田道灌によって駆逐され、一族を頼って喜多見に住み、吉良氏に仕えることになります。
宇奈根、喜多見、大蔵の氷川神社が三社明神だとすると、一遍に3つの村に勧請できる影響力があったのはこの地を治めていた江戸氏と考えるのが有力だし、氷川神社を勧請するのが流行ったのもちょうど江戸氏の時代。吉良氏の時代では八幡様になっていたはずです。
ということで単純な推測ですが、鎌倉時代中期から室町時代に宇奈根などの氷川神社が勧請されて、整備されたということになるのではと思ったりします。
古い話なので確かなことは分かっていませんが、このように色々と推察や想像してみると面白く感じます。もっともらしく書いていますが、全然見当外れの場合もありますので、しからず。
時代は変って明治4年には宇奈根村の村社となり、明治14年に村内の神明社が境内に移されています。昭和20年3月23日には空襲を受け社殿、神輿等、神社はほぼ全焼してしまいました。
昭和27年に仮小屋で神社を再建。昭和37年には氏子の寄付や神明社のあった土地を売ったりして再建しますが、老朽化が目立つようになったので、平成11年に新しい社殿を新築し、境内も整備されました。
ここを訪れてまずビックリしたのはそれなりに敷地が広い割には何もない・・・といったことでした。都内でこれだけスカスカの神社も珍しいかもしれません。松が植えられているので、まるで浜辺にある神社と錯覚してしまうほどです。本当にそんな印象を持ってしまいました。
百景の文章では「農村風景をそこかしこにとどめる宇奈根。氷川神社の境内には子ども達の遊ぶ姿を見かけることも多い。村の鎮守様は健在だ。都市化の波でつぎつぎに失われていった村の鎮守の原像を見る思いがする。秋祭りには地区の人総出で大いに賑わう。」とありますが、ここまで広ければごちゃごちゃした神社と違って遊びやすいかもしれません。
現在の神社は参道には松の木が、社殿の前にはイチョウとケヤキの大木が、社殿の周囲にもイチョウなどの木が植えられていて、木に守られているといった感じです。また秋になると紅葉がきれいです。周囲に高い建物がないので、青空によく生えます。
ちなみに宇奈根氷川神社は川向こうの川崎市高津区宇奈根にもあります。この氷川神社はここ世田谷の宇奈根氷川神社から昭和2年に分霊し、戦後の昭和27年に神社として創建されたものです。
かつては一緒に祭りを行っていたのですが、行政区分も神奈川と東京に分かれ、多摩川には立派な堤防ができ、渡し船での行き来がなくなると一緒に祭りを行うどころか、気軽にお参りするのさえ困難となり、川崎側にも氷川神社を造る運びになったそうです。
* 宇奈根氷川神社の盆踊り *
宇奈根氷川神社が活気付くのは夏の盆踊りと秋祭りになりますが、盆踊りの方が多くの人が訪れ境内が賑わいます。
盆踊りが行われるのは7月中旬の週末二日間で、訪れたのは二日目の中盤から終盤にかけてでしたが、境内は多くの人が訪れていて熱気に包まれていました。
境内では地元町会や子供会の出店も出ていて、盆踊りというか、ちょっとした夏祭りっぽい雰囲気となります。
盆踊りの会場は参道横の広場でした。神社での盆踊りとなると結構手狭な感じがするのですが、ここは広々とした境内なので、大勢の人が訪れていてもゆったりとした感じでした。
小学校の校庭などは逆に広々とし過ぎる感があるので、ここはまさに盆踊りにちょうどいいサイズといった感じです。
会場の雰囲気は独特な感じでした。全体的に真面目に盆踊りに取り組んでいるといった雰囲気と、会場内の独特の雰囲気が合わさっていてる感じです。
会場の独特の雰囲気というのは、一言で言うと妙に明るいのでしょうか。櫓が組まれていて提灯が掲げられているというのはよくある光景ですが、それを囲むようにしてテントが張られていて、しかもテントには赤々と照明が灯されているので櫓付近が明るく感じます。
それと同時に会場外が暗いので、盆踊りの会場が闇に浮かび上がっている感じがします。闇に明々と浮かび上がる盆踊り会場・・・って都会では考えられない事ですね。
これも周りに大きな建物がないといったこの神社独特の立地によるものであり、古き良き時代にあった世田谷の農村風景の盆踊りを思い出させてくれるのではないでしょうか。
会場の入り口には受け付けられた御芳志の名札が掲げられていました。こんな小さな神社の盆踊りなのに多くの方が盆踊りのために寄付をされていたのにはビックリしました。しかも個人の名前ばかりでした。
百景の文章にある村の鎮守様というのは本当だったんだと、盆踊りとそしてこの掲示板を見て、初めてそういったイメージが湧きました。
踊り自体に関しては・・・、ちょこっとしか滞在していないのでよくわかりませんが、たぶん普通の盆踊りだと思います。特別な踊りというのはなさそうな感じでした。
また、訪れた時に櫓の上で太鼓を叩いていたのは浴衣を着たうなね太鼓の会の若い子達でした。うなね太鼓の会は盆踊り大会で太鼓を打つために作られた会だそうです。
浴衣で女性が太鼓を叩くというのはあまり見かけない光景ではないでしょうか。これはこれでちょっと上品っぽく感じていいかもしれませんね。
* 宇奈根氷川神社の秋祭り *
百景の説明文の「秋祭りには地区の人総出で大いに賑わう。」というところに惹かれ、どんな祭りだろうかと期待して訪れたのですが、訪れてみてビックリしてしまいました。
屋台もなければ、子供の姿さえないというありさま。これは一体・・・、あまりにも閑散としすぎているのでは・・・。話が全然違うぞ・・・・。と愕然としてしまいました。
最初に訪れたこの年はちょっと特別で、聞くとインフルエンザ流行のために子供神輿の渡御が中止となった事情がありました。
後年訪れてみると、子供や保護者を中心に人が多くなって境内が賑やかな感じにはなったものの、出店がないのは毎年のことだったようで、やはり百景にあるような村人総出で行われる賑わいというには程遠いものでした。
かつては9月26日が宇奈根神社の大祭日でしたが、昭和初年から10月9日が宵宮、10日が大祭となりました。これは9月後半に台風がやってくる事が多く、大雨で川の水位が増して対岸に渡れない事が多いという理由からでした。
現在では祭礼日は一日だけとなり、体育の日の変更により、10月第二月曜日に祭礼が行われています。
戦前には村をあげての祭りだったので、二ヶ月前から準備を始め、祭りの時には境内に露店が並び、神楽が奉納され、芝居や演芸も行われるなど大変な盛り上がりだったそうです。そして川向こうの山野地区の人も参加し、神輿が向こうに渡ったりもしたそうです。
そのように盛り上がったのは過去の話となってしまい、今では露店もなく、奉納演芸もなく、神事と神輿渡御のみの祭りとなってしまいました。広々とした境内なので、ちょっと寂しく感じ、秋風が涼しく吹き抜けるといった感じです。
ただ境内の参道には子供たちが絵を描いた地口行燈が飾られ、祭りをやっているんだぞといった雰囲気を感じることができます。
夏に盆踊りで盛り上がるのなら秋には経費節減で粛々と祭事だけを行うというのも経済的事情などを考えるといい選択なのかもしれません。この付近の大蔵氷川神社、鎌田天神社でもやはり同じようなスタイルです。
祭礼は12時半から社殿にて神事が行われますが、小さな堂宇なので多くの人が建物の外から見守るといった感じです。その後御魂入れやお祓いなどの神事が行われます。
その後、宮司さんは従者を連れて参道を通り、入り口脇にある戦没者慰霊碑の前でも祈祷を行います。神社も焼け、宇奈根全体が大きな被害があった歴史を物語っています。その間に境内では御神酒を配られ、お神輿の出発の準備に入ります。
そして祭礼が終わった後、13時過ぎ頃に宮出しが行われます。宮出しにあたって挨拶などが行われるのですが、注意事項はほとんど無く、いつものように担ぎましょうといった感じのもので、応援を含めて毎年そんなに替わらないメンバーで、のんびりと仲良く担いでいることが伺えました。
応援は近隣の大蔵、鎌田、喜多見が多いようで、祭礼日が重ならないのでお互い行き来して助け合って担いでいるといった感じです。ちなみに戦前は神輿を筏に乗せて運び、対岸の山野でも渡御を行っていたそうです。
渡御は子供たちが引く太鼓山車が先頭で、子供神輿が続き、その後からお囃子を乗せたトラック山車と大人神輿がついていくといった感じの渡御になります。昔は樽神輿が担がれ、昭和4年頃に神輿、7年頃に太鼓を造ったものの、戦火で焼けてしまいました。
昭和27年に神社が再建されると神輿が作られ、昭和43年には寄付を募って大神輿を建造。それまでの神輿は子供神輿となり、昭和57年に子供会が廃品回収などで集めた資金で女児が担ぐための子供神輿を奉納しています。
しかし祭りへの参加者の減少で大神輿が担がれない年もでてきました。現在大人神輿として使われているのは、平成12年(2000年)に建造された小振りのもので、台座は2尺3寸(69cm)、唐破風屋根、勾欄造りの神輿で、喜多見氷川神社の神輿と似た感じのものです。
太鼓は昭和21年建造の大きなものですが、台車の方は少々くたびれ気味で、途中で壊れないだろうかと心配になってしまう代物でした。しかしながら昭和21年といえば終戦間もない頃。神社は焼けて、生活も大変な中で寄付を募って購入したものなので、この地域の復興のシンボル的な存在だったようです。
宮出しは太鼓車のみ長い参道に設置されている二つの鳥居をくぐりますが、残りは鳥居をくぐらず横から宮出しされます。渡御のコースは休憩場所などは違っているものの、戦前からほぼ同じコースです。
宇奈根の町は農村だった面影がまだ残っている地域なので、畑の脇を通ったりとのどかな風景の中を渡御できるのですが、いかんせん道が細く、くねくね曲がっているので大変です。
そのため、車などよりも家の塀や垣根、張り出した木の枝などに注意しながらの渡御になります。ただ坂の多い世田谷にあってここには坂らしい坂はないのでその点では楽です。
宮入は子供神輿などが夕方、大人の神輿は18時頃になります。タイミングを見計らったように大人神輿が宮入する時はちょうど暗くなります。
境内は子供たちの描いた行灯に灯が入り、所々に取り付けられた工事用のスポットライトが点灯されるのですが、結構暗いです。多くの提灯に灯が入り、まぶしいばかりの宮入も華やかでいいのですが、こういう薄暗いというか、ほんのり明るい中での宮入もなかなかいいものです。
宮入の締めは境内の前で神輿の外だけに担ぎ手が集まり、上下に大きく揺らして終わるのが宇奈根の伝統です。私が見たときは見事に落としてしまいましたが・・・。それが終わると社殿の前に収めて渡御が終わります。
その後はすぐに境内に設置された直来の席に直行です。この直来は広々とした境内を使って行われるのですが、まるで花見の宴会席のような感じです。普段あまり目に付かない直来が気になる祭礼かもしれません。
この直来スタイルは伝統的なものではなく、近年行われるようになったもののようですが、これもまた宇奈根の秋祭りの特長的な一コマとなるでしょうか。
* 感想など *
宇奈根は鉄道の駅から離れた地域です。バスで二子玉川、あるいは狛江などに出なければなりません。そのため住宅地として開発されるのも遅く、神輿と共に宇奈根の町を歩いてみると、農村だった頃の面影がそこかしこに残っていました。特に細い道と曲がりくねった道には閉口すると同時に、ちょっと懐かしさを感じます。
ただ歩いていて気になったのは、やたらと新築の家が目立った事です。建てかけの家も多く、宇奈根の地でもどんどんと宅地化が進んでいるんだなと実感しました。
駅から離れている事から土地も安く、家の購入費を安く抑えたい人が住んでいるのかなとまず思ってしまったのですが、あまりそういった雰囲気ではなく、ガレージには高そうな車が並んでいました。何気に宇奈根は隠れた閑静な高級住宅街に変わりつつあるのかもしれません。
素朴な秋祭りも都市化の波に飲み込まれて消えてしまわないだろうか。ちょっと心配になってしまいますが、盆踊りや神社の行事を見ていると、まだ農村だった名残で町会の結束、人と人との結びつきが強い地域かなと感じます。
せたがや百景No.61 宇奈根氷川神社
ー 風の旅人 ー
2017年10月改訂