* 喜多見氷川神社の昔のこと *
喜多見氷川神社と慶元寺の間の通り
喜多見には落ち着いた雰囲気の通りが多いです。
世田谷の最果てというか、喜多見の奥深くというか、細い道のあちこちに設置されている「喜多見氷川神社→」といった案内板がなければ辿り着けないような奥まった場所に喜多見氷川神社があります。
喜多見といえば短期間だったとはいえ喜多見藩があった由緒ある土地でもあり、また「江戸」という地名の由来ともなった江戸氏が暮らし、後に喜多見氏と姓を変えた歴史もあります。そういった土地柄によるものか、今なお古来からの風習がより濃く残り、世田谷でも特別な文化を多く持った地域です。
その喜多見文化の古くから中心となっていたのがこの喜多見氷川神社と隣接する慶元寺になり、この周辺は今なお多くの緑が残り、落ち着いた環境が残っています。
第六天塚古墳の社
5世紀末頃の古墳。須賀神社横にあります。
喜多見氷川神社は、言い伝えによれば天平十二年(740年)の創建との事です。とても古い神社ということになります。また、隣の町域にある大蔵氷川神社と宇奈根氷川神社とは三所明神という関係になっています。
喜多見、そして隣接する狛江は多くの古墳がある地域です。これらの古墳は野毛にある野毛大塚古墳を造った土着の勢力の後に栄えた人々のものだとされています。その人々は畿内から移植してきた人々で、強い文化と鉄の武器を持っていました。
最初は土着の人々とうまく手を結び、馬を生産し、畿内へ運んでいたそうですが、そのうち手を結んでいても面倒が増えるだけだと感じたのか、対立が起きてしまったのか、勝てるだけの戦力や村の規模が整ったからなのか、その辺ははっきりしませんが、土着の勢力を滅ぼして権力の座についたとされています。
このように古くからきちんと文化圏を形成していた土地ということを考えれば、その年代からこの地を守る神社があり、多くの人々に崇められていたとしても特に不思議のない事です。
宇奈根竜王公園付近の多摩川
大きく弧を描き、崖が削れたような地形をしています。
とはいえ、とても古い時代の話のなので、創建に関して色々な話が伝わっています。実はこの氷川神社は延文年間(1356~1360年)に多摩川の洪水が起き、神社、そして古文書などの一切が流失してしまったという話です。
その流される前に神社が鎮座していたのが、宇奈根の多摩川沿いの龍ヶ渕(竜王淵)といわれています。
現在の竜王公園がある付近の多摩川沿いなのですが、その当時はこの付近の多摩川沿いには高い崖があって、とても神秘的な場所だったようです。そしてこの洪水を機に安全なもっと内陸にと言うことで、現在の場所に移ったとされています。
当時にしてみれば宇奈根も喜多見もなく、この付近は狛江郷だったようですし、そもそも現在のように東名高速で宇奈根と喜多見の町域が分けられていたわけではありませんので、ちょっと場所を移しただけのことなのかもしれません。
ただ面白い伝承が宇奈根にあって、鎌倉時代に多摩川の上流から龍ヶ渕(竜王淵)に三人の兄弟が流れ着き、その三人が宇奈根、喜多見、大蔵の氷川神社に祀られたとか伝えられています。
これらの神社は同じ木から御神体をつくったといった伝承もありますので、もしかしたらこの洪水を機に内陸の三カ所に分社され、三所明神になったという事も考えられるかもしれません。
大蔵氷川神社
三社の中で唯一高台にあります。
また大蔵の方では、大蔵出身で幕府の書物奉行にもなった石井至穀の書いた「大蔵村旧事項」によると、宇奈根に大己貴尊(一の宮)、大蔵に素戔嗚尊(二の宮)、北見(喜多見)に奇稲田姫(三の宮)、石井戸大神宮に手摩乳(四の宮)、岩戸八幡(狛江市)に脚摩乳(五の宮)が勧請されたとあります。
そして大蔵氷川神社には多くの棟札が残っていますが、その中に永禄八年(1565年)の「武蔵国荏原郡石井土郷大蔵村氷川大明神四ノ宮」と記されている棟札があります。石井戸のものを保管していたとするならつじつまが合いそうです。
こういったことから推測すると、昔は宇奈根の氷川神社が一番の格式があり、江戸氏が喜多見に腰を据えてから洪水もあったことで、喜多見の氷川神社が手厚く保護され、本筋として影響力が強くなったとも考えられます。
江戸太郎重長公の像(慶元寺)
江戸氏の2代目。鎌倉幕府の記録である「吾妻鏡」に何度もその名が出てくる人物です。
どんな寺社でも権威ある状態で存在し続けるなら有力者の庇護がなければならないものです。また有力者の庇護下に入ると一気に格式が上がるというのはよくあることです。
喜多見を江戸氏が治めるようになったのは、江戸氏が源頼朝に助力し、鎌倉幕府の樹立に尽力した功によって喜多見を含む武蔵七郷を賜ってからです。江戸氏の本家は江戸城、いわゆる東京の真ん中に居城を構え、江戸氏一族は東京全体に広がって、豊島氏らとともに一世を風靡しました。
喜多見には庶流(母方の実家)の一族が暮らし、この地を治めたとされます。しかし、室町時代になると関東の内乱で太田道灌が台頭し、1457年には江戸氏は江戸の地を道灌に譲る形で明け渡し、一族がいた喜多見に菩提寺(慶元寺)ごと引っ越すこととなってしまいました。以降は喜多見で世田谷城の吉良氏の重臣として活躍することとなります。
喜多見氷川神社のはっきりとした記録が残っているのもこの頃、厳密に言うと吉良氏が衰退し初めてからで、永禄十三年(1570年)にこの地の領主江戸刑部頼忠(後の喜多見氏)が社殿を修復し国家安泰、武運長久を祈願したという棟札が残っています。
伝説はあくまでも伝説です。それぞれの立場や都合で様々な解釈ができてしまうものです。古い時代のことはどうだったかははっきりしませんが、旧郷社の格式があらわすようにしっかりとこの地域の中心的役割を担ってきた神社という事実には変わりがありません。
* 喜多見と喜多見氷川神社について *
梼善寺跡
喜多見小学校発祥の地、梼善寺跡の碑があります。
吉良氏滅亡後、徳川の世になると、江戸氏は徳川家康に喜多見村500石を安堵され旗本となります。この時に江戸幕府を開く徳川氏に遠慮して江戸から喜多見と性を改めたようです。
その後、頼忠の孫にあたり、喜多見氏となった初代の喜多見勝忠が氷川神社に神領五石二斗を寄進しています。
慶安二年(1649年)には三代将軍徳川家光より10石2斗の朱印状を賜っています。正式には別当寺の祷善寺に対してでした。
百景のもう一つのタイトルにもなっていますが、祷善寺跡というのが一の鳥居から出て左に50m程進んだ場所、或いは知行院の方からいかだ道を真っ直ぐ進んできた角に大きく立派なイチョウの木の下にあります。
ここには「喜多見小学校発祥之地」、横の面に「祷善寺跡」と刻まれた石碑が建っています。ここに祷善寺がありましたが、明治に入ってからの神仏分離令によって廃寺となってしまいました。その時に本尊の薬師如来像は近くの知行院に安置されたそうです。
喜多見小学校発祥之地というのは、明治の初め頃に祷善寺に寺小屋ができ、後に喜多見学校となりました。明治35年には近くの朝陽学校と合併して砧尋常高等小学校となり、明治40年に現在の砧小学校の位置に引っ越しました。
その後小田急線の開通によって爆発的に周辺人口が増え、砧小学校から次々と小学校が分離独立していき、昭和47年に一番最後として現在の喜多見小学校が開校しました。喜多見の人にとっては喜多見小学校が再び戻ってきたといった待望の気持ちでの開校だったようです。
喜多見氏寄進の二の鳥居
世田谷区有形文化財に指定されていて、都区内では最古の部類の鳥居です。
承応三年(1654年)には喜多見重恒、重勝兄弟(勝忠の子)が銘文を刻んだ石の鳥居を寄進していて、これは今に残っている二の鳥居です。
世田谷区に現存する最古の石鳥居であり、また明神鳥居という形式や白雲母花崗岩という材質が特異な為、世田谷区指定有形文化財に指定されています。
この重恒は延宝7年(1679年)6月21日に死去し、後を外孫の喜多見重政が継いだのですが、重政は徳川綱吉の御側小姓になり2000石加増されたのを皮切りにどんどんと出世し、所領を加増していき、貞享3年(1686年)に河内・武蔵国内において1万石を加増された事で合計2万石の大名となりました。
そして喜多見に陣屋を置いて、喜多見藩を立藩しました。しかし3年後の元禄2年(1689年)2月に分家筋であった喜多見重治が江戸城で義弟の朝岡直国と刃傷事件を起こし、藩は消滅。以後喜多見は天領、旗本領(安藤氏)、寺社領の相給村として明治を迎えます。
狛犬と拝殿
平成2年に再建された新しい建物です。
明治二年には喜多見村は品川県の管轄となり、明治22年には市町村制が施行され、周辺の大蔵、宇奈根、鎌田、岡本の4村と合併し、砧村となります。喜多見氷川神社も大きく変っていき、明治六年(1873年)には村社に指定され、同十七年(1884年)に郷社に昇格します。
明治42年には政府の合祀令により近隣の神明社などが合祀されていきます。
大正十一年から社殿の改築が始まりましたが、途中関東大震災のために中断し、大正十五年(1926年)になって立派な社殿が落成しました。しかしながら昭和63年(1988年)不慮の火災によって焼失してしまい、現在の立派な木造社殿は平成2年(1990年)に再建されたものです。
一の鳥居と緑深い参道
長く緑豊かな参道です。
現在の喜多見氷川神社は、喜多見の一番奥、狛江市に面した形で立地しています。喜多見駅の方から来ると直接本殿の方へ入ってしまいますが、きちんと正面の参道から入ると「世田谷にもこんな神社があったんだ」といった感動を少なからず覚えるはずです。
それはなんて立派な参道だろうといった感動よりも、なんて自然的で素朴な参道といった部類の感動のはずです。区内では九品仏の参道はきれいに整備されて美しいし、豪徳寺の参道の松並木も慶元寺の杉並木も風情があります。でもここは自然そのもので、純粋に人が通るためだけの参道であり、周りは自然な雑木林・・・いや木々の生い茂る聖域なのです。
この風景は昔からほとんど変わっていないはずです。この状態で維持している事が素晴らしいし、この神社の良さではないでしょうか。手狭な感じの世田谷の神社ばかりを見慣れていると、この参道がこの神社の一番の良さだと感じてしまいます。
戦没者慰霊碑
鳥居の横にあります。
参道の始まる一の鳥居付近には忠魂碑と二枚の大きな戦没者慰霊碑の板碑が建っています。これらは明治39年、昭和4年、昭和54年に建立されたものです。
古いものは日露戦争での戦死者に対するもので、新しいものは太平洋戦争の戦死者や空襲の被害にあった方のものと思われます。
お隣宇奈根には戦時中に工場があったことから大きな空襲を受けています。その余波で喜多見も少なからず被害が出ています。
竹林と石灯ろう
とても雰囲気がいいです。
一の鳥居から参道を進むと二の鳥居があります。小さな石鳥居で何時も棒状のしめ縄が掛けられています。これが世田谷区に現存する最古の石鳥居で、世田谷区指定有形文化財に指定されています。
この鳥居をくぐると参道の左右に石灯ろうが並んでいます。古いものは嘉永二年(1849年)奉納とあり、さりげなく台座などの彫り物が美しいものも混じっています。この付近の参道の横は竹林になっていて、石灯篭と竹林の様子や竹林からこぼれてくる光の様子がとても美しいです。
立石大神
付近より出土したものだとか。環状列石だったのでしょうか。
灯ろうの横には屋根付で棒状の石が祀られています。その形は・・・男性器で、これは付近から出土したものだとか。もちろん子孫繁栄の立石大神様となっていて、祭礼の時には卵がお供えされます。祀られ方からすると環状列石を連想してしまいますが、石を見ると新しい時代のような気もします。
この石の反対側には龍石がありますが、これは近年氏子が奉納したものだとか。何か特別ないわれとかあるのでしょうか。また手水舎の水盤は文化十二年(1815年)に奉納されたもので年季を感じます。
境内社(7つ宮)
末社6社と稲荷社が社殿横に鎮座しています。
参道が終わると拝殿が正面にあります。立派な建物なのですが、残念ながら歴史を感じさせるものではありません。それは昭和63年(1988年)に不慮の火災によって焼失してしまったからで、現在の木造社殿は平成2年(1990年)に再建されたものです。
もし火災に遭わなければ、1803年建立の社殿が奥殿で、大正15年に新築された建物が拝殿となっていたようです。
社殿左脇には、境内社の末社6社の合社と稲荷社があります。手前の小さい社が稲荷社で大きな方に天神社、大山祇神社、月讀神社、出雲神社、大鳥神社、祖霊社が合社されています。
拝殿の右には社務所が続き、一番端に立派な神楽殿があります。神楽殿は昭和41年に建てられたものです。祭礼の時にここで神楽などが演じられます。
正月に売られるアボヘボ
豊作祈願として元旦に授与されます。
民俗、文化的なものも多く残っていて、後述する神前舞や節分行事などの民俗芸能は有名で、世田谷区の文化財にも指定されていますが、それ以外にも少し変った「アボヘボ」という郷土の風習も残っています。
これは喜多見、大蔵、祖師谷あたりに伝わる豊作祈願の行事となるようで、「アボヘボ」とは「粟穂稗穂(あわ穂、ひえ穂)」を意味し、冬至の日に神社に自生している接骨木(にわとこ)を梅の枝に刺してつくります。
それは元旦に授与され、年の初めに神棚・玄関などに飾り付けることで、言寿・子孫繁栄・商売繁盛・五穀豊穣・進学成就を神々に祈願するといった行事になります。ちなみに喜多見駅近くの和菓子屋さんでは「銘菓アボヘボ」という信玄もちに似たようなお菓子が売られていて、世田谷土産にもなっています。
手水舎
水盤は文化十二年(1815年)に奉納された歴史あるものです。
すぐお隣の町域にある宇奈根と大蔵の氷川神社は三所明神の関係になっています。この二つの神社以外にも「祖師谷神明社」「砧三峯神社」「廻沢稲荷神社(千歳台)」「岡本八幡神社」「鎌田天神社」「諏訪神社」「須賀神社」といった神社はここ喜多見氷川神社の兼務社となっていて、神主さん(宮司)は全部で九つもの神社の神事を執り行っています。
ですから秋祭りの季節になると神主さんはあちこちの大祭に出向いて、大祭の儀式、神輿の儀式などを行わなくてはなりません。そういった意味でもこの地域の中心的な神社という事になります。
とりわけ秋祭りの神輿渡御では、近隣の地域から応援として20近い団体が訪れている事からも世田谷区内でも歴史、由緒、格式、権威といった要素を兼ね備えている神社だといえます。
* 喜多見氷川神社の節分祭 *
参進の様子
関係者が参道を参進して社殿へ向かいます。
喜多見氷川神社では節分の時に、「鬼やらい」の神事が行われることで知られています。これは「鬼問答」、そして「大国舞」「恵比寿舞」との一連の迫儺神事の事で、都内では珍しく、貴重な民俗行事として世田谷区の無形民俗文化財にも指定されています。
喜多見氷川神社の節分祭は、まず神主や猿田彦、福の神や大黒様、そして参列者が鳥居をくぐって参道を進むところから始まります。そして手水舎の水で清め、修祓を行い、社殿へ。そして神事が行われます。
鬼問答の様子
鬼が社殿に入ろうとし、宮司と問答になります。
祝詞が奏上され、参列者によって迫儺の豆まきが行われると、突然赤・青・黒・白に色分けされた4匹の鬼がやってきます。参列者は慌てて社殿内に入り、神主は社殿に入ろうとする鬼の前に立ちはだかります。どうにか入ろうとする鬼ですが、神主が邪魔で入れません。そこで問答が始まります。
鬼が荒々しく鹿杖で床をたたきながら「そこどけ、そこどけ」と言うと、神主が「不思議なるものみえて候、何者ぞ、名のり候らへ。早く名のり候らへ」と冷静に尋ねます。
鬼が「それがしに候か?」とトボケるものの、「早く名のり候らへ」と神主はせかします。
赤鬼、青鬼が「見るも、聞くも、そら恐ろし。それ、赤き息 ほっとつけば、七日七夜の病となる。それ、青き息、ほっとつけば、疫病となる。よって節分毎に、まかりいで、人の命をねらい候。鬼は内と、声がした。よって、まかりいで候」と言うも、「言わぬ、言わぬ」と神主。
鬼達はたまらずに「腹ぺこだ、腹ぺこだ!」とわめくものの、「悪しき鬼どもだ。おのが住家にあらず。もとの山へ帰り候らへ。」と神主はスルメを与えます。
追い払ったところ
正体を見破られ、追い払われます。
そのあとは、参列者一同で「それ追い出せ! 鬼は外、鬼は外・・・・・」と言い、桃の弓といり豆を投げて鬼追いをします。
鬼たちはたまらず「ゆるさせ給へ」と叫びながら逃げていきます。この時には観客も配られた豆を投げ、場は大いに盛り上がります。
大黒舞と恵比寿舞
鬼問答の後に行われます。縁起物をまいている様子です。
そして鬼が去ると、再び参列者や神主が社殿前に並び、今度は東の空高くに向かって「福は内」と豆をまきます。
すると恵比寿神と大黒様様とひょっとこが社殿へやってきます。社殿に上がると囃子・大拍子の調べにのって、恵比寿神とひょっとこによって「恵比寿舞」が舞われます。最後に大きな鯛を釣り上げて、にっこり恵比寿顔になります。
引き続いて、大国様によって祝詞が奏上され、小槌から縁起物をばらまきながら、目出度い舞を舞います。そして最後には三人で縁起物を撒き、一連の行事が終了します。
有名人来たり、お菓子が大量にバラ泣かれたりするような節分祭ではありませんが、こういった素朴で伝統的な神事もいいものだなと感じる節分祭かと思います。
* 喜多見氷川神社の秋祭りについて *
秋祭りの境内
境内にはお囃子専用の櫓が組まれます。
喜多見氷川神社の例大祭は、古くは9月18日に執り行われていたようです。理由は分かりませんが後に9月27日に変更となり、昭和50年頃まで曜日に関係なくこの日に執り行われていました。その日は学校も休みになったそうです。
その後、学校を休校にすることができなくなったり、会社勤めの人が多くなったりで祭日の方がいいということになり、都民の日である10月1日に祭礼日を移し、9月30日に宵宮、10月1日に本祭となりましたが、今では10月第三日曜日になっています。
恐らく都民の日といっても会社勤めの大人で休める人は多くなく、その辺の週末は付近の神社で祭礼が多く、多くの神社を掛け持っている宮司さんの都合上、祭礼が一段落した10月第三日曜日になったのではないかと思われます。
祭礼は現在一日のみで、宵宮がありません。以前は宵宮が行われていた時には、夜にお囃子の奉納が行われていました。今でもお囃子は大事にされていて、祭礼時には神楽殿の前付近にお囃子用の櫓が建てられます。
参道に並ぶ屋台
長い参道に多くの屋台が並び、多くの人でにぎわいます。
二の鳥居と屋台
文化財が傷つかないかちょっと心配です。
現在の祭礼は一日だけなので関係者が色々と大変なのか、楽になったのかは分かりませんが、確実に大変そうだなと感じるのは、露店を出している人たちでしょう。普段は閑静で美しい参道に露店がずらっと並ぶのですが、朝は祭礼が行われるので昼頃の開店となり、その日の内に撤去しなければなりません。
結構客が来るので、一日だけとはいえ儲けにはなるのでしょうが、慌ただしい一日となりそうです。
露店の数はちゃんと数えていませんが、20店程度でしょうか。露店が並んだ参道を見ると祭りといった雰囲気が出ていいものです。世田谷のこの付近の神社(宇奈根、大蔵、鎌田、岡本)では露店が並ばないので、よりそう感じるのかもしれません。
国歌斉唱と国旗の掲揚
国旗掲揚から秋祭りが始まります。
参道を進む列
雰囲気のいい参道を進み社殿へ向かいます。
祭礼は9時半から行われます。社殿前にある掲揚台に関係者一同が集まり、国歌斉唱と共に日の丸が掲げられます。それが終わると脇の参道から列をなして表参道に向かい、鳥居をくぐって参道を進みます。この時に忠魂碑、戦没者慰霊碑の板碑の前をわざわざ通るのが喜多見のこだわりでしょうか。
そして手水舎の前に設けられた神域(祓戸)で修祓を行います。修祓とは身に溜まった罪やけがれを祓戸で祓い清める神事です。本来は神前に上がる前に行うものですが、世田谷の多くの神社ではスペースの関係上、社殿の中で行っています。全部の祭事を見ていませんが、きちんと行っているのは世田谷八幡宮や稲荷森稲荷神社など限られた神社だけです。
修祓が終わると社殿に向かいます。ここからは普通の神事となりますが、喜多見氷川神社では神前舞が行われるのが特徴で、節分の時の鬼やらい神事と共に世田谷区の無形民俗文化財に指定されています。
神前舞(須賀神社)
須賀神社祭礼での榊の舞の様子。
神前舞は巫女舞から始まります。巫女舞は古くから氷川神社に伝わっている舞で、伝統的に三人で舞うのですが、今では年によってまちまちです。巫女舞の後は本格的な神前舞が舞われます。
この神前舞は本来は二人舞で、五座で構成されています。一座が左手に幣束、右手に鈴を持った奉幣の舞、二座が左手に榊、右手に鈴を持った榊の舞、三座が左手に鈴、右手に扇を持った舞扇、四座が左手に弓、右手に鈴を持った弓の舞、五座が左手に太刀、右手に鈴を持った太刀の舞で構成され、舞は座である社殿の中を東西南北に移動し、四方固めを行うといったものです。
これは地の精霊を圧服する所作と考えられています。神前舞を行うのはお囃子も努める喜多見楽友会の方です。同じ喜多見にある須賀神社の夏祭りでもかなり省略された形ですが、同じように神前舞が行われます。こちらのほうが見やすいかと思います。
神楽殿
夕方から神楽が奉納されます。
神楽
萩原社中によるものです。
昼からはお神輿が出ます。神輿も神幸行列といった古風なスタイルに則って行われます。神輿は広大な氏子町域を回るというよりは、各御酒所を回っていくといった感じで渡御します。
神輿が戻ってくるのは夕方。その少し前から神楽殿では神楽が舞われます。昔は百景の紹介文にあるように地域の人で舞っていたようですが、現在では神楽を舞える人はいなく、新宿の萩原社中に来てもらっています。
見物人は多くありませんが、古い神社で静かに神楽を見物でき、雰囲気はいいように感じます。ただ神輿が戻ってきた後では境内で直来の宴会が始まるので、騒々しくてあまり落ち着いてみることができない場合があります。
* 秋祭りの神幸行列と神輿渡御 *
路地に溢れる神幸行列
天狗を先頭に子供たちが押し寄せてくる感じです。
喜多見氷川神社の神輿渡御は毎年例祭日の10月第三日曜日に12時から行われます。格式のある神社らしく、興味深い場面が多々ある神輿渡御や神幸行列です。
12時前にまず太鼓のお祓いが行われます。そして12時になるとお神輿よりも一足先に太鼓の宮出しが行われます。
巡幸列は先頭に鉄棒2人、その後ろに猿田彦と付き人、御幣、神職、巫女、総代、大太鼓世話人、そして大太鼓となります。巫女さんは御酒所で舞を行ったりと忙しいので、不在の場合も多いです。
これらの列が神社から出発していくのですが、結構子供の数が多いのに驚きます。でもまだ序の口なのです。
御霊遷し
鯨幕を使用して隠します。
境内が少し静かになったところで、神輿の御霊遷し(入れ)が行われます。御霊遷しとは神社に鎮座している神様を神輿に乗せる神事のことです。神輿とは普段神社にいる神様が町会を回るための乗り物、だから神の輿と書くのです。
そして神様は普段人間が見ては恐れ多いもの。俗に神様を見たら目がつぶれてしまうとも言われています。ということで、神様が神輿に乗る時に人目に触れないようにするのが、本来のあり方です。
ここではそういった古式というのか分かりませんが、白黒の鯨幕で御霊を運ぶ神職を囲んで人目に触れないように御魂入れが行われます。もちろん還幸祭(御霊戻し)でも同じように行われます。
木遣り歌の奉納
出発前に木遣が奉納され、終わると神輿が担がれます。
御霊遷しが終わると、続いて発輿祭が執り行われます。お供物が神輿前に運ばれ、神職によって祝詞が奏上され、総代長の挨拶、小頭の注意、半纏合わせと続くのですが、なんと応援の担ぎ手の団体が20以上もいます。
喜多見氷川神社の宮司さんは9つもの神社を兼務しています。そういった宮司さんの人柄を偲んで兼務している地域からやってきたり、格式ある氷川神社の神輿を担ぎたいという事で来る団体もあるし、またこの時期は他の神社では祭礼が終わっているので、今年最後の担ぎ納めは氷川神社でといった団体もあるようです。
また氷川神社の境内の向こうは狛江市ということもあって、狛江の団体が多いのもここの特徴です。とまあ、世田谷中、世田谷区外からも集結する担ぎ手たちの多さにさすが格式ある氷川神社だなと感じます。
宮出し
脇参道から出ます。
最後に木遣り奉納が行われ、12時半頃に神輿が上がります。お神輿は昭和31年に行徳・浅子周慶によって建造されたもので、台座は2尺3寸(70cm)、唐破風軒屋根、勾欄造り、駒札は氷川神社です。胴羽目、鳥居、台座など木彫が美しく、木の美しさが強調されているのが特徴でしょうか。
残念ながら神輿は、太鼓などと同様に雰囲気のいい表参道から出し入れするのではなく、神楽殿の方の脇参道から出入りします。さすがにこの大きさの神輿だと鳥居がくぐれないのでしょうがないといったところでしょうか。
神輿の渡御の方はお囃子用のトラック山車が先導します。お囃子を努めるのは地元の喜多見楽友会。祭礼では神前舞も努めています。烏山の給田子ども囃子程ではないですが、お囃子を行う子供の姿も多いです。
野川を渡るお囃子山車
喜多見楽友会が努めます。子供も活躍します。
御酒所は伝統的に東部自治会御酒所(知行院近く)、上部自治会御酒所(成城の東宝前)、中部自治会御酒所、北部自治会御酒所(喜多見駅前)、西部自治会御酒所(念仏車の辺り)の五つですが、近年では御酒所ではなく、休憩所になってしまったところもあります。
神輿渡御コースはほぼ毎年一緒で、これらの御酒所を順番に回っていくといった感じです。喜多見の場合は町域が広い割には渡御時間が短いし、道幅も狭いとあって、単に御酒所から御酒所へ移動するといった感じの渡御となります。そして所々道が広くなった場所や交差点、喜多見駅前や商店街などで威勢よく担いでいます。
坂道を進む神輿
一番の難所、砧小学校の玉石垣前
面白かったのが水道道路を通って成城へ向かう時で、ここはひたすら狭くて真っ直ぐな道で、しかも途中から緩やかな上り坂が続くので、登るまではただひたすら黙々と担ぎ、世田谷道から成城へ向かう砧小交差点に出ると、今までが嘘のように元気に担いでいたのが象徴的でした。
この世田谷通り付近の成城と小田急線喜多見駅周辺の繁華街が見所となるでしょうか。特に成城の上部御酒所からは太鼓引きと神輿が一緒に渡御するので一番の見所になるかと思います。
ちなみに昭和初期の頃には成城駅の方まで行き、不動坂を下ってくるほど担ぎ手の力が溢れていたようですが、今ではこのようにちょこっと成城に入るだけになってしまいました。
宮入りしてきた神輿
大勢の人たちが宮入の様子を見守っていました。
宮入は一応18時になっていますが、結構遅れます。子供の太鼓引きの長さが長いのであれこれと遅れてしまったりするようです。
宮入の時の社殿前は多くの見学者と担ぎ手で大混雑します。そういった中での宮入なので、結構熱が入ります。宮入後は宮出しと同じように木遣り歌が奉納され、御霊戻しの神事が行われます。
その後は慌ただしくトラック山車は解体され、神輿は部品を外され、神輿蔵へ。そして境内では直来ということで宴会が始まります。
世田谷通りの成城分岐の交差点を進む太鼓車
ここでは太鼓と神輿が一緒に通過します。
神輿渡御に関しては担ぎ手の睦会の種類が多いということぐらいしかあまり印象に残らなかったのですが、太鼓山車に関しては強烈に印象に残っています。何が凄かったていうのは、太鼓引きをする子供の数です。
神社を出る時にはそこまで多くなかったのですが、どんどんと増えていき、特に喜多見駅からはなんじゃこれは!!!と仰天する程の数にふくれあがっていました。
これには通行人もビックリ。「太鼓が通りますのでご協力をお願いします。」と道路が封鎖され、路地から太鼓引きが現れるのですが、次から次へと路地から出てくると通行人はビックリします。
すぐ通過するだろうと思うのが普通ですが、それがなかなか途切れなくて唖然。そして最後には苦笑いといった反応が多かったように思います。
世田谷通りを進む太鼓引きの行列
とても長い行列です。100m以上続きます。
極めつけは世田谷通り。喜多見駅へ向かう交差点から出てきて、次の信号を筏道の方へ曲がるのですが、先頭と最後が見えないという長さ。確実に100m以上はあるようです。
これだけ行列が長いと氏子として誇らしいのですが、別の問題もあります。それはお菓子を配るのが大変なのです。足りるかな・・・と心配そうに段ボールからお菓子を下って歩く関係者の心許ないような表情が物語っていました。
それにしても凄い数です。大量にお菓子とかがもらえるのならまだしも、そういったわけでもないのにこれだけ集まるのは驚きです。世田谷で一番の太鼓引きの長さなのは確実ですが、東京でも指折り数えてといったレベルなのではないでしょうか。
* 感想など *
いかだ道を進む太鼓引き行列
喜多見にはこういったのんびりとした風景が似合います。
喜多見は喜多見藩があったり、生類哀れみの令の際には犬屋敷が建てられたりと世田谷は世田谷でも、ちょっと他の世田谷とは違った独自の文化が育まれた土地です。
氷川神社では鬼やらい神事や大黒舞、神前舞といった無形文化財、お隣の慶元寺にも無形文化財の双盤念仏を初め、念仏行進、墓施餓鬼や灌仏会、そして須賀神社では湯花神事、喜多見不動では星まつりなどと古来からの行事が多く行われています。
また喜多見には古民家園があり、古くからの伝統文化が季節ごとに実践されていたりします。そういった独特の喜多見文化の中心が氷川神社であり、その秋祭りは古式に則られていてとても興味深いものがあります。
世田谷では郷社は世田谷八幡宮と喜多見氷川神社だけです。世田谷八幡宮も伝統と格式があり、奉納相撲など独自の文化もありますが、やはり神社だけの単発文化といった感じがします。
喜多見氷川神社の場合は、喜多見の文化全体が神社とも交わり、それが神社の文化に融合し、格式と伝統が更に重く感じます。そういう意味では世田谷一の神社かなと個人的には思っています。
とはいえ、正直言って伝統や格式というよりも秋祭りでの太鼓引きの長さが100m以上ある事の方が印象に残っています。伝統だの格式だのといったものは、やっぱり現実には勝てません。伝統や格式があっても寂れていった神社は多くあります。今現在地域の人々に慕われていることが一番大事なことです。
その点ではこの太鼓引きの長さは伝統や格式よりも誇ってもいい文化ではないでしょうか。それにしても・・・、喜多見では駅前の盆踊りにしても、ハロウィンにしても子供たちの参加者が多いように感じます。地域が連携しているのか、そういうことが好きな土地柄なのか分かりませんが、とてもいい事のように思います。
せたがや百景No.59 喜多見氷川神社と梼善寺跡
ー 風の旅人 ー
2017年9月改訂