* 太子堂圓泉寺前のけやき並木 *
田園都市線、三軒茶屋駅の北側の広い面積が太子堂1~5丁目という住所となっています。
多くの人がよく知る三軒茶屋という住所は実は狭いエリアでしかなく、しかも昭和になって命名されたものです。
江戸時代はだいたい国道246号と世田谷通りの北側が太子堂村、その南が馬引沢村に分かれていました。その頃から街道沿いに三軒の茶屋があったことからこの界隈は三軒茶屋と呼ばれていたそうです。
それが駅名となり、住所変更の際に住所の一部に取り入れられました。
どうしても関東だと駅名が地名以上の存在となってしまうので、住所が太子堂でも名の通りのいい三軒茶屋扱いとなってしまうのもしょうがないといったところでしょうか。
その太子堂の北側、駅からかなり離れた場所に太子堂圓泉寺、正式名「聖王山法明院円泉寺」があります。名前から想像がつくように太子堂の地名の由来となったお寺です。
駅からは道がわかりにくいのですが、下北沢に抜ける茶沢通りの途中に「聖徳太子参道の碑」という仰々しい石碑が立っています。初めて訪れるならそこから路地を入っていくのがわかりやすいかと思います。
太子堂圓泉寺前の通りはとても細い道です。住宅が所狭しと建ち並び、三軒茶屋界隈だなと感じる道です。その道沿い、数は多くないのですがお寺の塀に沿ってケヤキの木が並んでいます。百景のタイトルにあるけやき並木です。
今では狭い路地に窮屈そうに並んでいるケヤキですが、昭和の時代には門前に川本牧場があって牛が飼われていたそうです。南側が牧場ならケヤキ並木もさぞ日当たりがよく、見栄えもよかったに違いありません。
ケヤキは門前だけではなく、円泉寺の周囲に多く植えられていました。今では多くが伐採されてしまいましたが、境内の東側の路地を丘の方へ進むと、円泉ヶ丘公園へ続く階段のところに大ケヤキがそびえています。今ではこの界隈で一番の大ケヤキになるはずです。
また案内板が立っているのでわかると思いますが、境内のすぐ西隣は女流作家林芙美子さんが大正時代に下宿していた長屋があった場所です。今でもごちゃごちゃとした場所なので、それらしい雰囲気は感じる事ができるかと思います。
ケヤキ並木の中の一本は幹がとても太いのですが、上部がありません。この木はかつて都の天然記念物に指定されているほどの大木だったそうですが、残念なことに倒木の危険があるということで根本から4m程残して木の上部が伐採されました。
樹齢は700年ほどだったとか。この界隈では円泉寺の大ケヤキがどの木よりも抜きんでて聳えていたと言われています。きっとこの場所で太子堂や三軒茶屋の町を見守り続け、そして人々のランドマーク的存在であり、また心の拠り所となっていたご神木だったに違いありません。
その残された根元部分は中が空洞になっていて、内部に2体の庚申塔が納められています。木の中から通行人を守り、町の安全を見守る石像を見ると、ちょっと神秘的に感じてしまいます。
* 太子堂と圓泉寺 *
境内を入ってすぐ右側に太子堂があります。聖徳太子を祭っているお堂で、太子堂の地名はこのお堂に由来しています。
400年以上の歴史を・・・と言いたいところですが、現在では木製の建物がコンクリート建造物の上に建てられている状態です。1階部は葬儀場だとか・・・。これでは味がないというか、木造のままなのがせめてもの救いといった感じでしょうか。
太子堂の建物は平成になってこのような形で移築されました。百景の切り絵が昔の様子を表しているように元々は境内の真ん中にあったようです。
土地のない都会ではしょうがないことで、訪れた日曜日には太子堂の下で葬儀が行われていましたし、車でお墓参りしている人もちらほらといたので、駐車場のスペースなどを確保するために太子堂が二階部分に移動してしまったような感じです。
太子堂圓泉寺の由緒や歴史を書いておくと、創建ははっきりしませんが、南北朝時代(1332~92)の後期に太子堂が開創され、別当として圓泉坊(圓泉寺)が草創されたと推察されています。
その後文禄四年(1595年)に賢惠大和尚によって中興され、聖王山法明院圓泉寺となります。
その時の経緯を書くと、文禄一年に賢惠大和尚が大和国久米寺から聖徳太子像と十一面観音を背負って関東に下り、文禄四年にこの場所に滞在したそうです。
その時に聖徳太子が夢に出てきて、「この地に霊地あり円泉ヶ丘という。つねに霊泉湧き出づ、永くここに安住せん。汝も共に止まるべし。」と告げたとか、なんとか。
そこでこの地に寺を建てることにし、翌文禄五年に本堂、太子堂などが完成しました。寺の名前に泉の文字が入っているように、昔は境内から泉がわき出ていたと考えられています。
江戸時代になり慶長年間に入ると円泉寺周辺の地域は、江戸市中への青物の菜の供給地として栄えていたようです。
これによって付近の経済は安定し、寺の寺容が整えられていきました。現在のお寺の立地が丘の中腹ぐらいなので、烏山川や下の谷商店街の辺りに集落や田畑があったのでしょうか。
またその頃大山詣でも盛んとなり、大山詣に向かう人が縁起を求めて行き帰りに参拝して行くようになり、門前町ができ、寺自体も活気にあふれていたようです。
その後安政四年(1857年)には出火により寺の大部分と寺宝を消失してしまいます。その三年後の安政七年に檀家の努力によって以前より小規模ながら本堂が再建されました。
時は流れて大正時代になると本堂が大修繕され、昭和の初めには太子講や縁日で賑わっていたそうです。現在では・・・、まあ普通のお寺といった感じでしょうか。
* 境内にあるもの *
円泉寺の境内に入ってまず目が行ってしまうのが、本堂の前にある樹齢500年とも言われる大きなイチョウの木です。とても背の高い木で、写真に収めようとするなら結構後ろに下がらないと入り切らないほどです。本当に見事な大木です。
イチョウといえばやっぱり紅葉。葉が色づく晩秋にはいつもと違った雰囲気になり、なかなか絵になっています。本堂の後ろにマンションがなければ最高なのですが・・・、しょうがないですね。
百景の紹介文に円泉寺が世田谷の教育の発祥の地とあります。その証が境内にある宮野芟平(さんぺい)氏の頌徳の碑です。
明治三年に付近の村の有志が協力して郷学所を建設し、宮野氏が師として迎えられました。この郷学所では今までの寺小屋と違って四民平等の新しい思想に基づいて身分の上下を問わず平等に教育を行ったそうです。
翌、明治四年(1871年)には立派な新しい校舎を建て、太子堂郷学所と名付けられました。
明治六年(1873年)には新学制がひかれ、太子堂郷学所が第二中学区第四番小学荏原学校(現在の若林小学校の前身)となります。これが世田谷での最初の小学校となり、引き続き宮野氏が初代校長に任命され、明治二十八年の在職中に他界するまで世田谷の教育に尽力されたようです。
明治二十年には火災に遭い、一時期仮校舎が太子堂円泉寺境内に置かれた事からここに碑が建てられたようです。
宮野芟平氏の頌徳の碑の横にきちんとお堂に入れられたお地蔵さまがあります。これは子育て延命地蔵尊で寛政3年の建立されたものです。
元々は三軒茶屋地区にあったもので、昭和43年に移されました。玉川六地蔵の第四番の地蔵尊となり、縁日本尊として広く庶民の信仰を集めてきました。今でも信仰が寄せられ続けているようで何時訪れても花が供えられています。
墓地の入り口には六地蔵がおかれています。これがなかなか年季の入っていて、寛政11年に建立されたものです。
後は・・・、大きなイチョウの木の下には表現豊かな小さなお地蔵様も沢山置いてありました。なんというか、このユーモアあるセンスは・・・ほのぼのとしてしまいます。ツツジとアジサイの時期には彩が加わって一段と愛らしい姿をしていました。
それ以外にも境内には多くの植物が植えられていて、手入れがよく行き届いているといった印象を受けました。
* イベントなど *
毎年2月3日に境内で節分祭が行われます。この節分祭は聖徳太子節分会と名付けられていて、昭和23年から続いています。
この日には太子堂内で護摩が焚かれ、木遣行列や年によっては囃子や獅子舞が出てにぎわいます。そこそこ特徴のある行事のような気がするのですが・・・、あまり知られていませんね。
感想など
様々な功績を残したことで知られ、かつては一万円札にも描かれていたほど身近な存在だった聖徳太子。その聖徳太子はいたのか?いなかったのか?そんなことを考えたことは一度もなかったのですが、歴史の教科書から消えるといったニュースを耳にし、現在の聖徳太子の立ち位置を知りました。
そのうち太子堂も太子堂の町も聖徳太子ゆかりの・・・などと言っても通じなくなってしまう世の中になってしまうのでしょうか。地名も太子堂じゃ意味が分からんし、土地も高くなるからといった大人の事情で三軒茶屋北とか、南に変わってしまうとか・・・。ふと頭の中をよぎってしまいました。
そんな歴史学の渦中に置かれている太子様が見守る圓泉寺境内には銀杏やケヤキの大木と数々の石像があり、雰囲気がとてもいいです。煩雑さがないからでしょうか。時々散策がてら訪れたくなってしまうお寺です。
せたがや百景No.6 太子堂圓泉寺
ー 風の旅人 ー
2018年11月改訂