世田谷散策記 せたがや百景項目一覧

せたがや百景 No.51-60の紹介

昭和59年に世田谷区と区民によって選定された「せたがや百景」のNo.51-60の紹介です。詳細は個別のページをご覧ください。

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No.51 成城学園前のいちょう並木

百景の切り絵 成城学園前のいちょう並木

大正末期.から昭和の初期にかけて計画的に造成された住宅地である成城のまちには、まちの人々が大事にしてきた景観がそこかしこに見出される。学園前に伸びるイチョウ並木もその一つで、四季それぞれにまちに表情を与えてくれる。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:成城6丁目(成城学園前駅入り口交差点から成城学園正門前まで) 備考:ーーー

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成城 イチョウ並木

成城学園の正門前から約2ブロック、長さにして120mほどイチョウ並木が伸びています。このイチョウ並木は、成城の町が学園都市として整備されたときに植えられたものです。

大通りではなく、住宅地にある昔の狭い道沿いに植えられたイチョウ並木なので、圧巻の光景というよりは、こじんまりとした印象とか、ちょっと窮屈に感じるイチョウ並木です。でも、成城の町の町のいいアクセントとなっていて、秋の紅葉時にはとても素敵な空間となります。

No.52 成城の桜並木

百景の切り絵 成城の桜並木

桜のないまちの春はなにか物足りない。満開のときなど、まちに一斉に春が訪れたことを告げてくれる。花実の宴のにぎわいはないが、路上や家々の屋根に降る花びらは、閑静なこのまちに春の風流心を呼び起こす。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:成城6、7丁目 備考:ーーー

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成城 桜並木

成城学園前駅入り口交差点から北に延びる道沿いを中心に、成城6、7丁目の住宅地に桜が植えられていて、桜並木のある住宅地となっています。

成城学園前にあるイチョウ並木と一緒で、学園都市として町が整備されたときに植えられたのが始まりとなります。紆余曲折、様々な苦労もありましたが、今では成城の町に欠かせない春の風物詩となりました。

成城といえば、言わずと知れた高級住宅地。その知名度は全国に轟くほどです。その成城にある桜並木。話題性は抜群で、桜の開花時期には区外からも多くの人が訪れます。

No.53 成城学園の池

百景の切り絵 成城学園の池

成城学園とともに、成城のまちは発展してきた。大学構内にある池のほとりは若い学生たちの憩いの場となっている。戦前から自由な教育で知られる成城学園の学生たちは、やはり成城のまちの雰囲気に似合っているところがあるようだ。学園裏手の仙川沿いの延びる小道をたどれば、いまは少なくなった川沿いの景観を楽しむ小散歩ができる。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:成城6-1(成城学園) 備考:ーーー

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成城学園正門
成城学園正門

シンプルに地名を利用した駅名が多い小田急線の中で、異彩を放っているのが成城学園前駅。なぜ成城という駅名ではないのか。それは、この町が成城学園によって開発され、成城という住所も駅ができた後に新しく付けられたからです。

成城の生みの親となる成城学園になるのですが、成城の東側、仙川沿いの斜面に立地しています。幼稚園から大学までの総合学校となり、校舎は高台に、仙川沿いの低地にはグラウンド、幼稚園や初等科は川の東側にあります。

成城学園の池
成城学園の池

成城学園が学校の施設を拡充している昭和2年のこと。仙川の横にグラウンドを整備している際に、地面を掘ったら湧水が出てきてしまい、そのまま池にしてしまったのが、成城学園の池になります。

池はそこそこ大きく、円形で真ん中に島があることから、学生たちからドーナツ池といった愛称で呼ばれていて、普段は学生たちの憩いの場になっているようです。

後年の仙川大治水工事の際、仙川の川底は深く掘り下げられ、淵もコンクリートで固められました。そのせいで、今では湧水もでなくなり、仙川からの水も入ってこなくなり、完全な止水の池となっています。

また、長年、他から遮断された溜池として存在していたことから、自然豊かな環境が維持されていて、独自の生態系も出来上がっているようです。

No.54 成城住宅街の生け垣

成城住宅街の生け垣の切り絵

成城のまちを歩くと、手入れのよく行き届いた生け垣を見ることができ、住民がまちを大切にしてきた歴史がよくわかる、家々に住む人々の個性や趣味がそれぞれ感じられて、興味が尽きない。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:成城一帯 備考:ーーー

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成城住宅街の生け垣

高級住宅地として全国的にその名が知れ渡っている成城の住宅地。成城=お金持ちといった印象がすっかり出来上がっています。

知名度の高さから世田谷を代表する住宅地と言うことができる成城ですが、この地に古くからあった集落が発展したものではなく、この地に引っ越してきた成城学園が新たに宅地開発を行って産まれました。住所の成城も成城学園を由来としています。

成城住宅街の生け垣

昭和2年の小田急線の開通時におよそ40戸が建ち、その後はゆるやかに成城の町は発展していきました。

戦前の成城はのどかな雰囲気でしたが、住民の町づくりへの意識は高く、町づくりが進んでいくと、住民達が町の景観や町造りについて話し合い、家の囲いは塀ではなく生け垣にしようではないかといった取り決めを行いました。

これによって昔から成城には生垣のあるお宅が多いです。とはいえ、各々が好きな生け垣や塀を設置しているので、統一感はあまり感じないです。

現在では、2002年(平成14年)に建築のルール等を定めた「成城憲章」という紳士協定(罰則等はなし)を定め、町の景観や秩序を維持し、成城ブランドの維持に務めています。

No.55 成城の富士見橋と不動橋

百景の切り絵 成城の富士見橋と不動橋

切り通しを抜けて小田急線が走る。二つの橋はこの小田急線に架かっている。よく晴れた日は、崖線を越えて丹沢の山々や遠く富士山を望むこともできる。夕日の沈むころは、懐かしい哀愁のただよう陸橋の風景が浮かび上がる。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:成城2~5丁目の小田急線の上 備考:小田急線の高架橋化、成城駅前の再開発によって風景が変わっています。

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富士見橋から見た富士山
富士見橋から見た富士山

世田谷の西側、多摩川や野川に沿って急な崖、国分寺崖線が続いています。高さにして、20mほどあるので、そのまま道を作ってはとんでもない急な坂になってしまうので、東名高速にしても、第三京浜にしても、崖を削って切り通しを造り、坂をなだらかにしています。

小田急線の成城学園前駅と喜多見駅の間でも、同じ理由で切り通しが造られ、その切り通しの上に不動橋と富士見橋が架けられました。富士山を正面に望む眺望も合わせて、その様子はとても素敵だったようです。

不動橋から見た富士山
不動橋から見た富士山

しかし、後年の小田急線の複々線化やそれに伴う成城学園駅周辺の再開発で、切り通しの上に蓋がされ、不動橋や富士見橋は形式的な橋となってしまいました。

蓋をされた線路上のエリアは家庭菜園になっているので、富士山の眺望の方は以前と同様に確保されているのですが、橋らしい風景ではないし、小田急線は見えないし、富士山の下にマンションが建っているしと、かつてのような素晴らしい状態ではありません。

No.56 成城3丁目桜ともみじの並木

百景の切り絵 成城三丁目 桜とモミジの小道

春の桜のころや新緑の5月ももちろん美しいが、秋の紅葉のトンネルも素晴らしい。落葉を踏みしだいて歩く趣のある散策路だ。この小風景を愛する住民も多い。車の入らないこうした小道は、まちなかに奥行きをつけてくれる貴重な空間だ。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:成城3-10-33付近 備考:ーーー

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成城三丁目 桜とモミジの小道 桜の時期
桜の時期
成城三丁目 桜とモミジの小道 紅葉の時期
紅葉の時期

成城三丁目、不動橋の南側の崖線近くに舗装されていない小道があります。かつてこの地には広大な敷地を擁していたお宅があり、この道はそのお屋敷へのアプローチとして使われていました。

道を華やかにといった趣向でしょうか。道沿いに桜やモミジを植えたものが今でも残っていて、ちょっと雰囲気がいい道となっています。しかも路面が昔ながらの土の道であることで、季節ごとに趣きや情緒をより感じることができます。

とはいえ、近所の人が暇つぶしで散歩の目的地にする分にはいいのですが、わざわざ遠くからこの路地を期待を込めて訪れると、たいしたことないじゃない・・・。ってことになるかもしれません。

No.57 成城3・4丁目の崖線

せたがや百景 成城3・4丁目の崖線の切り絵

崖線に沿って緑が豊かに残されている。低地に下る坂は両側の深い緑で隈取られ大地との間に陰影をかたちづくる。まちに変化に富んだ散歩道があることは素晴らしいことだ。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:成城3、4丁目辺りの崖 備考:ーーー

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成城3・4丁目の崖線 崖線の緑

世田谷の西側、多摩川や野川に沿って高さ10~20mの崖、国分寺崖線が続いています。斜面という開発しにくい地形により、崖線は比較的開発から免れる事ができ、現在でも公園、緑地、自然保護区を中心に多くの自然環境が残されています。

高級住宅地として名高い成城でも多くの自然が残っていて、成城三丁目緑地、神明の森みつ池特別保護区では、今でも崖から湧水が出ています。この他にも小さな市民緑地も点在していて、この地域では自然保護の活動が昔から盛んです。

成城3・4丁目の崖線 崖地の住宅

崖線の自然もいいものですが、崖地の斜面を利用した住宅というのも趣きがあります。ここは世に知れた高級住宅地。当然、建築にこだわった家も多く、崖地の坂を歩くと立体的で素敵な景観に出会えたりします。

No.58 野川と小田急ロマンスカー

選定当時の野川の様子(*せたがや百景の冊子 世田谷区企画部都市デザイン室制作から引用)
選定当時の野川の様子

*せたがや百景の冊子 世田谷区企画部都市デザイン室制作から引用

崖線を抜けた小田急線はまず野川を渡る川辺の緑と一瞬のコントラストを作り走り抜けるロマンスカーは私鉄沿線ならではの風物詩。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:野川の世田谷通り付近から上野田橋辺り 備考:現在では風景が変わり、見ることができません。

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野川にかかる橋から見た小田急線
現在の眺め

世田谷通りの野川に架かる橋は「中之橋」。世田谷通りが整備されたときに架けられました。かつてはこの中之橋付近から野川を小田急線が横切っていく様子がよく見えました。特に赤い車体のロマンスカーが通る様子は、崖線の緑が背景となり、とても絵になっていたようです。

残念ながら、1994年の喜多見電車基地の設置と、1997年の喜多見駅高架化に伴い、橋がさらに高くなり、また車両基地への引き込み線も設置されたので、列車が全く見えなくなってしまいました。

No.59 喜多見氷川神社と梼善寺跡

百景の切り絵 喜多見氷川神社と梼善寺跡

一千年以上も前の創建と伝えられている。境内は保存樹林地となっており、昼なお暗いほどうっそうとし、野鳥も多い。長い参道をたどって社殿に至るが、村の鎮守の杜の姿そのままだ。ここに伝わる里神楽は区内の貴重な民俗芸能の一つとなっている。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:喜多見4-26-1 備考:ーーー

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喜多見氷川神社 拝殿と秋祭りの神輿
拝殿と秋祭りの神輿

世田谷の西の端にある喜多見には、かつて喜多見藩が置かれていたことがあります。その喜多見の氏神様は、喜多見氷川神社。隣の町域、大蔵と宇奈根にある氷川神社とは、三所明神という関係になっています。

喜多見氷川神社の創建は天平十二年(740年)と伝えられていて、とても古い神社ということになりますが、昭和63年(1988年)に不慮の火災によって社殿が焼失してしまったので、建物自体は新しい感じのする神社です。

喜多見氷川神社 木が茂る参道と二の鳥居
木が茂る参道と二の鳥居

この神社で特筆すべきは、参道。参道の両脇には樹木がうっそうと生い茂り、霊験あらたかな雰囲気を醸し出しています。区内の手狭な感じの神社を見慣れていると、この参道がこの神社の一番の良さだと感じてしまいます。

参道の中ほどにある二の鳥居は、承応三年(1654年)に喜多見重恒、重勝兄弟(勝忠の子)が寄進したもの。区内に現存する最古の石鳥居であり、また明神鳥居という形式や白雲母花崗岩という材質が特異な為、世田谷区指定有形文化財に指定されています。

喜多見氷川神社 大国様と恵比寿様(節分行事)
大国様と恵比寿様(節分行事)

氷川神社には古くからの民俗芸能も残っています。百景の紹介文には里神楽とありますが、これは秋祭りの時に外部の団体を呼んで演じてもらっているだけなので、神社や喜多見の文化財ではありません。でも、神楽が行われている境内は、古き良き秋祭りといった雰囲気になります。

郷土芸能として世田谷区の文化財に登録されているのは、神楽は神楽でも神職や保存会が行っている神前舞。神事の際に拝殿内で舞われる舞いです。それから、節分行事に行われる鬼やらい神事や恵比寿・大国舞も同じく文化財に指定されています。

No.60 喜多見慶元寺界わい

喜多見慶元寺の案内板

江戸氏の祖を弔って建立されたといわれる。江戸氏は皇居のあたりに居を構えていたが、家康が江戸築城のおりこの地に退き姓も喜多見と変えた。江戸氏追善の塔がある。広い寺域に沿う小道は、奥多摩から多摩川を下った筏師が歩いて帰ったという「いかだ道」で、ところどころにのどかな郊外の風景を見ることができる。(せたがや百景公式紹介文の引用)

場所:喜多見4-17-1(慶元寺) 備考:ーーー

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喜多見慶元寺 江戸氏の墓所
江戸氏の墓所

世田谷の西の端、狛江市に隣接して喜多見があります。区内では地味な土地といった印象がありますが、江戸時代、この地には短期間ながら喜多見氏によって喜多見藩が置かれていたこともあります。

喜多見を代々治めていたのは江戸氏で、江戸幕府が開かれると、徳川家に遠慮し、喜多見に姓を変えました。その江戸氏・喜多見氏の菩提寺が慶元寺になります。

喜多見慶元寺 杉が茂る参道
杉が並ぶ参道
喜多見慶元寺 慶元寺本堂
慶元寺本堂

慶元寺は氷川神社に隣接する形で立地していて、付近に畑も多いことからこの界隈は緑が多く、世田谷らしからぬ雰囲気をしています。

慶元寺で素晴らしいと感じるのが、杉が植えられている参道。うっそうとした雰囲気で、歩くと厳かな気持ちになれます。

本堂は享保元年(1716年)に再建されたもので、世田谷区内の現存する寺院の本堂では最古の建造物となるようです。この他、墓地にある平成5年に建立された三重の塔は、現在の慶元寺の象徴となっています。

喜多見 いかだ道 道の案内板
道の案内板

百景の紹介文には、いかだ道(筏道)の記載があります。鉄道も自動車もなかった江戸時代、奥多摩で伐採した材木は筏状に束ねて、多摩川に流して運んでいました。その筏を操っていた人達が、多摩川下流の六郷から奥多摩に帰る際に使用していた道筋が筏道です。

筏道は特別な存在というわけではありませんが、古くからの道筋となるので、道沿いには昔ながらの風景も多いです。この界隈では大がかりな耕地整理が行われていないので、昔のままの細い道が張り巡らされていて、とても道が分かり辛いです。でも、古くからの抜け道である筏道の道筋を覚えると、喜多見で道に迷うことが少なくなります。

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