須賀神社とムクノキ
喜多見4-3-23樹齢400 年のムクノキをはじめとした大木に包まれた小さな神社である。まるで絵本に出てくるような、昔から変わることなく続いてきた風景である。ムクノキが四季折々の味わいを深めている。 (紹介文の引用)
1、須賀神社とムクノキ

*国土地理院地図を書き込んで使用
喜多見の・・・、地元の人でないとうまく説明できない場所、大雑把に言えば、慶元寺の門前から少し住宅地に入った場所に須賀神社があります。
地図で見ると、喜多見氷川神社、慶元寺、そして須賀神社が一直線に並んでいます。これは・・・、もしかして古代人が天体配列を表したとか。などと考えてしまうのは、神々の指紋に感銘を受けたオカルト好きな人間だけかもしれませんが、作為的な何かを感じてしまいます。それが何かと言われても、説明できませんが・・・。


小さな神社です。
須賀神社は、小さなお堂のような社と鳥居があるだけの小さな神社です。本来なら「簡素で何の変哲もない」「見るべきものがない」といった感想になりそうですが、お堂を守るように取り囲んでいる巨木の佇まいが素敵で、昔話のような懐かしさというか、心落ち着くような原風景というか、心に響くようないい風景になっています。
須賀神社の由緒は、承応年間(1652~1654年)、喜多見の旗本、喜多見重勝が喜多見館内の庭園に勧請したのが始まりと伝えられていますが、その真偽や詳細は分かっていません。

左がケヤキ、右がムクノキです。
祭神は素戔嗚尊(=須賀大神)と菅原道真が祀られていることになっていますが、地元では疫病除けの神様として知られている「牛頭天王」の御利益が信じられていて、いわゆる「天王様」と呼ばれていたりします。
知っている人も多いかと思いますが、明治維新の時に行われた神仏分離で、権現類と牛頭天王は徹底的に弾圧されました。
簡単に書くなら、天皇家の直系の神ではないといった理由です。そのため、全国の牛頭天王を祀る祇園社や天王社は、牛頭天王=素戔嗚尊の化身という事で、素戔嗚尊を祭神とする神社に強制的に改宗させられたという歴史があります。
ここの須賀神社も元々天王社だったものが、須賀神社に改名させられたのではないかと言われています。

1864年(文久4年)に祭礼講中が寄進したもののようです。
もう一つの祭神である菅原道真の方は、新編武蔵国風土記に「天神塚には2つの小祠があって、1つは天王様、もう1つは天神を祀っている」と書かれています。
神社の鎮座している場所はこんもりと盛り上がっていますが、これは天神塚という古墳になり、神社付近も天神森と言われています。
大阪目代として大阪にいた喜多見久太夫重勝(茶道の達人で成城三丁目のお茶屋坂は彼の茶室があった事で名付けられた)が、沢庵和尚が堺南宗寺に勧請した歌枕天神様を、神木の梅樹と共にこの地に勧請したという話が残っています。その天神様がこの祀られている天神様ではないかと言われています。

須賀神社のすぐそばにあります。
ちなみに、この神社のすぐそば、30mも離れていない場所にも第六天塚古墳があります。かつて表面を葺石で覆われ、円筒埴輪が並べられた直径15mほどの立派な円墳だったそうですが、今ではかなり形が崩れているうえに、古墳の上は竹やぶ状態になっています。
更に、この付近には稲荷塚古墳や慶元寺古墳などと、多数の古墳があります。ただ、平地ばかりの喜多見地域では、喜多見氏の館の築山として利用されたりして、多くが姿を変えたり消滅してしまっています。

社殿前に生えていて、存在感があります。
社殿の前には、樹齢400年とも言われるムクノキ(椋木)が聳えています。この木は世田谷区の名木百選に選ばれ、また保存樹としても指定されています。大きさ的には社殿の後ろにあるケヤキの方が大きいように見えますが、社殿の前にあることから須賀神社のシンボル的な存在、神木となっています。
ムクノキというのは、ニレ科ムクノキ属の落葉高木で、日本では関東以西、主にアジア東南部に分布している木だそうです。比較的成長が早い木なので、日本的感覚で考えると樹齢以上に見栄えがする木でもあるようです。

(*イラスト:チカギさん 【イラストAC】)
昭和の話になりますが、このムクノキに東南アジアから渡り鳥のコノハヅク(ムクドリくらいの大きさしかない日本最小のフクロウ類)が6月ごろにやって来て、ヒナをかえし8月に帰って行っていたそうです。ふるさとの東南アジアの木で落ち着いたのでしょうか。
しかしながら、近年では全く来なくなってしまいました。昭和の後半から喜多見にも宅地化の波が押し寄せ、多くの家が建つようになりました。あまりにも周囲に家屋が建ち過ぎて、どの木だかわからなくなってしまったのかもしれませんね。
それに現代の東京では、縄張り意識の高いカラスが制空権を握っているので、他から渡り鳥としてやってきた鳥が木の上で子育てをするのは難しいかもしれません。鷹でさえカラスの集団に追い回されて逃げ出す状態ですから。
2、須賀神社の祭礼

毎年、決まった日に行われます。
須賀神社の例大祭は、曜日に関係なく、毎年8月1日に宵宮、翌2日に本祭が行われます。今でもそういう言い方をしているかのがどうか知りませんが、地元では天王様の祭りとして親しまれてきた祭りです。祭礼中には社殿に受付が設けられ、大勢の人がお参りに訪れます。
祭礼は、宵宮の日に17時からお囃子が演奏されます。お囃子を行うのは喜多見氷川神社でもおなじみの喜多見学友会です。昔は各地域の講がお囃子を奉納しに来ていて、世田谷各地のお囃子の聞き比べができたそうですが、今はどうなのでしょう。確認していないので分かりません。
氷川神社同様に、ここでも伝統的にお囃子専用の高い櫓が社殿横に設置されます。お囃子が昔から大事にされていると感じる一方、年配の方が多いお囃子会なので、櫓に登る様子を見ていると、これはこれで酷な舞台なのかな・・・と思ってしまいました。

毎年、決まった日に行われます。
本祭の日は、昼の部と夜の部と二段構成となっています。昼の部は15時から行われる神事です。喜多見氷川神社の祭礼と同じように、猿田彦を従えた神幸行列が行われます。
興味深いのは、わざわざ狭い通路を通り、お隣の第六天塚古墳の脇を通過することです。第六天塚は、かつて祟りを為す塚として恐れられていたそうです。そういった歴史が第六天塚に寄っていくという行為と繋がっているのでしょうか。

世田谷とは思えないような光景です。
列が社殿に到着すると神事が行われます。ここでは社殿が小さいので中に入るのは神職と祭事を行う者のみで、猿田彦を含めて社殿の外に置かれた椅子に座ることになります。
ムクノキやケヤキに囲まれた小さな建物で神事が行われる様子は、とてものどかで、世田谷とは思えないような光景です。

鈴を持って舞います。
基本的な神事の後、神前舞が舞われます。神前舞は、巫女舞、幣の舞、剣の舞と三種類で、年によって踊り手の数が違うのが、ローカルっぽいです。
なので、巫女さんが一人で舞う年もあれば、鈴の舞と剣の舞を同じ人が舞う年もあります。曜日等の兼ね合いで違ってくるのでしょうか。
巫女舞は、古くから氷川神社に伝わっている舞で、鈴を持って舞います。頭飾り等を付けずにシンプルに舞うのが特徴でしょうか。伝統的に三人で舞うのですが、今では年によってまちまちです。


巫女舞の後は、奉幣の舞、太刀の舞が舞われます。この神前舞は、本来は二人舞で、五座で構成されているものです。現在は色々と省略されていますが、喜多見氷川神社の祭礼ではより本来の姿に近い形で舞われます。
神前舞は一座が左手に幣束、右手に鈴を持った奉幣の舞、二座が左手に榊、右手に鈴を持った榊の舞、三座が左手に鈴、右手に扇を持った舞扇、四座が左手に弓、右手に鈴を持った弓の舞、五座が左手に太刀、右手に鈴を持った太刀の舞で構成され、舞は座である社殿の中を東西南北に移動し、四方固めを行うといったものです。これは地の精霊を圧服する所作と考えられています。

この他、神事とは別に、黒三番が設置された舞台で伝統的に舞われているそうですが、現在も行われているかは確認していません。この舞は天王祭では必ず舞うものとされ、舞わないと疫病が流行すると言われていたそうです。

地元のフラダンスチームでしょうか。
夜の部は、18時から始まる余興が中心となります。演目はカラオケや舞踊がほとんどですが、訪れたとき(2013年)はフラダンスが人気のようで、演目が始まると、観客席がとても盛り上がっていました。地元で有名なチームなのでしょうか。
そういった余興に混じって行われるのが、世田谷区の無形民俗文化財に指定されている湯花神事です。20時から行われ、この時は余興も中断し、境内にいるほとんどの人が湯花神事の行われる社殿前に集まります。湯花神事が終わると再び余興が行われ、最後に紅白の投げ餅がまかれ例大祭が終了します。
3、湯花神事

ムクノキの下で行われます。
湯花神事とは、別名湯立て神事、或いは湯立神楽とも言われ、大釜に湯を沸かし、その沸いた湯の中に笹竹などの神具、或いは直接手を入れたりして、その湯を信徒などに振りかける神事です。
この湯がかかれば、一年間無病息災で過ごせるとか、厄払いができるとか、その地方によって判断の仕方や御利益は違うようですが、一般的には、湯で身を清めるといった厄払いの要素が強い神事になります。
昔は多くの土地で行われていて、世田谷でも昔は湯花神事を行っていたと記載された神社は幾つかあるのですが、今ではここだけになってしまいました。そういった希少性から世田谷区の無形民俗文化財に指定されています。
ただ、世田谷近辺では新宿の花園神社や杉並の久我山稲荷神社で行われていますし、関東では鎌倉や千葉を中心とした地域では、まだ多くの神社で行われているので、もの凄く珍しい行事というわけではありません。なので、外部からの見学者はあまりいない感じでした。

いよいよ神事の始まりです。奉幣で釜などを清めます。
須賀神社の湯花神事は、社殿前にある神木ムクノキの下で行われます。祭礼時には、木の下に一間四方に笹竹と注連縄を張った聖域が作られ、その中央に三本の青竹で支えた平釜が据えられます。これは早い時間帯から設置されるようで、昼の例大祭の時にはもう設置されていました。
湯花神事が行われるのは、20時頃。18時から始まった奉納演芸が佳境に入る頃ですが、奉納演芸の方は中入りとなり、湯花神事が行われるというアナウンスと共に境内の人が木の周りに集まってきます。

世話人が点火し、藁をくべて火力を調整します。

湯花神事の祭主を努めるのは、喜多見氷川神社の宮司さん。まず最初にお祓いを行い、それが終わると、世話人が釜戸の下にくべられた麦藁に火を付けます。
付近の農家では麦を栽培しなくなっているので、この藁はこの日のために特別に栽培されたものだとか。世話人が藁をくべ、火力を調整している間に、宮司は祝詞奏上を行います。

頃合いを見計らって世話人が消火します。

柄の部分を湯に付けて湯を鎮めます。
祝詞が終わった後、湯が沸いたのを見計らって、世話人が火を消します。そして、いよいよお湯かけの始まり・・・ではなく、まずは笹竹の根元部分を入れ、唱えごとをして湯を鎮めます。

混ぜながら葉に湯を付けます。

湯の付いた笹竹を振って渇をはじきます。
その後、葉の部分を入れ、大きく混ぜながら、葉にお湯を付けます。そしてそれを素早く頭上に振り上げ、参拝者に振りかけます。当然ですが、前の方がよくかかります。といっても、火傷するような熱さではありません。

後ろに届くように大きく笹竹を振っていました。
そこそこ人が集まるので、一度では賄いきれなく、社殿の前、社殿の道路側に向かって2回と、計3回笹の葉で湯を振りかけます。
この湯がかかると一年間病気をしないと言われているので、お湯かけの場面になると地元の人も真剣になり、後ろの方にいる人などはなるべくお湯がかかるように前に前にと自然に体が動いていたりします。

神事が終わると、人々は帰路についたり、投げ餅まで奉納演芸を見てくつろいだりするのですが、宮司さんは社殿に戻り、神前に神事の報告を行います。
喜多見氷川神社の宮司さんは、周辺の多くの神社を掛け持ちし、結婚式なども行っています。とても穏やかな方で、人望も厚いのですが、この湯花神事の時だけは、揺らめく炎に照らされる様子は怪しい雰囲気満点のシャーマンに感じてしまいました・・・。笑
4、感想など

素朴さが素敵な神社です。
須賀神社は、鳥居と小さなお堂があるだけの小さな神社ですが、ムクノキとケヤキの大木が小さなお堂を守っているように佇んでいる様子はとても印象的です。
それとともに、神前舞や湯花神事が行われる夏の例祭の様子も、素朴さに溢れていて、感動的でした。神社や祭りだけではなく、周辺の景色、集まる人々、全てが素朴さにあふれていて、これぞ日本の原風景といった感じ。世田谷にもこんな場所が残っていたんだと素直に感動し、心が揺さぶられました。
せたがや地域風景資産 #2-30須賀神社とムクノキ 2025年2月改訂 - 風の旅人
・地図・アクセス等
・住所 | 喜多見4-3-23 |
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・アクセス | 最寄り駅は小田急線喜多見駅。駅から少し離れています。 |
・関連リンク | 喜多見氷川神社(公式サイト) |
・備考 | 祭礼は8月1、2日 |