世田谷散策記 せたがや百景のバーナー
せたがや百景の案内板の写真

せたがや百景 No.73

岡本静嘉堂文庫

門を入るとイチョウや杉など木々の間を縫って、ゆるい坂道が続く。モダンな造りの静嘉堂には旧三菱財閥の岩崎弥之助、小弥太父子によって収集された和漢の典籍が保存され、時おり展示もされる。斜面に造られた庭園は武蔵野のたたずまいを残し、静嘉堂一帯は深い緑に包まれている。(せたがや百景公式紹介文の引用)

・場所 : 岡本2-23-1
・備考 : 都選定歴史的建造物(静嘉堂文庫と岩崎家玉川廟)、開館時間:午前10時~午後4時30分、月曜日休館

*** 岡本静嘉堂文庫の写真 ***

岡本静嘉堂文庫入り口の写真
静嘉堂文庫の入り口

大蔵通りと馬坂の三叉路にあります。

岡本静嘉堂文庫の写真
噴水と静嘉堂文庫

坂を登ると美しい広場があります。

岡本静嘉堂文庫の写真
静嘉堂文庫

イギリス式の建物です。

岡本静嘉堂文庫の写真
静嘉堂文庫入り口のアーチ

入り口は美しいアーチとなっています。

岡本静嘉堂文庫の写真
桜の季節
岡本静嘉堂文庫の写真
ツツジの季節
岡本静嘉堂文庫の写真
紅葉の季節
岡本静嘉堂文庫の写真
落ち葉が降り積もった様子
岡本静嘉堂文庫美術館の写真
静嘉堂文庫美術館

国宝を7点も所有する美術館です。

岡本静嘉堂文庫美術館の写真
美術館裏にある庭園の梅

梅の季節は華やかです。

岡本静嘉堂文庫美術館の写真
庭園の様子

崖に広がっています。

* 岩崎家玉川廟 *

岩崎家玉川廟の写真
しだれ桜と岩崎家玉川廟

都選定歴史的建造物に指定されています。

岩崎家玉川廟の写真
霊廟の番犬

青銅式のものです。

岩崎家玉川廟の写真
岩崎家の霊廟の扉

扉にフィルムのコマのように絵が描かれています

岩崎家玉川廟の写真
あじさいの季節

 

* 岡本静嘉堂文庫と美術館について *

砧公園の方から流れてくる谷戸川と丸子川(六郷用水)が交わる場所は小高い丘になっています。これは先に出てきた「岡本もみじが丘」であって、正式には岡本静嘉堂(せいかどう)緑地といいます。岡本静嘉堂緑地の入り口から入り、もみじが丘の方ではなく、車道を道なりに進んでいくと、丘の上に円形状の噴水があり、その奥にお洒落な洋館があります。これが岡本静嘉堂文庫で、その横にある近代的な建物は静嘉堂文庫美術館です。

この美術館の裏手の方には岡本八幡神社があり、その麓には岡本公園と民家園があります。こちら側にも通用門といった小さな入り口がありますので、散策をして回るのにも都合良くなっています。この辺り一帯は緑豊かな地域であり、またせたがや百景多発地帯ともいえます。

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この岡本静嘉堂緑地一帯は三菱財閥の創始者岩崎家の持ち物でした。三菱財閥の創始者は土佐藩出身の岩崎彌太郎(弥太郎)氏(1835年~1885年)です。明治維新の混乱期に巨財を築いた人物として有名であり、また幕末の動乱期に坂本龍馬などとも関係する人物なので、直接的に知らなくても、間接的に弥太郎氏の事を文献から知った人も多いかと思います・・・って私の事ですが。

この静嘉堂文庫はその初代社長である弥太郎氏とは・・・、残念ながらあまり関係なく、2代目社長であった岩崎彌之助(弥之助)氏(1851年~1908年)に深く関わるものです。弥之助氏は創始者弥太郎氏の弟であり、兄に従って実業界に入る以前は漢学を学んでいました。その時の師が重野成斎氏で、彼の研究を援助する目的から古典書の収集を始め、和漢の古書、古美術品などの収集を熱心に行いました。

晩年の1907年には清の集書家、陸心源の宋樓旧蔵書4万数千冊を購入し、宋版、元版といった貴重な中国古典籍コレクションが文庫にもたらされました。1908年に弥之助氏が他界した後は、息子であり、4代目の社長である小彌太(小弥太)氏(1879~1945)が父の遺志を受け継ぎ、文庫の収蔵品を拡充させました。

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静嘉堂の名前の由来は、静嘉堂文庫美術館の資料によると、中国古典の詩経に出てくる大雅、既酔編の「邉豆静嘉」の句からとった弥之助氏の堂号で、祖先の霊前に供える供物が立派に整うといった意味だそうです。

静嘉堂自体は初めは駿河台にあった岩崎邸内に設けられ、次に高輪の邸内(現、開東閣)に設けられました。そして弥之助氏が他界した後、大正13年(1924年)の弥之助氏17回忌を記念して息子の小弥太氏によってこの場所に移されました。この場所は岩崎家の霊廟のある地であり、父弥之助の墓地の隣接地となります。

それに徐々に都内が混み合ってきた都内よりも自然豊かな国分寺崖線のほうが図書館にはふさわしいと感じたかもしれません。それはお洒落な洋館スタイルの建物の形から感じる事ができ、この洋館はイギリスで建築を学んだ桜井小太郎氏の設計で建てられたもので、イギリス郊外の洋館を表現した建物だそうです。

鉄筋コンクリート製の2階建てで、洋風のスクラッチタイルが一面に貼り付けられています。小弥太氏もイギリスに留学した経験を持つので、こういったイギリス的な建造物になったようです。設置されている案内板を読むと、東京都選定歴史的建造物に指定されているとか。それはいいとしても、その案内板を設置したのが東京都生活文化局というのがちょっと新鮮な感じがしました。

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この文庫内は資料を必要とする研究者や学生などに公開されています。しかも原本を資料として提供するという方針をとっているため、あまりに貴重な宋・元版を除いて、明以降の中国古典の版本などを全て原書で閲覧できるようになっているそうです。ただ、複写に関してはマイクロフィルムからに限られるみたいです。

ちなみに閲覧が許可されるのは、大学生以上でしかるべき紹介状を有する者との事です。そして閲覧は予約制となり、入室に際しては正装が必要となっているとか。このあたりは旧財閥の格式を感じてしまいます。といった感じで一般の人は入る事ができないので、外からの見学だけとなります。

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文庫の横には静嘉堂文庫美術館が設置されています。これは昭和52年(1977年)に展示室を設けて財閥や文庫の収蔵する美術品を公開したのが始まりで、現在の建物は平成四年(1992年)に創設100周年を記念して建設されたものです。

この美術館は常設で展示を行ってはいなく、年に4~5回程度の頻度で毎回テーマを変え、展覧会といった形式で収蔵品の公開を行い、それ以外の期間は展示替えという事で休館しています。訪れる際にはHPなどでなんの展示を行っているのか、展示期間はいつなのかを調べた方が確実かと思います。

なお美術館の説明では、文庫を含めて美術館の収蔵品は、国宝7点、重要文化財83点を含むおよそ20万冊の古典籍と5,000点の東洋古美術品を収蔵しているそうです。国宝が7点もあるのにはさすが財閥だと感服してしまいますが、残念ながら一度に多くの国宝が展示されることがないので、これが見たいといったお目当てのものがあるなら、それが展示してある展覧会の時期に訪れる必要があります。

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この美術館所有の国宝の中でも有名なのが、世界に3点しか現存していない中国・南宋時代の「曜変天目茶碗(稲葉天目)」のようです。戦国時代の茶器に興味があったので、それが展示されるときに合わせて入館してみましたが、私の個人的な感想としては、なんというか、戦火や災害の火災などの高温で焼きただれてしまった器のように感じてしまって、どうも好みに合わない器でした・・・。

その他の国宝は俵屋宗達筆の「源氏物語関屋澪標図屏風」、伝馬遠筆の「風雨山水図」、趙子昴筆の「与中峰明本尺牘」、太田切筆の「倭漢朗詠抄」、因陀羅筆、楚石梵琦題詩の「禅機図断簡 智常禅師図」、「手掻包永太刀」です。詳細については写真入りで美術館のサイトに載っていますので興味があればそちらをご覧になってください。

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静嘉堂文庫や美術館がある広場から南の林を抜けると岩崎家の玉川廟があります。この丘全体が岩崎家所有の土地だったので、まるで岩崎家の古墳というか、王家の丘ならず財閥の丘って感じですね。こういった事ができるのもさすがと言うべきなのでしょうが、この玉川廟も文庫同様に凝った造りをしています。

建設は明治43年(1910年)で、文庫と同様に小弥太氏が父、弥之助氏の墓として建てたものです。こちらの設計は日本近代建築の父であるジョサイア・コンドル氏が行いました。J・コンドル氏とは鹿鳴館の設計者としてよく知られている人物で、岩崎家との結びつきも強く、茅町本邸(1896年、重要文化財)、深川邸洋館(1889年、現存せず)、高輪邸(1908年、現三菱開東閣)なども手がけています。

そういった著名な建築家がお墓を設計したのでこんなに豪勢になってしまったのか、とにかく豪勢にしてくれというような要望があったのかは知りませんが、庶民との格の違いを感じてしまいます。ちなみにJ・コンドル氏は駿河台のニコライ堂も建築しているので、そういった視線から見るとどことなく共通点も見いだせるかもしれません。

それとこの廟の横には枝垂れ桜があり、春にはピンクの美しいアクセントが加わり、廟の周りにはあじさいが植えられているので、梅雨の時期に彩り鮮やかな花で囲まれ、秋にはもみじが彩りを添えます。

<せたがや百景 No.73 岡本静嘉堂文庫 2009年6月初稿 - 2015年10月改訂>