* 瀬田四丁目旧小坂緑地について *
旧大山道は瀬田の交差点の手前で2ルートに分かれていました。北側(西)を通るルートは崖線のところで慈眼寺や瀬田玉川神社の横を通り、下ると二子玉川商店街を通り、多摩川で再び南のルートと合流します。このルートは慈眼寺ルートと呼ばれ、慈眼寺や瀬田玉川神社のある急な坂は慈眼寺坂と呼ばれています。
その慈眼寺坂の一本北側(西)の坂は薄暗く、細く、まがった坂で、坂の途中にまむし沢という石碑が建っています。名前の通りまむしが多くいた地域でまむし坂、まむし沢坂などと呼ばれていました。更に北側の静嘉堂文庫前から上る坂は馬坂と呼ばれていて、馬でも登ったり下ったりできるように整備したのでその名前がついたそうです。この馬坂の脇に続く広大な緑地っぽい土地が「瀬田四丁目旧小坂緑地(旧・瀬田四丁目広場)」で、敷地内に旧小坂家住宅があります。
馬坂の更に北側は仲代達夫の無名塾があったことから無名坂と呼ばれていて、今でも家の壁に無名塾のプレートがはめ込まれています。無名坂より北側はドミニコ学園があったり特に名がついた坂はありませんが、この辺りの坂はウルトラマンシリーズのロケに頻繁に使われています。旧小坂家住宅を訪れるついでにこれら個性的な坂をめぐってみるのも健康にいいかと思います。
瀬田四丁目旧小坂緑地は小坂氏の敷地をそのまま利用したもので、1996年(平成8年)に世田谷区が緑地保護の公園用地として土地を購入し、建物の方は小坂家から寄贈されました。敷地が約千平方メートル(現在は約950平方メートル)、およそ300坪あるというから驚きます。
1998年に瀬田四丁目広場として開園。翌年から建物やガイドなどの管理が世田谷区トラストまちづくりに移管されます。2009年から耐震工事のために一時閉鎖され、2012年から再び建物が公開されます。2016年には「瀬田四丁目広場・旧小坂邸」から「瀬田四丁目旧小坂緑地」に名称が変更されています。
この土地の所有者だった小坂順造氏は、長野生まれで、信濃銀行取締役、信濃毎日新聞社長を歴任し、後に衆議院議員、貴族院議員、枢密顧問官をも務めた人物です。昭和12年に別邸としてこの地を購入し、建物を建てましたが、昭和20年の戦災によって渋谷の方にあった本邸が焼け、その後はここを本邸として使用し、昭和35年に他界しました。
小坂氏の長男小坂善太郎は元外務大臣、三男小坂徳三郎は元運輸大臣、孫の小坂憲次は文部科学大臣を務め、現在でも長野で政治家をしているといった政治家一家です。三男小坂徳三郎氏は選挙区が世田谷なので、順三氏が亡くなった後は、彼が使用していたのでしょうか。それとも一族の別荘的に使用していたのでしょうか。どのように使用されていたのかわかりませんが、平成8年に世田谷区に寄贈され、現在のように公開されるようになりました。
戦前は政財界の要人の別邸が国分寺崖線沿いに多数存在していました。せたがや百景にも出てくる高橋是清の別邸だった玉川幼稚園、そして静嘉堂文庫も三菱財閥の岩崎家の別邸や霊廟であり、またこの小坂邸入り口の斜め前にある多摩川テラスは日産財閥の創設者鮎川義介氏の邸宅跡地になります。こういった別邸はいずれも現在では取り壊されてしまい、当時のまま建物が現存しているのは唯一ここだけです。
そういった意味でも貴重な文化財で、平成11年に世田谷区の指定有形文化財に指定されています。ちなみに残っていない理由は老朽化で建て替えられたり、相続などといったそれぞれの家の事情が大半なのでしょうが、残っていてもわざわざ自分の家を公開したくないといったことで壊されて土地だけ売られたりしたそうです。別邸とはいえプライベートな事柄となるので、わざわざ世間一般に公開したくないというのもわかる気がします。
* 旧小坂邸について *
旧小坂邸は、昭和12年に別邸として建築されました。棟札には「昭和12年10月2日上棟」とあり、設計・施工は清水建設の前身である清水組が行っています。施工記録も残っていて、それによると昭和12年7月に起工し、昭和13年9月竣工しているそうです。
当時、小坂氏の本邸は東京都渋谷区にあったのですが、昭和20年の戦災で焼失してしまいました。その後はここが本邸として使用され、必要に応じて生活しやすいように改築が行われています。
主屋は建築面積322.2平方メートル、一部2階建てで、入母屋造、切妻造、桟瓦葺となり、平成11年には世田谷区指定有形文化財に指定されています。
外から見て気になるのは屋根の上に煙突のように小さな屋根がついていることです。これは「気抜き」と呼ばれ、小坂氏の出身地長野ではよく見られる建築様式で、室内の保温の焚火や煙を換気するための煙突代わりです。時代が明治になり養蚕や製糸が盛んとなった時に多くの家で改装されたそうです。もちろんこの家で蚕を飼育などしていなく、小坂氏が故郷を懐かしんで取り付けたものです。
内部は和洋折衷で主家棟は和風、離れを洋風と各棟で仕様を変え、別邸ならではの趣味的な色合いの濃い住宅になっています。
まず玄関を入ると、土間となっていて、天井を見上げると吹き抜けとなっています。いわゆるよく古民家で見るような梁組で、小坂家の伝承に拠れば、梁材は奥多摩の名主屋敷のものが使われたとか。昔は材木の再利用は当たり前で、特に梁材はちゃんとした古民家のものを使用するのが丈夫でいいとされていました。
この土間部分の壁には格子の入った横長の障子窓があるのですが、これは茶室の窓です。あるいは入り口にも使用されたのかもしれません。この茶室は6畳で炉を切ったタイプで、床は略式の壁床(織部床)、天井は蒲簾が張られています。他の部屋に比べるとですが、茶室に関してはそこまでのこだわりはなかったような感じです。
玄関から上がると、まずは東西に伸びる畳廊下があり、その先に12畳半の居間と10畳の茶の間があります。居間は一間半の床の間と付書院を設け、天井は高価な薩摩杉が用いられ、数寄屋風のつくりとなっています。茶の間との境にある欄間には桐紋の透彫が入っているのも特徴の一つです。
この居間と茶の間には庭側の30cmぐらいが板敷になっている畳敷の入側がめぐっています。入側はすべてガラス窓になっているのでとても明るく、床も畳敷きとなっているのでくつろぐこともでき、とてもうらやましいというか、贅沢な空間です。
茶の間の東には3畳の和室、台所、6畳の女中部屋、納戸などがあり、廊下の角には懐かしいというか、昭和の風情のある電話室があります。よく宿場町の本陣や豪商宅でみかけるやつで、世田谷では珍しい存在かもしれません。こういった主体部の凝った建築は大正から昭和前期にかけて文化人の間で流行した民家風和風住宅の意匠です。
茶室の先、主屋の北西に位置する書斎は入った瞬間にオッと感じるような独特の造りをしています。なんと壁が黒いのです。しかも無骨な感じの工法で造られているので、圧倒される感じがあります。更には壁の中央に取り付けられている暖炉。まあ暖炉自体はこのクラスの住居なら珍しくはないのでしょうが、暖炉の上のスペースには丸い金箔の張られたスペースがあり、異様な存在感を放っています。
これは仏像を安置するために造ったスペースで、実際に仏像が置かれていたそうです。このほか、柱は赤松の面皮柱、床は寄木板張、壁に張られた腰板には鉈目削りの装飾が施され、部屋自体が和洋折衷であり、また山小屋風でもあり、なんとも不思議な空間というか、独特な趣きのある部屋になっています。
主体部の南東には南方向に延びる廊下があり、その途中には2階建の内倉があります。内倉には鉄製の防火扉が付けられ、収集していた美術品や調度品、家財道具が保管されていたそうです。
この蔵の前にはかつてこの家で使用していた古い冷蔵庫がさりげなく置いてあるのですが、これがでかい。さすが大きなお屋敷といった感じであり、また昭和を感じるようなレトロなデザインは味があっていいオブジェになっていました。
この内倉の先に2階建の寝室棟があります。この建物は完全に洋風となっていて、寝室の手前には階段ホールと更衣室があり、2階は非公開となっていますが、令息室と書庫があります。
1階部の寝室はいかにも洋室といった部屋になっていて、飾りの暖炉があり、凝った照明器具があり、そして現在では暖炉の上の壁には小坂順造のレリーフが飾られています。
この寝室の西側には小さな窓辺の部屋が設置され、今は木が邪魔をしていますが、昔は富士山を望めるような景色を楽しめたそうです。この部屋には応接セットが置いてあるのですが、これもやっぱり高そうな代物です。以前は自由に座ってワンランク上の身分を味わうことができたのですが、段々と椅子が傷んできてしまい、今では座れないようになっています。
現在は世田谷区より委託を受けた一般財団法人世田谷トラストまちづくりが公開管理にあたっています。開館時間は午前9時30分~午後4時30分まで(休園日:毎週月曜日、但し月曜が祝日の場合は次の平日。及び、年末年始)で、入場は無料です。おまけに待機しているボランティアの方の説明を受けることもできます。
また文化財の建物と広大な敷地を擁する瀬田4丁目広場は、学び・遊び・活動の空間としての利活用の拡大を世田谷区が考えていて、様々なイベントが行われています。管理しているボランティアのサイト、「せたよんフィールドミュージアム」でイベントなどが確認できます。まだ始まったばかりの取り組みですが、今後は文化財の魅力だけではなく、地域の活動もプラスされた魅力ある場所になっていくのではないでしょうか。
* 崖線庭園について *
瀬田四丁目旧小坂緑地は小坂氏の敷地をそのまま利用したもので、1996年(平成8年)に世田谷区が緑地保護の公園用地として土地を購入し、建物の方は小坂家から寄贈されました。敷地は約千平方メートル(現在は約950平方メートル)、およそ300坪ありますが、敷地は国分寺崖線の縁辺部にあたり、敷地の半分以上は斜面地と崖下の湧水と湿地になっています。
建物として利用がしにくい斜面地や湿地を利用して回遊式の庭園が造られています。庭園内には樹木が多く、湧き水もありと、この付近の国分寺崖線の特徴がよく残っています。
斜面にはつづらの道が、湧水が作り出す湿地帯には木製の歩道が設置されているなど、散策をしやすい環境が整っていて、歩くと気持ちいいです。どことなく成城三丁目緑地に雰囲気が似ているでしょうか。
崖下の竹林となっている付近には昔は茶室があり、戦時中は日本画家の横山大観が空襲を避けるために三ヶ月ほどここに移り住んでいたそうです。残念ながらこの建物は寄贈される前に取り壊されてしまったそうです。
崖下の入り口付近にある庚申塔は玉川4丁目にあった庭園にあったものを世田谷区が引き取ってここに置いたものです。ちょっと珍しく感じたのが庚申塔といえば三猿が多いのですが、この庚申塔は一猿です。三猿に慣れていると座りが悪いというか、寂しそうというか、ちょっと奇妙に感じてしまいます。
* 感想など *
ここの良さは敷地全体がそっくりそのまま残っていることです。緑に囲まれている中にある立派なお屋敷なので、昭和時代に世田谷が郊外の別荘地だった頃の名残を感じることができます。
また移築してきた建物とか、建物だけ残された文化財などと違い、当時の生活をそのまま感じることができます。もちろんお金持ちの暮らしや苦労など実際にお金持ちにならないとわからないでしょうが、当時の政財界人の生活や文化意識を垣間見れる貴重場となっているのは確かです。
庭園内の散策もいいし、近年では地域活動の拠点にもなっているので、季節の花だけではなく、季節の行事があるときに訪れてみるのもいいかと思います。なかなか素敵な場所なので、周辺の静嘉堂文庫などと一緒に訪れてみてください。
ー 風の旅人 ー