世田谷散策記 せたがや百景のバーナー
せたがや百景の案内板の写真

せたがや百景 No.98

お面かぶりの九品仏と参道

せたがや地域風景資産 No.2-12

九品仏浄真寺脇のクロマツの並木

せたがや地域風景資産 No.3-9

鷺草伝説ゆかりの奥沢城趾のある風景

九品仏浄真寺といわれるのは、阿弥陀仏如来像を三体ずつ三つのお堂に納めた三仏堂からきている。三年ごとの「お面かぶり」は都の郷土芸能に区内唯一指定されている。長い参道の向こうに見える茅造り総門、常盤伝説に由来するさぎ草園など見所が多い。奥沢城址に建てられた寺で寺域に土塁が残っている。(せたがや百景公式紹介文の引用)

・場所 : 奥沢7-41-3
・地域風景資産の関連団体 : 松並木風景を観察する会、特定非営利活動法人 土とみどりを守る会
・備考 : お面かぶりは3年ごとの8月16日(2011年-2014年-2017年)、さぎ草の開花時期は7~8月、都の有形文化財(釈迦如来坐像、阿弥陀如来像9体、梵鐘)、都の無形文化財(お面かぶり)、都の天然記念物(カヤ、イチョウ)、区の文化財(仁王門、三仏堂、奥沢城址跡など)

*** 九品仏の参道や奥沢城などの写真 ***

九品仏の参道の写真
春の参道入り口

桜の木の下は交番です

九品仏の参道の写真
「禁銃猟 警視庁」の石碑

明治32年のものです。他に2カ所建っています

九品仏の参道の写真
新緑の季節の参道

この時期は歩くとすがすがしさを感じます。

九品仏の参道の写真
秋の参道

柔らかい感じがして穏やかな気分になれます。

九品仏の参道の写真
参道の石碑群

庚申塔などが並んでいました。

黒松の並木の写真
黒松の並木

せたがや地域風景資産に選ばれています

奥沢城跡の写真
奥沢城跡の碑

かつて奥沢城だった名残です。

奥沢城跡の写真
土塁跡

ささやかな痕跡しか残っていません。

鷺草園の写真
境内の鷺草園

花が小さいので写真を撮るのは大変です

鷺草伝説の写真
八幡中学校に描かれている鷺草伝説

校舎の壁をつかった巨大な壁画となっています。

* 九品仏の参道や奥沢城について *

世田谷区内には大田区の本門寺や杉並区の妙法寺のような総本山といった大きなお寺はありませんが、招き猫の豪徳寺に九品仏の浄真寺という個性的で有名なお寺が2つあり、どちらもせたがや百景に選定されています。

九品仏浄真寺は大井町線に九品仏駅があるほど有名なお寺なのですが、正しく読む事ができますか。区内の人や仏教関係者は当たり前に読めると思いますが、読み方は「くほんぶつ」になります。九品仏とはよく聞くけど、お寺なのに寺という文字が付いていないのはなぜ?と違和感を感じる人もいるかと思いますが、あくまでも九品仏というのは愛称で、正式名称は九品山唯山念仏院浄真寺となります。

地元では九品仏というと駅やその一帯の地域を示す場合も多いので、お寺を示す時は「浄真寺(じょうしんじ)」の方がよく使われている感じです。

line

お寺について書く前にまずはタイトルにもなっている参道や風景資産に書かれているかつて奥沢城だった事などについて触れておきたいと思います。九品仏駅のすぐ北側を通っている上野毛通りから九品仏の参道が始まります。交差点に位置するのですが、角にある交番が控えめに造られていて雰囲気が良い参道の入り口となっています。とりわけ桜の時期は花が交番を覆い隠すように咲くので素晴らしいです(深い意味はありません・・・)。

参道を進むとすぐに「禁銃猟 警視庁」と三面に書かれた石柱が交番の横付近に建てられています。読んでその如く、「ここで銃を使って猟をする事を禁止する。警視庁より。」という事です。よくお寺の前に酒を飲んだ人、なまぐさい人間は、山門に入ってはならないといった意味の漢詩「不許葷酒入山門」という石碑がありますが、さすがにこの九品仏の石碑は・・・、今の時代鉄砲の弾が飛んでくる事はないのは分かっていても不安になってしまうようなインパクトの強さがあります。

この石柱は恐らく三カ所に立てられています。残りは境内の中(恐らく境内の外から移動したもの)と駒八通り沿いにあります。で、一体こんな危険な状態だったのはいつの時代の事なのでしょう。背面には建てられた年が書かれていて、明治32年(1899年)とあります。当時のこの地域は雑木林にあふれていた土地柄だったようです。大正時代になると南では田園調布の宅地開発が進み、西の等々力ではゴルフ場が造成され、北の駒沢でもゴルフ場ができ、この地域に限らず世田谷がどんどんと切り開かれていきます。

ちなみに世田谷で変わった門前の石碑といえば烏山の寺町にある一心山称往院極楽寺が有名です。この寺によって蕎麦屋の屋号に「庵(あん)」という字が付けられるきっかけとなっただけあり、門前に「不許蕎麦入境内」の碑が建てられています。

line

世田谷区内の神社やお寺の参道は耕地整理や大通りの建設などで消滅したり、中途半端に残っているものが多いです。状態よく残っているのは喜多見の慶元寺や氷川神社、その他で次第点なのは豪徳寺ぐらいでしょうか。逆に吉良氏の菩提寺となっている勝光院などは参道が住宅地になってしまった良い例かもしれません。

ここ九品仏の参道は都市開発にも負けずきれいな状態・・・、というか、きれいすぎる状態で残っています。参道はきれいにタイルが敷かれていて、植え込みもきれいに石垣で囲ってあります。どちらかというと参道という雰囲気ではなく、都会的な公園といった雰囲気で、道の脇にテーブルを並べたらお洒落なオープンカフェのできあがりといった感じです。

参道の横は入り口の交番を始め、区の出張所、地区会館や九品仏広場(公園)と公的な場所となっているので、参道全体が公園のような雰囲気で整備されたようです。雰囲気の良さや、手入れが行き届いている事から平成元年にせたがや界隈賞も受賞しています。

line

参道は入り口のソメイヨシノと里桜、参道内の樹木の新緑時のすがすがしさ、秋の紅葉ときちんと季節ごとに季節を感じる事ができます。こういった雰囲気造りは付近の住民だけではなく、訪れる参拝客や観光客にとってもうれしいものです。

また参道の途中には庚申塔などの石碑が置かれているのも参道らしさを失わせない工夫でしょうか。参道の中程には九品仏広場という公園があり、参道と調和した雰囲気のいい子供達の遊び場となっているのも良いですね。参道といえば格式があって、うっそうとしていてといった固定概念から脱却して、このように参道を利用した町造りもありなんだという良い例かもしれないなと思いました。

ちなみに江戸時代後期頃に九品仏は最盛期だったようで、多くの参拝客で賑わい、門前や参道脇に何軒かのお店が並んでいたようです。門前町を形成するというまでいかないのが世田谷のお寺らしいところでしょうか。

line

参道の終点に総門があります。九品仏クラスの寺にしては小さな門ですが、境内に大きな仁王門があるので実用的な感じの門といった感じになるでしょう。それでも屋根の輪郭が美しく、額字などの文字が引き締めている素晴らしい門です。

その門の前を左に進むとせたがや地域風景資産に登場する黒松の並木道が続いています。って、並木道というより、道から黒松が生えている道というべきなのでしょうか。なんとも中途半端な感じのする道です。

これはかつて九品仏の境内の周りに植えられていた屋敷林の名残なのかなと思っていたのですが、どうも古い地図を見ると九品仏の塀と松の間が小道となっていて、その道沿いに植えられていた並木だったような感じです(詳細不明)。何にしてもこういうものを残している事は評価できますが、やはり残すならもっと違う方法はなかったのだろうかといったような微妙な感想でしょうか。

この道沿いから九品仏の塀の方を覗くと、高さ2m程度の土塁がずっと続いています。これは奥沢城跡の名残で、九品仏のできる以前はこの場所が城だったという証です。

line

九品仏の敷地はかつて世田谷領吉良氏の家臣であった大平家の居城、奥沢城だったとされています。現在鐘楼から下品堂の裏にかけて、土塁が残っているのを見る事ができます。この土塁は方形に造られていて、三仏堂の裏を通り、墓地と本堂の間を通って、仁王門の線上を通って鐘楼に至ります。ちょうど一辺が140~150mほどの方形となり、この部分が本郭部分で、外郭部分は北が九品仏川に沿っていて、東は東門を出た先の道付近、南は九品仏広場前の道の南側付近、西は駒八通りの東側だっただろうとされています。

残念ながら本郭の土塁以外は痕跡を目視するのは難しいです。築城年代に関しては天文20年(1551年)に吉良頼康から大平清九郎にこの付近の地を領地とする文章が存在するので、それ以前(14世紀頃)からあったかも・・・とされています。

廃城となったのは世田谷城と同じで天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原遠征によって北条氏が滅亡した時です。その際に吉良氏は世田谷から逃げ出し、支城であった奥沢城も放棄されました。その後1670年頃から荒れ放題となっていた跡地を利用して九品仏浄真寺が建てられていきます。

line

そして奥沢城といえば鷺草伝説(常盤伝説)の舞台となっていることで知られ、第三回のせたがや地域風景資産では鷺草伝説や奥沢城址にスポットが当てられて選定されています。

鷺草伝説は世田谷の古典文学「名残常盤記」に書かれていた物語なのですが、奥沢城主の娘の常盤が飼っていた白鷺を縁に世田谷城主吉良頼康に嫁ぐものの、寵愛を一身に受けたために他の側室から妬みをかい、罠にかけられて殺されてしまうといった悲劇的なお話です(常磐塚の項を参照)。

この話には白鷺と鷺草が出てくるのですが、かつてこの地には世田谷区の花となっている鷺草が自生していました。そういった事も踏まえて仁王門を入ってすぐ右側に小さな鷺草園が造られています。花の開花期は7~8月頃です。小さな花なのでちょっと高さ的に見にくいかもしれません。かつては総門を入って左側の部分、仁王門の手前に大きな池があり、そこに鷺草園があったのですが、駐車場を造るために埋められ、更に現在では駐車場が別の場所へ移動したので、木が植えられ庭園っぽくなっています。

line

また浄真寺の北側にある八幡中学校の校舎には大きな鷺草伝説をテーマにした絵が描かれています。この八幡中学校は元々は八幡小学校と同じ場所にあったのがここに移ってきたもので、八幡というのは奥沢神社の旧称です。本来なら奥沢の小中学校は八幡小、中学校が本筋となるのですが、現在では新しく奥沢小、中学校ができてしまい、おまけに八幡小学校の住所が玉川田園調布、中学校が等々力となっているので影の薄い状態です。

奥沢神社の祭礼を訪れたらそのことがどうも納得がいかないようで、奥沢の伝統行事である大蛇のお練りは奥沢小学校ではなく、八幡所学校の生徒に引き継いでもらいたいのに・・・と関係者がぼやいていたのが印象に残っています(笑)。

*** 九品仏浄真寺の境内や九品佛の写真 ***

九品仏浄真寺の境内の写真
総門

シンプルながら趣のある門です。

九品仏浄真寺の境内の写真
閻魔堂前のモミジの小道

ここの紅葉時は格別です。

閻魔堂の写真
閻魔堂

近づくと閻魔様ににらまれます。

閻魔堂の写真
閻魔堂の閻魔大王と奪衣婆

奪衣婆は閻魔様よりも不気味かも・・・

九品仏浄真寺の境内の写真
六地蔵

天保4年(1833年)のもの。

九品仏浄真寺の境内の写真
水子観音

大きな花と人形が供えられていました。

九品仏浄真寺の境内の写真
開山堂

事務所もこの中です。

九品仏浄真寺の境内の写真
三十三観音堂

奥沢神社の旧本殿を改築したものです。

九品仏浄真寺の境内の写真
仁王門とイチョウの木

区内で一番立派な楼門です。

九品仏浄真寺の境内の写真
日本庭園と仁王門

季節を問わず雰囲気が良いです

九品仏浄真寺の境内の写真
鐘楼

普段は逆光や日陰になるので写真が撮りにくいです。

九品仏浄真寺の境内の写真
梵鐘と鐘をつく僧侶

除夜の鐘の様子です。

九品仏浄真寺の本堂の写真
本堂

大きな建物です。

九品仏浄真寺の本堂の写真
本堂の御賽銭箱

三つ葉葵の紋所が・・・、なぜでしょう。

九品仏浄真寺の本堂の写真
本尊の釈迦如来像

東京都有形文化財

九品仏浄真寺の本堂の写真
五劫思惟像

世田谷区有形文化財

九品仏浄真寺の境内の写真
地蔵菩薩像

何時も本堂の前で寂しげに佇んでいます。

九品仏浄真寺の三仏堂の写真
雪の日の三仏堂(上品堂)

雪の日は屋根の下には近づかないように・・・

九品仏浄真寺の三仏堂の写真
三仏堂が並ぶ様子

本堂に向かって三つ並んでいます。

九品仏浄真寺の三仏堂の写真
上品堂の阿弥陀如来像

手を前で組む姿勢は上品なようです。
頭が青いのは髪を剃っているからだそうです。

九品仏浄真寺の三仏堂の写真
三仏堂の額字

全部まとめてみました。

alt="九品仏浄真寺の境内の写真"
開山塔(珂碩上人の墓石)

九品仏を開山した人です。

九品仏浄真寺の境内の写真
仏足石

ブッダの足型です。

九品仏浄真寺の境内の写真
春の境内

桜がきれいに咲いています。

九品仏浄真寺の境内の写真
都天然記念物大カヤの木

イチョウほど存在感はありません。

九品仏浄真寺の境内の写真
都天然記念物の大イチョウ(右)

存在感がもの凄いです。

九品仏浄真寺の境内の写真
イチョウと本堂

とても絵になる木です。

* 九品仏浄真寺の境内や九品佛について *

九品仏浄真寺の歴史は奥沢城が廃城になった約85年後に始まります。寛文5年(1665年)に当地奥沢新田(奥沢村から独立)の名主七左衛門が寺地として申請し、延宝6年(1678年)に珂碩上人(かせきしょうにん)が越後の泰叟寺からこの地に移住し、浄真寺を開山しました。

ただこれでは寺地の申請から時間が空きすぎるので、実際は珂碩上人が弟子達に指図して草堂の建立や寺院としての整備を行い、準備が整った延宝6年に珂碩上人が移住してきたようです。

なぜこの奥沢なのか。奥沢新田村の開村に伴って檀那寺が必要だった村と、ちょうどこの時期に寺地を欲していた珂碩上人と、そして大きな寺を興すのにちょうど都合よく城跡という広い場所があったという思惑や偶然が重なったからのようです。

line

参道から進んでいくと、まずは総門をくぐる事になります。総門は九品仏クラスのお寺にしてはちょっと小さいかなと感じる高麗門です。建築年代については、文政年間以降に建て替えられたという事以外は不明なようです。屋根に関しては昭和57年に茅葺きから銅板葺きに換えられています。

屋根の美しい曲線と門に掲げられている額字や表札の厳つい文字が対照的で、柔らかさの中に凛とした感じがあるとでもいうのでしょうか。多くの人がこの前で写真を撮っています。

とりわけ紅葉の時期は背景の木々が美しいので絵になっている感じです。なお仁王門の正面にある門は東門です。道路に面していて車の出入りができるようになっていますが、この東門は昭和の初めの玉川全円耕地整理事業の際に新しく出来た道に対して利便性をよくするために造られたものです。

line

総門から進むと右手に閻魔堂と社務所(お守り売り場)が合体した建物と、六地蔵、延命地蔵が乗っている江戸十夜講の三界万霊塔が並んでいます。この付近にはモミジが沢山植えられているし、南側に太陽を遮るような建物がないので、紅葉時は美しいモミジの小道に変身します。

閻魔大王座像は像の高さが216cmと大型の像です。普通に閻魔堂の前の参道を歩いていると閻魔様の顔は見えないのですが、建物に近づいていくと、上から睨み付けるような顔が表れるのでビックリ・・・はしないと思いますが、うまく造られていると感心してしまいます。

製作は江戸時代で、寄木造りの漆地に金箔で装飾が施されています。閻魔大王の右横には「葬頭河婆(そうずかば)=奪衣婆(だつえば)」が置かれています。ある意味閻魔様よりも不気味かも・・・って、そういう役割の方でしたね。

line

閻魔堂の隣にある六地蔵は天保4年(1833年)のもの。古びた風合いがなかなかよく、雰囲気の良い六地蔵ではないでしょうか。台座の前面に御道具講中と書かれているのが変わっているのかもしれません。芝伊皿子町の石工が寄進したもののようです。

十夜講三界万霊塔は文政4年(1821年)のもので、当時の江戸十夜講に参加した人々によって寄進されています。十夜講とは浄真寺の三大法要の一つの十夜法要の事で、双盤念仏という直径50cm程の鉦を叩きながら引声念仏を唱える法要です。江戸時代に始まり、明治末期には爆発的に流行したとか。しかしながら現在では行っている寺自体も少なく、浄真寺でも以前は3日間も行われていた法要でしたが、今では一日だけとなってしまったようです。

line

閻魔堂の前の道から左に曲がると現在「紫雲楼」と呼ばれている大きな楼門(仁王門)が現れます。見上げる程大きな門は荘厳華麗で区指定有形文化財に指定されています。かつては世田谷区内で唯一の楼門だったようですが、近年慈眼寺に今風の楼門(仁王門)ができました。時代や寺の規模が違いすぎるので比べようがないのですが、やはり貫禄ということでいうならこの九品仏の楼門は世田谷一というか、東京の中でもそこそこの規模を誇っています。

この仁王門は三間一戸で、入母屋造り、屋根は銅板葺で、石垣積みの基壇の上に建てられています。建立は寛政5年(1793年)で屋根以外は大掛かりな修理の痕跡がない事から当時の姿をそのまま残しているようです。屋根は茅葺きだったのを昭和39年に銅板葺にしています。

line

楼は上下二層に分かれていて、下層は中央部を通路とし、前面部の左右に金剛力士像を据え、背面の左右には階段が設けられています。上層は中央に須弥壇が設けられていて、お面かぶりで有名な阿弥陀如来像および二十五菩薩像が参拝者を迎えるように安置されています。普段は扉が閉まっていますが、特別な行事の時には開けられていてその姿を目にする事ができます。これらの像は全て仁王門と共に造られたものです。

その他階段部分にさりげなく50cm程の風神、雷神の像がありますが、これらは後の文化三年(1806年)に造られたものです。金剛力士像と共に玉眼なのがかわいらしいところでしょうか。なおこの仁王門は旧奥沢城の土塁に囲まれた境内と外部とを仕切る位置に建てられていて、門をくぐると聖域(西方浄土)に入るような意味合いを持っています。

line

仁王門をくぐったすぐ左側に彫刻が立派な鐘楼と都指定有形文化財に指定されている梵鐘があります。鐘楼は正確にいつ造られたのか分かっていませんが、江戸時代後期にみられる装飾が多く、また寺伝によれば文化年間頃に活躍した原田磯五郎が手がけたとあるので、江戸時代後期の文化年間頃に建て直されたものではないかと推測されています。

梵鐘の方はもっと古く、宝永5年(1708年)の製作で総高156cmの銅製です。制作者は神田鍛冶町の河合兵部卿藤原周徳で、深沢の名家、谷岡家の又左衛門氏が寄進したものだそうです。鐘の表面には九品仏の象徴である9体の阿弥陀如来が南無阿弥陀仏の文字と共に描かれているのが特徴のようですが、残念ながら普段は近づく事ができないので見る事ができません。

line

仁王門から入ると右手に本堂が見えます。が、正面は仁王門と逆向きの西側になるので、ぐるっと周りこまなければなりません。この本堂には「竜護殿」の額字がかけられていて、本堂内には像高281cmと大きな金色の釈迦如来像が安置されています。開山当時に霊巌寺から移した珂碩上人自作の釈迦像は延享5年(1748年)の火災により本堂と共に消失してしまい、この釈迦像は宝暦10年(1760年)に再建したものです。

本堂は寄棟造り、銅板葺きで、正面、側面とも柱間が5間(約19m)の正方形に近い建物です。屋根の張り出し部分の長さは更に大きく約27mもあり、建物の全体的な高さもおよそ20mもあります。これだけ大きな屋根を支えるに複雑な格天井と大きな梁を持っています。

後述する三仏堂も大きな屋根を持っているのですが、雪の日には結構危険です。雪の日に境内で子供を遊ばせる人もいないと思いますが、傾斜のきつい屋根から勢いよく雪が落ちてくるので大人でもちょっと危ないです。

line

本堂の対面には三つのお堂(三仏堂)が本堂ときちんと対を成すように配置されています。本堂から見て真っ正面が上品堂、その右横が中品堂、そして一番左が下品堂になります。ちなみに読み方は「じょうぼん、ちゅうぼん、げぼん」です。そのまま「じょうひん、げひん」と読んでしまいそうですが、「じょうひん、げひん」の意味もこれに由来しているようです。

この三仏堂は名前の通り一つのお堂の中に三体の阿弥陀如来像が安置されていて、三堂合わせると九体の阿弥陀如来像が安置されている事になります。この九体はそれぞれ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生と名付けられていて、お堂の配置と同じで真ん中、右、左の順で並んでいます。

line

一体全体上品とか下品とか九品仏って何ぞや?という事になるのですが、簡単に書くと仏像の手の形の違いです。手の形や結びの事を印相といい、阿弥陀如来特有の印相に九品来迎印というのがあり、阿弥陀如来が極楽浄土から迎えにくる際に、人間の能力や信仰の程度によって九つの段階に分け、その人にふさわしい印を表します。つまり上品な人には上品な印を示してくれ、下品な人には下品な印で出迎えるという事です。

ただこの印の形も二通りの解釈があり、ここ九品仏では同じ形、例えば両手をへその前で組む型が全て上品となります。下品は両手が胸と膝に違っている型です。もう一つの解釈は下品の中の上生が上品下生となるといった違う型がセットになったものです。

臨終の際に上品下生の型でお迎えに来られたら、うっ、もしかしたらこれは下品のうちの上生の方かもしれないとなるのでちょっと解釈に困るかもしれません。って、迎えにも来てくれなかったらもっと嫌でしょうが・・・。これら九品の仏から浄真寺が「九品仏」と呼ばれているのです。そして本堂の釈迦像と九体の阿弥陀如来像は都の有形指定文化財に指定されています。

line

この浄真寺を特徴づける九品仏や三仏堂などの伽藍配置は開山の珂碩上人と弟子の珂憶(かおく)によって成されました。簡単に書くと珂碩上人が仏像(本尊の釈迦像と9体の阿弥陀如来像)を造り、弟子の珂憶が寺の建設などを行ったといった感じです。

どうも記述を読む限りでは、珂碩上人は仏像を造ったり、住職として仏事などを行う事にかけては天才的だったようですが、寺の経営とか資金を勧請しての建設、お役所の手続きといった事に関してはまるでダメだったようで、見てられないとばかりに行動派の珂憶が協力を申し出て助けていたようです。

line

仏像に関しては珂碩上人が出家して間もなくの19才の時(1636年)に梵綱経を読んで阿弥陀如来の願摂を覚証し、九品仏の建立を発願したそうです。そして霊巌寺僧侶時代の25才頃から製作に取りかかり、20年後の寛文4年(1664年)にようやく一体目の阿弥陀如来が完成します。

その後は珂憶の資金的な援助があって建立が一気に進み、寛文7年(1667年)に九体の阿弥陀如来像と釈迦像が完成します。その後しばらく越後の村上の泰叟寺に住持する事になり、仏像は深川の霊巌寺に置いていきます。しかし深川は度々水害に遭い、仏像を安置するのに相応しい場所はないだろうかと探しているところに奥沢で寺の募集を行っているのを知ったというわけです。

line

そして延宝2年(1674年)に仏像を移動し、同7年に珂碩上人も移住し浄真寺を開山します。これで一件落着とはいかず、法律的、珂碩上人の性格的にもちゃんとした堂宇の建立は進みませんでした。

元禄7年(1694年)に珂碩上人は他界します。その直前に河内の寺の住職となっていた珂憶が見舞いに来て、その時に本堂や三仏堂などの堂宇を建てたかった旨を話したそうです。珂憶は珂碩上人の死後その志を引き継いで資金集めや大工の手配などに奮闘し、元禄11年に本堂、三仏堂の棟上を行っています。

堂宇の建設にあたって珂憶は城跡という地形を利用して独特の伽藍配置を行っています。寺伝によれば珂憶式というようですが、まず本郭があった土塁で囲まれている場所を聖域とし、その入り口に仁王門を造ります。結界の入り口といった感じでしょうか。聖域部分は方形でしかも明快な東西の軸線を持っているので、浄土宗の西方浄土の思想を反映した境内造りが簡単でした。

仁王門から見て聖域は西に当るし、本堂から見て三仏堂も西にあたります。その象徴的なのが後述するお面かぶりの行事で、本堂を現世(娑婆)に見立てて、三仏堂を浄土として、二十五菩薩が浄土から迎えに来るといった来迎会が行われます。

また城跡を利用した配置で特徴的なのは参道です。総門から入って途中で左に直角に曲がらなければならないという変わった配置をしているのは、恐らく元々あった城の道を利用したものだと考えられています。城の遺構として考えるならば、山門から仁王門の部分が外郭部分となり、本郭部分に対して屈折しているのも納得です。

なお中品堂の裏側、ちょうど奥沢城の土塁の北西端というか、聖域の北西端に珂碩上人塔を始め歴代住職の墓があります。

line

その他境内について書いておくと、仁王門から入ると正面に二本の大きなイチョウの木が見えます。右側の枝振りが見事な木の方は東京都の天然記念物に指定されている銘木です。紅葉時の美しさから九品仏のシンボル的存在の木となっていて、多くのカメラマンや地元の人を魅了しています。樹齢は数百年との事です。

このほかにも境内にはイチョウの大木が多く、紅葉の時期にはモミジと共に境内の彩りを鮮やかにします。この天然記念物に指定されている大銀杏の木と仁王門の前にある大きなイチョウの木は比較的早く紅葉するので気がつくと散っているので注意が必要です。

このイチョウの他にも都の天然記念物に指定されている「九品仏のカヤ」の木があります。中品堂と本堂の間に植わっている大木で、樹齢はおよそ700年ぐらいではないかとの話です。都内最大級の大きさを誇り、高さは約31.3m、幹囲約5.3m、枝張最大約17.9mもあるようです。カヤといえば同じく天然記念物に指定されている野毛の善養寺のカヤも有名ですが、こちらは樹齢700~800年といわれ、高さ約23m、幹周り5mです。どちらの木も素晴らしいのですが、貫禄ではやはり大きい九品仏に分があり、存在感という部分では立地が崖にあり遠くからでも目立つ善養寺に分があるかなといった感想です。

また境内には多くの桜の木も植わっていて、桜の時期には境内が柔らかい感じの雰囲気に包まれます。といった感じで、九品仏の境内は桜の名勝、紅葉の名勝としても親しまれています。その他樹齢二百年を越えるようなケヤキの多く、木々に囲まれた豊かな境内となっています。

line

とてもいい雰囲気の境内ですが、ここまで雰囲気のある緑豊かな境内になったのは比較的最近の事です。古い写真などを見ると、境内は土がむき出しの状態で、その中に味気なくイチョウやカヤの大木に混じり桜が生えているといった感じです。計画的に建物が伽藍配置されているから余計に区画整理されてこれから家が建つ空き地のように思えてしまうような境内でした。

本堂横の日本庭園も天然記念物のイチョウの木の横の盛り土も最近のものです。敷石の脇に並ぶモミジ並木も最近のもので、紅葉の写真を撮っていると昔を知る老人が「昔はこのモミジはなかったんよ。モミジが植わるようになってから紅葉するイチョウの雰囲気がよくなったんよ」とおっしゃっていました。

実際昭和の名作ウルトラマンシリーズにもここの境内が登場していますが、建物は一緒だけど境内が・・・・といった感じでした。鷺草園に関しても楼門の前の方に大きな池があったのですが、現在は規模を縮小して本堂と観音堂の間の池に移設されました。

line

それから現在は木々の生えている場所には入れなくなっています。これは落ち葉を腐葉土化しているためで、近年では落ち葉を集めて燃やす事も禁止されているし、ゴミ焼却に出してもダイオキシンが・・・といった感じなので、にっちもさっちもいかなくなり仕方なく土に返す事にしたそうです。「おかげで当寺では多くのミミズを飼っています」とお寺の人が笑いながらおっしゃっていました。

でもそのために昔のような味気ない境内から緑豊かな境内に様変わりしたともいえるので、結果的にはお寺にとっても参拝客にとっても良かったんではないかなと思います。

line

個人的な感想を書くなら、北の豪徳寺に南の九品仏浄真寺といった感じで、この二つのお寺は世田谷区でも抜きんでた存在です。所有する文化財の数も多く、古くから文化的に強く、権威のあったお寺だった事がわかります。

二つのお寺は微妙に雰囲気が違います。もちろん宗派が違うので一緒にできませんが、大名井伊家の菩提寺である事と招き猫で有名な豪徳寺に対して、九品仏は仏教文化的な意味合いが強いお寺といった印象です。今でも多くの法要が行われ、お面かぶりといった行事も行われ、時として大型観光バスで講の方々が集団で法要を受けに来ている姿も目にします。

それに法要に使われる双盤念仏に関しても浄真寺は奥沢派と呼ばれ、この界隈(世田谷、大田区周辺)に強い影響力を持っていました。他のお寺に対してもそれなりの影響力があったと考えられます。もちろんどっちの雰囲気が性に合っているかなどは人それぞれですが、両方の雰囲気の違いを理解し、そして楽しめるとより散策が楽しくなると思います。

*** お面かぶりなどの行事の写真 ***

新年の楼門のライトアップの写真
新年の楼門のライトアップ

闇に浮かび上がる姿は迫力があります。

新年の楼門のライトアップの写真
阿弥陀如来と二十五菩薩

光り輝く様子は神々しさを感じます。

閻魔の日の閻魔堂の写真
閻魔の日の閻魔堂(1/16、8/16)

狭い中で双盤念仏が唱えられます。

閻魔の日の閻魔堂の写真
双盤

区内では慶元寺の双盤も有名です。

寺宝の虫干しの写真
寺宝の虫干し

開山堂の二階に展示されています。

寺宝の虫干しの写真
珂碩上人の書など

説明書きなどがあるとうれしいです。

寺宝の虫干しの写真
巨大な南無阿弥陀仏の青空干し

この大きさにはビックリします。

お面かぶりの様子を写した写真
お面かぶりのお面

並んでいる様子は面白いです。

お面かぶりの様子を写した写真
楽隊から始まる「来迎」

上品堂から本堂へ向かいます。

お面かぶりの様子を写した写真
2基の万灯から始まる「往生」

本堂から万灯が登場し、お面かぶりの行列が続きます。

お面かぶりの様子を写した写真
橋を渡っていくお面かぶりの行列

付き人に支えられ、足元がおぼつかない感じでの行進です。

お面かぶりの様子を写した写真
お面かぶり

お面は前が見にくく、熱もこもりやすいそうです。

お面かぶりの様子を写した写真
僧侶の行進

ありがたい紙を撒きながら進みます。

お面かぶりの様子を写した写真
珂碩上人の坐像を載せた逗子

 

お面かぶりの様子を写した写真
お稚児さんの行進

一番最後がお稚児さんです。

お面かぶりの様子を写した写真
最後は住職による念仏が10回唱和されます

駅の方が正面となるようでした。

* お面かぶりなどの行事について *

九品仏で行われている仏教行事「お面かぶり」というのはご存じでしょうか。世田谷区に住む人なら広報誌や情報誌、或いは駅や役所などに貼ってあるポスターなどで仏様のお面をかぶった人達が橋みたいなところを渡っている写真を見た事があるのではないでしょうか。

お面かぶりというのは単純に仏様のお面をかぶっているからお面かぶり・・・のようです。もちろんこれは俗称で、正式には「二十五菩薩来迎会」といいます。九品仏では毎年お盆の8月16日に虫干大法要が行われていて、三年ごとに大祭といったような感じで「二十五菩薩来迎会(お面かぶり)」が取り行われます。

前回が2014年だったので、次は2017年になります。三年ごとでしかも曜日に関係ない固定日に行われるのでなかなか訪れるタイミングが難しいと思います。

line

この「二十五菩薩来迎会(お面かぶり)」なのですが、簡単に書くと、信者が臨終を迎えた時に阿弥陀様が菩薩たちを従えて来迎し、極楽浄土に連れて行ってくれる様子を儀式化した法要です。極楽浄土に見立てた上品堂と現世(娑婆)に見立てた本堂との間に三十六間(約65メートル)の橋を架け、その現世と極楽浄土の架け橋を菩薩の面を被った信者らが渡るというものです。昔は橋などなく、そのまま地面を歩いていたようですが、いつしか見やすいように?なのか分かりませんが、大掛かりに橋が架けられるような現在の状態になったようです。

line

儀式はまず檀信徒たちが本堂から上品堂に渡り、そこにある阿弥陀如来や菩薩などのお面をかぶり阿弥陀如来と二十五菩薩に扮し本堂に向います。これが「来迎」となります。

そして今度は本堂から往生人にみたてた住職衆僧と開山珂碩上人の像を乗せた逗子、菩薩や導師を守る役目の稚児を加え上品堂へ向かいます。これが「往生」となります。

そして最後に、珂碩上人の逗子、僧侶、稚児、そしてお面をはずした壇信徒らが上品堂から本堂に帰るというのが一連の流れです。

line

で、結論も簡単に書いてしまうと、この行事に参加してお面をかぶって歩くと、ご臨終を迎えた際に同じように阿弥陀如来様が極楽浄土に導いてくれるとか。臨終の予行演習ってな感じでしょうか。最後本堂に戻っていく参加者の顔が晴れ晴れしているのはそのためです。

檀家さんでなくてもこの役をできるので興味のある方は挑戦してみるといいでしょう。ただお面の中は蒸し暑く、また目の穴が小さいので歩くのが大変のようです。そのために付き添いの方がいるのです。ちなみに誰がどの面を被るかは当日くじで決めるとか。

line

檀信徒さんがかぶっているお面なのですが、これは正式名の通り二十五菩薩を表していて、お面をかぶっている人数も25人となっています。お面の原型は江戸時代に製作されたもののようですが、綻んだら修理して色を塗り直しているので、どれがいつのものなのかよくわからないそうです。

実際に練り歩いている様子を見ると、高齢者の方が多いのもありますが、かなり足元がおぼつかない感じで歩いている人が多いです。橋の高さもそこそこあるので落ちたら・・・などと考えてしまうと、腰も引けてしまうのかと思います。更には暑い時期に行われるので、お面の中がかなり蒸され、ちょっとのぼせた感じになってしまいます。付き添いの人がパタパタと団扇でお面の中に風を入れているのはそのためです。このように機能面ではよろしくないお面なので、付き人が必要となり、行事の特異性も増している感じです。

line

ちなみにお面のモデルの二十五菩薩来迎像は普段、仁王門の上部の扉の中に阿弥陀如来と一緒にいます。これらは寛政5年(1793年)に仁王門、仁王像と一緒に造られたもので、阿弥陀如来を中心として参拝者を来迎する様に配置されています。

残念ながら普段は扉が閉まっていて見ることができませんが、8月16日のお面かぶりの日や正月などの特別な日には扉が開かれているので是非ご覧になって下さい(高い位置なので気がつかない人も多いですが・・・)。とりわけ正月にライトアップされている様子は一見の価値があると思います。というか、このとき以外は扉が開いていても中が暗くてよく見えないかと思います。

line

このお面かぶりは、お寺的には浄真寺開山の珂碩上人が念仏道場として広く化縁を結び、臨終の来迎を顕彰せんが為に来迎会の法要を示したという事になっていますが、実際のところは当時の寺の厳しい経済状況から宗教及び経済的な理由によって文政10年(1827年)に始めたという事が高橋源一郎氏著の「武蔵野地理歴史」に書かれていたりします。

おまけにその時の法要は大盛況な賑わいだったのはよかったのですが、事前に寺社奉行に届け出を出していなかったらしく、住職の慈航は寺を追われる事になっています。その後、お面かぶりが行われたのかどうかもよくわかっていなく(恐らく中止となったようです)、記録的に明らかに復活したのは明治になってからです。

line

この二十五菩薩来迎会という風習は平安時代中期以降に行われた迎講に起源を持つようで、行事として現存するものでは室町時代から行われている奈良の当麻寺が一番伝統があり、九品仏のものもこの寺のものを模倣したと考えられています。

ただ開山珂碩上人の座像を乗せた逗子を加えたりと独自の珂碩信仰を加えています。とまあ始まりはどうであれ、きちんとした仏教行事だし、一応長く続いているし、関東でもここだけだと聞くし、この事でも九品仏の名が広く知れ渡る事になっているし、結果オーライというか、先見の目があったと言うべきなのでしょうか。なおお面かぶりは昭和38年に東京都の無形民俗文化財に指定されています。

line

お面かぶり以外の行事は5月8日に行われる花祭り、11月14日に行われる十夜法要が大きな行事で、虫干大法要(お面かぶり)と九品仏の三大法要となっています。その他毎月7日の開山忌法要や小さな法要も多く、もちろん墓地を持つお寺なので正月や春秋のお彼岸や夏のお盆も多くの人が訪れます。またお寺の行事とは関係ないのですが、桜や紅葉の時期にはとても境内の雰囲気が良いので、多くの散策客やカメラマンで賑わいます。

<せたがや百景 No.98 お面かぶりの九品仏と参道 2009年12月初稿 - 2015年10月改訂>
( せたがや地域風景資産 2-12、九品仏浄真寺脇(南側)のクロマツの並木 / 3-9、鷺草伝説ゆかりの奥沢城趾のある風景 )