世田谷散策記 せたがや風景資産のバーナー
奥沢海軍村の地図の写真

せたがや地域風景資産 No.2-13

奥沢海軍村ゆかりの風景

奥沢海軍村は、海軍士官の子孫や海軍村に惹かれて住み着いた人々によって、今もなお緑豊かな街並みが残っています。ポー チ付の玄関や棕櫚(シュロ)の古木 等がある住まいなどに、当時の面影を色濃くとどめています。(紹介文の引用)

・場所 : 奥沢2丁目付近
・登録団体など : 特定非営利活動法人 土とみどりを守る会
・備考 : 個人のお宅なので内部は非公開です。

*** 奥沢海軍村ゆかりの風景の写真 ***

奥沢海軍村だった付近の写真
海軍村跡の碑

電柱の後ろにひっそりとあります。

奥沢海軍村だった付近の写真
海軍村の案内板

土とみどりを守る会によるものです。

奥沢海軍村だった付近の写真
海軍村がある町並み

庭付きの家が多い地域です。

奥沢海軍村だった付近の写真
当時の面影を残す家

南国的な雰囲気が少し感じられます。

奥沢海軍村だった付近の写真
特徴的な家とそびえるシュロの木

この家も南国っぽい雰囲気がします。

* 奥沢海軍村ゆかりの風景について *

「奥沢海軍村ゆかりの風景」というのは、世田谷にあってなかなか魅力的なタイトルですね。それと同時に、何で?何があるの?といった事を強く思うタイトルではないでしょうか。私も最初に聞いたときは海に面していない奥沢に海軍村?一体なぜ?どんな村?何が残っているの?とあれこれと興味がわいてきました。

やはり海軍といえば港町や海の見える場所がふさわしく感じます。その象徴としていうなら海軍指令本部があった広島の呉でしょうか。親戚が近くに住んでいるので、何度か訪れたことがあり、そのロマンというか、雄大さに憧れたものです。

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ということで、これはぜひ見てみたい。とりあえず行けば何かあるだろう。とまあ何も調べずに次の週末に早速奥沢駅北側の奥沢2丁目にある奥沢海軍村跡という区画を訪れてみたのですが、そこにあったのは普通の、いや普通よりも随分と高そうな住宅街でした。一軒一軒の庭が広くて、垣根もあって、区画も整理されていてときたら、ここも成城と同じだなといった感想しか出てきません。

同時に第一回選考の「大ケヤキのある散歩道-けやき道」も訪れたのですが、これも海軍村のすぐそばで、同じような住宅街の一角にある風景でした。こちらもあまり趣のない風景でがっかり。何が海軍村なんだろうといまいちよく分からないまま奥沢から撤収してしまいました。

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ちゃんと海軍村について調べてみると、まず海軍村がこの地に形成されたのは大正末期から昭和の始めにかけてのことです。正確には大正13年にこの地域の地主である原氏と海軍省の互助会水交会が土地の賃貸借契約を締結しているので、大正13年以降から徐々にこの地に入植が始まっていったようです。この地に住居を構えていたのは主に海軍の将官・佐官ら高級将校らで、昭和になると多いときには30世帯ほどがこの地区に暮らしていたようです。そしていつしか海軍村と呼ばれるようになったとか。

なぜこの地なのか。それは海軍の事情によります。時の日本帝国海軍の基地は横須賀にあり、海軍省は霞ヶ関にあり、また目黒にも海軍大学校と海軍技術研究所があったため、こういった施設を行き来する軍人にはこの奥沢と限らず東京西部は暮らすのに立地条件が良かったようです。

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それとともに大正12年には関東大震災が起きた事も無関係ではないかもしれません。関東大震災を契機に世田谷区の人口が爆発的に増加していくわけですが、それは密集した地区の大火事やパニックにより首都機能の崩壊など、東京中心部の脆弱性と郊外の安全性を多くの人が認識されたことにあります。

軍関係者は特に痛感したはずです。海軍省がいくら最新鋭の兵器を擁して軍事力を誇っても、それを統率すべき者がいなければ意味がありません。万が一首都を攻撃された場合などといったことも想定して、国防上の理由から郊外に住居を構える事になったという見方もできます。

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ではなぜ奥沢だったのか。実際この付近ならどこでも良かったはずです。それは関東大震災と同じ年に目蒲線の奥沢駅が開業したことが上げられます。そして昭和になってから東横線が全線開通したこともその後の海軍村の発展につながりました。こういった交通のインフラは勤務地のある職業の人間にとっては基本中の基本となります。

かといって交通の便が良くても住む場所が林だらけとか、荒地、或いは畑だらけでは一般人は住むに住めませんし、逆にそういったものが全て揃っているような土地は高額な賃借料がかかってしまいます。この海軍村のある奥沢2丁目付近は玉川村に属していながら、玉川全円耕地整理事業よりも先に区画整理を行っていて、ちょうどその時期にこの付近で住宅地を探していた海軍のニーズにぴったりと当てはまったともいえます。

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これは海軍が要求したのか、はたまた地主の方が先見の目があったのか分かりませんが、玉川村で行われていた玉川全円耕地事業は土地所有者の損得が関わるので揉めに揉めてなかなか事業が進みませんでした。それを傍目に地主だった原氏は全円耕地整理事業自体が起きる前年、奥沢の他の地域と比べるなら約5年前に独力で区画整理を行っています。

これには一つ興味深い話があり、この地域は明治22年以前は調布村(大田区田園調布)の飛び地でした。それが明治22年4月の市制町村制による大規模な統合によって、玉川村奥沢に所管変更となりました。こういった事情により、玉川村の中でも新しく入ってきた余所者といったことがあり、玉川全円耕地事業に協調して区画整理を行うのではなく、抜け駆け的にさっさと区画整理をしてしまい、海軍に貸したという背景もあるようです。

このような事情により、鉄道が開通したばかりで辺りには何もないような土地ながら、区画整理が行われていて、都市部に近い割に土地が安価であり、海軍関係者には利便性がそこそこ良かったことで、この奥沢に海軍村が形成されていきました。ちなみに当時の土地賃借契約証書によると、賃借料は坪単価8銭だったようです。って、高いのか安いのかどうなのでしょう?

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では海軍村とはどういった様子だったのでしょう。海軍村といわれていますが、実際には海軍軍人に混じり陸軍の軍人も少し住んでいたようです。ただ陸軍軍人が固まって生活することはなかったようで、このへんは海軍、陸軍の習慣の差というのがあるのかもしれません。

一般的に海軍の軍人は狭い船内で生活していることに慣れているので、地上でも狭いコミュニティーで暮らすことに対してあまり苦にならないようです。そして周囲との協調性を重んじます。例えばこの海軍村でも最初に誰かが洋風の建物を建てれば、村全体がそういった風潮の建物になり、棕櫚(シュロ)を植えると、それを真似て他の庭にもシュロが植えられていくといった感じだったようです。

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現在では当時の面影を残すような洋風の家は三軒しか残っていませんが、当時庭に植えられたシュロの木は今でもよく眼にします。当時海軍村ではシュロを植えるのが流行になっていたとか言われています。住宅や住民は替わっても庭にシュロが植えられている家はかつて海軍軍事が住んでいた名残でもあります。

このシュロという木はヤシ科の南国の木です。これは海軍が推進役を果たしていた南方攻略のいわゆる「南進熱」の表れではないかとも言われることがあります。夏になると幹の頂きに黄色い粟粒のような花を咲かせますが、これは南国的に少々青臭いにおいがします。夏の暑さの中でこういった南国の臭いをかいで、潜在的に南国へ思いをはせていたのかもしれませんね。

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現在の海軍村を歩くとそこにあるのは敷地の広い住宅が並ぶ高級住宅街がそこにあります。戦前までの奥沢2丁目の敷地面積は一軒あたりだいたい200坪が標準的な広さだったとの話ですから、相当な広さです。それが現在まで引き継がれて、庭が広く垣根が設けられている家が並ぶ風景となっています。

ただ負の名残もあり、それはこの海軍村がある地域は他の玉川地域に比べて微妙に区画がずれています。それは玉川全円耕地整理事業に先駆けて区画整理を行ったものだから、他の地域と道がうまく連絡していなかったり、他よりも道が狭かったりします。これも今となってはこの地域の特徴でしょうか。

近年では相続で土地が分割されたり、アパートが建てられたりと、この地域の様子も変わりつつあります。海軍村の面影を求めるのはどんどんと難しくなっているのが実際です。でも庭先にそびえているシュロの木を眺めながらこの地に海軍の人が住んでいて、海軍村を形成していたんだなと思いをめぐらせると散策も楽しくなりますし、世田谷にそういった場所があったということも散策心をくすぐるような面白い話ではないでしょうか。

<せたがや地域風景資産 No.2-13、奥沢海軍村ゆかりの風景 2011年7月初稿 - 2015年10月改訂>