世田谷散策記 せたがや百景のバーナー
せたがや百景の案内板の写真

せたがや百景 No.97

等々力の玉川神社とその周辺

世田谷の秋祭り File.48

等々力玉川神社例大祭

吉良頼康の創建と伝えられ、玉川村の鎮守として付近の人々に親しまれてきた。境内には昭和初期に着手された耕地整理の記念碑とその功労者の碑が建てられている。玉川地区の現在のような整然とした道路と宅地ができあがったのは。この耕地整理事業による。昭和19年に整地工事は完成した。(せたがや百景公式紹介文の引用)

鎮座地 : 等々力3-27-7 氏子地域 : 等々力1~4丁目、玉堤、尾山台3丁目
御祭神 : 伊弉諾尊・伊弉冉尊、事解男命、天照皇大神 社格 : 旧等々力村村社
例祭日 : 9月第三日曜と前日
神輿渡御 : 5町会による神輿渡御
祭りの規模 : 中規模  露店数 : 30店程度
その他 : 奉納神楽、奉納演芸が行われます。

*** 等々力玉川神社の写真 ***

等々力玉川神社の写真
神社の入り口

目黒通り沿いにあります。

等々力玉川神社の写真
境内の様子

落ち着いた雰囲気の境内です。

等々力玉川神社の写真
拝殿

昭和15年に建てられたものです。

等々力玉川神社の写真
天満宮などが入った境内社

よく分かりませんが、3つ宮になるのでしょうか。

等々力玉川神社の写真
境内社や石碑など

恵比寿様に三峯神社、多くの石碑が並んでいます。

等々力玉川神社の写真
豊田正治翁之碑

玉川全円耕地事業を行った人です。

等々力玉川神社の写真
高屋直弘氏の留魂碑

玉川全円耕地事業を行った技術者です。

等々力玉川神社の写真
元玉川村村長宅の碑

ひっそりと置かれています。

等々力玉川神社の写真
石獅子のオブジェ

獅子が千尋の谷に子を突き落とすという故事に因んだもの

等々力玉川神社の写真
銘木クスノキ

その形からとっくりクスと呼ばれているそうです。

等々力玉川神社の写真
菊祭り

晩秋の753の時期に行われます。

等々力玉川神社の写真
正月の境内

露店が数店出てました。

* 等々力と玉川神社について *

等々力といえば、都内唯一の渓谷であり、東京都名勝に指定されている等々力渓谷を思い浮かべる人が多いかと思います。等々力渓谷は大井町線の等々力駅から南側から始まり、環八の下をくぐり、等々力不動の脇を通り、多摩川の方へ流れていきます。人工的に整備されている部分も多いので、多大な期待をして訪れるとこんなものかとガッカリしますが、それなりに散策を楽しめる場所となっています。

その一方、地方の人などは等々力と聞くと川崎フロンターレを思い浮かべる人も多いかと思います。サッカーのJ1で活躍するチームですが、その本拠地が多摩川を挟んだ川崎にある等々力競技場なのです。全国的には川崎フロンターレの方が知名度が高そうな気もするので、等々力というと世田谷区よりも川崎市を連想する人の方が多いのかもしれませんが、どうなのでしょう。ややこしいことになっているのは確かです。

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現在の多摩川流域の地図を見ると、等々力の他にも川の両岸に同じ地名を幾つか見つけることができます。こういった地名の多くは洪水で多摩川の流路が変更してしまった際に取り残されたものと考えられています。等々力の場合もそうで、世田谷の方が本筋となり、川崎側は明治45年に神奈川県に移され、地名はそのまま残されました。

この他にも等々力は土地を持っていて、現在の東玉川町は等々力村諏訪分、玉川田園調布1丁目は等々力村六本松と等々力村の飛地だったもので、昭和7年10月の世田谷区成立の際にそれぞれ新しい町となりました。更には昭和45年の町域変更の際に旧等々力一丁目の丸子川より南側が新しく玉堤町として独立しました。現在でも等々力は8丁目まであって広いと思うのですが、かつてはとんでもなく広く、力を持っていた村だったのです。

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等々力渓谷に横穴古墳があったり、等々力不動の近くに5、6世紀頃の御岳山古墳があったりと、等々力は古くから人々の生活があった土地です。等々力という地名は等々力渓谷にある不動の滝やその手前にあった姫の滝が轟く(とどろく)様子から付けられたとか、世田谷を吉良氏が統治していた時代にこの地を治めていた南条氏が築いた兎々呂城(とどろき)に由来しているとかいわれていますが、はっきりしていなく、そもそもなぜこの字が当てられたのかが一番の謎となっているようです。

江戸時代は旗本領と増上寺、満願寺の2寺領として治められる事となります。享保一四年(1729年)の記録では村の戸数は164戸と広大な村域を持つ割には自然が豊かで閑散とした状況だったようです。

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明治になると寺領や旗本領は廃止となり、品川県の管轄となります。明治22年(1889)には等々力と周辺の奥沢や野良田、野毛、深沢などといった7つの村が合併して玉川村が誕生しました。その中心的存在で、役場が置かれたのが等々力でした。

現在でも玉川地域の役所関係や玉川の名を持つ学校などが等々力と中町の等々力側に集中しています。ちなみに中町は玉川村の中心部に位置しているという事で野良田から名前が変えられたものです。

また、世田谷にはもう1カ所玉川の名が付く場所があります。二子玉川です。駅周辺の住所は玉川1~4丁目となっていますが、これは昭和7年に世田谷区が成立した際に瀬田村から分離したもので、多摩川と玉川村で語呂がいいという事で玉川町となったものです。現在では玉川というと玉川高島屋を中心に賑やかな商業地となっている二子玉川を連想しますが、古くからの地名ではありませんし、玉川村の中心だったわけではありません。

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等々力村の村社は目黒通り沿いにある玉川神社です。玉川村の中心的存在だった等々力村の村社が玉川神社であり、せたがや百景の案内文にも玉川村の鎮守などと書かれていたので、最初は玉川村の総鎮守が玉川神社だと勘違いしてしまいましたが、あくまでも玉川神社は等々力村だけの村社です。

この玉川神社は元々は熊野神社でした。創建に関しては不詳ですが、文亀年間(1501~04)に世田谷城主の吉良頼康が紀州熊野より勧請したと伝えられています。熊野神社は世田谷では珍しい存在となります。熊野神社は、元々は小さな存在でしたが、平安中期に流行した熊野信仰と共に全国的な信仰となった神様です。特に鎌倉時代には山伏などにより全国に熊野神社が勧請され、武士にも厚く信仰されるようになりました。

おそらく等々力不動という修験場を持つ土地なので、山伏や修験者が集まりやすく熊野信仰がこの地に根付き、代々社寺を尊崇した吉良頼康もこの地の熊野信仰の流行で熊野神社を創建したのではと思いついたのですが、どうでしょう。

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話を戻すと、熊野神社は明治5年に等々力村の村社に指定され、明治41年頃に字上原にあった天祖神社(伊勢宮)、飛地の諏訪分にあった諏訪神社、字小山根にあった御嶽社を合祀し、社号を玉川神社に改めました。明治22年に玉川村が誕生しているので、当時の玉川村等々力という地名に因んで玉川神社となったようです。

ちなみに同じ年に瀬田の村社である御嶽神社も合祀が行われ玉川神社と改称されています。後に瀬田玉川神社と改称されますが、今でも玉川神社と呼ぶ人も多く、ちょっとややこしいです。

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大正7年には縁の下に寝泊まりしていた者の不始末により社殿が焼失してしまいます。再建には不景気のあおりを受けて時間がかかり、昭和3年に本殿のみ建立できましたが、拝殿は昭和15年の完成まで仮のままだったそうです。その後、昭和35年に立派な灯籠が奉納され、同57年には狛犬が奉納されたりと、ゆっくりと地域の人々の心の支えとなる氏神様として現在の状態になっていきました。

現在の境内は簡素ながら広大な村域を誇った等々力村の名残で多くの境内社や石碑があります。境内社としては、大国社、稲荷社、三峯社、天満社、祓戸社、八幡社などが並んでいます。

社務所付近には獅子が千尋の谷に子を突き落とすという故事を模した岩山のオブジェも造られています。昔からこの地に子育ての教訓としてこの話があったそうなので、その影響なのでしょうか。その他、入り口の鳥居付近には面白い形のクスノキがあります。その形からとっくりクスと呼ばれ、地域の人々に親しまれています。

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境内には「郷土開發之偉人 豊田正治翁之碑」と書かれた大きな石碑があります。これは昭和29年に玉川全円耕地整理組合によって建てられたもので、豊田正治氏とは玉川村の村長であり、玉川地域の耕地整理を推し進めた人です。

玉川地域(旧玉川村)は他の世田谷の地域よりも道路が広く、きれいな方形になっていて道がわかりやすくなっています。特に用賀駅から世田谷通りにかけては京都のように碁盤の目状になっています。これを行ったのが豊田翁で、旧玉川村の人々が郊外住宅地として恩恵を受けているのは彼のおかげなのです。

もちろんこの事業は土地の利権が絡んでいるので順風満帆ではありませんでした。多くの反対や様々な妨害や障害を乗り越えなければなりませんでした。身を粉に削ってその事業を推し進めたからこそ、その功績が称えられているのです。全て完成したのが昭和29年。残念ながら豊田翁は昭和23年に死去。その後を毛利博一氏が引き継いで完成しました。

本来なら銅像が建てられてもいいような気もしますが、その辺は後述しますが、玉川村なのかな~といった感じです。そして忘れてはならないのが、技術担当者だった高屋直弘氏。彼もこの事業に半生を捧げた人物で、豊田氏の石碑の横に小さいながら留魂碑が建てられています。

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その他、元玉川村村長宅の碑が「豊田正治翁之碑」の横にひっそりとあります。どうやら等々力一丁目にあったのが行き場がなくなってここに置かれているような感じです。ちょっと扱いが・・・といった感じなのですが、玉川村は争いの絶えない村でもあり、玉川村全体、今の玉川地域を上げて豊田氏を称えるといった概念が薄いのかもしれません。

玉川全円耕地整理の際で激しく揉めたのは有名ですが、そもそも村が誕生する時から一悶着あり、特に大きな町域を持っていた旧瀬田と旧等々力の対立が鮮明だったようです。村の名前もなかなか決まらなく、妥協の産物で明治7年に創立した玉川小学校から拝借したものです。

あまりにも対立が多いので、村長のなり手がいなく、村の外部の人にお願いしたこともありました。かと思えば、東京24区目を目指して独立しようとしたこともあったりと、なかなか面白い歴史を持った村です。

*** 秋祭りの様子 ***

秋祭りのポスターの写真
秋祭りのポスター

 

秋祭りの様子を写した写真
拝殿前

時間帯によっては混みます。

秋祭りの様子を写した写真
神楽の奉納

外部から社中に来てもらって上演しています。

秋祭りの様子を写した写真
神楽殿前

雨上がりともあってちょっと人が少なかったです。

秋祭りの様子を写した写真
等々力囃子

現在世田谷で一番名の知れている囃子です。

秋祭りの様子を写した写真
奉納演芸

演歌歌手が歌っていました

秋祭りの様子を写した写真
秋祭りのときの境内の様子

境内には屋台が並び、夕方には混雑します。

秋祭りの様子を写した写真
神社脇の路地に並ぶ露店

神社の外も賑やかです。

* 等々力玉川神社の秋祭りについて *

玉川神社の祭礼は、古くは9月28日に本祭、前日に宵宮が行われていましたが、現在では週末に移され、9月第三日曜日に本祭、前日に宵宮が行われています。

宵宮の日は各町会の御酒所が開かれ、お神輿の御霊入れが行われます。夕刻、19時から神楽殿において地元商店連合会による奉納演芸が行われます。いわゆるプロによる出し物で、マジックや大道芸、演歌歌手などによる舞台となります。

本祭の日は10時から祭典式が行われ、神社本庁より幣帛、祭主、宮司、総代、世話人、崇敬者など多数参列して厳粛に行われます。昼になると各町会の神輿が玉川総合支所前に集まり、神社を目指して連合で練り歩き、12時半頃から次々と宮入が行われます。宮入後、13時頃から神楽殿において神楽が奉納されます。夕刻、19時より演芸が奉納されますが、この日は地元の人たちの素人演芸になります。

露店は境内、そして神社の横の通りにずらっと並びます。それなりに混み合う時間もありますが、全体的には静かな感じといった印象です。

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この他、両日とも随時地元の等々力囃子保存会による囃子が演奏されます。等々力囃子は古くからこの地に伝わるお囃子で、区外にもその名が知れています。

世田谷の囃子は、江戸時代後期の文化年間(1804~17)に世田谷八幡宮の宮司であった大場増五郎が、当時流行っていた神田囃子を世田谷村に広め、それが船橋や経堂で改良されたのが一つの流れで、もう一つの流れは大井に伝わる大井囃子が多摩川流域から伝わったものです。等々力の囃子は後者の方で、瀬田、岡本、喜多見などと同じ系統になるようです。

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区内に伝わったお囃子は各地域で熟成されていき、それぞれの地域の特徴が表れるようになります。その中で等々力囃子が有名なのは、世田谷区の指定無形民俗文化財第1号に輝いた高橋福蔵翁(故人)がいたことです。

等々力村で生まれた彼は笛を吹くのが得意で、13歳の時に諏訪分(現東玉川)に住んでいた大井囃子系に連なる野口吉五郎氏の弟子である吉村吉蔵氏の弟子となり、毎夜等々力から諏訪分まで通い、修練に励みます。そして福蔵氏が師匠に連れられて八王子八雲神社祭礼に出かけた時、近在の囃子師匠株と三日三晩に渡っての競演となったとか。その演奏の技術が認められて「等々力に高橋あり」と知られるようになったそうです。

福蔵氏は早くから才能を認められ、師匠から奥伝(おくでん)を伝授されていました。奥伝とは普通の祭礼囃子とは違った、いわゆる奥の手というか、奥義的な難易度の高い曲です。彼が育て上げた等々力囃子にはそういった奥伝が14曲伝承されていて、中には地元大井にも残っていない大井囃子の奥伝も伝え守られています。

そういった事を留意して等々力の囃子を聞くとちょっと祭りの通になった気分になれたりします。玉川神社の祭礼以外にも等々力不動尊での行事でも演奏や獅子舞が舞われ、そして毎年3月に行われる世田谷区の郷土芸能大会にも参加しています。

*** 町会神輿の連合渡御の様子 ***

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
目黒通りの側道を進む

各町会の神輿が年番を先頭に進みます。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
お神輿の列

担ぎ手で溢れていました。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
宮入

目黒通りの歩道の柵が外されます。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
宮入してきた神輿

屋台が多く、狭いので大変です。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
神楽殿へ

まずは神楽殿に向かいます。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
社殿前へ

最後に社殿前で収めます。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
お祓いを受ける担ぎ手

宮入後順番に行われます。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
境内に並ぶ神輿

宮入後はしばらく休憩です。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
宿若睦会

等々力駅前の睦会です。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
根原睦会

等々力一の駒札の通り、1丁目や玉堤の睦会です。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
山谷睦会

北、南山野(等々力4、5、6、7丁目周辺)の睦会です

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
上原睦会

上原地区(等々力3、8丁目)の睦会です。

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
尾山台睦会

尾山台3丁目の商店街を中心とした睦会

町会神輿の連合渡御の様子を写した写真
尾山台睦会の子供神輿

 

玉川神社の祭礼では旧等々力村の各町会で神輿が運行され、本祭の日に連合で神社にやってきます。等々力村は他の地域同様に村内が多くの小字で分かれていましたが、季節の行事や祭礼などを行うときなどはズシと呼ばれる単位で行われていました。

そういったズシが等々力村には6つありました。ズシというのは現在でいう何丁目町会といった感じです。これは等々力が特別というわけではなく、お隣の深沢や奥沢などでも同じです。

そのズシの概要を大まかに書くと、旧一丁目の北側、現在の等々力2丁目の西側が原ズシ。旧一丁目の真ん中付近、現在の等々力1丁目と玉堤の北側が根ズシ。旧二丁目の西側、現在の等々力駅の北側を中心とした地域が宿ズシ。旧二丁目の東側、現在の等々力4、5丁目付近に尾山台3丁目の北側が南山谷ズシ。旧三丁目の東側、現在の等々力6、7丁目付近が北山谷ズシ。旧三丁目の西側、現在の7丁目と三丁目の北側付近が上原ズシといった感じです。

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耕地整理が終わった昭和28年以降は、隣接する町と町域変更が行われたり、昭和41年に環八が整備され、昭和45年には大規模な町域変更が行われ、等々力の町域も様変わりしました。また町も宅地化が進み、土地にびっしりと隙間なく多くの人が住むようになり、ズシといった曖昧な共同体ではなく、何丁目町会といったはっきりとした住所単位で地域の連携を取るようになっていきました。これも時代の流れですが、その古きズシの名残が玉川神社の神輿を行っている睦会になります。

昔はおそらく6つのズシからそれぞれの神輿が出て神輿渡御が行われていたはずです。現在では5つの睦会の神輿が運行されています。単に数が減ったのではなく、合併や再編が行われているようで、何時どういった形で編成が行われたのか分かりませんが、昔とは少し違う形になっています。

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現在玉川神社の祭礼に参加し神輿を運行しているのは、上原睦会、宿若睦会、山谷睦会、根原睦会、尾山台睦会の5つの睦会です。上原と宿若はだいたい昔のズシのままで、北山谷と南山谷は合併し、大井町線の南側を削ったのが山谷睦会で、昭和45年の住所表示変更で新たに出来た尾山台3丁目を中心にした地域が尾山台睦会で、原と根は合併し根原睦会といったところです。ちゃんと確認していないのでもっと細かい変更があるかもしれません。

神輿の運行スケジュールは各睦会によって違います。宵宮は子供神輿、本祭は大人神輿と分けているところもあれば、本祭の日に両方とも運行するところもあったりします。一番賑やかなのは尾山台睦でしょうか。両日とも大人神輿が運行され、本祭の日の夕方には女神輿も出たりします。それに世田谷の西部、玉川地域や砧地域の秋祭りに出かけると尾山台のオレンジ色の半纏をよく見かけます。

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神輿渡御のハイライトは本祭の日曜日に行われる連合宮入です。各睦会の神輿が昼頃に等々力駅近くの玉川総合支所前に集まり、12時半頃から年番の睦会を先頭に隊列を組んで宮入り道中を行います。5つの団体の神輿が揃ってやってくる様子はとても賑やかです。

神社に着くと一基ずつ宮入をし、境内で威勢のよいかけ声にあわせて神輿振りを行います。宮入した神輿は神楽殿で差し上げ、社殿前で収めます。そして宮司のお祓いを睦会全員で受けて宮入が完了します。全ての神輿が宮入した後は境内で小休止し、それぞれの神酒所の帰り、各町域で渡御が行われます。

* 等々力玉川神社例大祭の感想 *

等々力は「とどろき」と読みます。世田谷に住んでいる人なら難なく読める地名ですが、他の地域の人にとっては難解な地名となるようです。ただ一度覚えてしまうと妙にインパクトがある地名なのか、言葉の語呂がいいのか、忘れない人が多いようです。

その等々力ですが、かつて広大な村域を誇り、玉川村の中心的な存在でした。しかしながら商業の中心地は二子玉川の方へ移動し、玉川といえば住所的にも二子玉川の方を連想する人が多いといった状態です。等々力の名にしても対岸の川崎フロンターレの活躍で川崎の方が有名になりつつありと、区内でも区外でもちょっとさえない感じです。

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ただ等々力というと、お隣の深沢とともに高級マンションが多い地域でもあります。それは開発が遅かったので自然が残っていたり、未開発の土地が多くあったからで、特に北部の7丁目、8丁目などは緑豊かな土地が近年まで多く残っていた地域でした。

駅周辺でもすぐ南側にかかっている橋はゴルフ橋といい、かつてここに等々力ゴルフ場があった名残です。そういた閑散とし、のどかだった農村が、二子玉川と自由が丘の中間といった立地も影響し、急速に住宅街となっていきました。そしていつのまにやら当り前の住宅街となったことで等々力らしさが失われていき、等々力渓谷ぐらいしか特徴のないような町になってしまったのかもしれません。

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そういった等々力にある玉川神社の祭礼はそこそこ規模が大きいのですが、派手さは余りありません。夕方を中心に多くの人が神社を訪れますが、境内がもの凄く混むというわけでもありませんし、祭りのハイライトである連合渡御も多くの担ぎ手が集まって盛り上がっているようでありながら、見物人が多いわけでもありません。関係者を中心に部分的に盛り上がっているといった印象です。規模はそこそこ大きいけど、どことなくのんびりとしていて、落ち着いた感じの祭りといったところでしょうか。

でも冷静に考えると、ここは大きな商業地ではないので、むしろこれだけの規模を保てているのが凄いことです。高級住宅街が増え、祭りや古くからの風習などに関心のない住民が増えた中、これだけの神輿渡御や祭礼が今も行われているのは、古くからのズシの絆が強かったからなのかもしれません。

でもズシも時代の流れで再編されつつあります。本当のズシの文化や役割を知っている人たちが居なくなったとき、祭りも別のスタイル、そう現在の等々力住宅街のように都会的な味気ない祭りになってしまうのかもしれません。そんなことを少し感じた祭りでした。

<せたがや百景 No.97 等々力の玉川神社とその周辺 2009年4月初稿 - 2015年10月改訂>
( 世田谷の秋祭り File.48 等々力玉川神社例大祭 )