世田谷散策記 せたがや百景のバーナー
せたがや百景の案内板の写真

せたがや百景 No.18

松陰神社と若林公園

世田谷の秋祭り File.8

松陰神社例大祭と幕末維新祭り

安政の大獄で刑死した吉田松陰は、南千住の回向院に葬られた後、門下であった高杉晋作らの手によって若林村の毛利家抱屋敷内に移されたが、明治になってここに社殿が建てられ松陰神社となった。社殿の左手奥に松陰と志を同じくした人々の墓がある。隣接の若林公園の木立は盛夏涼しい木陰を作り、人々の憩いの場となっている。(せたがや百景公式紹介文の引用)

鎮座地 : 若林4-35-1  氏子地域 : 若林など
御祭神 : 吉田松陰  社格 :府社
例祭日 : 10月第4日曜と前日
神輿渡御 : 隔年で宮神輿の本運行
祭りの規模 : 中規模  露店数 : 20店程度(物産展を含む)
その他 : 奉納演芸、寸劇、パレードなどが行われます。

*** 吉田松陰と松陰神社と若林村など ***

* 吉田松陰とは *

境内にある吉田松陰の像の写真
旧吉田松陰先生の像

今では境内の隅っこに置かれています。

境内にある吉田松陰の像の写真
大熊氏廣作の松陰先生の像

鎮座130周年記念事業として平成25年に設置されたもの。

江戸伝馬町の牢獄跡の写真
江戸伝馬町の牢獄跡

ここに投獄され、処刑されました。

小塚原回向院の首切り地蔵の写真
小塚原回向院の首切り地蔵

最初に埋葬された場所です。

世田谷区の行政の中心である世田谷区役所のすぐ近くに安政の大獄で刑死した吉田松陰を祀った松陰神社があります。29歳の若さで生涯を閉じた吉田松陰に関しては今更説明することもないでしょうが、一般的に幕末の思想家とか、松下村塾での教育者と知られ、また安政の大獄での悲劇の英雄とか、学問の神という事で温厚な先生といったイメージとして認識されています。しかしながらその生涯を見ていくと、別の一面も多くあるようです。

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教育者というのは事実で、幼い頃から「論語」「孟子」などの中国の古典を学び、6歳の時には山鹿流兵学師範を務め、代々藩主に講義をしたり、明倫館(藩の学校)で藩士に講義をしていた叔父の吉田家を継ぎ、学問に励みます。

11才の時には、藩主であった毛利慶親公に武教全書を講義し、18歳で林真人より免許皆伝を受け、22歳で三重傳という山鹿流兵学でもっとも高い免許を取得しています。兵学だけではなく、九州の平戸で4ヶ月遊学し、陽明学者の葉山佐内と親交を結んだり、藩命による江戸留学で佐久間象山に師事したりと積極的に西洋文明も学んでいます。これは西欧から日本を守るためという愛国の思いが強かったからだそうです。

しかしながらその行動はどんどんと過激になっていき、藩の規則を破って浪人となったり、アメリカやロシア艦隊の船に密航しようとしたりして捕まります。弟子の金子重助と共に下田沖に停泊中であったペリーの軍艦に小船で乗り込み、軍艦に乗船し米国に連れて行ってもらえるよう懇願するといった事件は有名な話です。これは認めてもらえず、翌朝自首し、江戸伝馬町の獄に投獄されてしまいます。

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この後、萩に戻され野山獄に約1年2ヶ月間投獄されることになりますが、投獄されている間も学問への探求は怠らなく、獄中でも人に学を教えたり、教わったりしていたようです。安政2年に蟄居の身となると、以前に叔父の玉木文之進が開いていた「松下村塾」という塾を開き、近隣の子弟の教育を始めます。

松下村塾では、身分の上下や職業などは関係なく、それぞれの長所を見つけ伸ばすという教育を行いました。松下村塾は僅か2年余の間しか開塾していませんでしたが、伊藤博文、木戸孝允、山縣有朋など、後の明治維新を成し遂げた数多くの若者達が巣立っていった事を考えると、とても優秀な人間が集まる環境だったことが伺えます。

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ここまでなら波瀾万丈の人生といった感じでよかったのですが、安政五年に井伊直弼が大老となり、日米通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行します。幕府や朝廷の派閥問題も絡み、これに反対する人々を投獄したり、罷免していきました。これが安政の大獄です。

こういった事態に松陰は日本の安全が脅かされると考え、藩主や塾生同志等に時局に対する意見書を送ります。直接行動として、老中暗殺も計画しました。どんどんと過激になる松陰の思想に長州藩は慌て、塾を閉塾し、再び松陰を投獄しました。そして安政6年5月には取り調べのため、萩野山の獄を発ち江戸桜田の藩邸に護送されることとなります。

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松陰に対する疑いは、梅田雲浜との関係と、京都御所内への落し文のことでした。この落し文は長野主膳、島田左近、水野土佐守などを名指しで弾劾した無署名の文書で、これが松陰の手によるものではないかと奉行所は疑いを抱いていたのです。

最初の取り調べでこうした尋問を受けるのですが、全く覚えがない松陰は、雲浜とは学問のことを話し合っただけだと否定しました。役人もすぐに誤解を解いたのですが、松陰は拍子抜けしてしまったようです。これでやめておけばと言うのは一般的な考え方かもしれませんが、行動主義者の松陰は役人の話術もうまさもあり、自分の所信を話そうと意気込んで色々としゃべってしまったのです。

自分の理想を述べることでこの場で幕府の役人を動かし、やがては幕府内部からも革命を起こそうといった期待や自信があったのでしょうか。或いは誠意をもって話せば相手もわかってくれると思ったのでしょうか。それに老中間部に対する計画のことも、奉行所は探知しているに違いないと思い込んでいた部分もあったようで、「伏見要駕策」や「間部要撃計画」についても正直に話してしまったのです。

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結局、彼はあまりにも自分の理想に対して純粋でした。別の見方をすれば楽天的というか、行動が安易過ぎるとも言えるでしょうか。最期の取り調べでも一切弁解をしなかったばかりか、自分の理想について述べる始末。このようなことをしなければ島流し程度で済んだといわれています。

辞世の句は「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」で、私の命がたとえこの武蔵野の野で終えることになっても、自分の思想はここに留めておこうといった意味となるようです。この句を門下生が詠んで奮起しないわけがありません。明治という新しい世の中で松下村塾の門徒が活躍したのも頷けるような気がします。

* 若林村と松陰神社について *

松陰神社入り口の写真
松陰神社の入り口

桜の季節は美しいです。

松陰神社の参道の写真
境内の参道

拝殿まで距離があります。

松陰神社拝殿の写真
拝殿

質素な感じです。

正月の松陰神社の写真
正月の賑わい

初詣の神社としても人気です。

境内にある松下村塾のレプリカの写真
松下村塾のレプリカ

境内の奥にあります。

松下村塾の入り口の写真
入り口付近

土日など雨戸が開けられています。

境内に並ぶ石灯籠の写真
伊藤博文氏寄贈の石灯籠

幕末志士によって寄贈された灯籠が並んでいます。

境内にある絵馬掛けの写真
受験合格祈願の絵馬

年明けから多くなります。

松陰先生他烈士墓所の写真
松陰先生他烈士墓所

境内の左奥にあります。

吉田松陰の墓石の写真
松陰先生のお墓

普通の感じの墓石です。

松陰神社のある若林はかつての若林村にあたります。若林村には古くから若林鎮守三社といわれる福寿稲荷神社、北野神社、天祖神社が鎮座していて、3つの神社では毎年順送りでお祭りが行われてきました。現在では天祖神社は福寿稲荷神社に合祀されて若林稲荷神社となり、環七沿いにある北野神社は現存しているものの、規模がめっきり縮小され、お祭りはかつての若林鎮守三社祭という形式を残しながら若林稲荷神社で毎年行われています。

こういった若林に古くから土地の神様として存在していた神社とは別な性質を持つのが旧格式で府社の格を持つ松陰神社です。

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若林村が発展したのは室町時代に吉良氏が世田谷城に居城を構えてからです。吉良氏がこの地を追われた後の江戸時代には旗本領となり、寛文十二年(1672年)頃、西山谷地域の丘には長州藩の毛利家、毛利大膳大夫の抱え屋敷が建てられました。毛利家の殿様は代々「大膳大夫」と称していたので、地元の人は大夫山と呼んでいたそうです。

なぜ若林の地に毛利家の抱え屋敷が建ったのか。それは江戸に火事が多かったというのが一因のようです。長州藩は大きな藩なので、外桜田、青山など江戸の中心部付近に幕府から拝領した屋敷を幾つか持っていましたが、何時起こるか分からない火災、或いは有事に備えて郊外に用心屋敷を建てる事にしました。長州藩は西国の国(現在の山口県)。江戸の西側で、青山の屋敷からそんなに離れていない場所ということで、ここ荏原郡若林村が選ばれたようです。

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長州藩の抱え屋敷がある以外は特に何かがあるといった若林村ではないので、平穏に時が流れていましたが、幕末になると倒幕の首謀者である長州藩の抱え屋敷があるという事で色々慌ただしくなります。そんな時代が加速度的に流れていく中、江戸幕府の大老井伊直弼などが勅許を得ずに日米修好通商条約に調印し、将軍継嗣を徳川家茂に決定するという事を行いました。

当然、こういった国が転覆しかねない諸策に反対する者が現れましたが、これを権力で封じ込めました。これが俗にいう安政の大獄で、安政5年から安政6年(1858~1859年)にかけて吉田松陰、頼三樹三郎らが処刑されたのをはじめ、多くの人が粛正され、左遷され、罷免されました。

その井伊直弼自身も翌年の安政七年に桜田門外の変によって水戸藩士に暗殺されます。その後も政治的な血なまぐさくい事件、報復合戦が起こり続け、慶応三年(1867年)に15代将軍徳川慶喜が政権を明治天皇に返上する大政奉還が行われ、江戸時代、徳川幕府が終わります。

ちなみに当時世田谷を治めていたのが彦根藩井伊家で、菩提寺が豪徳寺です。安政の大獄を行った井伊直弼の墓が豪徳寺、処刑された吉田松陰の墓が松陰神社とあまり離れていない場所にあるのも不思議なものです。

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吉田松陰は安政六年(1859年)10月27日に江戸伝馬町の獄中にて29歳の若さで処刑されました。現在十思公園となっている場所です。遺体は小塚原回向院(東京都荒川区)の墓地に葬られましたが、刑死した4年後の文久3年(1863年)に高杉晋作など門人によって頼三樹三郎らと共に若林の屋敷内に改葬されました。

しかしながら翌年の元治元年(1864年)に蛤御門の変が起きると、幕府によって長州藩の江戸上屋敷と共に若林村の抱え屋敷も没収され、長州征伐の際に家屋、墓域などは破壊されてしまいます。時代が明治になると抱え屋敷は毛利家に戻され、木戸孝允が墓所を修復、整備します。その時に設置した鳥居は現在も墓所の入り口にある鳥居です。

そして明治15年(1882年)11月21日、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建されました。吉田松陰の御霊を祀り、忠魂の鎮座する松陰神社の始まりです。この時は茅葺き屋根の小さな祠だったそうですが、昭和2年から3年にかけて現在の社殿が造営されます。

当時の社殿は現在でも本殿の内陣として使われているようです。昭和7年には府社となり、本格的に神社として整備されることとなります。今では学問の神としてすっかり定着し、初詣や受験シーズンには多くの受験生が合格祈願に訪れます。

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現在の境内は整備が行き届いていて、整然とした印象を受けると思います。正面の鳥居は東日本大震災後に倒壊の恐れがあるということから黒の鳥居に替えられました。細長い参道の脇に神楽殿や御輿舎、松陰の像などがあります。神楽殿は昭和7年、旧府社に昇格する際に毛利家より寄贈されたもので、平成12年には大改修され、増築されました。

拝殿近くのエリアは石灯ろうがずらっと並んでいます。この石灯ろうは明治41年の松陰50年祭の際に伊藤博文、木戸孝允、山県有朋、乃木希典などの門弟たちが石鳥居とともに寄進したものです。それぞれに寄贈者の名が刻んであるので、自分の知っている歴史的有名人が寄贈した灯ろうを探してみてはどうでしょう。

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拝殿の脇には萩にある松下村塾の復元家屋があります。もし案内板がなければ物置かなと多くの人が素通りしてしまうような簡素な建物です。昭和11年に建てられ、その後境内の中でも設置場所を移動してしているみたいです。わざわざ復元してここに設置する必要があったのかなと思ってしまうのですが、設置されたのは戦前の忠君愛国思想が幅をきかされた時代です。

忠義の士である大石内蔵助や山中鹿之助などの話は教科書に載せられ、日本人のあり方的な教訓としてもてはやされていました。同じように愛国心の固まりであり、近代日本の形成を行った人々の師である松陰は神的な存在であったようです。そういった意味で当時の時代背景では必要なものだったからこそここに造られ、そして多くの人が訪れたようです。

そう考えると戦後70年の節目であれこれと世間が騒々しい中、大河ドラマに吉田松陰(主役は妹の方ですが)をやるのはどうなのかと思ってしまいます。松陰自体も当時の長州藩で固められた政府に美化されて聖人扱いされていますが、見方を変えるとテロリストですし・・・。どうせなら同じ世田谷区縁の人物でノーベル平和賞候補になった賀川豊彦とかがよかったような気もします。

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手水舎の脇から案内板にしたがって左に曲がると松陰先生のお墓があります。ここには松陰先生のお墓が一つだけあるのではなく、松陰先生他烈士墓所といった墓域となっています。よく考えると神社に墓所があるというのも変ですが、木戸孝允氏寄贈の鳥居をくぐって一番奥の正面にあるのが松陰先生のお墓です。小さく、想像以上に簡素なお墓です。

そのすぐ脇にあるのは志を同じくして安政の大獄で刑死した小林民部氏、頼三樹三郎氏のお墓です。こちらも松陰と同じく千住小塚原回向院から改葬されました。その他、来原良蔵氏、福原乙之進氏、綿貫冶郎助氏などといった志半ばで亡くなった維新の志士達の墓が並びます。

また墓域内には維新後徳川家から謝罪のため寄進された灯籠と水盤があり、誇らしげに飾ってあるのが印象的でした。そのほかには長州藩邸没収事件関係者慰霊碑(井上新一郎氏建立)、長州第四大隊戦死者招魂碑(桂太郎氏建立)といった長州藩のためになくなった人々のための慰霊碑もあります。

* 若林公園など *

若林公園の様子を写した写真
若林公園

場所的にいつも人がいる感じです。

若林公園の様子を写した写真
公園の遊び場

緑に囲まれた公園といった感じです。

若林公園の様子を写した写真
公園内の松の並木

背の高い立派な松が並びます。

桂太郎氏の墓石を写した写真
桂太郎氏のお墓

若林公園と松陰神社の間にあります。

松陰神社の隣、区役所の目と鼻の先に区立の若林公園があります。昭和37年に開園した公園で、見た目的には木々が多く、子供の遊び場があり、ベンチがあり、広場がありといったありふれた公園です。ただ区役所付近の若林は道が狭く、古くから住宅が密集していることで知られている地域です。

関東大震災クラスの災害が起きたときに大規模な火災が起き、大きな二次災害が起きるのでは・・・などと心配されている地域でもあります。そういう意味では防災に力を入れている部分もあり、災害用トイレ・かまどベンチ等が整備されています。そして園内を囲んでいる背の高い木々はいざというときに火災から守ってくれるかもしれません。

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この公園のすぐ近隣には国士舘大学や世田谷区役所、法務局の出張所、都税事務所などの役所があって、日常的には、場所柄、学生達がくつろいでいたり、演劇などの練習をしていたり、昼間は学生、社会人問わず公園で昼を食べていたり、スーツ姿の人が空き時間を潰していたりする光景をよく目にします。何時訪れても人が多いと言うほどではないのですが、人がいる公園かなといった感じです。

百景の文書に「若林公園の木立は盛夏涼しい木陰を作り、人々の憩いの場となっている。」とありますが、公園内には背の高い木が多くあります。中でも名木百選のスジダイ群(ブナ科シイ属)は目をひく存在で、秋になるとシイの実を拾う子供たちを目にします。

その他目に付いたのが、園内の一画に樹高の高い松が並んでいた事です。この一画だけ立派な松が揃っているのはどうも不自然ですね。どこからか移植したものかと思いますが、これは隣の松陰神社にかけて松なのでしょうか。松の木陰で休める公園。これこそ松陰公園ってな隠れた意図があるのかな・・・。梅ヶ丘の梅林の例もあるので、この松を見たらすぐに思ってしまいました。

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また、この若林公園と松陰神社との間にはさりげなく桂太郎氏の墓があります。桂太郎氏は吉田松陰氏と同じ長州藩出身で、台湾総統、陸相を経て、明治37年には首相として日露戦争開戦の大事を決し、見事に勝利を納めた方です。そういった偉大な功績を持つ人のお墓なのですが、なぜここにぽつんとあるのといった感じです。案内板によると、享年66歳でなくなり、本人の遺言によって松陰霊域に接して、当所に葬ったとの事です。

松陰氏が処刑されたとき、桂太郎氏はまだ十二、三才だったので松下村塾には入塾していません。だから尊敬する吉田松陰氏が祀られている同じ松陰神社ではなく、遠慮して隣接した場所を選んだのでしょうか。偉大な方こそ控えめなところがあったりするのですが、桂太郎氏もそういった感じの人柄だったのかななどと勝手に思ってしまったのですが、その辺の事情はよく分かりません。

*** 幕末維新祭りの写真 ***

幕末維新祭りのポスターの写真
幕末維新祭りのポスター

 

例大祭の神事の写真
例大祭の神事

社殿内で厳粛に行われます。

献花された松陰先生の墓の写真
献花された松陰先生の墓

萩からの献花が供えられていました。

幕末の志士・奇兵隊パレードの様子を写した写真
幕末の志士・奇兵隊パレード

松陰先生が先頭です。

幕末の志士・奇兵隊パレードで鬨の声を上げる写真
拝殿前での鬨の声

追っかけの女の子が多かったです・・・

パレード後の記念撮影の写真
パレード後の記念撮影

奇兵隊は国士舘中学の柔道部の生徒でした。

マスコットのしょーいんくんの写真
マスコットのしょーいんくん

なんと新撰組に捕まっていました・・・

国士舘大学のマーチング演奏の写真
国士舘大学のマーチング演奏

拝殿前に到着すると演奏します。

地元のよさこいパフォーマンスの写真
地元のよさこい

境内でよさこいや太鼓のパフォーマンスが行われます。

夕刻の神社入り口の写真
夕刻の神社入り口

夕方からは人は少なめです。

幕末野外劇の様子を写した写真
幕末野外劇

松下村塾の前で4回行われます。

参道に並ぶ出店の写真
参道に並ぶ出店

とても賑わいます。

萩や会津の物産店の写真
萩や会津の物産店

地酒コーナーが特に人気でした。

* 幕末維新祭りについて *

毎年、吉田松陰の命日である10月27日にちかい10月第四週末に萩・世田谷幕末維新祭りが松陰神社や松陰神社通りで行われます。主催は松陰神社通り商店街松栄会で、商店街主催のイベントとしては規模が大きく、平成22年に行われた第6回東京都商店街グランプリではこの「萩・世田谷幕末維新祭り」の開催実績で優秀賞を受賞しています。

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イベント内容としては日曜日に行われる幕末の志士・奇兵隊パレードがメインイベントとなります。小学生の鼓笛隊や大学生のマーチングバンドが先導し、役者が扮した吉田松陰などの志士やすぐお隣の国士舘中学の生徒が扮する長州奇兵隊、新撰組や幕府軍に扮した愛好会の人たちが続きます。

世田谷区役所を出発し、以前は世田谷通りを回って松陰神社通り商店街にやってきていたのですが、今では規模縮小というか、諸事情により路地を通って商店街通りにやってきて、松陰神社に向かいます。松陰神社に到着すると、奉納演奏といった形で演奏を行ったり、寸劇のような形で鬨の声を上げたりしてパレードは終了します。

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パレード以外にも境内では野外寸劇や幕末歴史講演会が行われたり、歴史関係のグッズを売る店もあり、遙々遠方から幕末の歴史好きが集まるイベントと知られているのも納得です。歴史関係以外にも夜に境内で行われるジャズコンサートも人気となっているようです。

その他、地元の団体による阿波踊りやよさこい、太鼓演奏が行われたり、萩焼陶芸体験や萩や会津の物産展、観光PRなども催されます。境内には露店も多く並び、萩や会津の物産展やPRブースなどもあり、かなり賑やかです。主催が松陰神社通り商店街なので、駅から神社に続く商店街でも店先に出店を出して軽食などを売っていて、商店街自体も活気があります。

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イベント以外の祭事は、社殿にて例大祭の神事が10時より行われます。訪れた日がちょうど維新祭と吉田松陰の命日に当たる10月27日が重なった日だったので、この神事が厳密に吉田松陰の命日である10月27日に行われているのか、関係者が参列しやすいようにイベントの行われる週末に行われているのか、あまり情報がないのでよく分かりません。

神事に関しては普通の神事といった感じですが、君が代の斉唱があり、社殿から大勢の参列者が唱和する君が代が聞こえてくるのが普通の秋祭りと違うところでしょうか。また神輿も出ますが、こちらは隔年で二年に一度幕末維新祭りに合わせて町内渡御を行っています。

*** 松陰神社、宮神輿渡御の様子 ***

入魂式神事の様子を写した写真
入魂式神事

拝殿前で行われます。

発輿の様子を写した写真
発輿

いよいよ出発です。

宮出しの様子を写した写真
宮出し

パレードが始まる直前なので大混雑します。

松陰神社駅を渡御する様子を写した写真
松陰神社駅前

揃いの半纏での渡御です。

神輿渡御の様子を写した写真
男神輿状態での渡御

場所によって分かれて担いでいます。

神輿渡御の様子を写した写真
女神輿状態での渡御

女性には少し重たいかも。

神輿渡御の様子を写した写真
松陰神社通り商店街での渡御

お膝元だけあって声援も多いです。

神輿渡御の様子を写した写真
松陰神社通り商店街での渡御

宮入が近づくと活気も一段と激しくなります。

宮入の様子を写した写真
宮入してきた神輿

結構賑わいます。

お囃子の演奏の様子を写した写真
宮入を盛り上げるお囃子

若林稲荷と同じ若林のお囃子です。

宮入の様子を写した写真
神輿の収め

社殿の前で収めます。

最後の神事の様子を写した写真
最後の神事

神職にお払いを受けて終了します。

松陰神社では幕末維新祭りに合わせて、2年に一度神輿の町内渡御が行われます。町内渡御といっても若林三社祭のように若林全体を回るのではなく、松陰神社に恩恵を受けているというか、奉仕しているというか、関係の深い周辺の商店街を回るといった限定的なものです。

神社自体が新しく、若林に古くから根付いているものではないので、そのへんは三社祭といった村祭りと差別化されているようです。ちなみに町内渡御が行われない年でも松陰神社通り商店街を夕方少し往復しているようです。この時は揃いの緑色の半纏は着ません。

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松陰神社の神輿は新しいものです。創建以来ずっと宮神輿がなく、平成11年7月にようやく奉賛を集めて建造されました。その年の例大祭で第1回目の渡御が行われ、以後2年ごとにしか町内渡御されていないので、あまり使い込まれていないく、まだ新しく感じます。

御神輿は総欅造りで、台輪幅が二尺三寸(70cm)、高さが約六尺(180cm)、重さは200kg程です。ちょっと背丈が高いのが特徴です。案内板によると制作は法務省富山地方事務所、制作期間は約1年・・・。ってなんで法務省が神輿制作なんてしているの?と疑問だったのですが、調べてみるとどうやら法務省富山刑務所内で建造されたという事のようです。

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2年に1度の町内渡御の年は、12時半から拝殿前にて入魂式神事が行われます。神事や挨拶などは比較的簡単なもので、12時45分頃には宮出しが行われます。担ぎ手は背中に吉田松陰の家紋であり、神社の神紋になっている五瓜に左万字の神紋が描かれている緑色の半纏を着用しなければならないので、担ぎ手は緑一色となります。

担ぎ上げると拝殿前で軽く揉んで、長い参道を通り、鳥居を出て若林駅の方へ向かいます。結構人が多いので境内から出るのが大変です。それも幕末維新祭りの最大の見所であるパレードが13時に区役所を出発して、神社に向かってくるからです。神輿が出て少しすると今度は賑やかな鼓笛隊やら時代行列がやってて再び参道や境内が賑やかになります。

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神輿の方は若林駅を回って戻り、区役所へ向かい、幕末維新祭りのパレードと同じルートを進んで、夕方17時前に宮入します。宮入は松陰神社商店街から向かうので、この時が一番活気があります。松陰神社あっての松陰神社通り商店街。普段から色々と恩恵を受けているので、松陰様々なのでしょう。沿道からの声援も多いです。

宮入の頃はあまり一般の参拝客が多くないので、宮出しほどの混雑はないものの、担ぎ手の熱気は宮出し時の比ではなく、大いに盛り上がります。最後は社殿前で神輿を収め、神職のお祓いを受けて神輿渡御が終わります。

* 松陰神社や幕末維新祭りの感想 *

松陰神社は世田谷にある神社の中でも特殊な神社です。唯一府社の格付けが付けられ、祀られているのも幕末の元長州藩士と現実的な神様です。地域に根付いたものでもなく、地域の人が勧請したものでもなく、たまたま縁があって若林に鎮座することになった神社といった感じです。だから祭礼にしても収穫を祝う村祭り色の強い他の祭礼とは違い、地域外の人が多く訪れるようなイベント色の強いものとなっていますし、祭礼日も命日が10月27日だったから他の神社の秋祭りの延長といった感じがしますが、もし夏だったら夏祭りになっていたかもしれません。

それに他の神社では夕方からが祭りの賑わいといった感じですが、暗くなると逆に人が減っていくというのも違う部分です。とまあ他の神社と同じ秋祭りとして考えると微妙な位置づけになってしまうのですが、お祭りというものは地域の祭事であり、それぞれの事情によって行われるものです。若林には既に収穫を祝う秋祭りが存在しているので、こういったイベント色の強い祭りで差別化が図られるのはいい事ではないかと思います。

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よく考えると、若林には同じ町域に菅原道真公が祀られている北野神社と吉田松陰が祀られている松陰神社があるといった学問の神に恵まれた地域です。そういった風土なのか、神様のご加護なのか、若林にある世田谷区立若林小学校は1871年(明治4年)に太子堂郷学所として開校した世田谷区内で1番、東京都でも2番目に歴史と伝統のある公立小学校だったりします。若林から多くの偉人が輩出されているのかは知りませんが、勉学に励むには色々と恩恵がありそうな土地柄ではないでしょうか。と、若林の子供たちの奮起を期待してみたりして・・・。

<せたがや百景 No.18 松陰神社と若林公園 2008年6月初稿 - 2015年10月改訂>
( 世田谷の秋祭り File.8 松陰神社例大祭 )