世田谷散策記 せたがや百景のバーナー
せたがや百景の案内板

せたがや百景 No.6

太子堂圓泉寺とけやき並木

聖徳太子を祀った太子堂の由来から地名が生まれたという。明治4年、境内に「郷学所」が設けられ、世田谷の教育発祥の地となったところだ。ケヤキの大木の並木は、農村だったころ区内随所に見られた屋敷林の名残ともいえる。秋の境内は紅葉したケヤキやイチョウの落葉で黄色のカーペットが敷かれる。(せたがや百景公式紹介文の引用)

・場所 : 太子堂3-30-8
・備考 : ーーー

*** 太子堂圓泉寺とけやき並木の写真 ***

太子堂圓泉寺前のけやき並木を写した写真
太子堂圓泉寺前のけやき並木

狭い路地に窮屈そうに並んでいます。

大けやき内の庚申塔を写した写真
大けやき内の庚申塔

T字路にあり雰囲気満点の庚申塔です。

秋のけやき並木を写した写真
秋のけやき並木

この時期は通りがやわらかい雰囲気になります。

境内の大イチョウと本堂を写した写真
境内の大イチョウの木

とても存在感のある大木です。

本堂を写した写真
本堂

背後の丘に大きなマンションがあります。

弘法大師の像を写した写真
弘法大師の像

宗祖になります。

太子堂の全景を写した写真
太子堂の全景

今では二階部分にお堂があります。

太子堂の建物を写した写真
太子堂

建物自体は古い感じですが・・・、味気ないですね。

節分護摩の時に太子堂の内部を写した写真
太子堂の内部

節分護摩の時

節分会の練り行列を写した写真
節分会の練り行列

木遣りが先導します。

聖徳太子の像を写した写真
聖徳太子の像

昭和33年加瀬朝香氏作

子育延命地蔵尊を写した写真
子育延命地蔵尊

寛政3年の造立で、玉川六地蔵の第四番。

宮野芟平氏の頌徳の碑を写した写真
宮野芟平氏の頌徳の碑

世田谷教育界の大恩人となる方です。

境内にある六地蔵を写した写真
六地蔵

寛政11年に建立されたもの。

境内にあるミニ地蔵とつつじを写した写真
境内のミニ地蔵様(つつじの季節)

つつじの間から顔を出しているようで微笑ましいです。

境内にあるミニ地蔵とアジサイを写した写真
境内のミニ地蔵様(アジサイの季節)

  

茶沢通りにある聖徳太子参道の碑を写した写真
聖徳太子参道の碑

茶沢通り沿いにあります。

聖徳太子節分会のときの入り口を写した写真
聖徳太子節分会

歴史のあるイベントです。

* 太子堂圓泉寺とけやき並木について *

世田谷にあっても太子堂とか、豪徳寺といったお寺の名前が付いている町はとても古風な印象や懐かしいといった感情を受けます。しかしながら住んでいる人の中には・・・、とりわけ地方から東京に出てきた私の友人などは、せっかく世田谷に住んでいるのだから田舎臭い名前ではなく、成城とか三宿とか三軒茶屋といった響きのいい地名に住みたかったのに・・・という人もいたりします。

逆に住所は成城ながらきれいといえない某公務員社宅に住んでいた友人は、住所が成城というだけで金持ちと思われて嫌だと言っていましたが・・・、まあ人それぞれですね。それはさておき、三軒茶屋駅周辺の大部分が三軒茶屋ではなく太子堂1~5という住所を考えると、太子堂は歴史的にみて三軒茶屋に深く関わりのあるお寺となります。

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あまり駅の北側の方には行かなかったし、分かりづらい場所にあるので、その存在を知りながらも今まで訪れたことはありませんでした。今回初めて訪れてみると、都会らしくというか、周りの風景にあわせてというか、とても窮屈そうに存在していました。境内も古刹といった雰囲気はなく、コンクリートに固められた今時のお寺といった感じです。あらかじめこういう状態だという事は調べて知っていたのですが、古刹の面影というか、三軒茶屋の重鎮といった雰囲気だけでも・・・と期待していたのでちょっとがっかりです。

境内を入ってすぐ右側に太子堂がありました。聖徳太子を祭っているお堂で、太子堂の地名はこのお堂に由来しています。400年以上の歴史を・・・と言いたいところですが、木製の建物がコンクリート建造物の上に建てられていました。1階部は葬儀場だとか・・・。これでは味がないというか、建物が木造なのがせめてもの救いといった感じでした。

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これは平成になって移築したもので、百景の切り絵が昔の様子を表しているように元々は境内の真ん中にあったようです。味気なくなってしまいましたが、土地のない都会ではしょうがないことですね。訪れた日曜日には太子堂の下で葬儀が行われていましたし、車でお墓参りしている人もちらほらといたので、駐車場のスペースなどを確保するために太子堂が二階部分に移動してしまったような感じです。

どうしても都会では上や地下に空間を求めてビルが乱立してしまい、最近では駅前の神社はビルの中へ入ってしまっていることも珍しくない話です。せめて神社やお寺だけは都会の圧迫した空間から開放してくれる場所であり続けて欲しいですね。

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太子堂の由緒や歴史を書いておくと、創建ははっきりしませんが、南北朝時代(1332~92)の後期に太子堂が開創され、別当として圓泉坊(圓泉寺)が草創されたと推察されています。その後文禄四年(1595年)に賢惠大和尚によって中興され、聖王山法明院圓泉寺となります。

その時の経緯を書くと、文禄一年に賢惠大和尚が大和国久米寺から聖徳太子像と十一面観音を背負って関東に下り、文禄四年にこの場所に滞在しました。その時に聖徳太子が夢に出てきて、「この地に霊地あり円泉ヶ丘という。つねに霊泉湧き出づ、永くここに安住せん。汝も共に止まるべし。」と告げたとか、なんとか。そして翌文禄五年に本堂、太子堂などが完成しました。ちなみに寺の名前に泉の文字が入っているように、昔は境内から泉がわき出ていたと考えられています。

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江戸時代になり慶長年間に入ると円泉寺周辺の地域は、江戸市中への青物の菜の供給地として栄えていたようです。これによって付近の経済は安定し、寺の寺容が整えられていきました。現在のお寺の立地が丘の中腹ぐらいなので、烏山川や下の谷商店街の辺りに集落や田畑があったのでしょうか。そんな田園風景が広がっていたと想像できるのですが、今では周りにはアパートが密集していて、路地は入り組み、非常にごちゃごちゃした一帯となっていて全くイメージが涌きません。

またその頃大山詣でも盛んとなり、大山詣に向かう人が縁起を求めて行き帰りに参拝して行くようになり、寺自体も活気にあふれていたようです。その後安政四年(1857年)には出火により寺の大部分と寺宝を消失してしまいます。その三年後の安政七年に檀家の努力によって以前より小規模ながら本堂が再建されました。

時は流れて大正時代になると本堂が大修繕され、昭和の初めには太子講や縁日で賑わっていたそうです。現在では・・・、あまりパッとしませんが、節分行事の聖徳太子節分会は昭和23年から行われ続けている行事です。そこそこ特徴のある行事のような気がするのですが・・・、あまり知られていませんね。

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その他境内には世田谷教育界の大恩人とされる宮野芟平(さんぺい)氏の頌徳の碑が建てられています。明治三年に付近の村の有志が協力して郷学所を建設し、宮野氏が師として迎えられました。この郷学所では今までの寺小屋と違って四民平等の新しい思想に基づいて身分の上下を問わず平等に教育を行ったそうです。翌、明治四年(1871年)には立派な新しい校舎を建て、太子堂郷学所と名付けられました。

明治六年(1873年)には新学制がひかれ、太子堂郷学所が第二中学区第四番小学荏原学校(現在の若林小学校の前身)となります。これが世田谷での最初の小学校となり、引き続き宮野氏が初代校長に任命され、明治二十八年の在職中に他界するまで世田谷の教育に尽力されたようです。明治二十年には火災に遭い、一時期仮校舎が太子堂円泉寺境内に置かれた事からここに碑が建てられたようです。

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その他で印象に残っているのが、本堂の前にある樹齢500年とも言われる大きなイチョウの木です。とても背の高い木で、その存在感は抜群です。写真に収めようとするなら結構後ろに下がらないと入り切らないほどです。イチョウと言えばやっぱり紅葉。葉が色づく晩秋にはいつもと違った雰囲気になり、なかなか絵になっています。

それ以外にも境内には多くの植物が植えられていて、手入れがよく行き届いているといった印象を受けました。この他に境内にある特徴的なものを紹介すると、子育て延命地蔵尊は寛政3年の建立で、玉川六地蔵の第四番の地蔵尊となります。元々は三軒茶屋地区にあったもので、昭和43年に移されました。縁日本尊として広く庶民の信仰を集めていて、今でも信仰が寄せられ続けているようで何時訪れても花が供えられています。

墓地の入り口にある六地蔵は寛政11年に建立された古いものです。後は・・・、大きなイチョウの木の下には表現豊かな小さなお地蔵様も沢山置いてありました。なんというか、このユーモアあるセンスは・・・いいかも。花の時期には彩が加わって一段と愛らしい姿をしていました。

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それからタイトルにも書かれているけやき並木ですが、数は多くないのですが外側の塀に沿って一応並木となっています。ただでさえ狭い道にケヤキの木が並んでいるので、車や自転車で通行すると邪魔に感じるのですが、これは仕方のないことですね。

そのケヤキ並木の一本はかつて都の天然記念物に指定されているほどの大木だったそうですが、残念なことに倒木の危険があるということで、今ではその木は根本から4m程残して木の上部が伐採されています。その残された根元部分は中が空洞になっていて、内部に2体の庚申塔が納められています。そういった木の姿を見ると、道で通行人を守るというか、町を守るというか、ちょっと神秘的に感じてしまいます。

この木は樹齢は700年ほどだったとか。この界隈では円泉寺の大ケヤキがどの木よりも抜きんでて聳えていたと言われています。きっとこの場所で太子堂や三軒茶屋の町を見守り続け、そして人々のランドマーク的存在であり、また心の拠り所となっていたご神木だったに違いありません。そういう意味では地元の人にはこの大ケヤキとケヤキ並木は太子堂の象徴であり、この界わいと切っても切れない風景の一部だからこそケヤキ並木がタイトルとして強調されたのかと想像できます。

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ちなみに昭和の時代まで円泉寺の門前には川本牧場があり、牛が飼われていたそうです。ケヤキ並木沿いに家が建ち並ぶ前は牧場だったとは・・・、ちょっとビックリしました。また境内のすぐ西隣は女流作家林芙美子さんが大正時代に下宿していた長屋があった場所です。今でもごちゃごちゃとした場所なので、それらしい雰囲気は感じる事ができるのではないでしょうか。

<せたがや百景 No.6 太子堂圓泉寺とけやき並木 2008年6月初稿 - 2015年10月改訂>