世田谷散策記 せたがや百景のバーナー
せたがや百景の案内板の写真

せたがや百景 No.11

淡島の灸の森厳寺

江戸時代の初め、徳川家康の次男結城秀康公の位牌所として建立された。建物に三葉葵の紋所が見られる。また境内には、樹齢400年のイチョウが一対と、お灸と2月8日の針供養で知られる淡島神社がある。森厳寺や北沢八幡、阿川家の屋敷林のあるこのあたりは緑深い木々に包まれている。(せたがや百景公式紹介文の引用)

・場所 : 代沢3-27-1
・備考 : 針供養は毎年2月8日

*** 森厳寺、淡島神社の写真 ***

森厳寺の門前の写真
森厳寺の入り口

怪しげな雰囲気を感じる入り口

紅葉時の森厳寺の門前の写真
紅葉時の入り口

雰囲気が変わって見えるものですね。

森厳寺の境内の写真
うっそうとした境内

大きなイチョウが一対あるため薄暗い境内でした。
正面が森厳寺、左側は幼稚園

紅葉時の森厳寺の境内の写真
同じく紅葉時の境内

休日には近所の方々の撮影スポットになっています。

森厳寺のイチョウの大木の写真
イチョウの木

写真に収めるのも大変な大木です。

森厳寺のイチョウの木を下から見た写真
下から見た図

下から見上げるときれいでした。

処理された落ち葉の写真
落ち葉の山

こればかりはしょうがないですね。ご苦労様です。

森厳寺の本堂の写真
森厳寺の本殿(正月)

昭和39年に再建された本堂

森厳寺の本堂内部の写真
本堂内

近代的かつシンプルな堂内です。

正月飾りの写真
変わった形の正月飾り

 

門に掲げられていた葵の紋章の写真
門に掲げられた葵の紋章

この紋所が目に入らぬか~!といった感じでしょうか

* 淡島神社と針供養 *

森厳寺境内にある淡島神社の写真
淡島神社の淡島堂

こちらは古刹めいた雰囲気がありました。
右の石棺みたいなのは古針の奉納箱です。

森厳寺境内にある針塚の写真
針塚

ここで針供養が行われます。

淡島神社内部の写真
歴史を感じる淡島堂内

針供養の神事前の様子

針供養の様子の写真
針供養

毎年2月8日に行われます。

針供養で豆腐に針を刺す様子の写真
豆腐に針を刺す様子

和服姿の女性が多いです。

沢山の針が刺さった豆腐の写真
針山状態の豆腐

ちょっと痛々しいかも・・・

* その他 *

閻魔堂の閻魔様と不動様の写真
閻魔堂の閻魔様と不動様(右)

森厳寺の正面に鎮座している閻魔様
閻魔の日には護摩が焚かれます

弁財天の写真
弁財天

淡島堂の横にある超近代的な社に祀られています。

* 淡島の灸の森厳寺と針供養について *

ちょっと変ったタイトルが付けられている項目です。これは同じ敷地内に二つの特徴的な寺社があることでこういうタイトルになってしまったと思われます。現在では幼稚園まで加わり、森厳寺、淡島神社、幼稚園、二本の大銀杏、焔魔堂、社務棟がそんなに広くない境内に所狭しと配置されています。そして入り口はそういった繁雑さを表してか色々な表札が並び、なにやら怪しい雰囲気となっています。

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密教的な雰囲気を期待しつつ門をくぐると、そこには大きな木に囲まれた薄暗い世界が広がっています。とりわけ二本の巨大なイチョウの木には圧倒される事かと思います。とても立派なイチョウで、頭上を木の葉がぎっしりと覆い、古刹がもつ独特の薄暗い雰囲気を作り出していました。

樹齢はおよそ400年と言われています。訪れる方としてはこれだけ立派な大木だと紅葉の時期が楽しみでありますが、頭上を覆い隠すように葉が生い茂っていると掃除する方は・・・。紅葉の時期に訪れてみると、境内の隅っこに山のように積まれた落ち葉の入ったビニール袋があり、思わず笑ってしまいました。

季節ごとにそれぞれの良さがあるかと思いますが、やっぱりイチョウの大木は秋の紅葉時期が一番絵になる気がします。立派なイチョウが紅葉する境内の様子は幻想的にすら感じました。ただ、あまりに大木だし、周囲に引いて全体を見渡せる場所がないので落ち着いて鑑賞するのは辛いかもしれません。

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境内に入って右奥に森厳寺、正面に幼稚園、左側に淡島神社があります。まずはお寺の名前である森厳寺から書くと、正式名は八幡山浄光院森厳寺で、この寺は慶長十三年(1608年)に結城中納言秀康卿の位牌所として建てられたものです。寺は昭和39年に火災により消失してしまったので、現在の寺はとても近代的な建造物です。

結城中納言秀康卿とは、江戸幕府を開いた徳川家康の次男でありながら最初は豊臣家に養子に出され(実質人質)、後に秀吉の命で下総の結城家へ養子に出されたという数奇な経緯を持つ人物です。秀康という名前も養父の「秀吉」と実父の「家康」から一字ずつ取ったものです。

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関ヶ原後には越前の福井67万石の封を受け、姓を松平に戻し、福井藩の越前松平家の家祖となりました。しかしながら慶長十二年(1607年)、34才の若さで突然病死しています。長男が織田信長に切腹させられているので、本来ならこの次男の秀康が二代目の将軍になるべきだったのですが、秀康が将軍になれなかったのは性格的に粗暴だったとか、資質がなかったとか、一度豊臣家に養子に出されたからだとかなどと言われています。

若すぎる死も暗殺されたとか、色々と疑念を抱いてしまいますが、諸説紛々、実際はどうだったのでしょうか。はっきりした事が分からないこそ、色々な伝説や陰謀説が歴史家などに語られています。

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その福井藩の結城秀康と森厳寺の関係を書くと、秀康が臨終の際に越前の一乗寺の万世和尚に自分のために一寺建立してくれと頼んだそうです。万世和尚は高齢のため、弟子の孫公和尚にそれを命じ、孫公和尚はふさわしい地を探し求め、この地に辿り着いたそうです。寺名は秀康の法号の「浄光院殿森厳道慰運正大居士」から命名されました。家康に冷遇されたとはいえ、立派な徳川家の血筋なので、ちゃんと三葉葵の紋章が掲げられています。

一応これが公式的な見解となっています。が、ただ・・・、普通に考えるなら越前の秀康がなぜ世田谷に?といった疑問が湧いてきます。それに秀康が家康や徳川家を嫌っていたといった話はよく歴史書に出てきます。そういった事から考えれば、私の勝手な想像ですが葵の紋が入った寺に入るのにわざわざ福井から世田谷にまでやってこなくてもよかったはずです。福井藩に越前松平家の墓所を造れば良かったはずなのですから。

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秀康に関しては色んな逸話があるのですが、その中でも興味深いのは秀康には法号が二つあり、はじめは「孝顕院殿三品黄門吹毛月珊大居士」と付けられていた事です。これは生涯を通じて家康に冷遇されたことの恨みつらみで、誰が徳川家の墓に入るもんかと結城氏の菩提寺である曹洞宗の孝顕寺に本人の遺言で埋葬されたという話です。

死に臨んで徳川氏と訣別したいという本人の意向なのでしょうが、これでは徳川幕府の立場、あるいは福井藩としても幕府に対する立場がよろしくありません。後に孫公和尚を遣わせて森厳寺に改葬され、法号も浄光院殿森厳道慰運正大居士と改められたといったような説があります。

色々と考えるとこれが一番ふさわしいのかなと思えてしまいますが、真実はどうなのでしょうか。あれこれと想像しながら奥深くまで考えると歴史も面白いものですし、そう考えながら散策すると訪れた時の楽しみも増えます。

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森厳寺の本堂と淡島堂の間にあるのが幼稚園です。日曜日に訪れたので境内全体がひっそりと静まりかえっていましたが、普段は園児達の元気のいい声で賑やかにちがいありません。園内の一角には大きなイチョウの木の片方があります。夏は園児のために木陰をつくり、紅葉の時期にはイチョウのカーペットを提供しているのでしょうね。黄色いイチョウのカーペットの上で遊びまわる園児達の姿は絵になっていそうです。

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そして一際古めかしい建物が淡島神社の淡島堂です。お灸と2月8日の針供養で知られ、灸の淡島さまと人々に慕われています。淡島通りというものがあるぐらいだから地元の地名、もしくは地元に深く関わりのある神社かと思っていたのですが、淡島神社そのものは紀州が由来のものでした。

簡単に書くと、淡島というのは住吉大明神の妻の名前で、彼女は婦人病にかかって紀州に流され、流された紀州の地で海女の守護神となり、ひろく婦人病の守り神となっていったのが淡島神社の由緒のようです。この森厳寺を開山した和尚が紀州人で、淡島神社も和尚により紀州から勧請したものです。

なんでも夢枕に地元の淡島明神からお告げがあり、これこれこういったお灸方法を行えば持病の腰痛が治せるぜよ。と教えられ、その通りに灸治を行うと治すことができたとか、なんとか。このことから地元の紀州の加田から淡島明神の分社を勧請したようです。そしてその灸治を毎月3と8の付く日に諸人に施した為に、江戸中の評判になり、門前町が栄え、大いに賑わったそうです。

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針供養について書くと、この行事は日頃使い慣れた針に感謝し、柔らかな豆腐に差し、供養するといった儀式のことです。昔はこの日に限り女性は針仕事をしないといった風習があったそうです。女性の為の休日だった感じですね。田畑に関する作業を始めるという「事始め」、この日で終わるという「事納め」といった区切りの日に針供養を行うそうですが、関東では「事始め」の2月8日に行い、関西では「事納め」の12月8日にやるところが多いそうです。

ここ森厳寺の淡島神社には淡島堂の前に針供養の石碑が建てられていて、その横には石棺・・・、一番最初森厳寺を訪れた時はなんでローマの石棺がここに!?(かなり大袈裟な表現)と思ったのですが、後で知るに古針の納め箱がおかれています。そして毎年2月8日に針塚の前で針供養、お堂の中で法要が行われます。豆腐に針を刺すといった一風変わった儀式は今ではあまり見かけない行事だし、誰でも参加できるので興味があれば訪れてみるといいでしょう。

ちなみに都内で言えば浅草の浅草寺内にも淡島明神があり、そちらでもここと同じ主催者(大東京和服裁縫教師会)によって針供養が行われています。写真を見る限りでは、さすがはお祭り好きの浅草といった感じで、そっちの方が大規模な印象です。後は新宿の正受院で東京和服裁縫協同組合によって行われる針供養も有名でしょうか。錬り行列や針を埋める儀式などは面白く感じるかもしれません。

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その他、今はなくなってしまいましたが、この森厳寺にはさりげなく江戸時代の信仰である富士塚というものがありました。富士塚とは足腰の弱った老人や女人禁制によって入山が許されない人たちが富士詣でができるようにと人工的に造られた代理富士の事です。もちろん一般の人もそう簡単に富士山に登る事ができるわけではないので、あこがれの富士山詣でを気軽にといった感じで江戸時代には流行ったようです。

この近辺で残っているものは品川神社や千駄ヶ谷の鳩森八幡とかでしょうか。またちょっと離れていますが、今なお信仰が息づいている駒込富士や東京都指定無形民俗文化財に指定されている火の花祭りを行っている清瀬市の中里富士塚は東京でも有名です。

そういった江戸時代の信仰の名残りともいえる富士塚が森厳寺の墓地にあったのですが、2004年に森厳寺から区へ墓地整備のためと保存が困難のために撤去したいといった相談があり、その後都などとも協議を重ね、保存が困難な場合は記録保存をするという事で、2006年に墓地整備計画が認可されました。そして2006年3月22日から4月21日にかけて発掘作業が行われ、富士塚がなくなってしまいました。

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ちなみにこの富士塚が造られたのは文政四年(1821年)で、願主となって造ったのは三軒茶屋の三軒の茶屋の一つであった田中屋の新兵衛氏で、手入れは下北沢の名主半蔵氏だったようです。幕末頃から信仰が途絶え、戦時中には防空壕が掘られ、空襲の際に使われました。

戦後になると富士塚は完全に使われなくなり、塚の周りがどんどん墓で埋まっていくといった荒れた状況だったようです。さすがに檀家さんの事を考えると寺としても崩れたりする心配や雑草などの手入れを考えなければならなく、その手間を考えると撤去はしょうがないといったところでしょうか。

そもそも外観的には富士塚の面影はあまりなく、発掘しても特にめぼしいものが出てこなかったようです。それに一般のお寺の墓地にドカッと富士塚があってもそれはそれで見学もままならないですね。北沢八幡神社の方にあればまた違ったのかもしれません。

<せたがや百景 No.11 淡島の灸の森厳寺 2008年6月初稿 - 2015年5月改訂>