世田谷散策記 タイトル
せたがや百景 No.99

田園調布のいちょう並木

玉川田園調布一丁目から大田区の田園調布駅にかけて

田園調布駅に至るイチョウ並木はがっしりとたくましく、繁雑なバスの往来をものともしない。戦前の田園調布開発に際して植えられたものが成長した並木だが、良好な住宅地を形成するには長期的な計画が欠かせないことの一つの証左になっている。(せたがや百景公式紹介文の引用)

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1、田園調布とは

渋沢栄一のイメージ(*イラスト:retoさん)

(*イラスト:retoさん 【イラストAC】

田園調布は・・・、言わずと知れた日本を代表する高級住宅地です。日本で最初の近代的都市計画で誕生しました。

田園調布を生み出したのは、「日本資本主義の父」とも評される渋沢栄一氏(1840~1931)。2024年から発行の一万円札の肖像画になっている人物です。

渋沢栄一氏は、大蔵省官僚を辞めた後、第一国立銀行(現・みずほ銀行)の頭取となり、株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れ、生涯に約500もの企業に関わり、約600の社会公共事業・教育機関の支援を行い、また民間外交にも尽力しました。

先代の一万円札の福沢諭吉に「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という有名な言葉があるように、「道徳経済合一説」を説き続けた渋沢栄一にも、「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。」といった有名な言葉があります。

田園調布駅旧駅舎の写真
田園調布駅旧駅舎

2000年に復元されました。駅舎としては利用されていません。

田園調布の開発が始まったのは、大正7年。田園都市株式会社が設立され、地元の地主などとともに宅地化計画が練られていきました。そして、現在の田園調布一帯の土地が買い上げられ、宅地造成が始まりました。その頃、世田谷区を代表する高級住宅地成城はというと・・・、まだ影も形もありませんでした。

ただ、成城と田園調布の共通点があって、それは鉄道が開通する前に町づくりが行われた事です。田園調布に目蒲線が開通したのが大正12年の事で、更には関東大震災も起きて宅地需要も高まり、一気に町並みが発展しました。

1940年頃の田園調布の航空写真(国土地理院)
1940年頃(戦前)の田園調布

国土地理院地図を書き込んで使用

田園調布の特徴は、駅を中心として同心円放射状の街路で住宅地が構成されている事です。ヨーロッパなどでよく見られる町並みで、中央が大きな交差点や広場になっていることが多いです。

このような町の形態になったのは、イギリス式の郊外住宅地計画、「都市と田園の長所を兼ね備えた住宅地を理想とした田園都市構想」を参考にし、パリの街並みを倣ったからです。

現在では、鉄道や駅が地下化されたので、円の中心、田園調布の場合だと扇の要になっていた駅舎が不要になってしまいましたが、地元の人々からの強い要望によって、2000年にほぼ同じ場所に復元されました。この駅舎がないと、町の景観が締まらないとか、物足りないといった感じでしょうか。今では田園調布のシンボルとして町を見守っています。

田園調布駅旧駅舎から見た田園調布住宅地の写真
旧駅舎から見る田園調布住宅地

駅の正面に中央のイチョウ並木を見ることができます。

この駅舎から町を眺めると、この町がヨーロッパ的な雰囲気を意識しているのがわかります。そういった雰囲気も高級住宅街として人気となった要因に違いありません。

ちなみに、昔からこの地が田園調布だったかというと、そうではなく、元々は調布村でした。調布という地名は、全国的にある一般的な地名です。これは「租庸調」という古代の税において、調として特産の布を治めていた事から付いた地名になります。

田園都市計画から、田園都市と呼ばれるようになり、大正15年に駅名が調布から田園調布と変わり、昭和7年に大森区の誕生とともに町の名が田園調布になりました。

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2、田園調布のイチョウ並木

田園調布の地図(国土地理院)

国土地理院地図を書き込んで使用

百景に選ばれているイチョウ並木ですが、これは当時の区画整備の際に植樹されたもので、田園調布の特徴である同心円放射状の街路のうち、駅から放射状に伸びている三本の比較的広い道沿いに植えられています。

真っすぐに続くイチョウ並木と、道沿いに並ぶお屋敷が合わさった景観は素敵で、雰囲気はよく、国土交通省の「都市景観100選」にも選ばれました。

せたがや百景に選ばれていますが・・・、そもそも田園調布って世田谷区なの?大田区なの?という人もいるのではないでしょうか。

私も混同していたのですが、住所で言うと、「田園調布」と「玉川田園調布」があって、前者が大田区、後者が世田谷区です。前者が駅前付近の一等地に対して、後者は環八付近のごく一部だけと、田園調布といえば大田区になります。

玉川田園調布は、名前から想像できると思いますが、田園調布の成功をみて、これはもっと広げれば売れるぞ!とばかりに、東急が調布村と玉川村の村境にあたる等々力の飛び地である六本松を中心に奥沢の土地を強引に買い占め、整地して、世田谷区成立の際に土地の名までも玉川田園調布にするように頼み、売りだしたものです。

荒れていた土地とはいえ、その土地の名や由緒に何の思い入れや愛情を感じない企業のやる事です。本当なら玉川も取って、大田区に編入させたかったのでしょうが、こればかりは行政区分が違うので何ともなりません。

商品価値が少し下がるけど、世田谷区玉川村という事でやむなく玉川を付けておこうといった感じでしょうか。こういった出来事も強盗慶太(東急の創始者五島慶太氏のあだ名)と呼ばれる由縁であるようです。

田園調布のいちょう並木 世田谷区から見たイチョウ並木の写真
世田谷区から見たイチョウ並木

環八の交差点から少し入ったところから並木が始まります。

世田谷区の玉川田園調布に含まれているのは三本の中でも一番北側に位置し、駅から環八へ続いている道です。

この並木は一番長く、バス通りにもなっていて交通量も比較的多いです。

田園調布を特徴付ける3本のイチョウ並木として考えたなら・・・、一本の並木のしかも片側の2ブロックだけなので世田谷区の百景に含めてはまずいのでは・・・と、違和感を感じてしまいます。

田園調布のいちょう並木 イチョウ並木を走るバスの写真
イチョウ並木を走るバス

2車線道路としてバスが通るには狭いです。

最初に並木道を歩いてみたのは4月でした。緑の葉が大分生い茂ってきていて、並木道全体が若々しいというか、みずみずしいというか、新緑の季節だなといった感じでした。

並木道の途中には、やたらと木の枝に注意、あるいは振動、騒音注意といった看板が立てかけられていました。どうやら区内にある多くの桜並木と同じで、木の枝がバスや大型車両に当たって折れてしまうようです。

実際にバスが走っている様子を見ると、木の葉のところをぎりぎりに走っているというか、なかには木の葉がバスの屋根をほうきのように掃いていたりしました。これは便利・・・、じゃなくて、木の枝も大変です。

2車線道路にしては車線が狭いのもその原因です。昔のように一車線道路にすればと思ってしまいますが、やっぱり高級住宅地にバスが走っていること自体が似合っていないように感じますが、駅に近い立地なので、そうもいっていられないのでしょう。

田園調布のいちょう並木 紅葉の始まりの写真
紅葉の始まり

日当たりのいい西側が先に紅葉していました。

紅葉の頃に訪れてみると、ちょっと早かったようで並木の片方しか紅葉をしていませんでした。って、片方って・・・、なんか面白い光景でした。

木の性格によるものなのか、日の当たりの加減が影響しているのかわかりませんが、西側の方の木々が先に色づくようです。

田園調布のいちょう並木 紅葉する並木道の写真
紅葉する並木道

同時に紅葉してくれればいいのですが・・・。

更に一週間後、再び訪れてみると、ほぼまんべんなく紅葉している状態でした。しかしながら並木道の中を歩いてみると、どうもまばらな感じがします。銀杏の木を見上げると、緑の葉があれば、葉が散ってしまいつつある木もありました。

改めて並木道を観察してみると、イチョウの適性な間隔がどのくらいなのかわかりませんが、他の並木に比べると木の間隔が狭いように思います。その分、並木の中を歩くと密度が濃い感じはしますが、木々が近すぎることによりお互いの日当たりを悪くしてしまっている感じです。

3、感想など

田園調布のいちょう並木 銀杏並木の中の写真
銀杏並木の中

バス通りにしておくのにはもったいないほどの銀杏トンネルです。

世田谷区の百景に選ぶには少々無理があるように感じる項目ですが、高級な住宅とイチョウ並木が織りなす雰囲気は素晴らしく、とてもいい風景なのは確かです。

この機会に区をまたいで天下に名が知れた田園調布を散策してみてはどうでしょう。世田谷を飛び出したという心境で、ちょっとヨーロッパ的な雰囲気がする駅周辺を歩くと、一気に海外へ出たような気分に・・・とはならないと思いますが、散策がちょっと旅っぽくなるのではないでしょうか。

せたがや百景 No.99
田園調布のいちょう並木
2025年5月改訂 - 風の旅人
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・地図・アクセス等

・住所玉川田園調布一丁目から大田区の田園調布駅にかけて
・アクセス最寄り駅は東急東横線田園調布駅。
・関連リンクーーー
・備考大部分が大田区になります
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