用賀観音の無量寺
用賀4-20-1境内に一際高く大イチョウが茂る。用賀観音と呼ばれるのは十一面観音像で、品川の浜で漁師の網にかかったのがここに祀られるようになったという。かつては観音講が組織され賑わったが、今は静かな境内だ。昼下がり近くの小学校のチャイムがのどかに響く。(せたがや百景公式紹介文の引用)
1、用賀無量寺について

境内にも桜が植えられていて、桜の時期の散策はおすすめです。
新しく整備された町という印象が強い用賀で、歴史を感じることのできる数少ない存在の一つが、この無量寺になります。
用賀駅の北側、砧公園へ向かういらか道(用賀プロムナード)近くに山門があります。どことなく歴史を感じる門構え、そして境内にそびえている大イチョウ。更には、規則正しく碁盤の目のように整備されている用賀地区(用賀駅から世田谷通りの間)にあって、この無量寺のある区画だけは少し歪な形をしています。

*国土地理院地図を書き込んで使用
区画整理が行われたのは、大正時代。玉川村の村長だった豊田氏の下、玉川地区の区画整理は他の地域よりも早く行われました(玉川神社の項を参照)。
まだ信心深い宗教心が残る時代だったので、仏様が眠る敷地を人間が勝手にいじると、バチが当たってしまう・・・などと恐れられていたに違いありません。
ちなみに、もう一カ所、区画がずれている場所があります。それは用賀の名主だったお宅。あみだくじのように道が敷地を避けています。今の世だったら大問題になりそうですね・・・。

イチョウを中心に緑の多い境内です。
無量寺・・・。感無量とか、言葉で表せない感情の大きさを表しているというか、アナログっぽいというか、個人的にはとってもいい響きの名前に感じるお寺です。
無量寺は浄土宗に属し、芝の西応寺の末寺となります。ご本尊は、約45cmほどの三尊阿弥陀如来坐像で、製作者は春日といわれています。
寺名の由来は、浄土三部経の中に阿弥陀経があり、その無量寿仏から名づけられたそうです。全国的には、そんなに珍しい寺の名というわけではなく、各地に無量寺という名の寺があります。
歴史に関しては、あまりはっきりとしていなく、開山は光蓮社明誉寿広和尚で、「文禄三年(1594年)八月十六日示寂ス」と、新編武蔵国風土記稿に記されているそうです。

ユニークな顔立ちをしています。
無量寺は、住宅街の中にあってこの一角だけ緑豊かな空間となっています。用賀と言えば開村の時に建てられ、村人の多くが檀家だった真福寺の方が名が知れていますが、商店街近くに立地しているのもあり、今では都会的な雰囲気の境内になっています。現在のお寺としての趣きは無量寺の方がいいように思います。
山門の前には幾つものお地蔵さんが置かれています。大きさや造りに統一感がなく、見方によってはちぐはぐな印象を受けますが、個性豊かなお地蔵様が門前に並んでいる様子に和むという人が多いのではないでしょうか。
これらの石仏は、元々お寺にあったものを除くと、用賀界わいに置かれていたお地蔵様になり、区画整理や住宅地造成の際にここに移されました。

山門を入ると大きな南無阿弥陀仏の石碑があります。
山門から中に入ると、目の前に大きな「南無阿弥陀佛」と書かれた石碑がドカッとあります。とても目立つ配置となっていて、思わず拝んで通ってしまうような存在感があります。
その奥に百景の文章で紹介されている大イチョウが聳えています。このイチョウの木の背の高いこと。椰子の木を連想してしまうぐらい不自然に背が高いイチョウです。
樹齢はどのくらいでしょうか。記載されていなかったのでよくわかりませんが、私なりに推測すると、森厳寺のイチョウには負けるとして永安寺のイチョウとはいい勝負ができる感じでしょうか。そう考えると、樹齢にすると二百年以上ってなとことでしょうか・・・。

白壁が美しい建物です。
イチョウの木の奥に本堂があります。入り口の山門から見ると、本堂は斜め向いているし、参道の真ん中に銀杏の大木があって邪魔だしと、かなり違和感を感じる寺の配置です。

*国土地理院地図を書き込んで使用
調べてみると、昔は区画に対していびつになっている横の細い道沿いに山門があったようです。なので、区画整理の際、この道はそのまま残されたようです。
しかし、その後、寺の改修が行われ、大きな道に面した角地、現在の場所に山門が移されました。だから現在の山門から入ると、違和感を感じる配置になっているのです。
戦後の写真を見てみると、もう入り口が一条通の方へ向いているので、戦前の話になるようです。

用賀観音の十一面観音像が祀られています。さりげなく雪囲いがしてありました。
本堂は何時建てられたものなのか分かりませんが、白壁の美しいお堂です。その本堂の脇にあるのが、無量寺名物の観音堂です。
百景の文章を補完すると、天正の頃(1573~86)、用賀の住人であった高橋六右衛門尉直住という人が、品川の浜で漁師の網に上げられた観音様を譲り受け、自宅に祀りました。
しかし、夢枕で観音様が無量寺に安置して欲しいと告げてきたので、無量寺に祀ったという伝説があります。これは巻物に残っているそうです。

小さいながら木造の美しい建物です。
実際のところ、この十一面観音は行基の作といわれています。観音様は十二年に一回、午(うま)の年に開帳されるそうです(2014年、2026年、2038年)。タイミングが合えば是非と言いたいのですが、ちょっと気の長い話になりますね。
説明文にある観音講とは、お十夜の時に集まり、説法を行う宗教行事になります。が、緩い感じの行事で、そのまま寺に泊り込んで、酒を酌み交わしたり、踊りをしたりして過ごしました。娯楽の少ない時代だったので、ストレス解消のリクリエーションを兼ねた行事となっていたようです。
その日には、境内に古着の市や夜店が並び、冬の前の農民の楽しみとなっていました。太平洋戦争前まで熱心な講中の人々によって行われていましたが、戦後になると下火になっていったようです。

境内の隅にありました。等々力不動同様に草木の多いお寺です。
紹介文にある近くの小学校チャイムとは、すぐ裏手にある京西小学校のことです。この京西小学校は伊藤博文が命名し、明治12年に開校したことで知られています。東京の西にある学校という意味・・・ってそのままですね。
もともとは玉川台にある玉川台図書館付近に建てられていたのですが、暴雨風のために校舎が壊れ、真福寺を仮校舎とした後、昭和13年にこの場所に移ってきました。
2、桜とイチョウの紅葉の時期の境内

本数は多くありませんが、桜の時期は境内が華やかな感じになります。
無量寺の境内や門前には桜が植えられていて、桜の時期は少し華やかな感じになります。
門前付近に数本、境内に数本といった感じです。本数的には多くありませんが、大きな寺ではないので、お寺と桜を楽しむといった風情を楽しむのにはちょうどいいといった感じです。

観音堂の前に大きな桜の木があります。
砧公園に続く用賀プロムナードからもすぐそばなので、桜だらけの砧公園に行く前に少し風情を楽しむのもいいかもしれません。
逆に砧公園の帰りだともう桜はいいとか、桜が物足りないといった感想になってしまうかもしれません。

真ん中に銀杏の木が聳え、地面がイチョウの絨毯となってしまうことも。

道路側にもう一本イチョウの木があり、2本のイチョウがそびえています。
無量寺といえば大銀杏の木。境内の真ん中にそびえるようにして存在していて、駅前に100mの高層ビルが建つ前は、とても目立っていたと思います。
境内に入ると、真ん中にある背の高い木に目がいってしまいイチョウの木が一本聳えているといった感想になりますが、もう一本道路側に少し小さめの木があるので、無量寺には2本のイチョウの木がそびえていることになります。

光の当たっている時間に下から見上げると美しいです。
イチョウといえば紅葉となるのですが、下枝がなく、葉が上の方しかないので、なんか中途半端な感じです。
というより思いっきり見上げないと紅葉が楽しめません。こんなに首が疲れるイチョウも珍しいです。
ただ下から思いっきり光を浴びて紅葉しているイチョウの葉を見上げると、けっこうきれいです。これはこれでお勧めとなるでしょうか。
3、感想など

これは六面六地蔵となるのでしょうか。石仏の多いお寺です。
場所柄というか、間口の狭さというか、元々あまり存在感のなかった無量寺ですが、駅周辺の再開発で高層ビルが建ち、現在では隣(墓地側)には大きなスーパーができ、より影が薄くなってしまった感じです。
墓地側の通りは、用賀プロムナードといって砧公園まで続く遊歩道っぽい道になっています。スーパーができる前までは空き地だったり、レンタカー会社だったり、駐車場だったりと、墓地の横のプロムナードは薄暗く、冬などは壁に立てかけられた卒塔婆がバタバタと音を立てて揺れ、ほんのりゲゲゲの鬼太郎の世界でした。
お寺があるんだと身にしみてプロムナードを通っていたのですが、今では明るくなってしまったので、そんな気配さえもなくなってしまいました。時々線香の匂いが漂ってくるときに思い出す程度です。
あまり存在感のあるお寺ではありませんが、桜とイチョウの季節は境内が少しいい雰囲気になりますので、砧公園に向かう途中、無量寺に寄り道してみてはどうでしょう。
せたがや百景 No.84用賀観音の無量寺 2025年5月改訂 - 風の旅人
・地図・アクセス等
・住所 | 用賀4丁目20-1 |
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・アクセス | 最寄り駅は田園都市線用賀駅。 |
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