喜多見慶元寺界わい
せたがや地域風景資産 #2-28喜多見・歴史の道、慶元寺・氷川神社界わい
喜多見4-17-1(慶元寺)江戸氏の祖を弔って建立されたといわれる。江戸氏は皇居のあたりに居を構えていたが、家康が江戸築城のおりこの地に退き姓も喜多見と変えた。江戸氏追善の塔がある。広い寺域に沿う小道は、奥多摩から多摩川を下った筏師が歩いて帰ったという「いかだ道」で、ところどころにのどかな郊外の風景を見ることができる。(せたがや百景公式紹介文の引用)
1、江戸氏と慶元寺

*国土地理院地図を書き込んで使用
世田谷の左端、狛江市に面して喜多見の町があります。昭和の時代には、屋敷林や畑が多く存在し、のんびりとした雰囲気のある地域でしたが、地価の高騰とともに宅地化が進み、現在では郊外の静かな住宅地といった土地柄になっています。
喜多見の隣にある町域は、天下に名だたる高級住宅地、成城。全国にその名が知られています。実は、成城は昭和初期に喜多見から分裂してできた町だったりします。
かつての成城は、喜多見の東の端ということで「東之原」と呼ばれ、宅地開発が行われる前の大正時代には、農家が数軒しかないといった閑散とした土地だったというから驚きます。
今では成城は全国的な知名度を誇る人気の住宅地。その一方、喜多見は大きな商業圏でなければ、世間一般的に名の知れた有名なものがあるわけでもなく、世田谷区の端といった場所柄、区内でも影の薄い場所・・・といった印象です。
しかしながら、喜多見の郷土史や文化を調べていくと、江戸という地名のルーツがあったり、かつては喜多見藩があったり、古くからの伝統的な風習が多く残されていたりと、なかなか興味深い土地であると感じます。

徳川時代の城で、中を見学することもできます。
まず、江戸という地名のルーツになっていることに触れましょう。江戸というのは、現在の皇居を中心とした地域の事で、江戸の地名の起源は、現在の日比谷辺りが東京湾の入江だったことから、「入江の戸口」と呼ばれていて、それを略して江戸となった説が有力なようです。
その江戸を治めていたのが江戸氏だったのですが、もともとは武蔵平氏の名門である秩父氏の流れに属していて、12世紀の初めころに大手町付近に城郭を構え、地名を取って江戸氏と名乗り始めたようです。江戸氏一族は東京全体に広がって、豊島氏らとともに一世を風靡しました。

江戸氏の2代目。鎌倉幕府の記録である「吾妻鏡」に何度もその名が出てくる人物です。
近代人にも見えますが、狩姿を表しているそうです。
その江戸氏は、源頼朝に助力し、鎌倉幕府の樹立に尽力した功で、喜多見を含む武蔵七郷を賜りました。喜多見には庶流(母方の実家)の一族が暮らし、この地を治めたとされます。
しかし、室町時代になると、関東の内乱で太田道灌が台頭してきて、1457年には江戸の地を道灌に譲る形で明け渡し、一族がいた喜多見に移り住みました。
その後は、後北条家(小田原北条氏)に属し、世田谷を治めていた吉良氏の配下に入り、重臣として活躍しました。

江戸氏の古い位牌などが残っています。
天正18年(1590年)、北条氏や吉良氏が滅亡すると、徳川家康の配下に加わり、関ヶ原や大坂の陣に参加したことで、喜多見村500石を安堵され、旗本となります。この時に江戸を本拠とし、江戸幕府を開いた徳川氏に遠慮して、母方の姓である喜多見に改めました。
その後、喜多見重政の代、五代将軍綱吉の時代になるのですが、御側小姓、側用人とどんどん出世し、結果2万石の大名となり、この地に武蔵国喜多見藩を興しました。
将軍綱吉といえば、犬将軍の肩書がふさわしい人物。生類憐れみの令を行ったことがよく知られています。綱吉に寵愛された重政は、犬大支配役に任命され、喜多見に犬小屋を建設したとされていますが、その場所や真偽は定かではありません。
喜多見藩が始まってから約3年後の元禄二年(1689年)、分家筋の喜多見重勝(茶道の達人で成城三丁目のお茶屋坂は彼の茶室があった事で名付けられたもの)の子、重治が、妹婿である朝岡直国を殺害し、斬罪となりました。
その後に下された定は、藩主である重政にも責任があると判断され、喜多見藩の廃止といった厳しいものでした。この件については、柳沢吉保による陰謀など様々な説があり、真相は定かではありませんが、それにしても約3年間とは・・・、あまりにも短命な喜多見藩でした。

増上寺の法主椎尾弁匡による書です。
と、前置きが長くなりましたが、その江戸氏の菩提寺がこの項目の慶元寺となります。正式には永劫山華林院慶元寺といい、浄土宗京都知恩院の末寺にあたり、本尊は阿弥陀如来座像です。
創建に関しては、文治二年(1186年)に、江戸氏2代目の江戸太郎重長が現在の皇居内に位置する紅葉山に開基した寺が始まりで、当時は天台宗の岩戸山大沢院東福寺と号していたようです。
重長に関しては、鎌倉幕府の記録である「吾妻鏡」に何度もその名が出てきていて、三浦一族との戦いに出兵していたり、その勢力が強かった事が書かれています。
室町時代になると、急激に勢力を伸ばしてきた太田道灌に江戸を明け渡し、喜多見に移り住むことになりますが、その時に菩提寺である東福寺も一緒に移転してきました。
天文九年(1540年)、真蓮社空誉上人が中興開山し、その時に浄土宗に改められ、現在の永劫山華林院慶元寺と改称されました。

区の史跡に指定されています。
徳川の世の中に変わるころ、江戸幕府を開く徳川家に配慮して江戸から喜多見に改姓しました。その初代となる喜多見若狭守勝忠が、文禄二年(1593年)に慶元寺の大改修を行っています。
江戸時代になると、寛永十三年(1636年)に、徳川三代将軍家光公より寺禄10石の御朱印地を賜っています。以降、元禄6年(1693年)にお家取りつぶしになるまで、喜多見家の菩提寺として守られてきました。
墓地内には江戸氏、喜多見氏の墓があります。史跡となっている墓所には、中央の奥に江戸氏初代江戸四郎重継(文治元年10月23日没)、二代江戸太郎重長(嘉禄元年8月12日没)の五輪塔があり、そして両側に歴代の墓が並んでいます。
さすがにお家断絶となってしまったので、大名家の墓所としては狭く、寂しい感じです。ちなみに、お家断絶後、家臣たちは喜多見で土着し、農業を始めました。江戸氏の墓地を囲むようにかつての重臣たちの家系の墓が配置されているようです。
2、慶元寺の境内について

とても雰囲気のいい参道です。
昭和になって急速に宅地開発が進んだ世田谷は、人気の住宅地となり、戦後に更なる開発を呼び込み、今では開発できる土地は少なく、地価も高騰しています。そんな世田谷では、有名な寺社以外、神社やお寺の参道が宅地化されたり、住宅地に埋もれてしまっています。
しかし、ここ慶元寺や、お隣の喜多見氷川神社は、豪徳寺や九品仏浄真寺のような知名度がないものの、参道が世田谷区の中でも立派というか、昔の雰囲気のままで残っています。
慶元寺の参道は約80mほどあり、参道の両脇には杉が多く植えられています。杉がうっそうと茂っている様子はとても美しく、ここだけ切り取ると、まるで山中にある古刹といった雰囲気です。
長い杉の参道を進んで行くと、山門の手前に江戸氏の2代目、江戸太郎重長公の銅像が設置されています。1186年に慶元寺の前身である東福寺を江戸の紅葉山に開山した人で、昭和60年(1985年)11月3日に、慶元寺の開山800年を顕彰してこの像が建てられました。
鎌倉時代の人になり、銅像は狩姿を表しているそうですが、私的にはどうにも明治時代の人に見えてしまいます・・・。

趣のある山門と桜はよく似合います。
参道の正面には立派な山門があります。宝暦五年(1755年)に建立されたもので、昭和50年に改修されました。頭上には永劫山の扁額が掲げられています。
喜多見陣屋の門だったという言い伝えも残っているそうですが、これはあくまでも伝承で、今のところその確たる根拠は見つかっていないようです。
この門の脇には立派な桜の木が植わっていて、春には山門と桜で絵のような素敵な光景となります。春の季節にぜひ足を延ばしてみてください。

区内の寺では最古の建物です。大きく傾斜のきつい屋根が特徴的です。
山門をくぐると、正面に本堂があります。とても屋根が大きく、重厚感のある建物です。手入れが行き届いているので、新しい時代の建物にも見えますが、享保元年(1716年)に再建されたもので、現存する世田谷区内寺院の本堂では最古の建造物となるようです。
本堂内には、一族の霊牌や開基江戸太郎重長と寺記に記されている木造が安置されています。正月や行事の時に見学することができます。

前庭を含めて美しい建物です。
本堂横にある庫裡も本堂に引けを取らない建物で、屋根の複雑さと重厚感が美しです。近年修復が行われたので、部分的に新しい木材が使用されています。
庫裡の奥にある庭園部分には、喜多見古墳群中の慶元寺三号墳から六号墳まで四基が現存していますが、普段は公開されていません。花まつりなどのイベント時に見学できます。
その他、境内にある鐘楼堂は宝暦九年に建立されたものを戦後改修したものになります。

墓所の入り口に祀られています。

墓所を見守っています。
山門の右手には墓地が広がっています。入り口には六地蔵が祀ってあり、その横には念仏車が設置されています。
その正面には無縁塔や水子地蔵が祀られています。墓地内には、前述した史跡となっている江戸氏(喜多見氏)の墓所があります。

背景を含めて美しい塔です。
墓地の奥には、一際目立つ三重の塔が建てられています。塔のてっぺんの相輪が金ぴかに光っているのが印象的です。この塔は平成5年に建立されました。
境内のケヤキなどの木々を背景にするととても絵になっています。また、境内の外、稲荷塚古墳辺りから畑の背後に存在する様子も素敵で、せたがや地域風景資産に選ばれています。

慶元寺に面してあります。楽しそうな感じの幼稚園です。
境内の一角、喜多見中学校や喜多見緑道に面するように慶元寺幼稚園があります。本堂や庫裡の重厚な建物とは一転し、とってもメルヘンチックな建物があり、その対比が面白く感じます。
お寺の堅苦しい建物よりは、こういった楽しそうな建物の方が子供たちも通うのが楽しいことでしょう。慶元寺で行われる春の花まつり、夏の盆踊りにはここの園児たちが参加し、賑わいをもたらしてくれています。
ちなみに、幼稚園には桜が多く植わっていて、幼稚園の前にある喜多見緑道にも桜が植えられているので、春の時期訪れると普段よりも一層楽しそうな雰囲気になります。
3、慶元寺の行事

喜多見での行事案内は黄色い紙が使われることが多いです。
慶元寺では、春にはお釈迦様の誕生を祝う花まつり、夏には先祖の霊を慰める御霊まつり(盆踊り)、秋には十夜法会が行われたりと、様々な行事が行われています。
花祭りは、訪れた時間は晴れていたのですが、午前中に降った雨によって中止となっていて見学できませんでした。ちょっとの雨でも中止になってしまうようです。当日は、園児による白象のお練り供養や人形劇、甘茶や団子の接待があるようです。
* みたままつり *

本堂に引き続き、墓地へ向かう前に法要が行われます。

僧侶の列が墓地を回ります。

子供たちが楽しそうに踊っていました。
夏のみたままつりでは、法要、墓施餓鬼、盆踊りと、三つの行事が行われます。法要は最初に本堂で行い、そのあと境内にある太平洋戦争の慰霊塔などで行われます。
墓施餓鬼は、僧侶がお経をあげながら墓地を回る行事で、その時に代表の檀家さんが餓鬼畜生に施す米などをまいて歩き、一般の檀さんが墓地で手を合わせて通り過ぎるのを待ちます。薄暗い時間帯に行われるので、行事の名前通りに少し不気味な雰囲気です。
盆踊りは、誰でも参加できるものではなく、お隣の幼稚園の園児によるものです。可愛らしい浴衣姿の園児が踊る姿はほのぼのとしていいものです。
* 十夜法会 *

杉並木の参道を進む様子はとても趣があります。

23区内とは思えない風景です。
十夜法会とは、毎年11月24日に行われる浄土宗独自の法要で、御仏や御先祖に秋の穣を供え、報恩感謝を表します。
法会では念仏行進と双盤念仏が行われます。念仏行進は、講によるもので、法衣をまとって念仏を唱えながら喜多見を回ります。知らないで遭遇すると、いくら喜多見とはいえビックリするようで、何これ~と立ち止まる人も多いです。
行列がお寺に戻った後に農産物の無料配布も行っていて、そちらも人気があります。


区の無形民俗文化財に指定されています。
双盤念仏は、双盤という打楽器を使用する念仏のことで、太鼓一人、平鉦(双盤)4人が組になり、太鼓打ちが音頭を取り、鉦張り4人と共に調子を合わせて「引声念仏」を合唱します。
掛念仏とも言われ、独特の音色というか、阿波踊りとお囃子を足して適当に割ったような感じというか、なかなか面白い念仏です。
江戸時代に奥沢の九品仏浄真寺から伝わり、昭和初期に一時廃れましたが、昭和49年に地元の人達によって復元されました。現在では、この十夜法要と、大晦日に行われる仏名会で演奏されています。
近年では双盤を行える人が少なくなり、とても貴重な文化財となっています。平成4年には区の無形文化財に指定されています。
4、慶元寺界隈といかだ道

歴史を感じる通りです。
慶元寺の界隈は、せたがや地域風景資産に幾つか登録されています。正直言ってやり過ぎといった感もありますが、「慶元寺三重塔の見える風景」は、慶元寺の東側にある稲荷塚古墳から見た五重塔の風景で、「畑の間の土の道」は、慶元寺の北側を通る土の道で、この畑の一部は先にあげた稲荷塚古墳から見える畑と被っています。こちらは歴史的な価値よりも、農業のある景観が主題となっているので、別の項目に記載しています。
そしてもう一つが、「喜多見・歴史の道 慶元寺・氷川神社界わい」で、慶元寺と西隣にある氷川神社を含めた一帯ということになります。
江戸氏の菩提寺である慶元寺、そして江戸氏が再興した氷川神社は、古くから喜多見の文化の中心的存在であり、地域の人々の崇拝を集め、伝統や文化が守られてきました。
参道が古くからの状態を維持しているのはその象徴で、この界隈は比較的開発から免れていて、落ち着いた印象を受けます。

白壁と樹木。ちょっと変った風景です。
特に目を引くのが、慶元寺を囲んでいる白い塀と樫の並木がある風景。白塀に引っ付くように並んでいる木々は、少し窮屈にも見えますが、なかなか面白い景観です。
その慶元寺と氷川神社との間の道は、両寺社の敷地の木がうっそうと茂っていて、世田谷らしからぬ風景というか、「喜多見・歴史の道」と名付けられている通り、世田谷で一番歴史を感じる道となっています。
* いかだ道 *

樹木が多く、味のある小道です。
百景の文章には、「いかだ道」についての記述があります。江戸時代、奥多摩で伐採した木を江戸の町に運ぶのに、多摩川を利用して流していました。
今の感覚だと、「えっ、どういうこと?」となるのでしょうが、昔の多摩川にはダムもなければ、堰もなく、水量も豊かだったので、枝を落とした丸太を筏のように束ね、それに筏師が乗って川を下っていました。
河口付近の六郷に材木の集積地があり、奥多摩からだと3~4日かかったそうです。木材を無事に運び終えると、筏師は再び奥多摩に帰っていくわけですが、現在のようにバスや電車に乗って・・・という訳にはいかないので、なるべく最短距離になるように多摩川沿いを歩いて帰っていました。
その道筋が筏道といわれているものです。道沿いには筏師が利用した食堂や簡易宿が所々にありました。
ちなみに、この筏道は比較的高台を利用した道でした。川が増水すると、道が使えなくなってしまうからです。このことから考えると、川の水が多い時、いわゆる雨の多い時期に活発に木材が流されていたのでしょう。

おもしろ案内板です。でもわかりにくいです。
実際に筏道が栄えていたのは大正時代までで、鉄道や車といった交通の発達によって大正末期には木材のいかだ流しは行われなくなりました。
いかだ道は今でも多摩川沿いのあちこちに残っているので、そんなに珍しい存在ではありませんが、このいかだ道と水道道路を覚えると、迷路のように入り組んだ喜多見で迷う事が少なくなります。
5、感想など

古びたタッパに埃まみれの猫たち。風情があって好きです。どこにいるか探してみてください。
喜多見にある慶元寺は、喜多見藩主であった喜多見氏の菩提寺になります。喜多見藩といっても、たった3年で取りつぶしとなってしまったので、痕跡となる史跡的なものは特に残っていませんが、はかなく消えてしまった喜多見藩の存在に思いを巡らせながら訪れると、何か歴史的なロマンを感じたりします。
また、駅から離れた慶元寺や氷川神社周辺、筏道沿いには比較的畑が多く、落ち着いた環境が残っています。この界隈を歩くと、昔ながらといった風景も所々で目にし、心地よい散策ができることでしょう。
ただ、この界隈は道が非常に分かりにくいです。ここ喜多見は開発されたのが遅く、耕地整理も行っていないので、慣れないとすぐに迷子になってしまいます。でも、迷子になって発見することも多い土地なので、時間を気にせず、気ままに歩くのがお勧めです。
せたがや百景 No.60喜多見慶元寺界わい せたがや地域風景資産 #2-28
喜多見・歴史の道、慶元寺・氷川神社界わい 2025年5月改訂 - 風の旅人
・地図・アクセス等
・住所 | 喜多見4丁目17−1 |
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・アクセス | 最寄り駅は小田急線喜多見駅。駅から少し離れています。 |
・関連リンク | 喜多見ポンポコ会議、喜多見慶元寺双盤念仏行事(世田谷区) |
・備考 | 双盤念仏行事は区の無形民俗文化財。喜多見(江戸)氏墓所は区史跡。 |