喜多見氷川神社と梼善寺跡
喜多見4-26-1一千年以上も前の創建と伝えられている。境内は保存樹林地となっており、昼なお暗いほどうっそうとし、野鳥も多い。長い参道をたどって社殿に至るが、村の鎮守の杜の姿そのままだ。ここに伝わる里神楽は区内の貴重な民俗芸能の一つとなっている。(せたがや百景公式紹介文の引用)
1、喜多見氷川神社の昔のこと

*国土地理院地図を書き込んで使用
世田谷の最果てというか、喜多見の奥深くというか、細い道のあちこちに設置されている「喜多見氷川神社→」といった案内板がなければ辿り着けないような奥まった場所に、喜多見の氏神、喜多見氷川神社があります。実際、境内に隣接する道が区境となっていて、道を挟んだ先は狛江という立地だったりします。
喜多見といえば、短期間だったとはいえ喜多見藩があった由緒ある土地です。また、「江戸」という地名の由来ともなった江戸氏が暮らし、後に喜多見(木多見)氏と姓を変えたという歴史もあります。
そういった土地柄によるものか、古くからの風習が多く残り、また独特の文化もみられ、世田谷の中でも少し趣きが異なる地域といった感じがします。

喜多見には落ち着いた雰囲気の通りが多いです。
喜多見の文化の中心であり続けたのが、古くからこの地にある喜多見氷川神社と、隣接する江戸・喜多見氏の菩提寺である慶元寺で、この周辺は今なお多くの緑が残り、世田谷らしからぬ落ち着いた環境が残っています。
喜多見氷川神社は、隣の町域にある大蔵氷川神社と宇奈根氷川神社と三所明神という関係(密接な関係性)になっていて、言い伝えによれば天平十二年(740年)に創建されたとの事です。
ここ喜多見、そして隣接する狛江には多くの古墳が存在しています。これらの古墳は、野毛にある野毛大塚古墳を造った土着の勢力の後に栄えた人々のものだとされています。その人々は畿内から移植してきた人々で、強い文化と鉄の武器を持っていたようです。

5世紀末頃の古墳。須賀神社横にあります。
最初は野毛に暮らす土着の人々とうまく手を結び、馬を生産し、畿内へ運んでいたそうですが、そのうち手を結んでいても面倒が増えるだけだと感じたのか、対立が起きてしまったのか、勝てるだけの戦力や村の規模が整ったからなのか、そのへんははっきりしませんが、土着の勢力を滅ぼし、多摩川からこの付近一帯の実権を握ったとされています。
古くから人々が暮らし、しっかりとした文化圏を形成していた土地ということを考えれば、740年という昔に多くの人々に崇められる神社がこの地に存在していても何の不思議もありません。

大きく弧を描き、崖が削れたような地形をしています。
とはいえ、とても古い時代のこと。実際はどうだったのか、どのような規模で存在していたのかは、不確かです。実は、延文年間(1356~1360年)に起きた多摩川の洪水で、神社、そして古文書などの一切が流失してしまったという話です。
この時に神社があったのは、宇奈根の多摩川沿いの龍ヶ渕(竜王淵)だったと言われています。現在の竜王公園がある付近の多摩川沿いなのですが、その当時、この付近の多摩川沿いには高い崖があり、とても神秘的な場所だったようです。
この洪水を機に、洪水の被害を受けにくい現在の喜多見の地に移ったとされています。当時にしてみれば宇奈根も喜多見もなく、この付近は狛江郷だったようですし、現在のように東名高速で宇奈根と喜多見の町域が分けられていたわけではありませんので、地域内でちょっと場所を移したといった感覚だったのかもしれません。

空襲で焼失したので、新しい感じの神社です。
ただ、面白い伝承が宇奈根にあって、鎌倉時代に多摩川の上流から龍ヶ渕(竜王淵)に三人の兄弟が流れ着き、その三人が宇奈根、喜多見、大蔵の氷川神社に祀られたとか伝えられています。
この三人の兄弟は有力な部族で、西から一族でこの地域にやってきて、この地を治め、それぞれ神社を建てたと考えるのが妥当でしょうか。これらの神社は同じ木から御神体をつくったといった伝承もあるので、洪水を機に三社の代表である一の宮を、今までの宇奈根から喜多見へ移したとも考えられるかもしれません。

三社の中で唯一高台にあります。
大蔵の方にも古い言い伝えがあり、大蔵出身で幕府の書物奉行にもなった石井至穀の書いた「大蔵村旧事項」によると、宇奈根に大己貴尊(一の宮)、大蔵に素戔嗚尊(二の宮)、北見(喜多見)に奇稲田姫(三の宮)、石井戸大神宮に手摩乳(四の宮)、岩戸八幡(狛江市)に脚摩乳(五の宮)が勧請されたとあります。
大蔵氷川神社には多くの棟札が残っていますが、その中に永禄八年(1565年)の「武蔵国荏原郡石井土郷大蔵村氷川大明神四ノ宮」と記されている棟札があります。石井戸のものを保管していたとするならつじつまが合いそうです。
こういったことから推測すると、昔は宇奈根にある氷川神社が一番の格式があり、洪水を機に移動した。或いは、江戸氏が喜多見に腰を据えてから喜多見の社が手厚く保護されるようになり、影響力が強くなったとも考えられます。

江戸氏の2代目。鎌倉幕府の記録である「吾妻鏡」に何度もその名が出てくる人物です。
色んな寺社の歴史を紐解いていくと、大きく、知名度のある寺社は権威のある有力者の庇護を受けているものが多いです。例えば、区内の世田谷八幡宮は、室町、戦国時代に吉良氏の庇護を受け、豪徳寺は江戸時代に井伊家の庇護を受け、松陰神社は萩藩や明治政府の庇護を受けて大きくなりました。
喜多見を江戸氏が治めるようになったのは、江戸氏が源頼朝に助力し、鎌倉幕府の樹立に尽力した功によって喜多見を含む武蔵七郷を賜ってからです。
江戸氏の本家は江戸城、いわゆる東京の真ん中に居城を構え、江戸氏一族は東京全体に広がって、豊島氏らとともに一世を風靡しました。
喜多見には庶流(母方の実家)の一族が暮らし、この地を治めたとされます。しかし、室町時代になると関東の内乱で太田道灌が台頭し、1457年には江戸氏は江戸の地を道灌に譲る形で明け渡し、一族がいた喜多見に菩提寺(慶元寺)ごと引っ越しました。以降は喜多見で世田谷城の吉良氏の重臣として活躍することとなります。
喜多見氷川神社のはっきりとした記録が残っているのもこの頃、厳密に言うと吉良氏が衰退し初めてからで、永禄十三年(1570年)にこの地の領主江戸刑部頼忠(後の喜多見氏)が社殿を修復し国家安泰、武運長久を祈願したという棟札が残っています。
伝説はあくまでも伝説。様々な解釈ができてしまうものです。古い時代のことなので、実際はどうだったかははっきりしませんが、時代背景や事実を並べて色々と推察してみると面白いものです。
2、喜多見と喜多見氷川神社について

戦国時代に関東一帯を支配していた小田原の北条氏、その実質配下であった世田谷の吉良氏が滅亡すると、江戸・喜多見氏は徳川家康の配下になります。
関ケ原の戦いの後、徳川の治世になると、江戸氏は徳川家康に喜多見村500石を安堵され、旗本となります。この時、江戸幕府を開く徳川氏に遠慮して、江戸から喜多見と姓を改めたとされています。
そして、喜多見氏となった初代の喜多見勝忠(江戸刑部頼忠の孫)が、氷川神社に神領五石二斗を寄進しています。
慶安二年(1649年)には、三代将軍徳川家光より10石2斗の朱印状を賜っています。これは別当寺の祷善寺に対してです。

大きなイチョウの木の下に石碑があります。
祷善寺は、祷善寺跡と百景のタイトルになっている通り、現在では存在しません。一の鳥居から出て左に50m程進んだ角に大きく立派なイチョウの木があり、その下に祷善寺跡という石碑が設置されているだけです。
祷善寺は氷川神社の別当寺でした。別当寺というのは、神仏習合が行われていた江戸時代以前、神社を管理するために境内、もしくはすぐそばに置かれた寺のことです。戸籍等の管理を兼ねていたそうです。
しかし、明治に入ると、前時代的な風習を廃止し、また寺社の権力をそぐために明治政府によって神仏分離令が発せられ、寺は寺として、神社は神社として存在しなけれなばらなくなりました。
その際、この祷善寺は廃寺となり、祷善寺に祀られていた本尊の薬師如来像などは、近くの知行院に安置されたそうです。

喜多見小学校発祥の地、梼善寺跡の碑と刻まれています。
「祷善寺跡」の石碑の側面には、「喜多見小学校発祥之地」という文字も刻まれています。
これは、明治の初め頃に祷善寺に寺小屋ができ、後に喜多見学校(小学校)となりました。明治35年には近くの朝陽学校と合併して砧尋常高等小学校となり、明治40年には現在の砧小学校がある場所に引っ越しました。

*国土地理院地図を書き込んで使用
時代が昭和になると、小田急線の開通によって爆発的に周辺人口が増えていき、砧小学校から次々と小学校が分離独立していきました。
そして昭和40年代になると、駅から遠く畑ばかりだった喜多見1~5丁目付近にも宅地化の波が押し寄せ、昭和47年に東名高速近くにある現在の喜多見小学校が開校しました。喜多見の人にとっては喜多見小学校が再び戻ってきたといった待望の気持ちでの開校だったようです。

世田谷区有形文化財に指定されていて、都区内では最古の部類の鳥居です。
氷川神社に話を戻すと、承応三年(1654年)に喜多見重恒、重勝兄弟(勝忠の子)が銘文を刻んだ石の鳥居を寄進していて、これは今に残っている二の鳥居です。
世田谷区に現存する最古の石鳥居となり、また明神鳥居という形式や白雲母花崗岩という材質が特異な為、世田谷区指定有形文化財に指定されています。
鳥居を寄贈した重恒は、延宝7年(1679年)6月21日に死去し、その後を継いだのが外孫の喜多見重政になります。
重政はとても優秀な人物で、徳川綱吉の御側小姓となり、2000石加増されたのを皮切りにどんどんと出世していきました。所領も加増していき、貞享3年(1686年)に河内・武蔵国内において1万石を加増された事で、合計2万石となり、小規模ながら大名(1万石以上の所領を持っている武士)となりました。
そして喜多見に陣屋を置いて、喜多見藩を立藩しました。しかし、3年後の元禄2年(1689年)2月、分家筋であった喜多見重治が江戸城で義弟の朝岡直国と刃傷事件を起こし、藩は消滅。以後、喜多見は天領、旗本領(安藤氏)、寺社領の相給村として明治を迎えます。

平成2年に再建された新しい建物です。
明治2年、喜多見村は品川県の管轄となり、明治22年には市町村制が施行され、周辺の大蔵、宇奈根、鎌田、岡本の4村と合併し、砧村となります。喜多見氷川神社も大きく変っていき、明治6年(1873年)には村社に指定され、同17年(1884年)に郷社に昇格します。
明治39年に明治政府から発せられた神社の合祀令に則って、同42年、近隣の神明社などが合祀されました。
大正11年から社殿の改築が始まりましたが、途中、関東大震災のために中断。大正15年(1926年)になって立派な社殿が落成しました。
しかしながら昭和63年(1988年)不慮の火災によって、社殿などが焼失。現在の立派な木造社殿は、平成2年(1990年)に再建されたものです。

長く緑豊かな参道です。
現在の喜多見氷川神社は、喜多見の一番奥、狛江市に面した形で立地しています。喜多見駅の方から訪れると、直接本殿の方へ入ってしまいますが、きちんと正面の参道から入ると、「なんて素晴らしい参道だろう。世田谷にもこんな神社があったんだ。」といった感動を少なからず覚えるはずです。
それは、「なんて立派な参道だろう」といった感動よりも、なんて自然的で素朴な参道といった類の感動のはずです。区内では九品仏の参道はきれいに整備されて美しいし、豪徳寺の参道の松並木も慶元寺の杉並木も風情があります。でも、ここのものは自然そのもので、純粋に人が通るためだけの参道であり、周りは自然な雑木林・・・いや神木が生い茂る聖域となっています。
この風景は昔からほとんど変わっていないはずです。この状態で維持している事が素晴らしいし、この神社の良さではないでしょうか。手狭な感じの世田谷の神社ばかりを見慣れていると、この参道がこの神社の一番の良さだと感じてしまいます。

鳥居の横にあります。
参道の始まる一の鳥居付近には忠魂碑と二枚の大きな戦没者慰霊碑の板碑が建っています。これらは明治39年、昭和4年、昭和54年に建立されたものです。
古いものは日露戦争での戦死者に対するもので、新しいものは太平洋戦争の戦死者や空襲の被害にあった方のものと思われます。
お隣宇奈根には戦時中に工場があったことから大きな空襲を受けています。その余波で喜多見も少なからず被害が出ています。

とても雰囲気がいいです。
一の鳥居から参道を進むと二の鳥居があります。小さな石鳥居で何時も棒状のしめ縄が掛けられています。これが世田谷区に現存する最古の石鳥居で、世田谷区指定有形文化財に指定されています。
この鳥居をくぐると参道の左右に石灯ろうが並んでいます。古いものは嘉永二年(1849年)奉納とあり、さりげなく台座などの彫り物が美しいものも混じっています。この付近の参道の横は竹林になっていて、石灯篭と竹林の様子や竹林からこぼれてくる光の様子がとても美しいです。

付近より出土したものだとか。環状列石だったのでしょうか。
灯ろうの横には屋根付で棒状の石が祀られています。その形は・・・男性器で、これは付近から出土したものだとか。もちろん子孫繁栄の立石大神様となっていて、祭礼の時には卵がお供えされます。祀られ方からすると、古代の環状列石を連想してしまいますが、石を見ると新しい時代のような気もします。
この石の反対側には龍石がありますが、これは近年氏子が奉納したものだとか。何か特別ないわれとかあるのでしょうか。また手水舎の水盤は文化十二年(1815年)に奉納されたもので年季を感じます。

末社6社と稲荷社が社殿横に鎮座しています。
参道が終わると拝殿が正面にあります。立派な建物なのですが、残念ながら歴史を感じさせるものではありません。それは昭和63年(1988年)に不慮の火災によって焼失してしまったからで、現在の木造社殿は平成2年(1990年)に再建されたものです。
もし火災に遭わなければ、1803年建立の社殿が奥殿で、大正15年に新築された建物が拝殿となっていたようです。
社殿左脇には、境内社の末社6社の合社と稲荷社があります。手前の小さい社が稲荷社で大きな方に天神社、大山祇神社、月讀神社、出雲神社、大鳥神社、祖霊社が合社されています。
拝殿の右には社務所が続き、一番端に立派な神楽殿があります。神楽殿は昭和41年に建てられたものです。祭礼の時にここで神楽などが演じられます。

豊作祈願として元旦に授与されます。
民俗、文化的なものも多く残っていて、後述する神前舞や節分行事などの民俗芸能は有名で、世田谷区の文化財にも指定されていますが、それ以外にも少し変った「アボヘボ」という郷土の風習も残っています。
これは喜多見、大蔵、祖師谷あたりに伝わる豊作祈願の行事となるようで、「アボヘボ」とは「粟穂稗穂(あわ穂、ひえ穂)」を意味し、冬至の日に神社に自生している接骨木(にわとこ)を梅の枝に刺してつくります。
それは元旦に授与され、年の初めに神棚・玄関などに飾り付けることで、言寿・子孫繁栄・商売繁盛・五穀豊穣・進学成就を神々に祈願するといった行事になります。
ちなみに、喜多見駅近くにある和菓子屋(心庵 梅むら)では、「銘菓アボヘボ」という信玄もちに似たような和菓子が売られていて、世田谷土産にもなっています。

水盤は文化十二年(1815年)に奉納された歴史あるものです。
すぐお隣の町域にある宇奈根と大蔵の氷川神社は三所明神の関係になっています。この二つの神社以外にも「祖師谷神明社」「砧三峯神社」「廻沢稲荷神社(千歳台)」「岡本八幡神社」「鎌田天神社」「諏訪神社」「須賀神社」といった神社は、ここ喜多見氷川神社の兼務社となっていて、神主さん(宮司)は全部で九つもの神社の神事を執り行っています。
秋祭りの季節になると、神主さんはあちこちの大祭に出向いて、大祭の儀式、神輿の儀式などを行わなくてはなりません。そういった意味でもこの地域の中心的な神社という事になります。
とりわけ秋祭りの神輿渡御では、近隣の地域から応援として20近い団体が訪れている事からも、世田谷区内でも歴史、由緒、格式、権威といった要素を兼ね備えている神社だと言うことができます。
3、喜多見氷川神社の節分祭

関係者が参道を参進して社殿へ向かいます。
喜多見氷川神社では、節分の時に「鬼やらい」の神事が行われています。「鬼問答」、その後に舞われる「大国舞」「恵比寿舞」が一連となった迫儺神事で、貴重な民俗行事として世田谷区の無形民俗文化財に指定されています。
喜多見氷川神社の節分祭は、神主や猿田彦、恵比寿様や大黒様、そして参列者が鳥居をくぐって参道を進むところから始まり、手水舎の水で清め、修祓を行い、社殿へ入っていきます。

参列者によって豆まきが行われます。
拝殿内では、秋祭りなどと同様に神前で神事が行われます。そして神事が進んで行くと、節分祭らしく参列者が拝殿の外に出てきて迫儺の豆まきが行われます。
この時、突然、赤・青・黒・白に色分けされた4匹の鬼が現れ、拝殿に上がってきます。参列者は慌てて拝殿内に入り、神主は入ってこようとする鬼の前に立ちはだかります。どうにか中に入ろうとする鬼ですが、神主が邪魔で入れません。そこで問答が始まります。

鬼が社殿に入ろうとし、宮司が立ちふさがります。

荒々しい様子で宮司と問答を行います。
鬼が荒々しく鹿杖で床をたたきながら「そこどけ、そこどけ」と言うと、神主が「不思議なるものみえて候、何者ぞ、名のり候らへ。早く名のり候らへ」と、冷静に尋ねます。
鬼が「それがしに候か?」と、トボケるものの、「早く名のり候らへ」と、神主はせかします。
赤鬼、青鬼が「見るも、聞くも、そら恐ろし。それ、赤き息 ほっとつけば、七日七夜の病となる。それ、青き息、ほっとつけば、疫病となる。よって節分毎に、まかりいで、人の命をねらい候。鬼は内と、声がした。よって、まかりいで候」と言うも、「言わぬ、言わぬ」と神主。
鬼達はたまらずに「腹ぺこだ、腹ぺこだ!」とわめくものの、「悪しき鬼どもだ。おのが住家にあらず。もとの山へ帰り候らへ。」と、神主はスルメを与えます。

正体を見破られ、追い払われます。
そして参列者一同で「それ追い出せ! 鬼は外、鬼は外・・・・・」と言い、桃の弓といり豆を投げて鬼追いをします。
鬼たちはたまらず「ゆるさせ給へ」と叫びながら逃げていきます。この時には観客も配られた豆を投げ、場は大いに盛り上がります。

鬼問答の後に行われます。
鬼が去ると、再び参列者や神主が社殿前に並び、今度は東の空高くに向かって「福は内」と豆をまきます。
すると、恵比寿神と大黒様様、ひょっとこが社殿へやってきます。社殿に上がると囃子・大拍子の調べにのって、恵比寿神とひょっとこによって「恵比寿舞」が舞われます。最後に大きな鯛を釣り上げて、にっこり恵比寿顔になります。

数は少ないですが、縁起物をまきます。
引き続いて、大国様によって祝詞が奏上され、小槌から縁起物をばらまきながら、目出度い舞を舞います。そして最後に三人で縁起物を撒き、一連の行事が終了します。
有名人来たり、お菓子が大量にばらまかれたりするような節分祭ではありませんが、こういった素朴で伝統的な神事もいいものだなと感じる節分祭かと思います。
4、喜多見氷川神社の秋祭りについて

境内にはお囃子専用の櫓が組まれます。
喜多見氷川神社の例大祭は、古くは9月18日に執り行われていたようです。理由は分かりませんが、後に9月27日に変更となり、昭和50年頃まで曜日に関係なくこの日に執り行われていました。この日は喜多見の学校も休みになったそうです。
その後、学校を休校にすることができなくなったり、会社勤めの人が多くなったりで、祭日の方が都合がいいということになり、都民の日である10月1日に祭礼日を移し、9月30日に宵宮、10月1日に本祭となりましたが、今では10月第三日曜日になっています。
まあ都民の日といっても、会社勤めの大人で休める人は多くなく、その辺の週末は付近の神社で祭礼が多く、多くの神社を掛け持っている宮司さんの都合上、周辺の祭礼が一段落した10月第三日曜日になったのではないかと思われます。
現在の祭礼は一日のみで、宵宮がありません。宵宮が行われていた時には、夜にお囃子の奉納が行われていたそうです。その名残でしょうか、今でもお囃子は大事にされていて、祭礼時には神楽殿の前付近にお囃子用の櫓が建てられます。

長い参道に多くの屋台が並び、多くの人でにぎわいます。

文化財が傷つかないかちょっと心配です。
祭礼が一日だけなので、関係者が色々と大変なのか、楽になったのかは分かりませんが、確実に大変そうだなと感じるのは、露店を出している人たちでしょう。
普段は閑静で美しい参道に露店がずらっと並ぶのですが、朝は祭礼が行われるので、昼頃の開店となり、その日の内に撤去しなければなりません。
結構客が来るので、一日だけとはいえ儲けにはなるのでしょうが、慌ただしい一日となりそうです。
露店の数はちゃんと数えていませんが、20店程度だったように思います。露店が並んだ参道を見ると、祭りといった雰囲気が出ていいものです。世田谷のこの付近の神社(宇奈根、大蔵、鎌田、岡本)では露店が並ばないので、よりそう感じるのかもしれません。

国旗掲揚から秋祭りが始まります。

雰囲気のいい参道を進み社殿へ向かいます。
祭礼は9時半から行われます。社殿前にある掲揚台に関係者一同が集まり、国歌斉唱と共に日の丸が掲げられます。それが終わると脇の参道から列をなして表参道に向かい、鳥居をくぐって参道を進みます。この時に忠魂碑、戦没者慰霊碑の板碑の前をわざわざ通るのが喜多見のこだわりでしょうか。
そして手水舎の前に設けられた神域(祓戸)で修祓を行います。修祓とは身に溜まった罪やけがれを祓戸で祓い清める神事です。本来は神前に上がる前に行うものですが、世田谷の多くの神社ではスペースの関係上、社殿の中で行っています。全部の祭事を見ていませんが、きちんと行っているのは世田谷八幡宮や稲荷森稲荷神社など限られた神社だけです。
修祓が終わると社殿に向かいます。ここからは普通の神事となりますが、喜多見氷川神社では神前舞が行われるのが特徴で、節分の時の鬼やらい神事と共に世田谷区の無形民俗文化財に指定されています。

須賀神社祭礼での榊の舞の様子。
神前舞は巫女舞から始まります。巫女舞は古くから氷川神社に伝わっている舞で、伝統的に三人で舞うのですが、今では年によって人数はまちまちです。巫女舞の後は本格的な神前舞が舞われます。
この神前舞は本来は二人舞で、五座で構成されています。一座が左手に幣束、右手に鈴を持った奉幣の舞、二座が左手に榊、右手に鈴を持った榊の舞、三座が左手に鈴、右手に扇を持った舞扇、四座が左手に弓、右手に鈴を持った弓の舞、五座が左手に太刀、右手に鈴を持った太刀の舞で構成され、舞は座である社殿の中を東西南北に移動し、四方固めを行うといったものです。
これは地の精霊を圧服する所作と考えられています。神前舞を行うのはお囃子も努める喜多見楽友会の方です。同じ喜多見にある須賀神社の夏祭りでも少し省略された形ですが、同じように神前舞が行われます。こちらのほうが開放的で見学しやすいかと思います。

夕方から神楽が奉納されます。

萩原社中によるものです。
昼から神輿が出ます。神輿も神幸行列といった古風なスタイルに則って行われます。神幸行列は広大な氏子町域を回るというよりは、各地域に設置された御酒所を回っていくといった感じで進んで行きます。
神輿が戻ってくるのは夕方。その少し前から神楽殿では神楽が舞われます。昔は地域の人が舞っていたのかどうかわかりませんが、現在では神楽を舞える人はいなく、外部の団体、訪れたときは新宿の萩原社中に来てもらっていました。
見物人は多くありませんが、古い神社で静かに神楽を見物でき、雰囲気はいいように感じます。ただ、神輿が戻ってくると、境内で直来の宴会が始まるので、しばらくはちょっと騒々しくなります。
5、秋祭りの神幸行列と神輿渡御

天狗を先頭に子供たちが押し寄せてくる感じです。
喜多見氷川神社の神輿渡御は、毎年例祭日の10月第三日曜日に12時から行われます。格式のある神社らしく、興味深い場面が多々ある神輿渡御や神幸行列です。
12時少し前に太鼓のお祓いが行われ、12時になると、神輿よりも一足先に太鼓の宮出しが行われます。
行列は、先頭に鉄棒2人、その後ろに猿田彦と付き人、御幣、神職、巫女、総代、大太鼓世話人、そして大太鼓となります。巫女さんは御酒所で舞を行ったりと忙しいので、不在の場合も多いです。
ぞろぞろと神社から出発していくのですが、子供の数が結構多いのに驚きます。でも、まだ序の口だったりします。

鯨幕を使用して隠します。
境内が少し静かになったところで、神輿の御霊遷し(入れ)が行われます。御霊遷しとは、神社に鎮座している神様を神輿に乗せる神事のことです。神輿とは普段神社にいる神様が町会を回るための乗り物、だから神の輿と書くのです。
神様というのは、人間が見ては恐れ多いもの。俗に神様を見たら目がつぶれてしまうとも言われています。ということで、神様が神輿に乗る時に人目に触れないようにするのが、本来のあり方です。
そういったことを古式というのか分かりませんが、白黒の鯨幕で御霊を運ぶ神職を囲んで、人目に触れないように御魂入れが行われます。もちろん神輿が戻ってからの還幸祭(御霊戻し)でも同じように行われます。

出発前に木遣が奉納され、終わると神輿が担がれます。
御霊遷しが終わると、続いて発輿祭が執り行われます。お供物が神輿前に運ばれ、神職によって祝詞が奏上されます。その後は、総代長の挨拶、渡御中の注意、半纏合わせと続くのですが、なんと応援の担ぎ手の団体が20以上もいました。
喜多見氷川神社の宮司さんは9つもの周辺地域の神社を兼務しています。そういった宮司さんの人柄を偲んで兼務している地域からやってきたり、格式ある氷川神社の神輿を担ぎたいという事で来る団体もあるし、世田谷区内の神社では10月第二日曜日でほぼ祭礼が終わるので、今年最後の担ぎ納めは氷川神社でといった団体もあるようです。
また、氷川神社の境内と道を挟んだ向こうは狛江市ということもあり、狛江の団体が多いのもここの特徴です。とまあ、世田谷中、世田谷区外からも集結する担ぎ手たちの多さを見ると、さすが格式があり、この地域の中心的な神社だけはあるな・・・と感じます。

脇参道から出ます。
最後に木遣り奉納が行われ、12時半頃に神輿が上がります。神輿は昭和31年に行徳・浅子周慶によって建造されたもので、台座は2尺3寸(70cm)、唐破風軒屋根、勾欄造り、駒札は氷川神社です。胴羽目、鳥居、台座など木彫が美しく、木の美しさが強調されているのが印象的でした。
残念ながら雰囲気のいい表参道から神輿を出し入れするのではなく、神楽殿の方の脇参道から出入りします。さすがにこの大きさの神輿だと、二の鳥居をくぐることができないし、参道には露店が並ぶので、しょうがないといったところでしょうか。
神輿の渡御は、お囃子用のトラック山車が先導します。お囃子を努めるのは地元の喜多見楽友会。祭礼では神前舞も努めています。烏山の給田子ども囃子程ではないですが、お囃子を行う子供の姿も多かったです。

喜多見楽友会が努めます。子供も活躍します。
御酒所は伝統的に東部自治会御酒所(知行院近く)、上部自治会御酒所(成城の東宝前)、中部自治会御酒所、北部自治会御酒所(喜多見駅前)、西部自治会御酒所(念仏車の辺り)の五つですが、近年では御酒所ではなく、休憩所になってしまったところもあります。
神輿渡御コースは、ほぼ毎年一緒で、これらの御酒所を順番に回っていくといった感じです。喜多見はとても町域が広いので、きっちり回っていたら大変です。
それに渡御時間が短いし、道幅も狭いとあって、単に御酒所から御酒所へ移動するといった感じの渡御となります。そして所々道が広くなった場所や交差点、喜多見駅前や商店街などで威勢よく担いでいます。

一番の難所、砧小学校の玉石垣前
面白かったのが水道道路を通って成城へ向かう時で、ここはひたすら狭くて真っ直ぐな道で、しかも途中から緩やかな上り坂が続くので、登り切るまでは黙々と担ぎ、世田谷道から成城へ向かう砧小交差点に出ると、今までが嘘のように元気に担いでいました。
地元喜多見で育った年配の方は、この坂を学友とワイワイと登って砧小学校に通っていたはずなので、懐かしい感じがしているかもしれません。
この世田谷通り付近の成城と、小田急線喜多見駅周辺の繁華街が見所となるでしょうか。特に成城の上部御酒所からは太鼓引きと神輿が一緒に渡御するので一番の見所になるかと思います。

多くの団体が参加しているので、担ぎ手の半纏は多様です。
ちなみに天下に名が轟く高級住宅地成城は、昭和初期に喜多見から分裂してできた町です。成城の大部分も喜多見氷川神社の氏子地域ということになり、かつては神輿が成城駅の方まで行き、不動坂を下ってくるほど担ぎ手の力が溢れていたようです。
しかしながらそれは昭和前半の古き良き時代ということになるようで、今では別の町域といった意識が強く、また、秋祭りへの関心も薄くなり、気持ち程度成城に入るだけになってしまいました。

大勢の人たちが宮入の様子を見守っていました。
神輿が神社に戻ってくる宮入は、一応18時になっていますが、結構遅れます。子供の太鼓引きの列が長いので、色々と手間取ってしまうことが多く、遅れてしまったりするようです。
宮入の時の社殿前は、多くの見学者と担ぎ手で大混雑します。そういった中での宮入なので、結構熱が入ります。宮入後は宮出しと同じように木遣り歌が奉納され、御霊戻しの神事が行われます。
その後は慌ただしくトラック山車は解体され、神輿は部品を外され、神輿蔵へ。そして境内では直来の宴会が始まります。

ここでは太鼓と神輿が一緒に通過します。
神輿渡御に関しては、集まる睦会の種類と担ぎ手の人数が多いことに驚きましたが、逆に烏合の衆といった感じで、渡御中は大人しく普通な感じでした。
しかし、太鼓山車に関しては強烈に印象に残っています。何が凄かったていうのは、太鼓引きをする子供の数です。
神社を出発する時には、多いには多いけどビックリするほどではなかったのですが、途中からどんどんと増えていき、特に喜多見駅からは、「なんじゃこれは!!!」と、仰天する程の数にふくれあがっていました。
これには通行人もビックリ。「太鼓が通りますのでご協力をお願いします。」と道路が封鎖され、太鼓引きが通過していくのですが、次から次へと子供たちが通過していきます。
「秋の風物詩だな。まあすぐ通過するだろう。子供たちが多くて賑やかでいいものだ・・・」などと、おおらかな感じで見守るのですが、いつまでも子供の列が途切れなくて、唖然。そして最後には苦笑いといった反応が多かったように思います。

とても長い行列です。100m以上続きます。
極めつけは世田谷通り。喜多見駅へ向かう交差点から出てきて、次の信号を筏道の方へ曲がるのですが、先頭と最後が見えないという長さ。確実に100m以上はあるようです。
これだけ行列が長いと氏子として誇らしいのですが、別の問題もあります。それは参加した子供たちにお菓子を配るのが大変なのです。足りるかな・・・と心配そうに段ボールからお菓子を配って歩く関係者の心許ないような表情が物語っていました。
それにしても凄い数です。大量にお菓子とかがもらえるのならまだしも、そういったわけでもないのにこれだけ集まるのは驚きです。世田谷で一番の太鼓引きの長さなのは確実ですが、東京でも指折り数えてといったレベルなのではないでしょうか。
6、感想など

神社周辺には木々が多いので、厳かな雰囲気を強く感じます。
喜多見は喜多見藩があったり、生類哀れみの令の際には犬屋敷が建てられたりと、他の世田谷地域とは違った歴史や文化を持っている土地です。
氷川神社では鬼やらい神事や大黒舞、神前舞といった無形文化財、お隣の慶元寺でも無形文化財の双盤念仏を初め、念仏行進、墓施餓鬼や灌仏会が行われ、そして須賀神社では湯花神事、喜多見不動では星まつりなどと、地域内で古来からの行事が多く行われています。
また喜多見には次大夫堀公園の古民家園があり、古くからの伝統文化が季節ごとに実践されていたりします。そういった喜多見文化の中心が氷川神社であり、その秋祭りは古式に則られていてとても興味深いものがあります。
世田谷では郷社は世田谷八幡宮と喜多見氷川神社だけです。世田谷八幡宮も伝統と格式があり、奉納相撲など独自の文化もありますが、氷川神社の自然な感じの参道や、古風な節分祭や秋祭りの様子を見ると、個人的には喜多見氷川神社の方に魅力を感じたりします。

喜多見にはこういったのんびりとした風景が似合います。
とはいえ、伝統だ。格式だ。というものは、曖昧なものです。伝統や格式があっても寂れていった神社は多くあります。それよりも、今現在、地域の人々に慕われていることが一番大切です。
その点ではこの神社は安泰でしょうか。なんせ秋祭りでは多くの子供たちが参加し、太鼓引きの長さが100m以上もあるのですから・・・。この太鼓引きの長さは、伝統や格式よりも誇ってもいいのではないでしょうか。
それにしても・・・、喜多見では駅前の盆踊りにしても、ハロウィンにしても、子供たちの参加者が多いように感じます。地域が連携しているのか、そういうことが好きな土地柄なのか分かりませんが、とてもいい事のように思います。
せたがや百景 No.59喜多見氷川神社と梼善寺跡 2025年5月改訂 - 風の旅人
・地図・アクセス等
・住所 | 喜多見4丁目26 |
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・アクセス | 最寄り駅は小田急線喜多見駅。駅から少し離れています。 |
・関連リンク | 喜多見氷川神社(公式サイト) |
・備考 | 二の鳥居は世田谷区有形文化財。節分の鬼問答と大黒舞は世田谷区指定無形民俗文化財。 |