太子堂圓泉寺とけやき並木
太子堂3-30-8聖徳太子を祀った太子堂の由来から地名が生まれたという。明治4年、境内に「郷学所」が設けられ、世田谷の教育発祥の地となったところだ。ケヤキの大木の並木は、農村だったころ区内随所に見られた屋敷林の名残ともいえる。秋の境内は紅葉したケヤキやイチョウの落葉で黄色のカーペットが敷かれる。(せたがや百景公式紹介文の引用)
1、太子堂圓泉寺前のけやき並木

*国土地理院地図を書き込んで使用
田園都市線、三軒茶屋駅の北側には、太子堂1~5丁目という町域が広がっています。実は、三軒茶屋駅周辺の大半が太子堂という住所になり、三軒茶屋という住所は一部の狭いエリアしかありません。しかも昭和になって命名されたものです。
江戸時代の三軒茶屋は、だいたい国道246号(大山街道)と世田谷通りの北側が太子堂村、その南が馬引沢村に分かれていました。その頃、街道沿いに三軒の茶屋があったことから、この界隈が三軒茶屋といった愛称で呼ばれるようになったと言われています。
明治の後半、渋谷、二子玉川間に路面電車の玉川電車が敷設されました。その時に駅名として三軒茶屋が使われるようになり、昭和の住所変更の際に住所の一部に取り入れられました。
今では三軒茶屋の方が名の通りがいいので、大人の事情により、住所が太子堂でも三軒茶屋の名が付けられているマンションや店舗も多かったりします。

茶沢通り沿いにあります。
その太子堂地域の北側、駅からかなり離れた場所に太子堂円泉寺、正式名「聖王山法明院圓泉寺」があります。名前から想像がつくように太子堂の地名の由来となったお寺です。
円泉寺の周辺は道がごちゃごちゃとしているので、マップやスマホを持参していないとたどり着くのが大変です。
下北沢に抜ける茶沢通りの途中に「聖徳太子参道の碑」という仰々しい石碑が設置されているので、初めて訪れるならここから路地を入っていき、分岐を右に曲がるのが一番わかりやすいかと思います。

狭い路地に窮屈そうに並んでいます。
円泉寺周辺はとてもごちゃごちゃしていて、区画整理をしないまま発展した三軒茶屋らしい町並みが広がっています。
円泉寺門前の道も狭く、車がすれ違うのがやっとです。この道沿いには数は多くないのですが、お寺の塀に沿ってケヤキの木が並んでいます。百景のタイトルにあるけやき並木です。
今では狭い路地に窮屈そうに並んでいるケヤキですが、昭和の時代には門前に川本牧場があって牛が飼われていたそうです。南側が牧場ならケヤキ並木もさぞ日当たりがよく、見栄えもよかったに違いありません。

*国土地理院地図を書き込んで使用(1940年代)
ケヤキは門前だけではなく、円泉寺の周囲にも植えられていました。今では多くが伐採されてしまいましたが、境内の東側の路地を丘の方へ進むと、円泉ヶ丘公園へ続く階段のところに大ケヤキがそびえています。今ではこの木がこの界隈で一番の大ケヤキになるはずです。

T字路にあり雰囲気満点の庚申塔です。
ケヤキ並木の中の一本は、幹はとても太いのに上部がありません。この木はかつて都の天然記念物に指定されているほどの大木でしたが、倒木の危険があるということで、根本から4m程残して上部を伐採し、保存されています。
樹齢は700年ほどだったとか。この界隈では円泉寺の大ケヤキがどの木よりも抜きんでて聳えていたと言われています。きっとこの場所で太子堂や三軒茶屋の町を見守り続け、そして人々のランドマーク的存在であり、また心の拠り所となっていたご神木だったに違いありません。
その残された根元部分は中が空洞になっていて、内部に2基の庚申塔が納められています。木の中から通行人を守り、町の安全を見守る石像を見ると、ちょっと神秘的に感じます。
また、ケヤキ並木のところに案内板があり、境内のすぐ西隣に女流作家林芙美子さんが大正時代に下宿していた長屋があったようです。今でもごちゃごちゃとした場所なので、それらしい雰囲気を少し感じる事ができるかと思います。
2、太子堂と圓泉寺

今では二階部分にお堂があります。

建物自体は古い感じですが・・・、少々味気ないですね。
圓泉寺の境内を入ると、すぐ右側に太子堂があります。聖徳太子をお祀りしているお堂で、太子堂の地名はこのお堂に由来しています。
400年以上の歴史を・・・と言いたいところですが、現在では木製の建物がコンクリート建造物の上に建てられている状態です。1階部は葬儀場だとか・・・。これでは味がないというか、木造のままなのがせめてもの救いといった感じです。

ちょっと味気なくなってしまいましたが、平成になってこのような形で移築されました。百景の切り絵が昔の様子を表していて、元々は境内の真ん中付近にあったようです。
土地のない都会ではしょうがないことで、訪れた日曜日には太子堂の下で葬儀が行われていましたし、車でお墓参りしている人もちらほらといたので、駐車場のスペースなどを確保するために太子堂が二階部分に移動してしまったような感じです。

聖徳太子と書かれた大きな提灯が掲げられていました。
太子堂圓泉寺の由緒や歴史を書いておくと、創建ははっきりしませんが、南北朝時代(1332~92)の後期に太子堂が開創され、別当として圓泉坊(圓泉寺)が建てられたと推察されています。
その後、文禄四年(1595年)に賢惠大和尚によって中興され、聖王山法明院圓泉寺となります。
その時の経緯を書くと、文禄一年に賢惠大和尚が大和国久米寺から聖徳太子像と十一面観音を背負って関東に下り、文禄四年にこの場所に滞在したそうです。
その時に聖徳太子が夢に出てきて、「この地に霊地あり円泉ヶ丘という。つねに霊泉湧き出づ、永くここに安住せん。汝も共に止まるべし。」と告げたとか、なんとか。
そこでこの地に寺を建てることにし、翌文禄五年に本堂、太子堂などが完成しました。寺の名前に泉の文字が入っていることから、昔は境内から泉がわき出ていたと考えられています。

存在感のあるお堂です。ただ・・・、背後の丘に大きなマンションがあります。
江戸時代の慶長年間には、円泉寺周辺地域は江戸市中への野菜の供給地として栄えていたようです。
これによって付近の経済は安定し、寺の寺容が整えられていきました。現在のお寺の立地が丘の中腹ぐらいなので、烏山川や下の谷商店街の辺りに集落や田畑があったのでしょうか。
また、その頃大山詣が盛んとなり、大山詣に向かう人が縁起を求めて行き帰りに参拝して行くようになったとか。門前町ができ、寺自体も活気にあふれていたようです。
その後、安政四年(1857年)、出火により寺の大部分と寺宝を消失してしまいます。その三年後の安政七年に、檀家の努力によって以前より小規模ながら本堂が再建されました。
時は流れて大正時代になると、本堂が大修繕され、昭和の初めには太子講や縁日で賑わったそうです。現在では、まあ普通のお寺といった感じでしょうか。
3、境内にあるもの

とても存在感のある大木です。紅葉の時期は圧巻です。
円泉寺の境内に入り、本堂よりも先に目がいくのが、本堂の前にある樹齢500年とも言われる大きなイチョウの木です。とても背の高い木で、写真に収めようとするなら結構後ろに下がらないと入り切らないほどです。本当に見事な大木です。
イチョウといえばやっぱり紅葉。葉が色づく晩秋にはいつもと違った雰囲気になり、なかなか絵になっています。本堂の後ろにマンションがなければ最高なのですが・・・。しょうがないですね。

世田谷教育界の大恩人となる方です。
百景の紹介文に円泉寺が世田谷の教育の発祥の地とあります。その証が境内にある宮野芟平(さんぺい)氏の頌徳の碑です。
明治三年、付近の村の有志が協力して郷学所を建設し、宮野氏が師として迎えられました。この郷学所では、それまでの寺小屋とは違い、四民平等の新しい思想に基づき、身分の上下を問わず平等に教育を行ったそうです。
翌、明治四年(1871年)には新しい校舎を建て、太子堂郷学所と名付けられました。
明治六年(1873年)、新学制の制度により、太子堂郷学所が第二中学区第四番小学荏原学校(現在の若林小学校の前身)となります。これが世田谷での最初の小学校となり、引き続き宮野氏が初代校長に任命され、明治二十八年、在職中に他界するまで世田谷の教育に尽力されました。
この荏原学校は明治二十年に火災に見舞われました。校舎は消失。復旧までの間、仮校舎が円泉寺境内に置かれた事から、ここに頌徳の碑が建てらたようです。

寛政3年の造立で、玉川六地蔵の第四番。
宮野芟平氏の頌徳の碑の横には、きちんとお堂に祀られているお地蔵さまがあります。これは子育て延命地蔵尊で、寛政3年に建立されたものです。玉川六地蔵の第四番の地蔵尊となり、縁日本尊として広く庶民の信仰を集めています。
元々は三軒茶屋地区にありましたが、諸事情によって昭和43年に移されました。今でも信仰が寄せられ続けているようで、いつ訪れても花が供えられています。

寛政11年に建立されたもの。

墓地の入り口には六地蔵がおかれています。見るからに年季の入ったお地蔵様で、寛政11年に建立されたものになります。
後は・・・、大きなイチョウの木の下には表現豊かな小さなお地蔵様も沢山置いてありました。ユーモアがあっていいですね。ほのぼのとしてしまいます。とりわけ、ツツジとアジサイの時期には彩りが加わって一段と愛らしい姿になります。
それ以外にも境内には多くの植物が植えられていて、手入れがよく行き届いているといった印象を受けました。
4、イベントなど

歴史のあるイベントです。
毎年2月3日に境内で節分祭が行われます。この節分祭は聖徳太子節分会と名付けられていて、昭和23年から続いています。
この日は豆まきはもちろん、太子堂内で護摩が焚かれ、木遣行列が行われ、年によっては囃子や獅子舞が出てにぎわいます。

木遣りが先導します。
節分なのに、なぜ木遣行列?と感じる人もいるかもしれません。木遣というのは、とび職などの伝統的な作業歌になり、あまり節分のイメージはありません。
身内に建築関係の仕事をしている人は知っていると思いますが、聖徳太子は法隆寺などを建設し、建築関係者を手厚く保護した人物になります。なので、建築関係者から崇拝されていて、太子講は建設関係者が多く参加しています。
ここの節分祭は、節分と太子講が混ざった行事というのが適切で、そこそこ特徴のある行事になっています。でも・・・、あまり知られていませんね。
5、感想など

太子堂の横に設置されています。昭和33年加瀬朝香氏作です。
様々な功績を残したことで知られ、かつては一万円札にも描かれていたほど身近な存在だった聖徳太子。その聖徳太子はいたのか?いなかったのか?そんなことを考えたことは一度もなかったのですが、歴史の教科書から消えるといったニュースを耳にし、現在の聖徳太子の立ち位置を知りました。
そのうち円泉寺の太子堂も、太子堂の町自体も、聖徳太子ゆかりの・・・などと言っても通じなくなってしまう世の中になってしまうのでしょうか。町名も太子堂じゃ意味が分からんし、土地も高くなるからといった大人の事情で、三軒茶屋北とか、三軒茶屋東に変わってしまうとか・・・。真っ先に思ってしまいました。
そんな歴史学の渦中に置かれている太子様が見守る円泉寺境内には、銀杏やケヤキの大木と数々の石像があり、とても落ち着いた雰囲気をしています。聖徳太子様に導かれてしまうのか、私の中では時々無性に訪れたくなってしまうお寺の一つになっています。
せたがや百景 No.6太子堂圓泉寺 2025年5月改訂 - 風の旅人
6、地図・アクセス等
・住所 | 太子堂3丁目30−8 |
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・アクセス | 最寄り駅は田園都市線三軒茶屋駅。茶沢通りに参道の石碑があります。 |
・関連リンク | 聖王山法明院円泉寺(公式サイト) |
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