淡島の灸の森厳寺
代沢3-27-1江戸時代の初め、徳川家康の次男結城秀康公の位牌所として建立された。建物に三葉葵の紋所が見られる。また境内には、樹齢400年のイチョウが一対と、お灸と2月8日の針供養で知られる淡島神社がある。森厳寺や北沢八幡、阿川家の屋敷林のあるこのあたりは緑深い木々に包まれている。(せたがや百景公式紹介文の引用)
1、森厳寺と結城秀康について

門には粟嶋の灸の札がかけられています。
「淡島の灸の森厳寺」と、ちょっと変ったタイトルが付けられている項目です。これは同じ敷地内に二つの特徴的な寺社があることから、こういったタイトルになってしまったと思われます。
現在では、幼稚園も加わり、そんなに広くない境内に森厳寺、淡島神社、幼稚園、二本の大銀杏、焔魔堂、社務棟が所狭しと配置されています。そういった繁雑さを表し、入り口には表札や石標などが幾つも並び、少し怪しい雰囲気を醸し出しています。

昼間でも暗い感じの境内です。
ちょっと怪しい雰囲気の門をくぐると、そこには大きな木に囲まれた薄暗い世界が広がっています。門前で感じる怪しい雰囲気の一端は、境内が薄暗いというのもありそうです。
境内に入って正面に幼稚園と大きな銀杏木、左側に淡島神社、そして右奥に森厳寺があります。
まずはお寺の名前である森厳寺から書いていきましょう。正式名は八幡山浄光院森厳寺で、慶長十三年(1608年)に結城中納言秀康卿の位牌所として建てられたとされています。
残念ながら昭和39年に火災で消失してしまったので、現在の建物は近代的な造りをしています。

昭和39年に再建された新しい本堂です。
結城中納言秀康卿って誰?なんか仰々しい名前だけど・・・。あまり歴史に詳しくない人はピンとこないかもしれません。
一般的に知られている名は、結城秀康。これといった偉業を成し遂げた人物ではありませんが、なんとあの江戸幕府を開いた徳川家康の次男だったりします。
あれっ、苗字が徳川や松平じゃないよ!ってことになりますが、それはこの人が歩んだ数奇な人生に理由があります。
年少期は豊臣家に養子に出され(実質人質)、後に秀吉の命で下総の結城家へ養子に出されたので、苗字が結城なのです。秀康という名前も、養父の「秀吉」と、実父の「家康」から一字ずつ取ったものです。

(*イラスト:Aritoaruさん 【イラストAC】)
関ヶ原の戦いに勝利した家康は、江戸幕府を開き、徳川治世が始まります。家康の次男である秀康は、越前の福井67万石を与えられ、姓を松平に戻し、福井藩の越前松平家の家祖となりました。
事が起きたのは、慶長十年(1605年)。家康が将軍職を辞し、三男の秀忠へ家督を継ぐことを宣言します。
長男は織田信長に切腹させられているので、家督の順番的には次男の秀康となるはずだったし、重臣の中からもそういった声がありました。しかし、家康が選んだのは、三男の秀忠でした。
秀康を選ばなかったのは、性格的に粗暴だったとか、単純に資質がなかったとか、一度豊臣家に養子に出されたからだとか、はたまた容姿がよくなかったからなど、様々な推測がされていますが、正式な理由は分かっていません。
更には、その二年後の慶長十二年(1607年)、突然、秀康は34才の若さで病死します。
この突然の死も、家康の次男であることを煙たがられて毒を盛られて暗殺されたとか、様々な疑念を生じさせています。これも諸説紛々、実際はどうだったのでしょうか。はっきりした事が分からないこそ、色々な陰謀説が歴史家などに語られています。

近代的かつシンプルな堂内です。
で、その結城秀康と森厳寺はどういう関係があるの?ってことになるのですが、秀康が臨終にあたり、越前の一乗寺の万世和尚に、「自分のために一寺建立してくれないか」と頼んだそうです。
万世和尚は高齢のため、弟子の孫公和尚にそれを命じ、孫公和尚はふさわしい地を探し求め、この世田谷の地に辿り着いたそうです。
浄光院森厳寺の名は、秀康の法号の「浄光院殿森厳道慰運正大居士」から付けられました。家康に冷遇されたとはいえ、正統な徳川家の血筋が流れているし、藩主である身分。門には一般の人が見たらひれ伏してしまう徳川の三葉葵の家紋が取り付けられました。

「この紋所が目に入らぬか~!」のやつです。
一応これが公式的な見解となっています。が、ただ・・・、普通に考えるなら、なぜ福井藩主の秀康が縁も所縁もない世田谷に寺を・・・?といった疑問が湧いてきます。福井藩の江戸屋敷がそばにあれば理解できますが、それもありません。
あまりにも場所的に中途半端というか、突拍子もないですし、お寺の規模ももっと大きくてもいいはずです。仮にも家康の次男に所縁の寺となるのですから。それに本当に徳川にとって重要なお寺だったのなら、近くにある淡島通りは森厳寺通りと名付けられていたはずです。
秀康が家康や徳川家を嫌っていたといった話は、よく歴史書に出てきます。それを考えれば、三葉葵の紋が入った寺を建てるのに、わざわざ福井から江戸近くの世田谷にまでやって来なくてもよかったはずです。
秀康に関しての逸話は数多くありますが、その中でも興味深いのは、秀康には法号が二つあり、初めは「孝顕院殿三品黄門吹毛月珊大居士」と付けられていた話です。
生涯を通じて家康に冷遇されたことの恨みつらみで、誰が徳川家の墓に入るもんか、自分は結城の人間だ。と、結城氏の菩提寺である曹洞宗の孝顕寺(茨城県結城市)に本人の遺言で埋葬されたとかなんとか。

死に臨んで徳川氏と訣別したいという本人の意向なのでしょうが、これでは徳川幕府の立場、あるいは福井藩、結城藩としても幕府に対する立場がよろしくありません。後に福井市の浄光院(運正寺)に改葬されることになります。
そして、孫公和尚を遣わせ、江戸にほど近い世田谷という中立の地に法号からとった森厳寺を建て、位牌だけをひっそりと安置することにした・・・。とすれば、色々とすっきりするように感じます。
江戸時代に書かれた江戸名所会図でも、森厳寺は淡島神社や北沢八幡神社の別当という記載しかないですし・・・。もし大々的に結城秀康を祀っていたなら、そのことを記載したり、徳川の家紋などが描かれていたような気がします。

もちろん、これはあくまでも色々と推測されている中の一説で、史実が正しく、全くのでたらめかもしれません。私なりに一番しっくりきたので紹介してみました。
まあ何が真実なのかはわかりませんが、自分の持ち合わせている知識や想像力を使い、過去の世界に浸りながらあれこれと歴史を考えるのは楽しいものです。特に、史実を疑いながら、史実の逆を想像するのは面白いです。
更に言うなら、このように自分なりの考えを持って散策すると、訪れるときのワクワク感、訪れたときの楽しさや満足感が増えます。
2、淡島神社と針供養

右の石棺みたいなのは古針の奉納箱です。
境内に入って左手にある木造の古めかしい建物が、淡島神社の淡島堂です。百景の紹介文にあるように、お灸と2月8日の針供養で知られ、灸の淡島さまと人々に慕われてきました。(*現在は12月8日に行われているようです。公式サイトで確認してください。)
淡島というのは住吉大明神の妻の名前になります。彼女は婦人病にかかって紀州に流され、流された紀州の地で海女の守護神となり、そして広く婦人病の守り神として祀られるようになりました。

で、その淡島様を祀った淡島神社がなぜここにあるの?ってことになるのですが、それはこの森厳寺を開山した和尚が紀州人で、紀州の淡島神社から勧請してきたからです。
その時の逸話があり、なんでも住職の夢枕に淡島明神からお告げがあり、これこれこういったお灸方法を行えば持病の腰痛が治せるぜよ。と教えられ、その通りに灸を行ってみると、あら不思議ってな感じで治すことができたとか。このありがたいお告げに感謝し、地元の紀州の加田から淡島明神の分社を勧請してきた・・・ようです。
話は続き、この淡島様直伝の灸の治療を毎月3と8の付く日に行うと、たちまち江戸中の評判になり、門前町が栄え、大いに賑わったそうです。その名残となるのでしょうか。渋谷から経堂へ続く道は今でも淡島通りと名付けられています。

現在は12月8日に行われています。

淡島神社の前には大きな針塚の石碑が建てられていて、その横にはローマの石棺が・・・、と思ったのは私だけかもしれませんが、独特な形をした古針を納める石箱が置かれています。
この針塚は、裁縫などで使った古い針に感謝し、供養するための塚です。この塚の前では、毎年2月8日に針供養が行われていましたが、どうやら近年では12月8日に日を移し、針を使うことが減ったので、身のまわりの物への感謝や供養の法要になっているようです。

和服で参加する女性も多かったです。

針供養とは、その名の通り針を供養する行事で、日頃使っている針に感謝し、使い終えた針や折れてしまった針を柔らかい豆腐やコンニャクなどに差し、供養します。
淡島神社を中心に全国的な行事になるのですが、関東では田畑に関する作業を始めるという「事始め」の2月8日に行い、関西では「事納め」の12月8日にやるところが多いそうです。
ちなみに、昔はこの日に限り女性は針仕事をしないといった風習があったそうです。女性の為の日といったところでしょうか。

今では針を使った仕事をする人が少なくなり、こういった伝統的な針供養もあまり見かけなくなりました。ここ森厳寺の針供養も規模が縮小されてしまい、とても残念です。
12月8日の供養祭には誰でも参加できるので、興味があれば訪れてみるといいでしょう。古い針があるなら持参するといいです。
3、森厳寺の大銀杏

紅葉時は淡い感じに雰囲気が変わります。
森厳寺を境内の外から見ると、この一角だけ木がこんもりとしている・・・といった表現を超えて、木が境内から溢れているとか、境内から木が天に向かって聳えているといった感想になるかと思います。「名は体を表す」というのはこのことで、森厳寺という名がとてもふさわしく感じてしまいます。
それにしても、周囲は住宅ばかりなのに、よくぞここまで木が育ち続けたものです。都会で逞しく木が生えている様子に感動してしまいます。

しかし、過去の写真を見てみると、ちょっとイメージが違いました。百景の文章に「森厳寺や北沢八幡、阿川家の屋敷林のあるこのあたりは緑深い木々に包まれている」とあります。今でも多くの木があると感じますが、もともとこの付近一帯は多くの木々に囲まれていて、森のような地域だったようです。

*国土地理院地図を書き込んで使用
1940年ころの航空写真を見ると、この界隈が森のようになっていて驚きます。特に地主である阿川家周辺の緑の多さは、寺や神社と同等といった感じで、ビックリしてしまいます。
森厳寺も今以上に緑が多く、現在幼稚園がある境内の左側部分にも多くの木があることが確認できます。

*国土地理院地図を書き込んで使用
しかし、戦後になると、どんどんと周囲に建物が建っていき、この界隈の緑が減っていくことになります。特に減少が著しいのが阿川家。広大な緑の敷地を持っていたのが、どんどんと減っていき、今ではほぼ消滅しています。
結局、一般の人は多く土地を持っていても、固定資産税や相続税を払わなければなりません。特に地価の高いこの地域では、驚くほどの金額になります。
そういった対策のために土地を開発したり、代替わりの際に分譲しなければなりません。一般人の宿命というやつです。過去と現在の航空写真を見比べて、そういったしがらみのない神社やお寺が普遍的なのことを改めて納得してしまいました。

近所の方々の撮影スポットになっています。
緑が多い森厳寺境内に入ると、木々が頭上を覆っているので薄暗く、古刹めいた雰囲気を感じます、特に圧倒されるのが2本の巨大なイチョウの木です。とても立派なイチョウで、樹齢はおよそ400年と言われています。
そのうちの一本は幼稚園の敷地内にあります。夏は園児のために木陰をつくり、紅葉の時期にはイチョウのカーペットを提供しているのでしょう。黄色いイチョウのカーペットの上で遊びまわる園児達の姿は絵になっていそうです。

枝ぶりも立派で美しいです。
もちろん季節ごとに良さというものがありますが、イチョウといえばやっぱり紅葉の時期。特にこのような大木は秋の紅葉時期が一番絵になる気がします。それは光の通りがよくなるからです。
紅葉時には淡く光が入り、また黄色い葉に反射し、ほのかに境内が明るくなります。その様子は幻想的にすら感じました。
ただ、ここの木はあまりに大木で、周囲に引いて全体を見渡せる場所がないので、下から見上げるといった鑑賞になります。

これも毎年秋の境内の風景になるのでしょうか。ご苦労様です。

別のお寺かと思うぐらいさっぱりします。
これだけ立派な大木。訪れる方としては、紅葉の時期が楽しみでしょうがありませんが、管理しているお寺の方は、頭の痛い時期になっているかもしれません。
境内の頭上を覆い隠すように茂る葉は、無数といってもいいほどの数。それが短期間に落葉するので、とんでもない落ち葉の量になります。実際、紅葉が終わるころに訪れてみると、境内の隅っこに落ち葉の入ったビニール袋が山積みになっていました。
見るほうは、ただ楽しむだけなのですが、落ち葉を掃除するのは、時間を取られるし、疲れるしと、本当に大変です。見学者として最低限のマナーを守り、余計なゴミや騒動を増やさないようにしたいものです。
4、その他境内にあるもの

森厳寺の本堂と淡島堂の間にあるのが幼稚園です。日曜日に訪れたので境内全体がひっそりと静まりかえっていましたが、普段は園児達の元気のいい声が響き渡り、さぞ賑やかなことでしょう。
入り口入ってすぐ横、本堂と向いになっているのは閻魔堂です。堂内では閻魔様と不動様が睨みを利かせています。子供がうっかりと覗いてしまうと、泣き出してしまうかもしれません。
ここの幼稚園では、子供が悪いことをすると、閻魔様に叱ってもらいます・・・とか、閻魔様のところに入って、反省していなさい!・・・などと言って子供をしつけているのでしょうか。実物がすぐそばにあるので、その効果はてきめんって感じがします。(笑)
不動様の日とか、天神様の日があるように、閻魔様にも閻魔の日という縁日があります。それは16日で、特に1月と8月は重要な日になり、護摩が焚かれているはずです。(未確認)

スマートな超近代的な社です。

閻魔堂と淡島神社の間にはとてもスマートな近代的な社があり、そこには弁財天が祀られています。外観の近代的さから油断して中を覗くと、ビックリします。弁財天様は手がたくさんあるし、人面、いや人頭蛇までいます。
この人頭蛇は宇賀神といい、弁才天と習合し、宇賀弁財天と呼ばれる存在です。頭は老翁、もしくは弁財天同様の女性になります。
正月に訪れた時には、宇賀神の前に鏡餅が置いてありました。これ似ていると思いませんか。一説には、鏡餅の原型はとぐろを巻く蛇だとか。これを見てからは、鏡餅が白蛇に見えてしまう・・・ことはありませんが、ここの宇賀神を思い出すときがあります。

*国土地理院地図を書き込んで使用
本堂の裏側は墓地になっています。ここの墓地には、江戸時代の富士山信仰の象徴である富士塚がありました。富士塚とは、足腰の弱った老人や女人禁制で入山が許されない人たちにも富士詣ができるようにと、人工的に造られた代理富士の事です。
墓域を整理したいので崩したい。というお寺の意向があり、文化財的調査と発掘調査が行われましたが、特に目ぼしい発見はなかったので、2006年に崩されました。なので、今ではその痕跡はありません。
せっかくの江戸の文化。残しておけばいいのに・・・。残念。などと勝手なことを思っていたのですが、過去の航空写真を見ると、かなり大きなもので、しかも墓地の真ん中を占拠していてビックリしました。古墳ならともかく、単なる土の山。こんな状態なら取り壊したくなる気持ちもわかります。
5、感想など

紅葉の時期はとても絵になります。
徳川家康の次男、結城秀康の所縁の寺、森厳寺。そして針供養で知られる淡島神社。これだけでも凄い散策スポットですが、それ以上に魅力的なのが2対の銀杏木です。普段でもその大きさや枝ぶりに心奪われるのですが、紅葉時には眩暈がするほど神秘的な光景になります。
イチョウといえば九品仏浄真寺にある都の天然記念物に指定されている木も立派ですが、私的にはここのイチョウが世田谷で一番の銀杏かなと思っています。ぜひ紅葉の時期にあわせて出かけてください。感動すること間違いないかと思います。
せたがや百景 No.11淡島の灸の森厳寺 2025年5月改訂 - 風の旅人
・地図・アクセス等
・住所 | 代沢3-27-1 |
---|---|
・アクセス | 最寄り駅は下北沢駅、池ノ上駅。 |
・関連リンク | 森厳寺(公式サイト) |
・備考 | 針供養は毎年2月8日 |