世田谷散策記 タイトル
せたがや百景 No.61

宇奈根氷川神社

宇奈根2-13-19

農村風景をそこかしこにとどめる宇奈根。氷川神社の境内には子ども達の遊ぶ姿を見かけることも多い。村の鎮守様は健在だ。都市化の波でつぎつぎに失われていった村の鎮守の原像を見る思いがする。秋祭りには地区の人総出で大いに賑わう。(せたがや百景公式紹介文の引用)

広告

1、宇奈根と宇奈根氷川神社について

宇奈根付近の地図(国土地理院)

国土地理院地図を書き込んで使用

多摩川と野川に挟まれた細長い場所に宇奈根町域があります。極端に例えるなら大きな中州みたいな場所で、高いところでも海抜20mと、平坦で水の便がよく、また多摩川から堆積した肥沃な土壌があり、古くから稲作が盛んな地でした。

もちろんその反面、川に近い低地なので、水害に悩まされてきました。多摩川と野川の二つの河川の影響を受け、一つ下流にある鎌田とともに世田谷で一番水害に悩まされてきた土地でもあります。

水害によって家屋や田畑に被害が出るのは当然ですが、大きな水害の後には川の流れが変わってしまうのが厄介な問題でした。一時期、多摩川の流路が変わって中の島と呼ばれていた頃もあったようです。

宇山稲荷神社(桜丘)の写真
宇山稲荷神社(桜丘)

桜丘4丁目のみが氏子地域になります。

水害の被害に溜まりかねて集団で移住したのが、桜丘にある宇山地区です。宇山は宇奈根山谷を略したもので、今でも宇山稲荷神社を中心に小さな地区で秋祭りや盆踊りなどの行事を行っています。

また、流路の変更で川の向こう岸である川崎側に取り残されてしまった地域もあります。こちらは宇奈根山野地区で、現在でも住所として川崎市高津区宇奈根として残っています。

かつては対岸へは渡しで簡単に行き来でき、そう離れた場所ではなかったので、秋祭りなどの行事を一緒に行っていましたが、現在では橋の架かる場所まで大回りしなければならないので、特に交流はなくなってしまったそうです。

宇奈根氷川神社 農村風景の中を進む神輿
農村風景の中を進む神輿

世田谷では少なくなってしまった光景です。

宇奈根という地名も変わっています。これは諸説色々ありますが、江戸時代後期、多磨郡の名所・旧跡が挿絵入りでまとめられた地誌「武蔵名勝図会」のなかでは、「上古の世には海比(うない)と号せしにや。万葉の古詠などにもありけり。それより唱えを転じてウナニともいいけるや。上古には溝渠をウナニと唱へける由・・・」と書かれています。

この溝渠(ウナニ)は稲作用の用水路ではないかと推測されていて、平陸の地で昔から農業(陸稲)が盛んで、ウナニが多くある土地だったことは容易に想像できます。おそらくそれが転じてウナネになったのでは・・・という説が一番有力視されています。

その他、宇奈根神(宇迦売神なら稲の神様)という穀物の神様説や、畦目(うなめ)、畝目(うねめ)がなまってつけられたとする説など様々ですが、田畑にまつわる起源説が多いというのも、伝統的に田畑で生業を立ててきたからでしょう。

戦前の宇奈根付近の航空地図(国土地理院)
戦前の宇奈根

国土地理院地図を書き込んで使用

江戸時代、明治にかけては、洪水が起きたこと以外は特に何事もなく、農村として存在していた宇奈根でしたが、大きな変化が訪れたのは関東大震災以後です。

復興のために多摩川の砂利採集が盛んに行われるようになり、玉電の砧支線が二子玉川から宇奈根の砧本村(現在の駒大の玉川キャンパスの前のバス停)まで開通しました。

その後、わかもと製薬の工場(現在の駒大の玉川キャンパス)ができ、戦時中は軍事工場に利用され、付近の人口も増えました。

宇奈根氷川神社 慰霊碑
慰霊碑

宇奈根は大きな空襲を受けた土地です。

しかしながら、終戦間際には軍事工場があるために空襲を受け、工場だけではなく、多くの家や神社が焼失することとなってしまいます。

戦後は再び農村として再出発しましたが、押し寄せる宅地化の波には勝てず、徐々に離農が進んでいき、今では畑などのオープンスペースが少なくなってきました。

宇奈根氷川神社 狭い路地を進む神輿
狭い路地を進む神輿

宇奈根らしい光景です。

宇奈根の氏神は宇奈根氷川神社になります。ここの特徴は・・・、非常にわかりにくい場所にあること。たいていの神社は軸となる旧道なり大通りなりの曲がる場所さえ間違えなければ辿り着けるのですが、ここではそう簡単ではありません。

狭い路地をちょこちょこ曲がらないと行き着くことができないという分かりづらさ。初めて訪れる人は迷うことを覚悟したほうがいいかと思います。

水道道路沿いにある観音寺の山門からひたすら真っ直ぐ多摩川へ向かうか、思い切って多摩川沿いの土手から竜王公園を経由して向かうのがわかりやすいルートかもしれません。

宇奈根考古学資料室
宇奈根考古学資料室

とてもわかりにくいところにあります。

宇奈根には考古学資料室といった小さな考古学の博物館がありますが、ここもまた訪れるのが大変な場所として散策人の間では有名でした。

今ではスマホの地図を見ながら歩けば容易かもしれませんが、スマホのなかった時代には、多くの人が途中で迷い、地元の人に尋ねて何とかたどり着けるといった、秘境のような存在だったのです。

これも宇奈根自体が昔の農村の面影を色濃く残しているからです。農村では、大きな敷地を持った地主などの土地や、畑をぬうように細い道が設置されています。人が少ないので立派な道や広い道は必要ないからです。

ただ、こういった土地が宅地化されるにあたって、区画整理を行わずに分譲してしまうと、細くジグザグだった農道がそのまま残った状態で家が建ち並ぶことになります。

大きな土地を持った家や畑ばかりだった時は問題なくても、多くの人が住むことになると、道の狭さなどに不便をしますし、家々が塀を取り付けると視界が悪くなり、道がわかりにくくなります。

宇奈根氷川神社 神社の入り口
宇奈根氷川神社

すっきりとした感じの境内です。

話を戻して、宇奈根氷川神社の創建などに関して書いていくと、新編武蔵国風土記稿には「小名中通りにあり、村内の鎮守なり、本社四尺五寸四方の東向、上屋二間半四方、前に木の鳥居を立つ、神体は白幣、いつの頃鎮座せしと云ことを云へず、村内観音寺持」とあるので、江戸時代に村の鎮守だった事ぐらいしか分かっていません。

伝承によると、鎌倉時代に多摩川の上流から龍ヶ渕(竜王淵)に三人の兄弟が流れ着き、その三人が宇奈根、喜多見、大蔵の氷川神社に祀られたとか伝えられています。

喜多見にある氷川神社は、創建が740年といわれ、この界隈では一番の伝統と格式を備えていますが、少し歴史を紐解いていくと、延文年間(1356~1360)に多摩川の洪水によって社殿を流されています。

宇奈根竜王公園付近の多摩川
宇奈根竜王公園付近の多摩川

大きく弧を描き、崖が削れたような地形をしています。

その時に神社があったのが、宇奈根の龍ヶ渕だったのでは・・・と言われていて、それは現在の竜王公園がある付近の多摩川沿いとなります。当時、この付近は多摩川沿いに高い崖があって神秘的な場所だったとか。洪水を機にもっと内陸に・・・と言うことで、現在の場所に移ったとされています。

喜多見と大蔵にある氷川神社とは三所明神といった関係になっている事を考えると、この洪水を機に内陸の三カ所に御神体を分社したという事も考えられるかもしれません。

宇奈根氷川神社 二の鳥居
二の鳥居

参道には二の鳥居まであります。

また、同じ木から御神体をつくったといった伝承もあります。それが本当なら、神社自体はそれぞれの歴史があるかもしれませんが、氷川神社を祭神として勧請し、祀ったり、改宗した時期が一緒ということになります。

大蔵村に残る大蔵氷川神社についてのいわれは、鎮座年歴不詳、社伝によると領主江戸氏が足立郡大宮(さいたま市大宮区)の氷川を移して当社、宇奈根、喜多見に祀るとあります。

更には、大蔵出身で幕府の書物奉行にもなった石井至穀の書いた「大蔵村旧事項」によると、宇奈根に大己貴尊(一の宮)、大蔵に素戔嗚尊(二の宮)、北見(喜多見)に奇稲田姫(三の宮)、石井戸大神宮に手摩乳(四の宮)、岩戸八幡(狛江市)に脚摩乳(五の宮)が勧請されたとあります。

そして大蔵氷川神社には多くの棟札が残っていますが、その中に永禄八年(1565年)の「武蔵国荏原郡石井土郷大蔵村氷川大明神四ノ宮」と記されている棟札があります。石井戸のものを保管していたとするならつじつまが合いそうです。

となると、江戸時代より前は三社のうち宇奈根の氷川神社が一番の格式があったということになります。

宇奈根氷川神社 三の鳥居のような二本の大木
三の鳥居のような二本の大木

社殿前には二本の大木が聳えています。

徳川家康以前に江戸城を本拠にしていたのが、江戸氏。いわゆる東京の真ん中に居城を構え、東京全体に広がって、豊島氏らとともに一世を風靡しました。

江戸氏は源頼朝に助力し、鎌倉幕府の樹立に尽力した功によって武蔵七郷を賜っています。その一つが喜多見です。喜多見には一族の木田見氏が暮らしたとされます。

しかしながら、1457年、内乱に乗じて台頭してきた太田道灌によって江戸氏は駆逐されます。江戸氏は喜多見に住む一族を頼って落ち延び、後に吉良氏に仕えています。

宇奈根、喜多見、大蔵の氷川神社が三社明神だとすると、同時に3つの村に勧請できる影響力があったのは、この地を治めていた江戸氏と考えるのが妥当となるでしょうか。氷川神社を勧請するのが流行ったのもちょうど江戸氏の時代。その後の吉良氏の時代では、おそらく八幡様になっていたはずです。

ということで単純な推測ですが、江戸氏によって鎌倉時代中期から室町時代に宇奈根などの氷川神社が勧請されて、整備されたということになるのでは・・・と思ったりします。

そして、最初は拠点の中心を宇奈根に据えていて、一の宮も宇奈根に置いていたのが、洪水を機に内陸の喜多見へ拠点ごと移動させ、喜多見が江戸氏(喜多見氏)の庇護を受けつつ、大いに発展していったといった感じだったのではないでしょうか。

古い話なので確かなことは分かっていませんが、このように色々と推察や想像してみると面白く感じます。ただ、もっともらしく書いていますが、全然見当外れの場合もありますので、あしからず。

戦後間もない頃の宇奈根氷川神社の航空地図(国土地理院)
戦後間もない頃の宇奈根氷川神社

国土地理院地図を書き込んで使用

時代は変り、明治4年には宇奈根村の村社となり、明治14年には村内にあった神明社が境内に移されています。

昭和20年3月23日には空襲を受け社殿、神輿等、神社はほぼ全焼してしまいました。戦後の写真を見ると、参道に木が植えてある以外は。特に何もない状態になっています。

宇奈根氷川神社 社殿
社殿

平成11年に新築したものです。

昭和27年には仮小屋を建てて、神社を簡易的に再建。昭和37年になると、氏子の寄付や、かつて神明社のあった土地を売るなどして資金を集め、きちんと再建を果たしています。

それから時が流れ、建物に老朽化が目立つようになったので、平成11年に新しい社殿を新築し、境内も整備されました。

宇奈根氷川神社 参道と境内
参道と境内

広々とした境内です。

この神社を訪れて、まずビックリしたのは、それなりに敷地が広い割には何もない・・・といったことでした。都内でこれだけスカスカの神社も珍しいかもしれません。参道に松が植えられているので、まるで浜辺にある神社と錯覚してしまうほどです。本当にそんな印象を持ってしまいました。

百景の文章では、「農村風景をそこかしこにとどめる宇奈根。氷川神社の境内には子ども達の遊ぶ姿を見かけることも多い。村の鎮守様は健在だ。・・・」とありますが、ここまで広々とした境内だと、子供たちも遊びやすいかもしれません。

宇奈根氷川神社 紅葉の時期の社殿
紅葉の時期の社殿

社殿の周りに大木が多く、晩秋には周囲が色鮮やかです。

現在の神社は、参道には松の木が、社殿の前にはイチョウとケヤキの大木が、社殿の周囲にもイチョウなどの木が植えられていて、木に守られているといった感じです。万が一周囲で大火災が起きても、木々が守ってくれそうな感じです。

また、木が多いことから、秋になると紅葉がきれいです。紅葉がきれいというよりは、周囲に高い建物がないので、青空によく映えていることが素敵に感じます。

ちなみに、宇奈根氷川神社は川向こうの川崎市高津区宇奈根にもあります。高津の氷川神社は、世田谷の宇奈根氷川神社から昭和2年に分霊し、戦後の昭和27年に神社として創建されました。

かつては渡し船で簡単に行き来できていたので、高津側の宇奈根住民は世田谷の神社にお参りしに来ていました。もちろん、祭りなどの行事も一緒に行っていました。

しかし、行政区分が神奈川と東京に分かれ、多摩川には立派な堤防ができ、渡し船での行き来がなくなると、一緒に祭りを行うどころか、気軽にお参りするのさえ困難となり、川崎側にも氷川神社を造る運びになったそうです。

広告

2、宇奈根氷川神社の盆踊り

宇奈根氷川神社の盆踊り 盆踊り時の入り口
盆踊り時の入り口

町会の盆踊りながら多くの御芳志名が掲げられます。

宇奈根氷川神社が活気付くのは、夏の盆踊りと秋祭りになりますが、盆踊りの方が多くの人が訪れ境内が賑わいます。

盆踊りが行われるのは7月中旬の週末二日間で、訪れたのは二日目の中盤から終盤にかけてでしたが、境内は多くの人が訪れていて、熱気に包まれていました。

境内では地元町会や子供会の出店も出ていて、盆踊りというか、ちょっとした夏祭りっぽい雰囲気となります。

盆踊りの会場は参道横の広場でした。神社での盆踊りとなると、手狭な感じがする場合が多いですが、ここは広々とした境内があるので、大勢の人が訪れていてもゆったりとした感じでした。

小学校の校庭などは逆に広々とし過ぎる感があるので、ここはまさに盆踊りにちょうどいいサイズといった感じです。

宇奈根氷川神社の盆踊り 独特な雰囲気の境内
櫓と踊る人々

会場は櫓を囲むようにテントが配置されていて、多くの人が踊りを楽しんでいました。

会場の雰囲気は独特な感じでした。全体的に真面目に盆踊りに取り組んでいるといった雰囲気と、会場内の独特の雰囲気が合わさっていてる感じです。

会場の独特の雰囲気というのは、一言で言うと妙に明るいのでしょうか。櫓が組まれていて提灯が掲げられているというのはよくある光景ですが、それを囲むようにしてテントが張られていて、しかもテントには赤々と照明が灯されているので櫓付近が明るく感じます。

それと同時に会場外が暗いので、盆踊りの会場が闇に浮かび上がっている感じがします。闇に明々と浮かび上がる盆踊り会場・・・って都会では考えられない事ですね。

これも周りに大きな建物がないといったこの神社独特の立地によるものであり、古き良き時代にあった世田谷の農村風景の盆踊りを思い出させてくれるのではないでしょうか。

宇奈根氷川神社の盆踊り 鼓を叩く若者達
鼓を叩く若者達

うなね太鼓の会のメンバーです。

会場の入り口には受け付けられた御芳志の名札が掲げられていました。小さな町域の盆踊りなのに、多くの方が盆踊りのために寄付をされていたのにはビックリしました。しかも個人の名前ばかりでした。

百景の説明文に「村の鎮守様は健在だ」という表現がありますが、活気のある盆踊りとこの奉納者の数を見ると、納得です。今なお健在といったところでしょうか。

踊り自体に関しては・・・、ちょこっとしか滞在していないのでよくわかりませんが、たぶん普通の盆踊りだと思います。特別な踊りというのはなさそうな感じでした。

また、訪れた時に櫓の上で太鼓を叩いていたのは浴衣を着たうなね太鼓の会の若い子達でした。うなね太鼓の会は盆踊り大会で太鼓を打つために作られた会だそうです。

浴衣で女性が太鼓を叩くというのはあまり見かけない光景ではないでしょうか。これはこれでちょっと上品っぽく感じていいかもしれません。

3、宇奈根氷川神社の秋祭り

宇奈根氷川神社の秋祭り 祭りの日の参道
祭りの日の参道

参道に行灯がつるされます。それ以外は普段と変わりません。

百景の説明文の「秋祭りには地区の人総出で大いに賑わう。」というところに惹かれ、どんな祭りだろうかと期待して訪れたのですが、訪れてみてビックリ。

屋台もなければ、子供の姿さえないというありさま。これは一体・・・、あまりにも閑散としすぎているのでは・・・。話が全然違うぞ・・・。と、愕然としてしまいました。

実は、最初に訪れた2009年はちょっと特別で、インフルエンザの流行のために子供神輿が中止になり、子供の姿がほとんどなかったという次第です。

2012年に再び訪れてみると、子供や保護者を中心に人が多くなって境内が賑やかな感じにはなったものの、屋台が出ないのは毎年のことだったようで、やはり百景にあるような村人総出で行われる賑わいというには程遠く感じました。

宇奈根氷川神社の秋祭り 例大祭神事
例大祭神事

小さな堂宇なので大勢は入れません。基本は外で行われます。

かつては9月26日が宇奈根神社の大祭日でしたが、昭和初年から10月9日が宵宮、10日が大祭となりました。これは9月後半に台風がやってくる事が多く、大雨で川の水位が増して対岸に渡れない事が多いという理由からでした。

現在では祭礼日は一日だけとなり、体育の日の変更により、10月第二月曜日に祭礼が行われています。

戦前には村をあげての祭りだったので、二ヶ月前から準備を始め、祭りの時には境内に露店が並び、神楽が奉納され、芝居や演芸も行われるなど大変な盛り上がりだったそうです。この頃は川向こうの山野地区の人も参加し、神輿が川向こうに渡って、向こうでも担がれていたそうです。

宇奈根氷川神社の秋祭り 神輿の御魂入れ
神輿の御魂入れ

例大祭神事に引き続いて行われます。

そのように盛り上がったのは過去の話となってしまい、今では露店もなく、奉納演芸もなく、神事と神輿渡御のみの祭りとなってしまいました。広々とした境内なので、ちょっと寂しく感じ、秋風が涼しく吹き抜けるといった感じです。

夏に盆踊りで盛り上がるのなら、秋の祭りは経費節減で粛々と祭事だけを行うというのも、経済的負担や手間を考えると、いい選択なのかもしれません。この付近の大蔵氷川神社、鎌田天神社でも同じようなスタイルでやっています。

境内に祭り特有の活気はないものの、参道には子供たちが絵を描いた地口行燈がずらっと飾られています。それを見ると、祭りをやっているんだぞといった雰囲気を感じることはできます。

宇奈根氷川神社の秋祭り 参道を進む神職
参道を進む神職

直来後、慰霊碑に向かいます。

祭礼は、12時半から社殿にて神事が行われますが、小さな堂宇なので多くの人が建物の外から見守るといった感じです。この時に神輿への御魂入れやお祓いなども行われます。

その後、宮司さんは従者を連れて参道を通り、入り口脇にある戦没者慰霊碑の前で祈祷を行います。宇奈根全体で大きな空襲の被害があり、神社も焼けてしまいました。そういった歴史を物語っている祈祷になるでしょうか。

慰霊碑で神事が行われている間に、境内では御神酒が配られ、神輿の出発の準備が行われていきます。

宇奈根氷川神社の秋祭り 出発
出発

近隣の地区から多くの担ぎ手が集まります。

一連の神事が終わった後、13時過ぎに宮出しが行われます。宮出しにあたって挨拶などが行われるのですが、よくある注意事項の説明はほとんど無く、いつものように頑張って担いでいきましょう・・・といった感じのものでした。応援を含め、毎年そんなに替わらないメンバーで、和気あいあいと担いでいることが伺えます。

応援は近隣の大蔵、鎌田、喜多見が多いようで、祭礼日が重ならないので、お互い行き来して助け合って担いでいるといった感じです。

宇奈根氷川神社の秋祭り 子供神輿の宮出し
子供神輿の宮出し

とても楽しそうでした。

渡御は子供たちが引く太鼓山車が先頭で、子供神輿が続き、その後からお囃子を乗せたトラック山車と大人神輿がついていくといった感じの渡御になります。昔は樽神輿が担がれていて、頑張って昭和4年頃に神輿、7年頃に太鼓を造ったものの、戦火で焼けてしまいました。

昭和27年に神社が再建されると、再び神輿が作られ、昭和43年には寄付を募って大神輿を建造。それまでの神輿は子供神輿となり、昭和57年に子供会が廃品回収などで集めた資金で女児が担ぐための子供神輿を奉納しています。

宇奈根氷川神社の秋祭り 太鼓の宮出し準備中
太鼓の宮出し準備中

太鼓のみ参道を通って外に出ます。

しかし、昭和の終わり、平成と時代が変わると、祭りへの参加者が減少し、大神輿が担がれない年もでてきました。

もっと少ない人数で担ぐことのできる小さな神輿にしようではないか・・・ということで、現在、大人神輿として使われているのは、平成12年(2000年)に建造された小振りのものです。台座は2尺3寸(69cm)、唐破風屋根、勾欄造り。喜多見氷川神社の神輿と雰囲気がよく似ているように感じます。

子供たちが引っ張る太鼓の方は、昭和21年建造と年季が入った大きなもの。ただ、台車の方は少々くたびれ気味で、途中で壊れないだろうかと心配になってしまう代物でした。

昭和21年といえば、終戦間もない頃。神社は焼けて、生活も大変な中で寄付を募って購入したものになります。この地域の復興のシンボル的な存在となっていたとかなんとか。戦争を経験した年配の方には思い入れのある太鼓となるでしょうか。

宇奈根氷川神社の秋祭り 渡御風景
渡御風景

農村の名残で落ち着いた風景も多いです。

宮出しは、太鼓車のみ長い参道に設置されている二つの鳥居をくぐりますが、残りは鳥居をくぐらず横から宮出しされます。渡御のコースは休憩場所などは違っているものの、戦前からほぼ同じコースです。

宇奈根の町は農村だった面影がまだ残っている地域なので、畑の脇を通ったりとのどかな風景の中を渡御できるのですが、いかんせん道が細く、くねくね曲がっているので大変です。

そのため、車などよりも、家の塀や垣根、張り出した木の枝などに注意しながらの渡御になります。ただ、細かい坂が多い世田谷にあって、ここには坂らしい坂がないので、その点においては楽です。

宇奈根氷川神社の秋祭り 宮入前の境内
宮入前の境内
宇奈根氷川神社の秋祭り 宮入してきた神輿
宮入してきた神輿

宮入は、子供神輿や太鼓が夕方、大人の神輿は18時頃と、ちょうど暗くなる時間帯です。

境内は子供たちの描いた行灯に灯が入り、所々に取り付けられた工事用のスポットライトが点灯されるのですが、結構暗いです。多くの提灯に灯が入り、まぶしいばかりの宮入も華やかでいいのですが、こういう薄暗いというか、ほんのり明るい中での宮入もなかなかいいものです。

宇奈根氷川神社の秋祭り 宮入してきた神輿
最後の締め

宮入の締めは、拝殿の前で神輿の外だけに担ぎ手が集まり、上下に大きく揺らして終わるのが宇奈根の伝統です。私が見学していた時は見事に落としてしまいましたが・・・。それが終わると、社殿の前で収めて渡御が終わります。

宇奈根氷川神社の秋祭り 直来の様子
直来の様子

担ぎ終わったらここで一杯。屋外大宴会といった感じです。

その後はすぐに境内に設置された直来の席に直行です。この直来は広々とした境内を使って行われるのですが、まるで花見の宴会席のような感じです。

この直来スタイルは伝統的なものではなく、近年行われるようになったもののようですが、これもまた宇奈根の秋祭りの特長的な一コマとなるでしょうか。

4、感想など

宇奈根氷川神社 稲わらが干される境内
稲わらが干される境内

しめ縄用なのか、稲わらが干されていました。秋の農村ってな雰囲気でした。

宇奈根は鉄道の駅から離れた地域です。バスで東急線の二子玉川、あるいは小田急線の喜多見、成城、狛江などに出なければなりません。

そのため住宅地として開発されたのは遅く、2010年頃、神輿と共に宇奈根の町を歩いてみると、農村だった頃の面影がそこかしこに残っていました。特に細い道と曲がりくねった道には閉口すると同時に、ちょっと懐かしさを感じたものです。

ただ、歩いていて気になったのは、やたらと新築の家が目立った事です。建てかけの家も多く、宇奈根の地でもどんどんと宅地化が進んでいるんだなと実感しました。

駅から離れている事から土地も安く、家の購入費を安く抑えたい人が住んでいるのかな・・・と、まず思ってしまったのですが、あまりそういった雰囲気ではなく、ガレージには高そうな車が並んでいました。何気に宇奈根は隠れた閑静な高級住宅街に変わりつつあるのかもしれません。

素朴な秋祭りも都市化の波に飲み込まれて消えてしまわないだろうか。ちょっと心配になってしまいますが、盆踊りや神社の行事を見ていると、まだ農村だった名残で町会の結束、人と人との結びつきが強い地域かなと感じます。

せたがや百景 No.61
宇奈根氷川神社
2025年5月改訂 - 風の旅人
広告

・地図・アクセス等

・住所宇奈根2丁目13
・アクセス最寄り駅は田園都市線二子玉川駅、小田急線喜多見駅、狛江駅など。駅から離れているのでバスの利用をお勧めします。
・関連リンクーーー
・備考ーーー
広告
広告
広告