弦巻實相院界わい
弦巻3-29-6吉良家開墓の寺院で、正式には鶴松山實相院。禅寺にふさわしく、境内には木々がうっそうと茂り、森閑としている。まちの中の寺とは思えない風情があり、鳥の声に耳を澄ましたくなる。代官屋敷のちょうど裏手あたりになるが、この辺は江戸時代の世田谷の中心だったところだ。(せたがや百景公式紹介文の引用)
1、実相院について

*国土地理院地図を書き込んで使用
ボロ市通りの南側を通っている駒留通りの西側の端、中央図書館のある通りと交わる付近に、木々が生い茂っている実相院(實相院)があります。駒留通りから見ると新しい感じの寺に見えますが、こちら側は近年整備された裏側で、松丘小学校側の細い路地に古くからの入り口があります。
この実相院ですが、正式には實相禅院(実相禅院)で、宗派は曹洞宗、山号は鶴松山。開基は世田谷吉良氏の最後の当主・吉良氏朝で、開山は天永琳達大和尚によるものです。次の項に出てくる勝光院と開基の経緯が似ていて、勝光院の末寺という関係になります。

立派な門構えですが、こちらは裏側になります。
吉良氏朝といえば、吉良家の菩提寺となっている勝光院を中興開山し、小田原北条氏が滅んだ小田原の役(1590年)の際、血縁関係のある北条方につき、結果、世田谷城を明け渡し、世田谷から下総に転封させられた人物です。しかも、吉良家とは血のつながりのない北条家からの養子でした。
下総に転封後、氏朝の子供は蒔田と姓を変え、そのまま下総で旗本としてやっていきますが、氏朝は夫人とともに世田谷に戻ってきました。
しかし、世田谷領は没収され、徳川の領土になっているので、かつての居城、世田谷城での暮らしは許されず、1603年に他界するまで実相院で夫人とともに静かに閑居生活を送ったと言われています。

普段は開かずの門となっています。
実相院の正門は、松丘小学校側にあります。松丘小学校の横を通ると、小学校のフェンスには子供たちが描いたプレートが沢山取り付けられていました。楽しそうな絵柄が並んでいるので、歩いていると自然に顔が緩んできます。
小学校の真ん前にある正門は現代的な門。ただ、この門は開かないようになっていて、駐車場から敷地内へ入るようになっていました。
正門の真ん前は松丘小学校。腕白な小学生がむやみやたらと入ってこれないようにする為なのでしょうか。昭和にわんぱく時代を過ごしたので、そんなことがすぐに頭に思い浮かんでくるのですが、そんなことはないですよね・・・。

モミジが多く植えられています。
外門から境内を眺めると木々が生い茂っているので、百景の説明文にあるように森のような感じがすると思います。
外門から山門にかけてはモミジがたくさん植えられていて、新緑の季節は緑が美しく、紅葉の時期は赤が美しいです。この区間は庭園のような雰囲気で、歩いていてとても心地よく感じます。

本瓦棒葺が特徴的な山門と土塀です。
山門の頭上に掲げられた木製の大きな扁額には、「實相禅院」の文字が彫られています。山門の横には、山門と同じ本瓦棒葺きが使われている土塀が続いていて、とても重厚な雰囲気を感じます。

木が繁りうっそうとした感じがします。

山門から本堂の間は木々が生い茂っているといった感じで、まるで森の中を歩いているような感じがします。こういった景観は駒留通りからは想像できないので、訪れたときのサプライズになるでしょうか。初めて訪れたなら、少なからず驚きを感じるかと思います。
現在の本堂は、昭和32年に改築された建物で、近年にも大がかりに補修されたので、新しい感じがします。率直に言うなら、ありふれた本堂といった感じでしょうか。本堂内には入っていませんが、本尊として安置されているのは薬師如来になるようです。

五三桐は吉良家の紋です。
本堂の前に置かれた賽銭箱や天水桶には、吉良家の紋である五七の桐が結構目立つように付けられていて、吉良家所縁の寺だというのが強調されています。
「新編武蔵国風土記稿」によると、「今境内二氏朝夫妻ノ碑アリ、氏朝ノ碑面ニハ実相院殿四位下学翁玄参大居士 慶長八年(1603年)九月六日ト刻シ、夫人ノ碑ハ鶴松院殿快窓寿慶大姉トアリ。」と、記されていますが、現在、この墓碑は所在が不明で、氏朝の位牌のみが本堂に安置してあるという話です。
ただ、墓地内には古い供養塔があり、それが夫妻の墓だという説もあるようです。もし、これが本当に吉良氏朝と夫人の墓だったのなら、吉良家所縁の寺として、もっとこの寺も知名度が上がるのでは・・・と思ってしまいます。
2、吉良氏朝について

(*イラスト:描き太さん 【イラストAC】)
室町時代から戦国の終わりにかけて、吉良氏が世田谷城を居城とし、世田谷を支配していました。その最後の殿様となってしまったのが、吉良氏朝です。生誕が1543年(天文12年)頃で、1603年(慶長8年)に死去しています。
吉良家については「世田谷城」や菩提寺の勝光院の項で説明しているので、簡単にだけ説明すると、鎌倉時代に源氏から派生した足利氏の分家筋になります。高貴な血筋とともに、鎌倉幕府、室町幕府と続いたエリートの血筋でもあります。
今川家も同じような時期に同じように枝分かれしているので、足利、吉良、今川は同じ一族となり、「御所(足利将軍家)が絶えなば、吉良が継ぎ、吉良が絶えなば、今川が継ぐ」と言われていました。
世田谷の吉良氏は、室町時代初期に現在の愛知県にある吉良荘を拠点とする本家から枝分かれした一族になり、東北の守護、奥州管領を代々務めていたので、最初は奥州吉良氏と呼ばれていました。

土塁や空堀が残っています。
しかし、南北朝の騒乱の中、家のゴタゴタで衰退。初代鎌倉公方の足利基氏の下に身を寄せ、そこで活躍した功績で世田谷領をもらったとされています。世田谷吉良氏(武蔵吉良氏)の誕生です。
世田谷に移ってからも、室町幕府の足利家の血筋を引く一族であり、鎌倉公方の縁故者ということで、他の勢力から一目置かれる存在だったようです。
吉良氏朝の養父というか、先代の当主は吉良頼康。常盤伝説に出てくる人物です。政略結婚で北条氏綱(後北条家の2代目)の娘と結婚し、北条氏康(後北条家の3代目)より一字拝領し、頼貞から頼康に改名しているなど、後北条家(小田原北条氏)とのつながりが強くなります。
しかし、家柄はよくてもたいした力を持っていなかったので、戦乱の世が激しくなると、徐々に北条配下に組み込まれていくことになります。

(*イラスト:ACworksさん 【イラストAC】)
吉良頼康は子供に恵まれませんでした(*子供がいたという説もあり)。そこで1560年に跡取りとして養子に迎えられたのが、今川氏の血を引く堀越六郎と、北条氏綱の娘・崎姫との間に生まれた氏朝になります。
頼康の妻も北条氏綱の娘(名は不明)。なので、崎姫とは姉妹ということになります。吉良家からしたら血のつながりはないけど、形としては甥が家督を継いでいることになり、普通の家系ならそんなにおかしな話ではありません。でも、高貴とされる吉良家ともなると、その血筋が大事になります。
では、この堀越六郎とは何者。高貴な吉良にふさわしい血筋を持っているの。今川の所縁のものらしいけど、なぜ堀越の姓なの。となります。

今川家を有名にしているのは、1560年、桶狭間で織田信長の奇襲にあって今川家当主、今川義元が討たれたこと。歴史の転換点となり、歴史の教科書に出てくる程有名な出来事です。
その後、信長が天下人への道を進んでいき、明智光秀の本能寺の変で夢が途絶えることはよく知られています。一方、負けてしまった今川家はというと、支配地域で跡取りや派閥争いなどの混乱が起き、最終的には外部勢力により滅びます。
その渦中で堀越六郎が戦乱か陰謀で亡くなり、崎姫と子が北条に出戻って、吉良家に入ったとされています。
なぜ堀越という姓なか。それは今川義元の今川家本家は駿河を拠点にし、分家筋で遠江を拠点としていたのが堀越家になります。近江守護職を務めていたこともあるので、遠江今川氏とも呼ばれていました。名門という一族では、本家しかその名字を名乗れないということはよくありました。
といった感じで、外部から養子を迎えたので、ここで吉良の血が途絶えてしまったことになりますが、先に書いたように、遡れば足利、吉良、今川は同族。氏朝は今川の血を引いているので、吉良家の存在意義である高貴な血筋、いわゆる源氏・足利の血は維持されていることになります。

戦国時代には北条家の居城でした。
もっとも、氏朝は北条の血もしっかりと引いています。北条家にしてみれば、父親が吉良か、今川かは重要ではなかったはずです。色々と都合の良い養子だったことがうかがえます。
更に言うと、氏朝の正室は、北条幻庵(後北条家2代目氏綱の弟)の娘なので、吉良の皮を被った北条一族と言うことになるでしょうか。事実、氏朝の代からは吉良氏は北条の配下になってしまったと言っても問題ないかと思います。
ちなみに、北条氏綱の娘の一人は、より足利の血が強い古川公方(鎌倉公方)の足利晴氏にも嫁いでいたりします。
このことから、後北条家が足利の血を利用して関東支配の基盤を強化していったこと。関東では足利や吉良の血筋には権威があり、利用価値があったことが伺えます。
それとともに、たいした力を持っていなかった世田谷吉良氏が高貴な血筋のおかげで、比較的平穏に存続できたことにも納得できるのではないでしょうか。

吉良頼康が亡くなったのが1562年で、前年に氏朝に家督を譲ったとされているので、18、19才で吉良家当主になったことになります。そして、それ以降、1590年の北条の役(小田原征伐)まで世田谷を治めています。
氏朝が何かしたという記録はほとんどなく、世田谷区史でその名が出てくるのは、氏朝の時にボロ市が始まったということぐらいでしょうか。
ボロ市は北条氏政(後北条家4代目)が世田谷新宿で天正六年(1578年)に楽市(市場税を免除した特別な市)として認めた六斎市が始まりだと言われています。
この六斎市に限らず、氏朝の代には北条の支配力が強くなり、世田谷区内の政治(治世の仕組み)が北条のシステムに変わりつつあったようです。

その北条氏も小田原の役で豊臣秀吉に破れ、歴史から消えていきます。小田原の役の際、氏朝や世田谷吉良氏がどういった行動をとっていたのかはあまりよく分かっていませんが、氏朝は兵を率いて小田原に向かい、小田原城に籠城するなど、当然というか、北条とともに戦っています。
世田谷に関しては、全く記録がありません。攻めやすく防御しにくい地形。家柄がよく、ほとんど戦争をしたことのない家臣団。小田原などに少なからず兵を派遣している状態。そういったことを考えると、戦をせずに全面的に降伏し、開城したのではないかと推測できます。
北条亡き後の関東は、徳川の領地になります。北条とともに戦った世田谷吉良氏は、戦後処理で世田谷領を没収され、下総国へ転封させられています。北条家と結びつきが強かったにしては、意外と寛大な処置だったと言えます。

吉良家の菩提寺になっています。
更には、吉良氏の菩提寺である勝光院に対しては、寺領を一般的な寺の3倍もの30石も与えています。旧支配者への敬意を払うことで、地域の安定を計ったにしては多いです。
吉良氏朝にも世田谷に戻ることも許しています。先祖供養をしながら大人しく暮らすのなら、世田谷に戻ってもいいといった感じだったのでしょうか。
こういった扱いから考えると、関東を治めるにあたって吉良や足利といった伝統的な一族を、ないがしろにできないといった事もあったのかもしれません。このへんは慎重な家康らしい部分でしょうか。もし織田信長だったら・・・と考えると、そんな過去の遺物はいらん。と、バッサリと切り捨てられ、存続できていなかったような気もします。

愛知県は吉良家、今川家、松平家の発祥の地です。
ただ、見方を少し変えると、ちょっと興味深い事実も浮かび上がってきます。徳川家康は、元々は松平家康でした。現、愛知県豊田市にある松平郷の出身です。なぜ家康が松平から徳川に姓に替えたのか。それは高い官職につくのには源氏の血を引いていないと就任できないといった事情があったからです。
桶狭間で今川義元が討たれた後、この機に乗じて今川家に人質となっていた家康は独立を果たしています。その後、着実に三河に基盤を築いていき、三河守(三河国司)の官職を手に入れられるほどの勢力になりましたが、源氏の血を引いていないので三河守に就くことができませんでした。
そこで知恵を絞りました。先祖に源氏の血を引く者が新田の荘(新田義貞の出身地、世良田ともいう)の徳川(得川)という人物がいたので、自分の祖先は源氏の血を引いている。その証として先祖の姓に戻そう。と、姓を徳川に替えたのです。

徳川発祥の地となるようです。
新田という家柄は、足利とともに源氏から派生したと言われています。ちょうど吉良と今川のような関係です。なので、足利の血を引く吉良氏とは同じ清和源氏をルーツを持つ一族となります。
年少期に今川家に人質に出されていたことで、今川家に対してどういう感情を抱いていたのかはわかりませんが、今川の血を引き、より清和源氏の本流に近い吉良家の吉良氏朝には色々と思うところがあったことでしょう。
ちなみに、今川義元が桶狭間で討たれた後、その子の今川氏真が継いだのですが、あまりにも戦国の武将としては無能で、あっけなく周辺の武田、徳川に滅ぼされています。
ただ、今川家が滅んだ後、紆余曲折ありましたが、最終的に徳川家康が家臣として取り立てて、所領を与えています。武将としては駄目でも、教養や作法などの素質に関しては高かったようです。
それはさておき、氏真を盗用し、所領を与えていることを考えると、家康は今川家に対してそんなに悪い感情は持っていないように感じます。
それと同じで、北条氏はお家取りつぶしになったの対し、吉良氏に対してはかなり寛大な処置だったのも、家康の吉良家や今川の血を引く氏朝に対する配慮があったのではないか・・・と考えてしまいます。
それにしても・・・、今川氏真と吉良氏朝。同じ今川の人間なので似ていて当たり前なのかもしれませんが、本当に、色々な部分でよく似ていて、印象がダブってしまいます。
3、境内にある面白いもの

こちらにも吉良家の紋と、他はなんでしょう?


実相院の境内は広く、随所に変わった変わった形の石像などが置いてありました。大陸的なものから西洋的に感じるもの、あるいは巨石もあったりします。
せたがや百景の他の項目、世田谷観音や野毛の善養寺ほどインパクトはないものの、なかなか面白さを感じます。これはきっと住職の好みなのでしょう。そういった境内にあるものを少し紹介していきます。

昔の格式の名残です。
まず大事なのが、朱印寺の石碑です。駐車場付近の竹林の中にあります。これは慶安元年(1648年)7月17日に将軍家光から朱印地十石二斗二升を賜ったことの名残です。
ただ、その後は檀家数が少なくなり、慶応四年(1868年)には朱印地を返上しています。そういった経緯があるからなのか、少し控えめな感じで置かれています。
朱印寺であるか、ないか、どれだけの石高を与えられているかといったことは、江戸時代の寺の格式を示す目安になります。もっと目立つ場所に置いてあっても・・・と思ってしまいます。

近年新しく建てられたものです。
2012年には本堂の左手、駒留通り側に大きな多宝塔(二重の塔)が建てられました。まだ新しい二重の塔なので、とてもきれいです。塔の周辺には永代供養の碑や地下納骨堂のようなものが造られています。

なぜここにあるのか不明?
多宝塔のすぐそばには、江戸城の残石が山積みになっていました。山積みとなっている中心には祠が設置されていて、まるで富士講の富士塚みたいです。
恐らく実際に石垣に使われたと思われる石なのですが、何でこんな所にあるのといった感じです。しかも中途半端な量が・・・。何かに使おうとして持ってきたのだろうか・・・、色々と想像してしまいます。
塚の横には立派な赤松が聳えています。樹齢160年ほどとかで、世田谷名木百選に選定されています。なんでも、この塚は吉良氏朝の塚と称されているとか。実際はどうなのでしょう・・・。

ピンク色の絨毯になっていました。
駒留通りからの裏参道付近には、運んでくるのが大変だったと容易に想像できるような大きい石が幾つも配置されています。住職の好みで、境内が石や石造品のある庭園になっているような感じです。
この裏参道付近には桜が多く植えられていて、春には桜の並木状態になります。

墓地の守り番です。
参道の東側が墓地になっています。参道が雑木林の中といった雰囲気になっているので、そのまま墓地も森の横といった感じの立地になっています。紅葉の時期は銀杏やモミジが色づき、お地蔵さまもご機嫌な感じでした。

元首相である高橋是清の鬚を祀った祠です。
参道の林の中に「高橋是清翁之鬚墓」などというものもあります。高橋是清といえば、昭和恐慌に豪腕で対処し、2・26事件で暗殺された元首相です。世田谷の岡本に別荘があったので、世田谷とも少し縁があるお方です。
その是清翁の墓がなぜここに。しかも、名前からすると「ひげ」だけが葬られているお墓ってこと。もしかしてえらい人はその英霊にあやかって首塚、髭塚、胴塚といったようにバラバラにされて各地で崇拝されるとか・・・。
気になって調べてみると、ちゃんとしたお墓は多磨霊園にありました。この鬚塚は翁の愛顧を受けた永井如雲画伯が生前に鬚をもらい受けたものを保存していて、それを昭和61年、高橋家の了解を得て埋葬したのがこの「高橋是清翁之鬚墓」となるようです。
ちなみに、「髭」は口ひげ、「鬚」はあごひげ、「髯」はほおひげとなります。
4、感想など

紅葉の時は結構きれいです。
私の中で吉良氏朝という人物は、世田谷吉良氏を滅亡させただけではなく、北条家からの養子でありながら、北条の役にも立っていないダメ殿だといった印象が強かったのですが、晩年をこの寺で夫人とともに暮らした話を知ってから、少し見方が変わりました。
有能、無能だったはわかりませんが、思いやりのあるやさしい殿様だったのでは?当時の状況がわからないので勝手な推測でしか書けませんが、世田谷吉良氏が滅亡した後にこの土地に戻ってくるということは、それなりに覚悟がいるはずです。
下手な滅亡のさせ方をしていたり、農民を苦しめるような酷い政治をしていれば、戻ってきても恨み辛みから家臣や土地の人に殺されかねません。
それをわざわざ戻ってきたということは、誰しもが納得する降伏劇だったり、きちんとした治世を行っていたのではないでしょうか。
そもそも、世田谷城は攻めやすく守りにくい城だったと思われるので、多くの軍勢に攻められたら一塊もありません。戦っても勝ち目がないし、家臣や農民が戦火に巻き込まれないようにと考え、さっさと降伏したといったところでしょうか。そう考えると、世田谷や吉良家の家臣、そして民衆を大事に思うような人物だったのかもしれません。
真実はどうなのかわかりませんが、そういった見方をして境内を散策してみると、雰囲気のいいお寺に思えてきたりします。
せたがや百景 No.26弦巻實相院界わい 2025年5月改訂 - 風の旅人
・地図・アクセス等
・住所 | 弦巻3-29-6 |
---|---|
・アクセス | 最寄り駅は世田谷線上町駅、田園都市線桜新町駅。駅から少し離れています。 |
・関連リンク | ーーー |
・備考 | ーーー |