世田谷散策記 タイトル
せたがや百景 No.69

岡本玉川幼稚園と水神橋

岡本3-35-10(玉川幼稚園)

岡本幼稚園の建物は二・二六事件で暗殺された蔵相高橋是清の別邸だったもので、山荘風の構えがよく幼稚園にマッチしている。風光明媚な国分寺崖線には戦前多くの高官や財界人の別荘別邸が立てられ、現在の良好な住宅街に引き継がれてきた。水神橋あたりには当時別荘から眺められた田園風景の面影がそこはかとなく残っている。(せたがや百景公式紹介文の引用)
*現在では高橋是清の別邸はありません。

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1、岡本玉川幼稚園と高橋是清について

岡本三丁目の坂下にある幼稚園注意の看板
岡本三丁目の坂下にある看板

坂を勢いよく下っているときに小さい子が飛び出してきたら大変です。

次の項目(No.70)で登場する通称・岡本三丁目の坂道は、とてもインパクトのある急坂で、ドラマ等の撮影などに使われたり、バラエティー番組で紹介されたりしています。

この坂を抜け道として通ったり、坂の下にある自動車学校に通っていたことがあるので、この坂道付近はそれなりに知っていました。坂の下の小さな交差点に「幼稚園注意」という看板が設置されていることにも気が付いていました。

しかし、この幼稚園がかつて高橋是清の別邸だった場所に建てられていて、当時の建物がそのまま使用されていたことは、せたがや百景の存在を知るまで気が付きませんでした。

玉川幼稚園の入り口
玉川幼稚園の入り口

建物の壁にも絵が描かれていてとても楽しそうな雰囲気です。

これはぜひ訪れて見なければ・・・。と、今回(2008年)、初めて幼稚園の看板が立っている細い路地を入ってみると、岡本幼稚園がありました。

期待を膨らませて訪れるものの、建物は近代的になっていて、百景の文章にある「岡本幼稚園の建物は二・二六事件で暗殺された蔵相高橋是清氏の別邸だったもので、山荘風の構えがよく幼稚園にマッチしている。」という、かつて存在していた別邸はなくなっていました。

帰宅して調べてみると、少し前に幼稚園の修繕とともに取り壊されてしまったそうです。せたがや百景の冊子の写真を見ると、青い三角屋根が似合っている洋風の建物だったようです。

かつての岡本幼稚園の建物(せたがや百景の冊子 世田谷区企画部都市デザイン室制作から引用)
選定当時の建物

*せたがや百景の冊子 世田谷区企画部都市デザイン室制作から引用

現在の玉川幼稚園は敷地も建物も大きく、なかなか立派な幼稚園のようです。どうしても目がいってしまう建物は、色合いはカラフルで、壁にも絵が描かれていたりと、とても楽しそうな雰囲気を醸し出していました。

敷地内にある数々の遊具も、普通の幼稚園よりも凝っているような・・・気がするのですが、どうなのでしょう。

特に目を引くのが、建物の2階から1階へ降りることができる大きな滑り台。これは非常用なのか、それとも普段から遊具として使われているのでしょうか。とても気になります。

色々と想像してしまうのですが、生憎と訪れたのが休日だったので想像を膨らませるだけ。でも、これだけ楽しそうな幼稚園なら、いつも元気に園児が走り回っているのではないでしょうか。

玉川幼稚園の建物など
玉川幼稚園の建物など

2階からの大きな滑り台が気になります。

歴史に名を残す人物が使用していた建物を取り壊すなんて、けしからん。貴重な文化財だ。なんて声が以前はあったようですが、さすがに園児の安全性などを考えると、古い建造物が敷地内にあることは、あまりいいことではありません。

少し分別が付いた小学校にあったのなら、給田小学校の古民家のように保存することも可能だったかもしれませんが、修繕してまで民間の幼稚園に残すという選択肢はなかったはずです。

だったら、建物のみを別の場所で保存すればいいのでは・・・となるのでしょうが、普通の民家ではなく、幼稚園として長く使われてきたので、建物の傷み具合もひどかったことでしょう。それに、内部もかなり改造されていたのではないでしょうか。

当時の面影、とりわけ高橋是清が使用していた面影や、当時の時代的な価値がどれだけ残っていたということを考えると、限りなくゼロに近かったのではないでしょうか。

幼稚園としても、百景に選ばれているし、有名な人の建物なので、役所や文化財関係の団体に相談されているはずです。その結果、お金をかけて移築したり、修繕してまで残すほどではない、という判断になったのだと思います。

1940年代後半の岡本の航空写真(国土地理院)
1940年代後半

国土地理院地図を使用

1990年頃の玉川幼稚園の航空写真(国土地理院)
1990年頃

国土地理院地図を使用

大正から昭和初期にかけて、世田谷の眺めのいい崖線付近には政財界人などが週末を過ごすための別邸が多く建てられました。

高橋是清氏の別邸は崖上ではなく、崖下。しかも、昭和初期の写真を見る限り、周囲は田園風景が広がるような何もない場所。高橋是清氏は週末は田園風景を眺めながらのんびりと過ごすことが好きだったのでしょうか。崖の上に家を建てて悦に浸るような趣向はなかったということでしょうか。色々と興味深いです。

ちなみ、ここよりも少し東南の崖地に瀬田四丁目旧小坂緑地があります。この緑地は、昭和初期に衆議院議員を歴任した小坂順造氏の別宅があった敷地です。今では土地と建物が区に寄贈され、公園地となっています。保存・管理されている当時の建物は、開園時間内なら内部を見学することができます。

現在、こういった古い時代の別邸で、当時のまま現存し、一般に公開されているのは、この小坂邸だけです。興味がわいたなら、見学に訪れてみるといいでしょう。

高橋是清翁の銅像
高橋是清翁の銅像

青山の高橋是清翁記念公園に建てられています。

高橋是清(1854~1936)について少し書いておくと、明治時代の後期には日本の金融界の重鎮であり、大正から昭和初期にかけては首相、蔵相をつとめる政治家だった人物で、功績を挙げればきりがありません。

ただ、その名を一番有名にしてしまっているのが、1936年に起きた二・二六事件となるでしょうか。この事件で、陸軍の青年将校の凶弾に倒れ、83歳でこの世を去りました。

歴史的人物であることから、本邸のあった赤坂(7丁目、青山通りのカナダ大使館ビルの隣)の敷地は、高橋是清翁記念公園となっていて、公園内は庭園風に整備されています。

ここに建てられていた邸宅は、都立小金井公園内の「江戸東京たてもの園」に移築され、公開されています。そういった経緯を考えると、岡本幼稚園にあった別邸も移築するなりして、保存できれば・・・と考えてしまうのもしょうがないことですね。

ちなみに、せたがや百景に選ばれている弦巻の実相院(No.26)に「高橋是清翁之鬚墓」というものがあります。高橋是清の愛顧を受けた永井如雲画伯が、生前にもらい受けた鬚を保存していて、それを埋葬したものになるようです。正式な墓は多摩霊園にあります。

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2、水神橋と水神様

水神橋
水神橋

橋自体はどこにでもあるようなありふれた橋です。

次の項目に登場する強烈な坂、岡本三丁目の坂を下り切ると、その先には仙川が流れていて、橋が架かっています。この橋の一つ下流側(南側)に架かっている橋が、水神橋になります。

二車線道路の橋で、何か特別な装飾がされていたり、何か特別な情緒のある橋ではなく、多くの人が何も感じることなく、橋の名前も気にすることもなく渡ってしまう橋だと思います。

水神様の祠
水神様の祠

水神橋の近くにあります。

なぜ水神橋なんだろう。近くに水神様を祭った祠でもあるのかな・・・、と思っていたら、大蔵氷川神社のお祭りを見学しに出かけた際に、道沿いに小さな祠を発見しました。

おっ、水神様に違いない。と、ワクワクしながら近づいたものの、水神様の文字どころか、何も文字の類がなく、よくわからない祠でした。

すぐ隣が水路の跡だし、水神様っぽい雰囲気もあるし、きっと水神様に違いない・・・と、写真だけ撮り、後で調べてみると、やはり水神様になるようです。

水神様の鳥居と社
水神様の鳥居と社

小さな祠ながら大蔵の人によってきちんと祀られています。

なんでも、大正時代に六郷用水で子供の死亡事故が多発したそうです。これはなにか人知を超えた不吉な事が起きているのではないか。そう考え、鎌倉の易者に占ってもらったそうです。

易者の話では、水神様の御神体がどこかにあるはずだから、それを捜して祀りなさい。さすれば事故が起こらなくなるとのこと。結局、ある家で漬け物石に使われていた事が分かり、それを祀るようになったのが、この水神様になるようです。

話の真偽のほどは分かりませんが、祠の中に祀られている御神体は漬け物石ぐらいの石で、今でも3月3日に神事が行われているそうです。

2019年の岡本の航空写真(国土地理院)
2019年の水神橋周辺

国土地理院地図を使用

また、百景の文章に、「田園風景の面影がそこはかとなく残っている」とありますが、百景の選定から40年も経った現在では、この地域の宅地化が進み、まだ畑はちらほらと残ってはいるものの、田園風景の面影を感じるほどではありません。

1940年代後半の岡本の航空写真(国土地理院)
1980年代初め

国土地理院地図を使用

百景が選定された1980年前半(昭和50年代後半)の航空写真を見てみると、水神橋より下流部にまとまって畑が存在しています。岡本公園へ続く丸子川沿いでも同じです。これだけの畑があれば、田園風景を感じられるわけです。

同じ時期の他の地域を見ても、これだけ畑が残っている地域は他にありません。住所で言うと、鎌田になりますが、間違いなく世田谷最後の田園地帯と言うことができます。というより、昭和の終わりの世田谷に、これほどまとまって畑があった事実に驚きました。

1940年代後半の岡本の航空写真(国土地理院)
1940年頃(戦前)

国土地理院地図を使用

1940年代後半の岡本の航空写真(国土地理院)
1960年代(治水工事期)

国土地理院地図を使用

さらに古い写真を見ると、家がなく、畑だらけの様子に驚きます。江戸時代の世田谷はほぼ全域が農村地帯でした。それが明治になると、徐々に家が建ち並ぶようになり、鉄道が開通し始めた大正時代~昭和初期には、鉄道駅付近の宅地化が一気に進みました。

戦後になると爆発的に人口が増加し、区内の宅地化が凄まじい勢いで進みました。しかし、この界隈、大蔵、岡本、鎌田、そして宇奈根や喜多見は、駅から離れているのもあって、宅地化の波から縁遠く、昭和の後半、百景の選定の頃まで田畑が多くあったというわけです。

とりわけこの地域は洪水に悩まされてきた歴史があります。仙川や野川、丸子川の治水工事が終わり、宅地としての安全性がしっかりと確認できるまでは、なかなか宅地化が進まなかったのかもしれません。

水神橋付近の丸子川親水公園
水神橋付近の丸子川親水公園

昔の大蔵は水車が多くあるような農村でした。

昭和初期には、この付近の仙川沿いや六郷用水などには水車が設けられていました。とてものどかな農村風景が広がっていたようです。

現在では田園風景は消滅してしまいましたが、水神橋付近にはかつての六郷用水の名残である丸子川が流れていて、少しの区間、親水公園として整備されています。

ここでは小川のような流れが再現されているので、昔はこんな風景だったのかもしれないな・・・と少し感じることができます。

更に丸子川を下っていくと、岡本公園があります。ここには民家園があり、茅葺住宅が保存されています。この建物は岡本町域にあったものではありませんが、昔の様子を想像するには十分な存在です。

3、感想など

横から見た水神橋
横から見た水神橋

風景よりも建物の方が昔の面影を残しているかもしれません。

普段何気なく渡っている橋には、古くからの歴史的事案を鑑みて名前を付けられたものもありますし、適当につけられたものもあります。この水神橋はどちらとも取れますが、この橋が水神橋でなければ水神様の前で足を止め、この祠は水神様かなと調べることはなかったはずです。

さりげなくつけられている橋や交差点の名前などは、散策を楽しくするパズルのように感じることがあります。うまくパズルのピースがはまった時、時代の流れの中に埋もれてしまった何か大切なものを見つけることができたりします。

せたがや百景 No.69
岡本玉川幼稚園と水神橋
2025年5月改訂 - 風の旅人
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・地図・アクセス等

・住所岡本3丁目35−10(玉川幼稚園)
・アクセス最寄り駅は田園都市線二子玉川駅、あるいは用賀駅。駅から少し離れています。
・関連リンクーーー
・備考現在では建物は建て替えられてしまい近代的になっています。
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