世田谷散策記 タイトル
せたがや百景 No.27

宮ノ坂勝光院と竹林

桜1-26-35

世田谷城主吉良家の菩提寺。江戸期には家康から御朱印寺領30石を与えられた格式の高い寺で、境内には風格のある庭木も見られる。とくに美しいのは竹林で、竹垣とあいまって品のよい雰囲気をかもし出している。鐘楼の梵鐘は、戦争中応召されたが、鋳つぶされず、10年ほど前に元の姿で無事戻ってきた。(せたがや百景公式紹介文の引用)

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1、世田谷吉良氏とは

本所松阪の吉良邸跡
本所松阪の吉良邸跡地

討ち入りのあった吉良家の屋敷跡です。

「世田谷に吉良氏の墓所がある。」と聞くと、多くの人が「なんであの忠臣蔵の吉良氏の墓が世田谷にあるの。世田谷の人だったけ・・・」と思ってしまうのではないでしょうか。残念ながら、忠臣蔵に登場する吉良上野介は、愛知県の高家旗本になり、この墓地に眠る吉良家とは違います。

歴史的には吉良という苗字は珍しく、他に著名な人がいないので、世間一般的には吉良氏と聞くと、このような感じで忠臣蔵に敵役で登場する吉良上野介を思い浮かべる人が多いです。

しかし、世田谷では少し事情が違い、室町から戦国時代終わりにかけての約200年間、吉良氏が世田谷城を居城とし、世田谷を統治していました。

地元の戦国武将というのは、地元の英雄・・・、とまではいかなくても、多少なりとも誇れる存在だったりします。なので、世田谷区民が吉良氏と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、戦国時代に世田谷を治めていた吉良の殿様・・・。と書きたいところですが、実際は世田谷区民でも世田谷吉良氏について知らない人が多かったりします。

世田谷城址公園 土塁の様子
世田谷城址公園の土塁

石垣が整えられた城跡のように見えてしまいます。

なんでそんなに関心が薄いのか。それは、世田谷の吉良氏があまりにも無名というか、無味乾燥というか、存在感のない勢力だったからです。

中世といえば、群雄割拠の時代。戦では名のある武将が活躍し、頭脳明晰な軍師は知略を巡らせ、欲深い人間は腹黒い陰謀を企てるなど、日本各地で派手に覇権争いが行われていました。

当然、世田谷もそういった激動の時代の真っ只中にあったのですが、この地では歴史の教科書に載るような歴史的な事件が起きていなければ、大きな戦もありませんでした。とても穏やかに時が流れていたようです。

それはそれで素晴らしいことなのでしょうが・・・、後世の世田谷区民としては、あまりの空気っぷりに少々物足りなさを感じてしまったりします。

無名は悪名にも劣ると言いますが、平凡な勢力だったとしても、有名な武将に戦で負けて滅んだとか、歴史に残るようなあくどい裏切りを行った・・・ということでもあれば、中世の世田谷を知るきっかけになるというものですが、あまりにも何もなさ過ぎると、歴史に関心を持つ糸口がなく、興味の対象に上がることすらありません。

高貴なイメージ(*イラスト:cocoancoさん)

(*イラスト:cocoancoさん 【イラストAC】

とまあ、世田谷区民にも、世間的にもあまり知られていなく、特徴のないように思われがちな世田谷吉良氏ですが、他の大名が羨むような凄い能力を持っていました。

それは家柄とか、血統。実は、忠臣蔵に登場する吉良氏と同族の高貴な家柄になります。その効果は大きく、おかげで弱小勢力ながら騒乱に巻き込まれることなく、穏やかに世田谷を統治することができたのです。

吉良の血筋がどれだけ高貴なのか。吉良氏の歴史を書いていくと、まず、平安時代、源義家(源頼朝の先祖)の三男・源義国が下野国足利荘(栃木県足利市)を本拠とし、その次男・源義康が足利の姓を名乗るようになりました。後に室町幕府を開く足利尊氏が登場しています。

鎌倉時代、その足利家の三代目頭領・足利義氏が、承久の乱の功績によって三河国守護職を得て、三河(愛知県)に基盤を作りました。その子供が幡豆郡吉良荘(現在の愛知県西尾市)に土着したことで、吉良氏が誕生しました。

そのまま三河に留まった三河吉良氏が本筋で、忠臣蔵に登場する吉良家になります。世田谷吉良氏は室町時代初期に派生し、奥州(東北)に移り住み、室町幕府の奥州の統治を担う陸奥管領を務めた一族、奥州吉良氏の後裔となります。

とまあ、吉良氏は鎌倉幕府を開いた源氏、室町幕府を開いた足利氏の血を引いているといったエリート一族ということになります。

戦のイメージ(*イラスト:歩夢さん)

(*イラスト:歩夢さん 【イラストAC】

陸奥管領を務めていた奥州吉良氏でしたが、時は肉親同士、同族同士、或いは他勢力と権力を巡って激しい骨肉の争いが行われていた南北朝時代。奥州での争いも熾烈で、吉良治家の時代、奥州の騒乱で敗れ、吉良氏は奥州から駆逐されてしまいました。

戦には破れたものの、吉良治家は鎌倉公方の足利基氏の庇護を受け、上野国(群馬県)に移り住みました。その後、戦などで手柄を立てたことで、世田谷領を賜ったとされています。

なので、世田谷吉良氏の始まりは、吉良治家になります。ただ、実際に世田谷に本拠を移動させ、きちんとした世田谷城を築いたのは、数世代後になるようです。

世田谷吉良氏の歴史については、文献などの情報が少なく、あまりよく分かっていません。吉良治家から5代後の吉良成高の時代には、太田道灌と手を結び、文明年間(1469~87)に数度の合戦に及んだという記録があり、蒔田(横浜市南区)にも居館を構えました。

このことは「太田道灌状」に書かれていて、書状内で「せたがや殿」と敬意をもって書かれていることから、他勢力から一目置かれる存在だったことがうかがえます。

小田原城
小田原城

戦国時代には北条家の居城でした。

太田道灌亡き後、勢いのある小田原の北条家(後北条家)に自ら接近したのか、北条家が関東支配を盤石にするために吉良家の血統を利用しようとしたのか分かりませんが、吉良成高の子の頼康は、2代目当主、北条氏綱の娘を夫人に迎え、3代目当主、北条氏康から名前に「康」の一字もらうなど、北条家と親しい関係を築いています。

しかしながら、時代は力を持つものが覇権を争う戦国乱世となっていき、いくら血筋や家柄がよくても、実力がなければ蹴落とされる下剋上の様相が強まります。

更には、足利幕府が形だけの存在となってしまい、吉良の血筋も昔ほどの影響力はなくなり、徐々に強大な北条の勢力に組み込まれていくことになります。

それが決定的となったのが、次の当主である氏朝の代。頼康には子がなく、前妻と同じく北条氏綱の娘である、さき姫(高源院)と、今川家の堀越貞基との間に設けた氏朝を養子に迎えています。

形的には甥が継いだことになりますが、ここで吉良家の血は途絶えてしまったことになります。ただ、今川家は吉良家と同じ足利一派。肝心な根っこの部分、高貴とされている源氏や足利の血は維持されました。

この氏朝の代からは、事実上、北条家の支配下に置かれた状態で、1560年頃には家臣団のほとんどが北条家直属となり、吉良氏は名門という地位があるだけの飾り的な存在に成り下がってしまいました。

小田原城
小田原城から出陣する様子(小田原北條五代まつり)

天正18年(1590年)、その北条氏は豊臣秀吉の小田原征伐で破れ、滅亡します。北条方についていた氏朝は、一説によると小田原に参上し、北条氏とともに籠城したとされていますが、吉良家がこの戦でどういった行動をとっていたのかは定かではありません。ただ、世田谷城や支城では戦が行われていなく、おそらく無血で世田谷を手放したようです。

小田原の役の後、戦後処理が行われました。吉良家は新たな関東の支配者、徳川家に従属を誓うものの、北条方に付いて戦い、血縁関係にあったので、世田谷などの所領は没収。代わりに上総国長柄郡寺崎村1125石が氏朝の子、頼久に与えられ、事実上、配置替えになりました。

また、高家で吉良を名乗るのは本家のみという家康の意向があり、吉良から蒔田姓へ変更しています。そして、幕末まで旗本として存続していくことになります。

弦巻実相院 山門
弦巻実相院

弦巻にある木々の多い寺院です。

世田谷吉良氏最後の殿様となってしまった氏朝は、再び世田谷に戻ってきて、鶴巻にある實相院で妻とともに隠居生活を送り、1603年(慶長8年)に亡くなっています。

上総に配置替えの際、多くの家臣が世田谷にとどまり、帰農しているので、新しい土地(環境)に馴染めなく、顔なじみの多い世田谷に戻ってきてしまったのでしょうか。

そのへんの事情は分かりませんが、世田谷の大地主となっている家系は、吉良氏の家臣だった家柄が多いです。その家臣の一人だった大庭家は、後に世田谷代官職に取り立てられ、約200年間、代官職を務めました。

最後に、最初に書いた忠臣蔵の事件(1703年)ですが、実は蒔田と姓を変えた世田谷吉良氏の末裔にも大きな影響がありました。

事件の後、鎌倉時代から続く本家の吉良家はお家断絶となりました。このまま高家の格式のある吉良家が消えてしまうのはよくない。ということで、世田谷吉良氏の末裔である蒔田家の義俊が、姓を蒔田から吉良に戻す許可を幕府に求め、1710年に許可が下り、以降、吉良の姓と高家の格式を引き継いでいます。

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2、勝光院について

1940年頃の勝光院周辺の航空写真(国土地理院)
1940年頃の勝光院周辺

国土地理院地図を書き込んで使用

1980年代の勝光院周辺の航空写真(国土地理院)
1980年代

国土地理院地図を書き込んで使用

上町から世田谷八幡へ抜ける旧道に、吉良家菩提寺となっている勝光院の参道があります。江戸時代は世田谷一の格式を誇っていただけあり、昔は立派な参道がありました。

昭和初期の航空写真を見ると、周囲には家が建っていなく、とても存在感のある参道とお寺だったことが分かります。なんでも150mほどの参道の両側にはソメイヨシノが植えられ、ちょっとした桜並木になっていたとか。

1960年頃には周囲に家が建ち並び、参道が目立たなくなり、1980年代になると、もはや住宅地に埋まっている状態になります。でも、この時点では参道の両脇に木が生えているのが確認できるので、この頃までは桜並木が部分的に残っていたと思われます。

勝光院の参道
勝光院の参道

現在は植木の多い普通の住宅街といった感じです。

現在では、桜が枯れてしまったのか、道路を広げるためだったのかはわかりませんが、桜並木はありません。参道の碑は建てられているものの、住宅地にある普通の道とあまり変わらない状態になってしまっています。

ただ、今でも参道の北側は広い所で1m程度が寺地のままのようで、手入れの施された植木が道沿いに並んでいて、かつて素晴らしかったとされている参道の名残りを少し感じることができます。

勝光院 山門と竹林
山門と竹林

敷地の右側が竹林で、左側が墓所になっています。

その参道を真っすぐ進んでいった先に、こんもりと木々が生い茂る丘があり、そこが勝光院の境内になります。大通りに面していないし、住宅地の奥にあるので、とても静かで落ち着いた環境です。

とはいえ、すぐ裏手にあるのは区立桜木中学校。時間帯によっては賑やかな子供たちの声が聞こえてくることでしょう。訪れるタイミングによって印象が違ってくるかもしれません。

社地を入っていくと、右側に立派な孟宗竹の竹林が広がっています。百景のタイトルにわざわざ「竹林」と加えられているのも納得の美しさで、特に新緑の時期に訪れるとすがすがしさを感じます。

この勝光院は、戦略的に世田谷城の防御砦の一端を担っていました。世田谷城を含め、この界隈はあまり防御に適した地形をしていません。なので、防御手段として竹林があちこちに配置されました。

竹林を配すことによって敵からの眺望をさえぎるだけではなく、攻め込まれたときにも敵の人馬が簡単に進めない防御壁となるからです。この竹林もその名残ではないかと推測されています。

勝光院 お地蔵様と竹林
お地蔵様と竹林

雰囲気のいいお地蔵様です。

山門の前には竹林の背にして一体のお地蔵様が置かれています。まるで竹林を守っていらっしゃるといった感じで、とても趣きを感じます。私的には世田谷の中で好きなお地蔵様の一つです。

勝光院 山門
勝光院の山門

光のがよく通る山門です。

この勝光院(しょうこういん)ですが、現在の宗派は曹洞宗、山号は延命山です。案内板によると、建武二年(1335年)に吉良治家氏(法名興善寺殿月山清光大居士)によって創建され、初めは臨済宗の金谿山龍鳳寺と名付けられていたようです。「新編武蔵風土記稿」によると、開山は吟峯公禅師となっています。

その後は衰退していったようで、天正元年(1573年)に吉良家最後の当主となった吉良氏朝が天永琳達禅師を呼び、中興開山をしています。その際、父頼康の院号(勝光院殿脱山浄森居士)により興善山勝光院と改称し、この時に臨済宗から曹洞宗に改宗しています。

天正十年には客殿(旧本堂)の建立を行い、その時に吉良家家臣の関加賀守が現在の本尊である虚空蔵菩薩像を寄進したようです。

勝光院 境内
境内

大きな屋根の本堂と庫裡が並び、整然とした感じです。

天正18年(1590年)には豊臣秀吉によって小田原の役が起こり、小田原北条氏が滅びました。その際、小田原北条氏側についていた世田谷吉良氏は、世田谷の所領を没収されました。

その翌年の天正十九年(1591年)には、北条に代わって新たな関東の治世者となった徳川家康は、勝光院に対し寺領三十石(朱印寺社領)を与えています。現在の桜付近の土地になります。

これは勝光院にだけではく、関東一円の寺社に一斉に与えられたのですが、この朱印寺社領というのは寺の格式をよく表しています。決定に際しては、その寺社が持つ格式の高さ、徳川家へのつながりの深さや貢献度などで石高が決められていたとのことです。

特筆すべきは、一般の寺は五石とか、十石だったのに対し、勝光院の寺領は三十石もあったことです。これはかなり多く、破格ともいえます。もちろん世田谷区内でも断トツです。

この地の前支配者であった吉良家の菩提寺の寺領を約束することで、治世を移行しやすく、地域の安定化を計るといった意図があったことは確かですが、それにしては多すぎるので、徳川家から高貴な家柄である吉良家に対する敬意が多分に含まれていたのではないでしょうか。

所領を没収された吉良家でしたが、家康に服従することで上総の国の寺崎に新たな所領をもらいました。お家も菩提寺も維持されることになり、勝光院は引き続き吉良家(姓を蒔田に変更)の菩提寺として使われることになります。そして時が流れ、元文二年(1737年)に山号を延命山に改めたようです。

勝光院 本堂
本堂

均一が取れた建物です。

山門をくぐり、背の高い木々が並ぶ階段を上ると、本堂や庫裡のある広場に出ます。屋根の大きな建物が並んでいる境内は整然とした雰囲気がし、植木などの手入れもよく行き届いているので、品があるといった表現がふさわしいでしょうか。

この広場からは見えませんが、本堂の裏手には区の有形文化財に指定されている書院があります。この書院は文政六年(1823年)に再建されたもので、内部は数奇屋風の書院造りをしていて、南側に表座敷二間と、北側に裏座敷、納戸座敷を配した4つの部屋で構成されています。

勝光院 鐘楼と竹林
鐘楼と竹林

竹林を背に鐘楼があります。

勝光院 梵鐘
勝光寺の梵鐘

世田谷区指定有形文化財、区内で2番目に古いとか

境内の隅、竹林を背に立派な鐘楼が建っています。鐘楼に吊るされている鐘は、元禄十一年(1698年)に制作されたもので、区内で2番目に古い梵鐘になります(1番は豪徳寺の釜六の鐘)。

制作者は八王子の加藤吉高氏。加藤鋳物師の一人で、鐘は優美で均整が取れいて工芸品としても価値が高い逸品です。それとともに、鐘の内部には勝光院の名の由来や家康から朱印領三十石を受けていた事などが記されているので、歴史的な資料としても価値があります。

その上ちょっとした逸話があり、太平洋戦争時に軍事物資として供出に応じたものの、運よく難を逃れ、葛飾区の金蓮寺に伝えられていたのが、昭和52年にめでたく戻ってきました。その時に鐘楼も新しく建て直されました。

この鐘楼の前には一般的な梅としだれ梅が植えられています。梅の花が開花する2月中旬~下旬頃は、少し境内に色どりと、甘い匂いが加わります。

勝光院 梅の木
梅の木

鐘楼の前などに植えられています。

その他、寺には寺宝として「火蛇の爪」といった変わったものが伝えられているそうです。天正年間のことになるようですが、葬式の時に怪物が襲ってきて、それを数珠で追い払ったところ、爪を落として退散したとかなんとか。ゲゲゲの鬼太郎の世界ですね。ぜひ実物を見てみたいのですが、一般の参拝者にはなかなか難しそうです。

また、常盤伝説に出てくる常盤愛用の短刀もかつて保存されていたという話ですが、現在はなくなってしまったそうです。とまあ、ちょっと怪しい言い伝えもあったりします。きっと江戸か、明治期に、人のいい住職がボロ市で怪しい古美術商に色々と買わされてしまったのでしょう・・・。(勝手な憶測です)

3、吉良氏墓所

勝光院 吉良家の墓所
吉良家の墓所

墓石は大きくないもののこの一角は貴賓がありました

この勝光院は吉良氏の菩提寺となっていて、墓地内の中央付近の一画に世田谷区指定史跡の吉良氏墓所があります。

吉良家墓所は比較的広く、一番奥には立派な宝篋印塔が並び、いつ訪れてもきれいに掃除してあり、中央の祭壇に花が供えられています。なかなか素晴らしい空間です。宝篋印塔の背後には桜の木があるので、桜の時期には少し華やかな雰囲気になります。

勝光院 墓石群
一番奥の古い墓石群

よく墓石を見るとバラバラです。

案内板によると、ここの墓所内には全二十八基の墓と、集積された墓塔が十数基残っているそうです。これらの墓の主は吉良氏朝の孫・蒔田義祗以降の一族となるようです。

ってことは、江戸時代以降の人になり、しかも、吉良ではなく、蒔田姓を名乗っていた人たちの墓ってことになります。

もっと古い時代の人の墓は・・・となるのですが、よく分かっていません。ここ勝光院は、初代の世田谷吉良氏である吉良治家が建武二年(1335年)に建て、最後の当主となった氏朝が、天正元年(1573年)に中興開基しています。

初めは吉良治家の院号、興善寺殿月山清光大居士から金谿山龍鳳寺と名付けられていたし、氏朝が中興開基したときも、父の頼康の院号、勝光院殿脱山浄森居士から興善山勝光院と改称しているので、こういった人たちの墓が、目立つところにあってもおかしくはないのですが、特にそれらしい墓はありません。きちんと専門家が調査していることでしょうから、そういうことなのでしょう。

勝光院 墓石群
隅っこにまとめられた墓石

組み合わせがわからなく、隅っこにまとめられていました。

隅っこには行き場がないといった感じで、墓塔などがきれいに並べてあります。実際のところ、並べられている宝篋印塔は地震などで何度も崩れてしまい、正しい組み合わせが判らなくなってしまったとか。明らかに石質の異なっていると感じる組み合わせで積まれているお墓もあります。

古い年代のものだし、彫られている文字も不鮮明だし、どれも似たような形なので、組み合わせがわからないのもしょうがありません。

なかには1349年(貞和5年) の文字が刻まれているものもあるそうですが、これは江戸時代に作り直したものになるとか。結局のところ、はっきりわかっているのが、江戸時代になってからの氏朝の孫・義祗以降ということで、それ以前の殿様や奥方のものはあるかもしれない・・・といった感じになるようです。

勝国寺(世田谷)
勝国寺(世田谷)

区役所の北側にあります。

実際、吉良家の人たちはどこに墓があるかわからない人ばかりです。最後の当主となった氏朝は、夫人とともに隠居していた弦巻實相院が菩提寺になります。以前は夫妻の墓があったそうですが、現在は不明となっています。

その義理の父、常盤伝説に登場する頼康は、院号と一致するここ勝光院が一番しっくりするのですが、頼康に所縁のある世田谷区役所の北側にある勝国寺や蒔田の勝国寺が菩提寺だという説もあります。候補は多くあるものの、手がかりが全く残っていません。

勝国寺(横浜市南区蒔田)
勝国寺(横浜市南区蒔田)

蒔田城跡近くあります。

勝国寺(横浜市南区蒔田) 吉良家の供養塔
吉良家の供養塔

一つは政忠の供養等とされています。

更にその父、大田道灌から「世田谷殿」と言われていた成高は、あまり手掛かりがありません。その父、政忠は、世田谷以外に持っていた蒔田領(横浜)にある勝国寺に供養塔が残っています。院号と一致するので、これは間違いないようです。

ここには4つの供養塔があり、伝承では残りは頼康や成高のものだと伝えられていますが、文字が判別できなく、伝承の域を出ません。というより、勝光院に先代の頼康の墓があったから、ここは吉良の寺ということで、家康から寺領30石という破格の待遇を受けたのではないでしょうか。それが一番しっくりきます。

その他、豪徳寺の前身は世田谷城内にあった「弘徳院」と呼ばれていた小庵です。これは文明十二年(1480年)に吉良政忠が伯母の供養ために建てられたものとされています。

どうやら吉良家では、昔の古墳のように当主が亡くなったら次の代がお寺を建てて供養するといった風習があったような感じです。高貴な家柄らしいといったところでしょうか。なので、吉良家として勝光院にまとまった墓所を造ったのが、江戸時代になってからということなのかもしれません。

4、感想など

勝光院 吉良家の墓
吉良氏の墓

歴史を感じさせる佇まいです。

私が世田谷散策を始める前、都内の大名墓地やその所縁の寺などといったものに興味を持ち、都内を歩き回ったことがあります。その時に世田谷でも豪徳寺の井伊家の墓地、松陰神社の吉田松陰の墓所、そしてここ勝光院を訪れました。

でも、その時は吉良氏って誰?忠臣蔵で殺害された一族?といった程度の知識しかなく、特に何もない寺だな・・・と、何となく写真を撮って後にしただけでした。

せたがや百景や世田谷散策に興味を持ち、世田谷の歴史や吉良氏という存在を理解してから訪れると、なんというか・・・、全く雰囲気が違って見えるものですね。そう考えると、旅や散策を楽しむには予備知識というスパイスが必要なんだな・・・と思ってしまった次第です。

せたがや百景 No.27
宮ノ坂勝光院と竹林
2025年5月改訂 - 風の旅人
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・地図・アクセス等

・住所桜1-26-35
・アクセス最寄り駅は世田谷線上町駅、もしくは宮の坂駅
・関連リンク勝光院書院(世田谷区)、勝光院の梵鐘(世田谷区)
・備考吉良氏墓所(世田谷区指定史跡)、梵鐘(世田谷区指定有形文化財)
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