世田谷城址公園
豪徳寺2-14初代吉良氏が南北朝のころ、関東管領足利基氏から戦の手柄により武蔵国世田谷領をもらいうけて、築城したのが始まりといわれる。平城で、三方を塀で囲んだ防備の堅固な城であったが、現在はわずかに小高い台地の中に枯山水風の谷や小川があり、緑の茂る公園となっている。(せたがや百景公式紹介文の引用)
1、世田谷城と吉良氏

世田谷線の上町駅の北側、豪徳寺のすぐ近くに世田谷城址公園があります。名前の通り、中世にこの地に存在していた世田谷城の跡地を利用した公園になります。
多くの人は世田谷城と聞いて、「えっ、世田谷城なんてあったの?」というような新鮮な驚きがあったのではないでしょうか。その存在を知っていたという人でも、城主が誰だったかまで知っている人は、ほとんどいないのではないでしょうか。それが普通の反応だと思います。

(*イラスト:イラストスターさん 【イラストAC】)
中世といえば、群雄割拠の時代。日本各地で覇権争いが行われていました。戦では名のある武将が活躍し、頭脳明晰な軍師は知略を巡らせ、有能な忍者は隠密や策略を実行し、欲深い人間は腹黒い陰謀や謀反を企てるなど、日本中で様々な大名や武将が活躍、或いは夢を散らしていました。
そんな激動の時代、世田谷では歴史の教科書に載るような歴史的な事件や、大きな戦が全く起きていません。とても穏やかに時が流れていたようです。
歴史が好きで、歴史にロマンを感じるような人にとっては、なんだ。つまらない・・・と、あまりの世田谷の空気っぷりに、もどかしさや物足りなさを感じてしまうことでしょう。
とはいえ、この土地で暮らしていた普通の人々にとっては、覇権争いや天下統一などといったことは、どうでもいいこと。命や生活を脅かすような争いが起きず、安定的に過ごせることが何より大事です。
そういう点においては、とても暮らしやすかった土地となり、何もなかったことは誇れることかもしれません。領主による重税に苦しめられていなければ、ですが。
世田谷城に関しても、教科書に載るような人物が統治していたり、築城もしていません。また、大河ドラマに登場するような武将、例えば前田利家が率いる軍隊に攻められて、城兵の奮闘や籠城も虚しく陥落した・・・みたいなことも起こっていません。
とまあ、中世の世田谷が歴史の教科書に出てくることがなければ、大河ドラマに登場することもありません。自ら世田谷の郷土史に興味を持たない限り、世田谷城やその時代の世田谷について知る機会がないというのが実際のところです。なので、世田谷城なんてあったんだ・・・という反応になってしまうのもしょうがないことです。

世田谷城の他にも、中世の世田谷には奥沢城(九品仏浄真寺)、兎々呂城(園芸高校)、瀬田城(行善寺近く)、喜多見城、三宿城、烏山城、その他もろもろと城址が存在していました。
数だけから考えると、昔から世田谷は栄えていたように感じますが、どれも簡素な小さな砦のような城址だったので、現在ではほとんどが痕跡すら残っていません。
現在の世田谷は、94万人もの人が暮らす都会というか、人口密集地域ですが、江戸(東京)が首都になる以前は、人口がとても少ない田舎でした。石高は少なく、隣接地を含め、戦略的にもそんな重要な地点ではなかったので、戦で犠牲を払ってまでして奪いたくなるような土地ではなかったというのが、実際のところでしょうか。

公園前の交差点からの様子。秋にはとっても色彩豊かになります。
世田谷城について書いていくと、この城は室町から戦国時代に世田谷を支配していた吉良氏の居城になります。この時代は世田谷城を中心に町や道などが整備されていました。
正確な築城時期はわかっていませんが、室町時代の15世紀中頃には存在していたと考えられ、一説によると、吉良氏が来る前の貞治4年頃(1365年)には、何かしらの拠点があったのではないかと言われています。
その後、吉良氏がこの地に腰を据えるようになってから、城が整備され、吉良氏の居城としてこの地で栄えていくことになります。

世田谷城からそんなに離れていない場所にあります。(百景27)
世田谷は吉良氏が治めていたんだ。あれっ、もしかして吉良氏って、あの忠臣蔵の・・・?と、世田谷を治めていたのが吉良氏と聞いて、忠臣蔵で有名な吉良上野介を思い浮かべた人も多いのではないでしょうか。
残念ながら、忠臣蔵に登場する吉良上野介は、三河の吉良氏になります。ただ、世田谷の吉良氏とは根っこが同じ一族となり、三河吉良氏が本流で、世田谷吉良氏は室町時代に枝分かれした庶流になります。
吉良氏って大きな一族なんだ。世田谷とも関りのある吉良氏ってどんな家柄の人?と、ちょっと興味がわいてくるでしょう。

足利の荘の中心部分です。
吉良氏について書いていくと、まず、時を鎌倉時代まで遡っていきます。源氏の血を引く足利家が、下野国足利(現・栃木県足利市)を拠点にしていました。位は高く、鎌倉幕府において御家人であると同時に、将軍家一門たる御門葉の地位にありました。
その3代目当主、足利義氏(室町幕府を開いた足利尊氏は8代目)が、承久の乱の功績で、三河国守護職を得て、三河に基盤を作ります。その庶長子(*家系図的に長男とは限らない跡継ぎ)長氏と、弟の義継を幡豆郡吉良荘(現在の愛知県西尾市)に土着させたことで、吉良氏が誕生しました。
吉良荘は古矢作川の東西に広がっていて、川の西側、西条を長氏が本拠とし、東側の東条を弟の義継が本拠としました。この東条吉良氏と呼ばれる義継が、世田谷吉良氏の祖となります。ただ、はっきりとした記録が残っていない人物なので、そうらしいといった感じになるようです。
ちなみに、長氏の次男は幡豆郡今川荘を拠点とし、桶狭間で織田信長に敗れた今川氏の祖となっています。足利、吉良、今川という家系は、すべて同じ血筋になります。後で重要なポイントになるので、覚えておいてください。

征夷大将軍となり、室町幕府を開いた人物です。
鎌倉幕府が倒れ、足利尊氏による室町幕府が始まると、足利一族の吉良氏は重用されます。東条吉良氏の第3代目となる吉良経家の子、吉良貞家は、奥州管領(奥州探題の前身)にまで出世し、陸奥多賀城を拠点にし、足利政権の奥州統治の要となりました。奥州吉良氏の誕生です。
しかしながら、この時代の権力争いは壮絶でした。1350年には、将軍・足利尊氏と、その弟足利直義の政権内での派閥による内紛、観応の擾乱が勃発しています。いわゆる南北朝時代の始まりです。
吉良貞家は、弟・直義側、北朝側に付いたことで、以降、奥州の覇権を巡って畠山家、斯波家などと争うこととなり、次の満家、更にその子の持家(治家)も騒乱に巻き込まれます。
世田谷の吉良氏を語るのに欠かせないのが、吉良治家という人物。吉良持家は幼くして家督を継いだため、満家の弟、いわゆる叔父である治家が補佐したとされています(満家の実子だったという説もあり)。ただ、この時に身内で派閥争いが起き、奥州吉良家は衰退。他の勢力に破れ、奥州を去ります。
奥州を去った吉良治家は、初代鎌倉公方の足利基氏(尊氏の子)から招かれ、上野国碓氷郡飽間郷(現在の群馬県安中市秋間付近)を与えられます。そして、ここを拠点にして、少しずつ勢力を回復していきます。*鎌倉公方とは、関東一帯の支配を任された鎌倉府の長官。
上野国での吉良治家は、「鎌倉公方の御一家」という好待遇を受けています。吉良家の血筋がいかに高貴であり、重要だったかが分かります。
この飽間郷での暮らしの中で、武功を上げるなどして足利基氏に認められ、世田谷郷を賜ったのではないか・・・と推測されています。
このへんの事情ははっきりしていなく、しっかりと年号を確認できるのは、鶴岡八幡宮にある文書になり、永和2年(1376年)に世田谷郷が吉良氏の所領となっている事が記されています。

都指定旧跡になっています。
世田谷城に関しては、貞治5年(1366年)に吉良治家によって築城されたとも言われていますが、正確な築造時期は不明です。小さな拠点みたいなものは造ったかもしれませんが、この時期はまだ上野国に腰を据えたままだったようです。
古文書で吉良氏が世田谷郷を本拠地としていたことが確認できるのは、応永33年(1426年)になってからです。
おそらく、吉良治家の2代後、8代目の吉良頼氏の時に飽間郷から世田谷へ拠点を移したのではないかとされています。これより奥州吉良氏から、武蔵吉良氏と呼ばれるようになります。
しっかりとした世田谷城を築いたのは、10代目の吉良政忠か、11代目の吉良成高の時代だったとされています。政忠は叔母を弔うため世田谷城内に弘徳院を創建していますが、この寺が豪徳寺の起源になっています。
成高が城を整備したという方が有力となっていて、成高は太田道灌と共に合戦に挑んでいたり、道灌から「せたがや殿」と記された文章が残っていたりと、一目置かれている様子が確認できます。ちなみにいうと、この戦いが世田谷での吉良氏が合戦をした唯一の記録となっています。

12代目の頼康は、区内に伝わる常盤伝説(さぎ草伝説)に出てくる人物です。政略結婚で北条家2代目当主、北条氏綱の娘と結婚し、後に3代目の北条氏康より一字拝領して、頼貞から改名しています。
源氏の血筋を引き、時の将軍家である足利の一門という家柄は、当時はとても影響力があり、小田原の北条家からも一目置かれる存在になっていたことが伺えます。
しかし、室町幕府の将軍足利家が失墜し、幕府は形だけの存在となり、時は群雄割拠の戦国時代に突入しました。地位や身分よりも力がものをいう下克上の風潮が強まっていくと、吉良家の影響力は低下し、頼康の代からは北条の権力に負けているような事象が多くみられるようになります。

ゴールデンウィークに行われます。
13代目は吉良氏朝。実は頼康の実子ではなく、養子になります。氏朝は、遠江今川氏の堀越六郎と、北条氏綱の娘・崎姫との間に生まれているので、ここで吉良の血筋は途切れてしまうことになります。
ただ、先に書いたように今川家は吉良氏と根っこは同じです。吉良家の存在意義とも言える源氏や足利の血筋は維持されることになるので、そこまで大きな抵抗はなかったのかもしれません。
しかしながら、この代からは明らかに北条氏の影響力が大きくなり、従属と言っても差支えないような関係になっています。
天正18年(1590年)には、小田原の役で豊臣秀吉によって北条氏は倒され、滅亡します。その際、世田谷城の当主だった吉良氏朝は、抵抗もなく城を開け渡しています。新たな関東の支配者徳川家に対し、従属を誓うことで、国替えとして下総国に下り、姓も蒔田と変更しました。血筋はずっと続くものの、これにて世田谷吉良氏の名は終焉となります。
世田谷城はと言うと、徳川家が江戸に入って支配者になると、世田谷城の重要性は薄くなり、そのまま廃城となりました。過大に評価しているような文献も見られますが、所詮はその程度の城だったということなのでしょう。
2、世田谷城址公園について

交差点にある入り口には石碑や案内板が設置されています。
世田谷城址公園は、昭和15年に開園した世田谷区内唯一の「歴史公園」で、「東京都指定文化財」にもなっています。
現在、世田谷城址公園となっている場所は、世田谷城の南東端の一部で、防御用の櫓などがあったとされている部分です。

*国土地理院地図を書き込んで使用
城址公園のすぐ南側を烏山川が回り込むようにして流れていて、その舌状台地に築かれたのが世田谷城となり、烏山川が天然の堀となり防御の要となっていました。それを南側の防御とし、北側は滝坂道にかけて竹林を造って防御に充てたとされています。
とはいえ、昔は水量が多かったといっても、しょせんは小さな川。川の近くは湿地帯になっていたとしても、小さな川や竹林だけでは、天然の要害とはならなく、守りにくく、攻めやすい城だったことが想像できます。


かつての世田谷城は、北側に広がる広大な豪徳寺境内も城の敷地で、本堂などが建っている部分が本郭だったのでは・・・と、一般的には考えられていますが、どのような規模で存在し、どのような形態ををしていたのかは、はっきりと分かっていません。
吉良氏の権力を考えると、それなりに大きかったような気もしますが、当時の世田谷の人口の少なさや、戦争の記録がない点、長くこの地を拠点にしていなかったことを考えると、実際は思うほど立派なものではなかったような気もします。

石垣が整えられた城跡のように見えてしまいます。

起伏や障害物が多く、鬼ごっこやかくれんぼをするには最高です。
現在、城址公園で見ることができるのは、わずかな空堀と土塁の痕跡です。これらの遺構は16世紀前半に大改築された時のもののようです。
あまり期待せずに訪れてみると、一応、立派な石垣が残っているではないか・・・と感激するものの、近づいてみると、近代的な崩落防止用の石垣でした。
公園として整備するときに造ったもののようで、昔はあくまでも土を盛り上げただけ(掻き揚げ)の土塁で囲まれた城だったとされています。
そう考えると、石垣で整備してしまっては・・・、蛇足というか、本末転倒というか、画竜点睛を欠くような公園化ではないでしょうか。
でもまあ、野毛大塚古墳のように土塁が崩れたら批判を浴びるし、斜面で子供が遊んで怪我でもしたら苦情がきてしまいます。住宅地の中にある公園ということで、しょうがないといったところでしょうか。

奥の方にはフェンスが張り巡らされていて、その向こう側にも土塁が続いているようですが、そちらは入れないようになっています。
この部分が手つかずのままの遺構となるようです。といっても、素人目には木がぼうぼうと生えている土の山とか、よくても手入れのされていない古墳にしか見えないのですが・・・。


この他、奥のフェンスの先、城址公園の北側の住宅の中に土塁跡のような盛り土があったり、豪徳寺の松並木参道の横にも土塁のような盛り土があります。
これらも世田谷城の痕跡ではないかと言われていますが、世田谷城がどのような規模で、どのような城だったのかわかっていないので、あくまでも推測の域を出ません。
その他、遺構ではありませんが、上町の駅から城址公園の前を通り、世田谷八幡宮、経堂、祖師谷大蔵に抜ける道が城山通りだったり、豪徳寺の東にある小学校が城山小学校だったりと、城にちなんだ名称が付けられています。
いかにも城下町っぽく、歴史情緒がありそうな「城山通り」が世田谷にもあったとは・・・。意外な発見でした。

通り沿いには遊具やトイレが置いてある広場もあります。
最後に、城址公園ということで、公園といった目線で見てみると、城山通り沿いのスペースに遊具やトイレが整備されていますが、それ以外は特に何があるわけでもなく、芝生でくつろぐといったスペースもなく、あまり訪れる人が多くないです。
ただ、起伏があって、木々が多く、死角も多くできるし、人がほとんどいないしと、鬼ごっこをするには絶好の公園です。子供が楽しそうに走り回っている光景をよく見かけます。
3、感想など

紅葉の時期は彩り豊かな散歩道になります。
この世田谷城址公園は、作家である遠藤周作氏の縁のある場所で、よくこの付近を散歩していたそうです。そして、この城を知ることによって、中世の城郭に興味を持つきっかけになったそうです。
そのことは短編集「埋もれた古城(1971年著)」の「身近な城あと世田谷城」に記されています。
「それは今、バスが通り、アパートが建っている場所に埋もれて往時を偲(しの)ぶ何ものもないかも知れぬが、しかしそこにはやはり歴史が生きているのである」「けれども今日、この城の存在さえ世田谷の区民は知らぬであろう」などといった言葉は、言い得て妙であり、現在でも状況は変わらないといったところでしょうか。
彼ほどの知識人ともなると、目に見えない部分から想像力や知識を駆使して、多くのことが見えてしまうのですね・・・。
歴史に登場しないし、知名度もないし、城跡には何も残っていないので、訪れても大して面白味がないかもしれませんが、中世にこの場所に吉良氏が城を建て、この地域を支配していたのは事実です。
そして吉良氏を中心として、多くの人がこの地で暮らし、歴史をつないできたことも確かです。何もないとぼやくよりも、遠藤氏のような感性で見学するのが、この世田谷城址の正しい見学方法なのでしょう。
せたがや百景 No.22世田谷城址公園 2025年5月改訂 - 風の旅人
・地図・アクセス等
・住所 | 豪徳寺2-14 |
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・アクセス | 最寄り駅は世田谷線上町駅 |
・関連リンク | 世田谷城址公園(世田谷区) |
・備考 | 都指定旧跡、区立公園 |