招き猫の豪徳寺
せたがや地域風景資産 #3-6豪徳寺参道の松並木
豪徳寺2-24-7井伊家の菩提寺。幕末の大老井伊直弼の墓もここにある。区内有数の名刹で、広い境内には江戸開府のころ「オイデオイデ」の手招きで井伊直孝を危険から救ったという招き猫の伝説の招福堂や鐘楼、本堂が立っている。福を呼ぶ招き猫が門前で売られている。(せたがや百景公式紹介文の引用)
1、豪徳寺と参道の松並木

*国土地理院地図を書き込んで使用
世田谷線宮の坂駅の東に、彦根藩井伊家の江戸での菩提寺となっていた豪徳寺があります。せたがや百景のタイトル通り、現在では井伊家の菩提寺としてよりも、招き猫の寺としての方が有名でしょうか。
大名の菩提寺らしく広大な敷地を擁している豪徳寺は、次の項目で紹介する世田谷城の跡地を利用して建てられたとされています。
本殿や仏殿がある辺りが本郭部分にあたるのでは・・・と言われていますが、かつての世田谷城がどの程度の大きさだったのかは明らかになっていないので、寺全体が城の敷地だったのか、一部のみだったのかは、定かではありません。

かなり年季の入った寺標です。
正式な名称は、大谿山豪徳寺。豪徳寺の寺伝よれば、世田谷城内にあった「弘徳院」と呼ばれていた小庵が、寺の起源になるとのことです。
この弘徳院は、文明十二年(1480年)に吉良政忠が伯母の供養ために建てたもので、その法号「弘徳院殿久栄理椿大姉」に因んでいます。
天正十二年(1584年)には、門菴宋関住職が中興開山し、臨済宗から曹洞宗に改宗しました。
この門菴宋関住職は、後の1612年に、忠臣蔵で有名な高輪泉岳寺の開山を行っています。江戸時代の泉岳寺は、曹洞宗江戸触頭三ヶ寺(泉岳寺、青松寺、総泉寺)ならびに三学寮として知られ、多くの末寺を持つ大寺院だったそうです。豪徳寺もその一つでした。

城山通りに参道の入り口があります。白の門塀がおしゃれな感じです。
戦国時代の終わり、豊臣秀吉の小田原攻めにより、関東一帯を支配していた小田原北条氏が滅亡しました。北条氏と従属関係だった世田谷吉良氏もこの地を追われることとなり、世田谷城は廃城となりました。
吉良家の後ろ盾がなくなってしまったので、城内にあった寺は廃れていくことになります。しかし、江戸の世となってからしばらくすると、寺の状況が変ります。
寛永十年(1633年)に彦根藩世田谷領が成立した後、彦根藩主井伊家の菩提寺として取り立てられました。住職の飼い猫が通りがかった藩主を寺に招いたのが縁になったという招き猫伝説がありますが、実際のところはどうだったのでしょう・・・。
中興開基を行った二代目藩主井伊直孝の没後、その娘、掃雲院が本殿(現・仏殿)などを建立していき、寺の伽藍が整えられていきました。そして、彼の法号「久昌院殿豪徳天英大居士」から豪徳寺と寺号が改められました。
以降、江戸で亡くなった彦根藩主やその家族だけではなく、藩士もここに葬られることになります。

立派な黒松の並木で地域風景資産に選定されています。
長い歴史を感じるような古めかしい寺標が城山通りにあり、ここから豪徳寺の参道が始まります。
寺標の後ろには、昭和の初めに寄進された白い壁と門柱があり、白色の壁がコントラスト的に後ろの松並木を引き立てていて、すっきりとしているというか、おしゃれというか、センスを感じるような門前となっています。
参道の松並木は黒松です。背が高く、立派な松がずらっと並んでいる様子は素晴らしく、松のトンネルとなっている参道を歩くと、松に包まれているかのような感覚になり、心地よく感じます。そして、この先にある豪徳寺がどんな寺だろう・・・と、期待がどんどん膨らんでいきます。

招き猫のポーズをお願いしてみたのですが・・・。
この参道の右側、豪徳寺住宅側には、参道に沿って盛り土が見られます。これは世田谷城の土塁跡ではないか・・とも言われていますが、どうもはっきりしないような感じです。
この豪徳寺住宅ができる前には、寺や檀家さんなどでその用地を買収し、大型バス用の駐車場を作り、景観を保とうといった計画もありました。
寺の敷地を維持するのは何とかなるとしても、参道や敷地の外側までとなると、どうしても地価の高い東京では資金面で難しいものがあります。
こういった努力や、美しい松並木の景観が評価され、この参道は第三回せたがや地域風景資産に選定されています。
2、豪徳寺境内について

かなり背の高い門です。昭和初期に再建されたもの。
松並木の参道を抜けると、背の高い山門が目の前にそびえるようにあります。昭和初期に再建されたものですが、馬上で入るのに容易な高さがあり、大名の菩提寺としての格式が伺えます。
門に掲げられている扁額は「碧雲閣」。「外の世界と境内を隔てるために建てられた門」を意味しているようです。

江戸時代後期に書かれた江戸名所図会の図を見ると、「碧雲閣」を掲げた門は松並木参道の前にあり、その前を流れる烏山川には清涼橋がかけられていました。現在の山門のある場所には2の門が設置されていたようです。

かなり背の高い門です。昭和初期に再建されたもの。
「碧雲閣」の扁額は、名の通り雲のような高さに掲げられているといった感じなのですが、屋根裏、更には扁額付近にも千社札がベタベタ貼ってあってビックリします。
貼った人達は長いはしごを持参して参拝したのでしょうか・・・。あるいは、コントや奇術のように三連肩車したとか・・・。訪れる度に気になっていましたが、改修工事の際に全部きれいに剥がされてしまいました。これで訪れる度に悩まなくて済みます・・・。

ここでも招き猫を売っていましたが、なくなってしまいました
2009年に取り壊されてしまいましたが、山門の横、現在、松の木や地蔵堂がある場所に、お供え用の花を販売している山崎商店がありました。
百景の文章に「福を呼ぶ招き猫が門前で売られている」とあるのは、この山崎商店のことで、店の前には招き猫の立て看板が置かれていて、ここで招き猫を買うことができました。
話によると、元祖はこちらで、後から社務所でも売られるようになったとかなんとか。そんな話をどこかで聞いたことがあります。

さりげなく小さな力持ちが支えています
山門から境内に入っていくと、正面に真っ黒で大きな香炉があります。とても存在感のある香炉です。
香炉の中央には金色に輝く寺紋がつけられていて、香炉の上では獅子が金色の毬で遊び、よく見ると下では三匹の鬼が香炉を支えています。
この黒の香炉は、桜の季節にはピンク色の境内で穏やかに佇み、新緑の季節には緑の中で涼しげに佇み、紅葉の季節には赤の映える境内で品よく佇み、葉のない冬は地面にドシッとした感じで佇んでいます。季節を問わず存在感を放ち、境内を引き締める存在となっています。

背後の仏殿と同じく古いものです。
香炉の後ろには仏殿があります。2代目井伊直孝の娘(掃雲院)が、3代目藩主真澄の菩提を弔うため、延宝四年(1676年)に建設を初め、翌年に完成したものです。江戸名所図会では本堂と書かれているので、昔は本堂として使われていたようです。

正月の様子です。
建設には工匠の星野市左衛門氏らが関わり、当時流行していた黄檗様式が随所に見られ、また絵様肘木などという特異な建築様式も使われていて、建築学上価値の高いものとなっています。
青い文字で書かれている仏殿の扁額には「弐世佛」・・・ではなく、漢数字「弐」の下の二のところを三にした「三世佛」と書かれています。三世というのは「過去」「現在」「未来」のことです。

世田谷区文化財の木造仏像が5体安置されています。
仏殿内に安置されている5体の木製の仏像は、同じく掃雲院が造らせたものです。胎内銘札によると、こちらは父直孝の菩提を弔うためになるようです。
仏像の製作者は、洛陽仏工師祥雲。目黒不動近くにある五百羅漢寺の像を彫ったことで知られています。
普段は窓越しにしか見ることが出来ませんが、正月訪れたときは扉が開けられていて中を伺いやすくなっていました。と言っても堂内は暗い上に広いので、気持ち程度しか見えませんでしたが・・・。

平成18年に建てられたまだ新築っぽさが残る塔です
山門を入って左手には、立派な三重の塔があります。この塔は平成18年(2006年)5月14日に落慶と、比較的最近に造られたものです。まだ木の新しさが残り、境内の中ではちょっと浮いた感じがします。
三重の塔内部には、釈迦如来像、迦葉尊者像、阿難尊者像、招福猫児観音像が安置されています。
この塔の特徴は、一階部の屋根の下あたりに、一つの面に三個づつ、十二支の彫り物が飾られている事です。真北を向いた面の真ん中のところから、時計回りに鼠、牛、寅、兎・・・・となっています。
更に驚くべき秘密が隠されて・・・、というのは大袈裟ですが、豪徳寺らしいユーモアあふれる細工がしてあり、所々に猫の彫り物がさりげなく施されています。特に干支のネズミのところは必見です。是非探してみてください。

三重の塔には猫が沢山います
ちなみに、三重の塔とか、五重の塔はどういった意味を持つ建物か知っていますか。ちょっとうんちくを書くと、こういった仏塔はお釈迦様のお墓になります。
といっても、塔自体はそこまで意味がなく、一番てっぺんに取り付けられている棒の部分が肝心のお墓となり、残りの部分は簡単に書くなら飾りとなります。東南アジアでよく見られる円錐形のパゴダも同じです。
そのため、一番下の階のみ御霊が降りてくる場所として祭壇が設けられていますが、残りの階には部屋が造られてはいなく、骨組みだけの空洞となっているのが、一般的です。

紅葉時には雰囲気満点です。
境内入って右側に鐘楼があります。鐘楼付近には銀杏やモミジが植えられているので、紅葉の時期はとてもいい雰囲気になります。葉が色づくイチョウと鐘楼・・・。これぞ日本の秋といった光景でしょうか。
鐘楼に吊り下げられている梵鐘は、延宝七年(1679年)に鋳造されたもの。区内に伝わるものとしては一番古いとされていて、区指定有形文化財に指定されています。世田谷代官の大場氏が幹事となり、製造を依頼したようで、その旨が鐘に彫られています。

区指定有形文化財。釜六の作品になります。
鐘は細身で、均整が取れていて、とても美しいです。鐘の制作者は、知る人ぞ知る藤原正次(釜屋六右衛門)。通称、釜六です。
江戸時代、近江国辻村(滋賀県栗東市)を本拠とした辻村鋳物師が活躍していました。その中でも特に名が知れていたのが、太田近江大掾藤原正次です。
江戸にも店を構え、江戸の窯元では代々「太田六右衛門(太田釜屋六右衛門)」を世襲していました。「釜六」の製品は品質がよく、所有することがステータスにもなっていたそうです。同じ釜六の製品として、少し時代が離れていますが、烏山の寺町にある源正寺の天水桶も知られています。

仏殿の背後にあります。コンクリート造のとても屋根が大きな建物です。
仏殿の北側に法堂(本堂)があります。豪徳寺の敷地内の建物は、禅宗伽藍配置の基本通りに、手前から山門、仏殿、法堂(本堂)と一直線上に建てられています。
木造の趣きのある山門や仏殿に対して、法堂は昭和42年に改築された鉄筋コンクリート造りの建物。観光客にはあまり面白味がないようで、素通りしていく人が多いです。
とはいえ、近年では仏殿と法堂が分かれている寺が少なくなってきているので、こういった贅沢な配置になっていること自体が貴重だったりします。

普段は非公開で特別の時にしか参拝することができません。
普段は非公開になっていますが、本堂の更に裏側には開祖堂があります。開祖堂には、曹洞宗の高祖道元禅師の像の他に、木造釈迦如来坐像、木造阿弥陀如来坐像、歴代の豪徳寺住職の像が納められています。
また、大名井伊家の菩提寺だったことから、中興開基を行った井伊直孝公をはじめ、井伊家の像も収められています。興味があれば初詣を兼ねて正月の三が日などに訪れてみてください。

佐倉藩堀田家の大名屋敷の玄関を移築したもの
境内の右奥にあるのが、庫裡(寺務所)などです。南側にある玄関部は、お寺のものとは思えないほど立派な造りをしています。この建物は、千葉の佐倉藩藩主堀田家の江戸屋敷で使われていた建物で、関東大震災後に譲り受け、玄関部分を中心に移築されました。
堀田家は順天堂大学の創始者であり、医学の分野で多大な貢献をしたという家柄です。現在も佐倉の誇りであり、旧堀田家の家屋などが一般に公開されています。
この他、一般には公開されていませんが、井伊家から元家臣の遠城謙道に贈られた井伊直弼遺愛の茶室「無二庵」が庭園内にあります。直弼が暗殺された後、墓守として半世紀を豪徳寺で過ごした忠義に井伊家が感謝し、下賜されたそうです。ただ、現在の茶室は再建したものになるようです。
残念ながらこの茶室は、庫裡の裏というか、非公開の庭にあるので、間近に見ることはできません。東門の近くのフェンスの合間から少し見えるだけです。

招き猫がおいでおいでと誘っています。
寺務所の前にはたまにゃんの大きなパネルが置いてあり、おいでおいでと手招きしています。その可愛さにつられて入ってしまうと、寺務所内でやくざな坊さんが待ち構えていて、金メッキの招き猫を法外な値段で売りつけてくる・・・ようなことはなく、普通に招福の招き猫やお守り等を購入することができます。
区内には豪徳寺と同じ曹洞宗で有名なものがあります。それは駒澤大学です。駒澤大学は他所から移転してきたので、直接的には関係ありませんが、同じ宗派からか、仏教学部に通う生徒が寄宿していると聞きました。
駒澤大学に通う私の知り合いのお寺のせがれも、豪徳寺近くで下宿していました。この界隈は比較的家賃が安いのもありますが、同じ宗派の大きな寺が近所にあると安心するとかなんとか。
休日に若い僧が寺務所で招き猫を売っている姿を見ると、そうかな・・・と思ってしまうのですが、どうなのでしょう。
3、招き猫と招福堂

仏殿の横にあります。令和4年に新しくなりました。
三重の塔の北側、仏殿の西側に招福堂があります。昭和16年に建てられた小さなお堂には「招福観音」が祀られていて、「家内安全」「商売繁盛」「心願成就」というご利益があるそうです。(*令和4年に改修され、新しくなりました。)
ここが招き猫で名が知れる豪徳寺の由縁となる場所で、堂の前にある絵馬掛けにかけられているのは、絵馬ならぬ絵猫。そして堂の横の奉納所には、多数の招き猫が返納されています。

中にも招き猫がいます。
なぜ豪徳寺に招き猫?といった疑問や興味がわいてくるかと思います。
それは、この寺に伝わる招き猫伝説によるものです。色々な説があるようですが、一般的なものを簡単に書くと、世田谷吉良氏の滅亡後、世田谷城が廃城となり、城内にあった豪徳寺(当時は弘徳院)はどんどんと廃れ、貧乏寺になってしまいました。
その一方、世の中は江戸時代となり、江戸(東京)は日本の中心地としてどんどんと整備され、発展していきました。

(*イラスト:アート宇都宮さん 【イラストAC】)
そんな不景気真っ最中の住職が、我が子のように可愛がっていた猫に「私の恩がわかるならば、何か果報を将来せよ。」と、無茶な注文を言いました。
その数ヶ月後の夏、鷹狩の帰りの武士達が寺の前を通りかかると、山門の前で「おいで、おいで」と手招きする猫がいました。
「なんだろう・・・」と奇妙に感じた武士たちは、休憩がてら寺に寄ってみることにしました。
そして住職が渋茶をもてなしていると、急に空が曇りだし、激しい雷雨が降ってきました。

(*イラスト:しま ちよこさん 【イラストAC】)
もし寺に寄っていなければ大変な事になっていたところだ。猫が招き入れてくれたおかげで助かった。と、武士たちはこの幸運を喜びました。
この武士たちの頭領が彦根藩の二代目藩主井伊直孝公であり、福を招く猫がいるこの寺を、東京における井伊家の菩提寺とすることに決めました。
その後、井伊家の財力によって寺の境内が整えられ、名も直孝の法名から豪徳寺と改め、井伊家の菩提寺として栄えていくことになります。
猫が他界したのち、住職はこの猫の墓を建て、後世にこの猫の姿を招福猫児(まねぎねこ)と称え、崇め奉るようになりました。・・・といった話です。

(*イラスト:mugikomeさん 【イラストAC】)
そういえば、「猫が顔を洗うと雨になる」という迷信がありますが、その仕草も招き猫のような感じですね。迷信が真実なら、降るべくして雨が降ったという事なのでしょうか。
案外、「招き猫」と「猫が顔を洗うと雨になる」という迷信は、根っこの部分では同じなのかもしれませんね。
とまあ、豪徳寺の招き猫伝説は、猫にまつわる感動的な話になります。猫好きなら、この話を聞いて、素敵な猫がいたんだ。ぜひ参拝したい。と思ったのではないでしょうか。
ただ、江戸時代後期に書かれた江戸名所図会には、招き猫の記載はなく、寺の図にも現在ある招福猫児を祀る招福堂が描かれていません。
作者がどうでもいい話として割愛したのかもしれませんが、江戸時代は有名ではなかった可能性が高いです。というより、この手の話が好きな江戸っ子の間で話題にならないはずがありません。
実は、続・招き猫伝説とか、真・招き猫伝説があるのではないでしょうか。

(*イラスト:重蔵worksさん 【イラストAC】)
勝手に創造すると、時代が江戸から明治になり、世の中の仕組みが一気に変わりました。大名家の菩提寺だった豪徳寺でも、今までの肩書はもちろん、大規模な援助が彦根藩からなくなり、財政的に苦しくなりました。
時代が大正時代に変わった頃。各地で鉄道が開通するようになり、二子玉川などの行楽地は賑わっているのに、ここのような辺境の地にはほとんど人が来ない。このままではじり貧だ。広大な敷地を擁する寺を維持することができないし、寺の修繕もままならない。何とかしなければ・・・と、住職は頭を悩ませていました。
そんなある日、山門の掃除に向かうと、可愛がっている白猫が門前で座っていました。住職は猫の傍に寄り、「私の恩がわかるならば、何か果報を将来せよ。」と、無茶な注文を言ってみました。
しかし、猫はそんなこと知ったこっちゃにゃい。と、毛繕いを始めました。やれやれ。猫に愚痴ってもしょうがないか・・・。

(*イラスト:けばなせさん 【イラストAC】)
掃き掃除をしながら飼い猫が毛繕いしている様子を眺めると、顔を舐めている仕草は、まるでおいでおいでと手招きしているよう。何と可愛らしい。
ちょうど通りがかった女性が、その仕草に引き寄せられるように猫の元に寄ってきて、猫を撫で始める始末。これはまさに招き猫だな・・・。そういえば世間では招き猫が流行っているそうだ。夏目漱石の「吾輩は猫である」も話題になっていたな・・・。
そんなことを考えていると、空が急に暗くなり、土砂降りの雨が降ってきました。慌てて門の下に入り雨宿りをしました。そして、ピカっと光った電とともに頭に思いついたのが、すぐそばにある世田谷八幡の源氏伝説。
源義家が奥州平定からの帰途、宮の坂を通りかかると豪雨にあってしまい、天気回復を待つため10数日ばかりこの地に滞在する事になり、その縁で八幡様をこの地に勧請したとか何とか。
これだ。彦根藩の菩提寺なったのは、猫の招きがきっかけという招き猫伝説というのが面白い。この招き猫で話題作りをして、参拝客を呼び、寺を立て直そう。

これを機に寺は招き猫の寺として知れていくことになります。そして、辺境の地にも小田急線や世田谷線が開通したことで、多くの人が訪れるようになり、寺は再び活気を取り戻していきました。
招き猫のアイデアをくれ、招き猫のモデルとなった白猫が亡くなった後、恩義に報いて招福堂を建てて祀ったとさ。めでたし、めでたし・・・。
というのは、私の勝手な作り話ですが、参拝客を誘致したかったお寺や門前の店などが知恵を絞り、大正期に話を盛って招き猫伝説を創造し、世間に広まった昭和16年に招福堂の建築に至った・・・といった感じではないのでしょうか。

小さなお守りサイズから大きいものまで揃っています。
豪徳寺の寺務所では、禅寺らしく真っ白でシンプルな招き猫(正式には招福猫児)が寺務所で売られています。
大きさは色々あり、豆サイズから特大まで8つのバリエーションがあります。一番大きなサイズで7千円と、大きくなると値段がそれなりに張りますが、きっとご利益も・・・。この他にも、招き猫のお守りや絵馬、最近ではグッズも売られていたりします。
この招き猫は、家の玄関などに置くと、家に福を呼び込んでくれます。そしてご利益があったり、願いが成就したり、一年ぐらいたったらお寺に返納します。そうすることで、更にご利益が得られるとのことです。なかなか商売上手な仕組みになっています・・・。
また、家に持って帰らず、その場で招き猫に願をかけ、奉納するだけでもご利益(招福)があるそうです。

招き猫といっても、様々な種類の招き猫があるというのはご存知でしょうか。
白や黒、金色など毛の色によって御利益が違ったり、右手を挙げていると金運アップ、左手を挙げていると人を呼び込むとといった違いがあるそうです。
招き猫の専門のサイトやマニアックなサイトも数多くあり、そういったサイトを閲覧すると、招き猫の奥の深さに驚いてしまいます。
ここ豪徳寺の招き猫は、色が白いことから全般的な福を招き、右手を挙げていることから金運アップといった効果があるようです。
一般的には、右手を挙げた金運アップの招き猫は小判を持っていることが多いのですが、ここはあくまでも禅寺なので、ちょっと控えめに金運アップも含めて・・・といった感じでしょうか。

猫の決起集会。「えい、えい、おぉー!」ってな感じでしょうか。
招福堂の横に招き猫の奉納所があります。初めて訪れた人は、「なんじゃこれ~」「わぁ~すご~い~」などと、思わず声が出てしまうことでしょう。とんでもない数の招き猫が置かれているので、ビックリします。
あまりにも多すぎて、うじゃうじゃ感で気持ち悪いと感じる人もいると思います。ほんと、招き猫だらけでカオス状態です。というか、片手をあげているので、まるで大勢の猫が決起集会を開いているようです。
奉納所に置かれているのは、豪徳寺の白い招き猫がほとんどなのですが、たまに変わった招き猫がさりげなく混ざっていたりすることがあります。
高価そうな陶器製のものだったり、キティーちゃんのぬいぐるみだったりしますが、場違い感が半端なく、居心地が悪そうにしている様子に思わず笑ってしまったこともありました。

以前は、多いときと少ないときがありました。
達磨などと同じ縁起物なので、地元の人は初詣に返納して新しいのを買って帰るパターンが多く、以前は正月明けが一番奉納所が賑わっていました。
置くスペースの都合で、招き猫が奉納所に大量に溜まったり、処分業者がやってくる日が近づくと、招き猫がお寺の人に連れ去られていました。なので、訪れる時期やタイミングによって、置かれている招き猫の数が多かったり、少なかったりと一定ではありませんでした。
この不確定要素が豪徳寺散策の醍醐味となっていて、そろそろ大量にたまっているだろう・・・などと推測して訪れると、バッサリと処分されていて、ガッカリすることもありました。でも、この訪れてみなければわからないことが、訪れるワクワク感や楽しみを増してくれ、豪徳寺へ足を運ぶ機会が増えたものです。
招福堂の改築とともに置き場所が増やされ、今ではいつ訪れても大量の招き猫が置かれています。いつでも圧巻の光景を楽しめるようになったので、遠方からの参拝客は、安心して訪れることができようになりました。地元の散策人としては少々寂しさを感じたりしますが・・・。

寺務所においでおいで・・・といったとこでしょうか。
豪徳寺の寺務所の前には、白い招き猫が描かれているプレートが設置されています。招き猫の豪徳寺らしいオブジェで、時々観光客の人が楽しそうに写真を撮っていたりしています。
この白い猫の名前は、「たまにゃん」です。伝説に登場する住職が飼っていた猫の名が「たま」だったから「たまにゃん」となるようです。
そういえば、サザエさんの飼い猫も「たま」ですね。多摩川、玉電と「たま」と付く名が世田谷には多いので、区民としてはこの名前に全く違和感を感じないのではないでしょうか。

ゆるキャラの元祖的な存在です。
招き猫伝説は彦根藩主井伊家にまつわるものでもあります。彦根城にも同じように猫のキャラクターがいて、その名を・・・、有名になりすぎて改めて紹介することもないでしょうが「ひこにゃん」です。こちらも白い猫なのですが、どうやら豪徳寺の招き猫を参考にしたという話です。
近年では豪徳寺を訪れる観光客が増えているし、世田谷線に招き猫電車も走っているし、「たまにゃん」には「ひこにゃん」を越える活躍をしてもらいたいところです。
4、彦根藩主井伊家墓所

国の史跡になったのもあって少し整備されました。
五重塔、招福堂を通り過ぎると墓域になりますが・・・、その手前には通る人が必ず立ち止まってしまうような碑が建っています。
無名戦士慰霊記念碑なのですが、とてもインパクトのあるデザインです。おまけに碑の隙間から木が強引に生えていて、通る人に強烈な残像を残します。
その先に白い石灯篭と六地蔵があり、そこからの一角、・・・いや広大な一角が国指定史跡に指定されている彦根藩主井伊家の墓所になります。

藩主や正室のお墓が並びます。
井伊家の墓所は、豪徳寺開祖の直孝をはじめ、藩主の墓石が並び、その付近に側室、入り口付近や隅っこには井伊家の人間だけではなく、藩にかかわる人の墓が並んでいます。小さな墓石を含めると300基もの墓石があるそうです。
ここに眠っている藩主は、2代目直孝、6代目直恒、9代目直禔、10代目直幸、そして都史跡になっている13代目井伊直弼、14代目直憲(明治35年没)の6人です。
その他の藩主は、清涼寺(滋賀県彦根市)、永源寺(滋賀県東近江市)に眠っていて、この三カ所の墓所が一括して、平成20年、国指定史跡に登録されました。

藩士や家族の小さな墓石も並んでいます。
都内の大名家の墓所をよく知っている人が見ると、あれっ?と感じるかもしれません。
まず墓石が質素だということ。多くの大名の墓石は、巨大な五輪塔となっていて、さらには個別の墓域に門や鳥居が付いていたりと、圧倒的な存在感があり、さすがは庶民とは格が違うなといった感じがします。
しかし、ここの墓は普通の人よりもちょっと大きいぐらいです。真似をしようと思えばなんとかできるかなといったぐらいの大きさです。(土地の価格を除く・・・)
これは、2代目の直孝が唐破風笠付位牌型で墓石を造ったので、後世の人が先代よりも派手なのは・・・ってな感じで、それを真似たからです。

豪徳寺の中興開基を行った人物です。
そしてもう一つ、東京都内にある大名墓地でこれだけスカスカな配置なのも珍しいです。地方の墓所のようにえらく広々としています。
多くの大名家は、国元の菩提寺が本墓所となり、江戸で死んだ場合や人質として江戸で暮らす正室と子女たちのための墓を江戸に作っていました。
もともとそこまで規模が大きくないというのもありますが、現在では地価の高騰や墓不足などの事情で、規模が縮小されたりして、ちょっと窮屈な感じのところが多くなっています。
ここは広々として、質素ながらも大名の墓所といった貫録を十分に感じることができます。

都の史跡になっています。
墓所の一番奥に、都史跡に指定されている井伊直弼の墓があります。
井伊直弼は世子(直系の跡継ぎ)が病死したことで、井伊家13代目の藩主となりました。そして大老の役職(将軍に次ぐ権力者)にまで上り詰めると、幕末の荒れる世の中で政治を行い、最後は桜田門外の変で暗殺されました。
直弼が政治を行った幕末は、佐幕、討幕と国内が荒れていただけではなく、諸外国からの開国の圧力が殊更強い時期でした。
そういった寸断も許さない状況の中で、天皇の勅許を待たずに独断で日米修好通商条約の調印を行ったことが、多くの維新志士の反感を受け、更には、反発を抑え込もうと「安政の大獄」という大なたを振るい、吉田松陰などの処刑を行いました。

(*イラスト:MisukEさん 【イラストAC】)
世の中が混沌とする中、安政七年三月三日、直弼は江戸城に登城する途中、桜田門外で脱藩した水戸藩士などに殺されてしまいます。享年46歳でした。
殺害された後、幕府は事の鎮静化を図るために、直弼は病気とし、しばらくその事実を隠しました。そして井伊家の跡継ぎ等が決まり、落ち着いた3月末に直弼の死を発表しました。墓石に刻まれている命日が「三月二十八日」となっているのは、そういった事情のようです。
2009年には、井伊家墓所の修復工事が行われました。その際、井伊直弼の墓の調査も行われました。基礎工事を行うために墓下を1.5m掘り下げたものの、石室はなかったそうです。更にはレーダー調査を行って地中を調べましたが、地下3メートル以内に石室は見つかりませんでした。
復讐に燃える維新志士や水戸藩士などに掘り返されたりしては大変だ。と、とんでもなく深く埋めたのでしょうか。それとも、カモフラージュした別の墓の下に埋められたのでしょうか。或いは、他の寺などに埋めたのでしょうか。色々と想像を掻き立てられます。

普通の感じの墓石です。
それにしても・・・、ここ豪徳寺と松陰神社は歩いていける距離です。安政の大獄を行った井伊直弼(彦根藩)と、安政の大獄で処刑された吉田松陰(長州藩)が同じ世田谷、しかもそんなに離れていない場所に埋葬されているのも、不思議な縁を感じます。
自分の生涯をかけて志を成して死んだ者。自分の生涯をかけて志を成そうとして死んだ者。二人とも日本の未来を思って死んでいった人物です。世の中のことを憂い、命を懸けて自分の信念を貫くといった魅力的な生き方をした人物だからこそ、どちらも多くの人が訪れる聖域となっています。
5、豪徳寺の四季

境内に接待所が出て、中でも招福もなかは人気でした。
「毎年、初詣は豪徳寺に」と決めているのは、地元の人がほとんどだと思いますが、三が日は境内に売店や甘酒の接待所が出て、仏殿や開祖堂なども開帳されているので、遠方から訪れる参拝客や檀家も多いです。
正月ならではというと、食べられる招き猫が売られていることでしょうか。実は、招き猫は置物だけではありません。「招福もなか」といった食べられる招き猫もあるのです。販売しているのは経堂駅北口のスズラン通りにある亀屋(宮坂3-12-2)。
特にこれといったものがない世田谷ですが、この招福もなかは区外から来た方に人気の世田谷土産となっています。

墓域に梅が植えられています。
広大な墓域を持つ豪徳寺。特に彦根藩井伊家の墓所は圧巻です。あまり彩を感じない墓地ですが、梅の木が植えられていて、春先には可憐な花と、甘い香りを感じさせてくれます。

境内がピンクの絨毯を敷いたようになります。
山門から仏殿の間に立派なソメイヨシノが何本もあり、春には桜のある美しい境内となります。
特に散り始めたころが素敵で、地面がピンク色のコケに覆われているかのような光景になり、得も言われません。

仏殿の横、駐車場の方にあります。
ソメイヨシノ以外にもしだれ桜が幾つか植えられています。仏殿前のしだれ桜も味があっていいのですが、仏殿横にある紅枝垂れはとても枝の存在感があり、満開の様子は美しいです。

休憩所の前にあります。
五月の連休ごろ満開を迎えるのが、藤です。休憩所の前に立派な藤棚があり、足を止めている観光客も多くいます。
豪徳寺は曹洞宗のお寺。区内にある駒澤大学も曹洞宗。駒澤大学の学校カラーは、藤色。箱根駅伝で藤色のタスキが・・・とよく聞くと思います。曹洞宗にとって藤は特別な存在・・・なのでしょうか。ちょっと調べてみましたが、よくわかりませんでした・・・。

豪徳寺と言えばボタンというぐらい有名でした。
5月ごろ、牡丹の花が咲き、社務所の前が華やかになります。豪徳寺とボタンの関係は分かりませんが、豪徳寺のボタンは有名で、以前は豪徳寺ボタンまつりが行われていました。

たまにゃんらしく猫の無料相談所なるものが・・・
5月の第二日曜日には「豪徳寺たまにゃん祭り」が行われます。もともと牡丹祭りとして開催されていたのを、2008年から地域や商店街の活性化のために「たまにゃん祭り」と名称を改めたようです。
豪徳寺商店街にはフリーマーケットや出店が出て、よさこいなどの演技も行われます。
特徴的なのは「たまにゃん」にちなんで猫の無料相談所があるところでしょうか。(*今はやっていないかもしれません)
私が通ったときには相談希望の猫がいませんでしたが、どのくらい猫が相談に訪れたのでしょうか。進路相談や家庭の悩みなど相談したのでしょうか・・・。ちょっと気になります。

招福堂の周りはこけが美しいです。
夏の豪徳寺は木々の葉が深い緑になり、木陰を作ってくれます。蝉の声が鳴り響き、お盆のころには線香の香りが強く漂ってきます。
この時期だけとは限りませんが、招福堂の周辺はコケがとても美しいです。木々の緑、地面のコケ、強烈な太陽の光のコントラストを楽しむことができます。

イチョウに赤モミジ、オレンジモミジと境内が色とりどりになります。
豪徳寺といえば紅葉。モミジが多く植えられているので、本当に見事な空間になります。特に三重の塔周辺に多く植えられているので、塔とコラボする様子は美しいです。
世田谷の紅葉といえば、九品仏浄真寺も素晴らしいのですが、個人的には豪徳寺の方が好きです。

特別にライトアップされた年がありました。
2008年には、週末に紅葉のライトアップが行われました。闇に浮かぶ三重の塔と色付くモミジの様子は、ちょっと大袈裟ですが、ここは京都かというぐらい美しいものでした。
このライトアップのイベントは、NHKの大河ドラマ篤姫の舞台として脚光を浴びる中、地域の観光ボランティアの人たちが豪徳寺を盛り上げようと、豪徳寺に頼み込んで協力をお願いして行われました。
翌年も楽しみにしていたのですが、残念ながら、この時以降、一度も行われていません。植木が踏み荒らされるなど、訪れた人のマナーがよくなく、お寺側がもう勘弁となってしまったのかもしれません。
近年は豪徳寺の知名度が上がり、観光客も多くなってしまったので、ライトアップを行ったとしたら、大混雑して大変なことになりそうです。そう考えると、再びライトアップされることはなさそうです。
5、感想など

秋は一番豪徳寺が魅力的になる季節です。デートにもいいのでは。
かつてはのんびりとし、落ち着いた感じのお寺でしたが、2008年に放映されたNHKの大河ドラマ「篤姫」から始まり、「花燃ゆ」「おんな城主 直虎」と、戦国時代徳川家康の重臣であり、江戸時代彦根藩主を務めた井伊家が脇役を含めて何度も登場しました。
その度に彦根藩の江戸での菩提寺だった豪徳寺が番組で紹介されたので、知名度が一気に上がり、2008年以降、区外からの観光客が一気に増えました。
また、近年では空前の猫ブーム。大量に奉納されている招き猫の様子が、テレビ番組やSNSで話題になり、猫の聖地的な存在として若い人も多く訪れるようになりました。
今では区内だけではなく、全国的に・・・、いや、海外まで広く知られる存在となり、多くの外国人観光客も訪れています。
私のとっての豪徳寺は招き猫や井伊直弼公の墓よりも紅葉でしょうか。広い空間があるので、モミジにもよく日が当たり、晴れた日にはとても素敵な雰囲気になります。
もちろん紅葉以外にも季節ごとに雰囲気の違いを楽しめる場所であり、今日は招き猫がどのぐらい手招きして待っているだろうかといった様々な楽しみを感じられる場所でもあります。
せたがや百景 No.21招き猫の豪徳寺 せたがや地域風景資産 #3-6
豪徳寺参道の松並木 2025年5月改訂 - 風の旅人
・地図・アクセス等
・住所 | 豪徳寺2-24-7 |
---|---|
・アクセス | 世田谷線宮の坂駅、小田急線豪徳寺駅から徒歩 |
・関連リンク | 豪徳寺(公式サイト) |
・備考 | 国指定史跡(彦根藩主井伊家墓所)、都指定史跡(井伊直弼の墓)、世田谷区指定有形文化財(仏殿、仏殿像5体、梵鐘) |