* 北烏山九丁目屋敷林について *
烏山は江戸時代に整備された甲州街道に沿って発展しました。現在の甲州街道はバイパス化された際に道筋が変えられたもので、昔はもっと南側、環八と甲州街道が交わる上高井戸の交差点の少し西側から京王線の北側を通る道がかつての甲州街道になります。街道沿いは上宿、中宿、下宿と分かれ、世田谷の中では珍しく農業以外で生計を立てている人が多い地域でもありました。
その反面、街道を少し外れると家もまばらで寂しい状態でした。特に街道の北側に広がる広大な地域、現在でいう北烏山一帯は雑木林が広がり、農家もまばらで、養蚕が盛んに行われていました。時代が江戸から明治、そして大正と変っていくと、養蚕が廃れていきます。ちょうどその頃、関東大震災が起き、郊外への移住が盛んになりました。烏山の寺町はそれを機に都内にあった寺院が移転してきた事で知られますが、養蚕が廃れ、土地が安かった事でこの地が選ばれたといった事情もあったりします。
更には戦後になると、どんどんと宅地開発が行われ、広大な未開発の土地があった烏山では多くの公営住宅や社宅、マンションが建つ事となります。それでも平成の初めぐらいまでは比較的畑の多い地域であり、昭和59年に選定されたせたがや百景にも北烏山の田園風景が登録されているほどでした。しかしながら、近年では畑の宅地化が進み、オープンスペースが少なくなったと感じる地域です。
そういった北烏山に、かつての養蚕の名残や昭和時代の農家の面影を感じられる北烏山九丁目屋敷林市民緑地があります。場所は甲州街道(国道20号)の支所入口交差点のすぐ北側で、昭和大烏山病院の真ん前です。場所的にはせたがや百景の西沢つつじ園の近くでもあります。
市民緑地というのは、そこそこ広い土地の所有者が特に使っていないけど売ったり、土地活用したりしたくない場合、税制が優遇される代わりに一般に開放するといった制度です。ほとんどの場合が本宅の横とか、近くの土地で、明らかに所有者の生活の場と分けられている場合が多いのですが、ここの場合は現在の住居や畑も同じ敷地内にあり、生活の場所以外が公開されているといった感じになっています。
入り口はバス通りにもなっている烏山通りに面しています。ちょうど入り口のところがバス停となっていて、停留所名も北烏山九丁目屋敷林となっています。そして入り口の所には大きなケヤキが並び、屋敷林と名付けられているとおりの門構えというか、佇まいです。
入り口から内部へのアプローチも並木となっていてお屋敷にお邪魔しますといった感じで進みます。中に入ってまず目に付くのが、「下山千歳白菜の碑」です。下山というのはここの家主の名字で、江戸時代から代々農家を行っていた家系です。そして昭和の初めに下山義雄さんが品種改良をして作ったのが、下山千歳白菜です。千歳は当時行政区分が千歳村烏山だったのでそう付けられたのでしょう。
この白菜は普通の白菜の三倍の大きさなのが特徴です。病気にも強く、戦後の食べ物の少なかった頃にはとても喜ばれたそうです。今でも畑で作られていて、学校給食にも利用されているとか。余り一般的ではない事や、こういった紹介の仕方から想像すると味の方は・・・といった感じかもしれません。
白菜の碑の付近の右手奥は普通の民家となっていて、現在の下山さんの生活スペースとなっています。とはいえ「ここから先立ち入り禁止」と案内板が設置されているだけで、柵とか垣根がなく、家の様子が覗けてしまえる状態です。これではプライベートが保たれていないような気もするのですが、このへんは昔ながらの農家の生活スタイルというか、家主の性格的なものかもしれません。
元々の配置で土地の所有者の家屋が便利のいい正面付近にあり、この白菜の碑の部分からは左手を迂回して奥に進むようになっています。白菜の碑の後ろ付近には前庭があり、地域の人によって野草などが植えられています。
野草が植えられている前庭の脇を進んで奥に進むと、ここの一番の見所である土蔵や旧主屋があります。蔵は元々二つあったようですが、現在まで残ったのは一つだけ。この蔵は一階部分には米や麦などの食料、二階部分には着物などの生活用品などが保管されていたそうです。蔵があるのは敷地の南側で、屋敷林と共に主屋に吹く風などを防ぐ役割もしていました。
旧主屋は明治20年頃に建てられたものです。それなりに雰囲気のある建物ですが、現在では小さな離れになっています。かつてはここに幾つもの部屋がある主屋にふさわしい大きな建物がありましたが、新しい住居を建てた際に離れとし、多くあった部屋や土間などを削り、小さな離れとしたようです。かつてこの主屋では多くある部屋を利用して蚕を飼っていたそうです。
当時は蚕様と大事にされ、人間の方が隅っこや空いたスペースで寝ていました。昔はこれが普通のことでしたが、虫を触れなくなっている人が増えている現在の感覚では考えるだけでぞっとしてしまうのではないでしょうか。蚕は天の虫と書きながらもやっぱり見た目は気持ち悪いのですから・・・・。
旧主屋の裏側には井戸があり、そして竹林があります。昔ながらの農家の風景といった感じです。昔の世田谷の農家では竹林はよくありました。農家にとって竹林はとても便利なもので、春には食料となり、育った竹は生活用品を作る材料にもなっていました。
この竹林から先は立ち入り禁止となっていて、農機具が置かれた倉庫や畑が続いています。今なおこの家の方は現役で農家をしています。
敷地内からは畑がよく見えませんが、敷地を出てぐるっと回ってみると、畑や屋敷林の様子がよく分かります。
広い畑に家を囲むようにしてある屋敷林。昔は世田谷でも台風などの風よけにケヤキなどを防風林として屋敷の南側に植える家がよく見られましたが、現在で建物自体が丈夫になったり、土地が狭くなったのもあって珍しい風景となってしまいました。