世田谷散策記 せたがや百景のバーナー
せたがや百景の案内板の写真

せたがや百景 No.60

喜多見慶元寺界わい

せたがや地域風景資産 No.2-28

喜多見・歴史の道、慶元寺・氷川神社界わい

江戸氏の祖を弔って建立されたといわれる。江戸氏は皇居のあたりに居を構えていたが、家康が江戸築城のおりこの地に退き姓も喜多見と変えた。江戸氏追善の塔がある。広い寺域に沿う小道は、奥多摩から多摩川を下った筏師が歩いて帰ったという「いかだ道」で、ところどころにのどかな郊外の風景を見ることができる。(せたがや百景公式紹介文の引用)

・場所 : 喜多見4-17-1(慶元寺)
・地域風景資産の関連団体 : 喜多見ポンポコ会議
・備考 : 双盤念仏行事は区の無形民俗文化財。喜多見(江戸)氏墓所は区史跡。その他、花祭り、盆踊り、念仏更行進などの行事が行われています。

*** 喜多見慶元寺と界わいの写真 ***

慶元寺境内の様子を写した写真
美しい杉並木の参道

とても雰囲気のいい参道です。

慶元寺境内の様子を写した写真
桜の時期の山門

趣のある山門と桜はよく似合います。

慶元寺境内の様子を写した写真
本堂と境内

落ち着いた雰囲気の境内です。

慶元寺境内の様子を写した写真
本堂の正装スタイル

区内の寺では最古の建物です。

慶元寺境内の様子を写した写真
庫裏

前庭を含めて美しい建物です。

慶元寺境内の様子を写した写真
三重の塔

背景を含めて美しい塔です。

慶元寺境内の様子を写した写真
六地蔵

墓所の入り口に祀られています。

慶元寺境内の様子を写した写真
江戸氏の墓所

区の史跡となっています。

慶元寺境内の様子を写した写真
江戸太郎重長公の像

江戸氏縁の寺院です。

慶元寺境内の様子を写した写真
江戸太郎重長公の像と位牌

 

慶元寺境内の様子を写した写真
子育水子地蔵尊と仏塔

墓所を見守っています。

慶元寺境内の様子を写した写真
念仏車

筏道にもあります。

慶元寺境内の様子を写した写真
慈愛観音

本堂の脇に祀られています。

慶元寺幼稚園の様子を写した写真
慶元寺幼稚園

慶元寺に面してあります。

* 十夜法会 *

十夜法会の様子を写した写真
十夜法会の念仏行進

23区内とは思えない風景です。

十夜法会の様子を写した写真
双盤念仏

区の無形民俗文化財に指定されています。

* みたままつり *

みたままつりの様子を写した写真
本堂での法要

最初に本堂で法要が行われます。

みたままつりの様子を写した写真
太平洋戦争の慰霊塔前での法要

墓地へ向かう前に法要が行われます。

みたままつりの様子を写した写真
墓施餓鬼の様子

僧侶の列が墓地を回ります。

みたままつりの様子を写した写真
盆踊りの様子

子供たちが楽しそうに踊っていました。

みたままつりの様子を写した写真
盆踊り

幼稚園児が踊り、その周りに父兄の壁ができます。

* 地域風景資産 *

慶元寺の屋敷林を写した写真
慶元寺の屋敷林

白壁と樹木。ちょっと変った風景です。

慶元寺の屋敷林を写した写真
慶元寺と喜多見氷川神社の間

歴史を感じる通りです。

* いかだ道 *

いかだ道の写真
交差点の案内板

おもしろ案内板です。

小祠といかだ道の写真
小祠といかだ道

樹木が多く、味のある小道です。

* 喜多見慶元寺とその界わいについて *

世田谷の左端、狛江市に面した場所に喜多見という地名があります。世田谷区の端といった場所柄、区内でも影の薄い場所といった印象を持ってしまいますが、よくよく調べていくと古くからの伝統的な風習がより濃く残った地域であり、江戸という地名のルーツがさりげなく喜多見に残っていたり、かつて喜多見藩というのがあったりとなかなか凄い土地で、世田谷区内でも独特な文化を持った地域と言うことができるかと思います。

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江戸というのは、現在の皇居を中心とした地域の事で、江戸の地名の起源は、現在の日比谷辺りが東京湾の入江だったことから、「入江の戸口」略して江戸となった説が有力なようです。その江戸を治めていたのが江戸氏だったのですが、もともとは武蔵平氏の名門である秩父氏の流れに属していて、12世紀の初めころに大手町付近に城郭を構え、地名を取って江戸氏と名乗り始めたようです。

その後、源頼朝の再挙に加わった功などにより大きく勢力を広げるものの、室町時代になると太田道灌によってその地を追われる事となり、江戸を手放して落ちて行ったのが庶流(母方の実家)の勢力範囲であった喜多見であり、以降喜多見で世田谷城の吉良氏の重臣として活躍したようです。

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天正18年(1590年)に北条氏や吉良氏が滅亡すると、徳川家康に喜多見村500石を安堵され旗本となります。この時に江戸を本拠とする徳川氏に遠慮して喜多見と性を改めたようです。その後喜多見重政の代、五代将軍綱吉の時代になるのですが、御側小姓、側用人とどんどん出世し、結果2万石の大名となり喜多見藩を興しました。

しかしながらその約三年後の元禄二年(1689年)に分家筋の喜多見重勝(茶道の達人で成城三丁目のお茶屋坂は彼の茶室があった事で名付けられたもの)の子重治が妹婿と江戸城内で刃傷事件をおこして斬罪となり、重政は領地没収され、元禄6年(1693年)に喜多見氏はお家取りつぶしとなってしまいました。

さすがに一族同士のいざこざでは忠臣蔵のような美談にはならなかったようです。・・・というか、身内の喧嘩を江戸城内でやるなよ!といった感じでしょうか。それにしても約3年間とは・・・、なんとも短い喜多見藩であった事でしょう。

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と、前置きが長くなりましたが、その江戸氏の菩提寺がこの慶元寺となります。正式には永劫山華林院慶元寺といい、浄土宗京都知恩院の末寺にあたり、本尊は阿弥陀如来座像です。

創建に関しては、文治二年(1186年)に江戸氏2代目の江戸太郎重長が現在の皇居内に位置する紅葉山に開基した寺が始まりで、当時は天台宗の岩戸山大沢院東福寺と号していたようです。その後、喜多見に移った際に菩提寺であるこの寺も一緒に移動し、天文九年(1540年)に真蓮社空誉上人が中興開山した際に、浄土宗に改められ、現在の永劫山華林院慶元寺と改称されました。

その後は江戸氏から喜多見氏に改性し、その初代となる喜多見若狭守勝忠が文禄二年(1593年)に改修を行い、江戸時代になると寛永十三年(1636年)には徳川三代将軍家光公より寺禄10石の御朱印地を賜ったそうです。それから、現本堂は享保元年(1716年)に再建されたもので、現存する世田谷区内寺院の本堂では最古の建造物となるようです。

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慶元寺や喜多見氷川神社のある一帯は狭い道が多く、また住宅地にも比較的木々が多かったりするので、慣れないとすぐに迷子になってしまいます。世田谷区にあってもこの辺りは大規模な開発などは行われていなく、古くからの土地柄のまんまなんだなと歩いていて感じます。

そういった訳なのか、慶元寺や喜多見氷川神社の参道は世田谷区の中でも立派なものとなっているというか、昔のままで残っています。その長い参道を進んで行くと、山門の手前に銅像が設置されています。この銅像の主は江戸氏の2代目、江戸太郎重長(しげなが)公で、その姿は狩姿を表しているとか。

この重長は1186年に慶元寺の前身である東福寺を江戸の紅葉山に建立した人で、その800年を顕彰して昭和60年(1985年)11月3日に銅像を建てたそうです。重長に関しては、鎌倉幕府の記録である「吾妻鏡」に何度もその名が出てきていて、三浦一族との戦いに出兵していたり、その勢力が強かった事が書かれています。

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参道の正面には立派な山門があります。宝暦五年(1755年)に建立されたもので、永劫山の文字が掲げられています。新しく見えるのは昭和50年に改修されたからです。喜多見陣屋の門だったという言い伝えも残っているそうですが、これはあくまでも伝承で、その根拠は何も見つかっていないようです。そういった伝承よりも現在のこの門の脇には立派な桜の木が植わっていて、春には山門と桜で絵のような素敵な光景を作ってくれます。

山門を入ると本堂があり、先に書いたように世田谷区の本堂の中では最古だとか。本堂内には一族の霊牌や開基江戸太郎重長と寺記に記されている木造が安置されているそうです。鐘楼堂は宝暦九年に建立されたものを戦後改修したものだそうです。山門に戻って左側には慶元寺幼稚園があります。とってもメルヘンチックな建物なのが楽しそうです。ここにも桜が多く植わっていて、春の時期訪れるとより一層楽しそうな雰囲気に感じてしまいます。

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山門の右手には墓地が広がっています。入り口には六地蔵が祀ってあり、墓地の正面には一際目立つ三重の塔が建てられています。塔のてっぺんの相輪が金ぴかに光っているのが印象的ですが、見ての通りこの塔は平成5年に建立された新しいものです。

墓地内には江戸氏、喜多見氏の墓があります。江戸氏の墓所には、中央に江戸氏初代江戸四郎重継(文治元年10月23日没)、二代江戸太郎重長(嘉禄元年8月12日没)、そして両側に歴代の墓が並んでいます。また、境内には喜多見古墳群中の慶元寺三号墳から六号墳まで四基が現存しているそうですが、普段は公開されていません。

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慶元寺では春にはお釈迦様の誕生を祝う花まつり、夏には先祖の霊を慰める御霊まつりに秋には十夜法会が行われたりと様々な行事が行われています。残念ながら花祭りは訪れたときは雨天中止で見学できませんでしたが、白象のお練り供養や人形劇、甘茶や団子の接待があるようです。

夏のみたままつりは法要、墓施餓鬼、盆踊りと分かれていて、墓施餓鬼は僧侶がお経をあげながらお墓をまわって、代表の檀家さんがその後から餓鬼畜生に施す米などをまいて歩き、一般の檀さんが墓地で手を合わせて通り過ぎるのを待つといった行事です。盆踊りはお隣の幼稚園の園児によるものです。可愛らしい園児が踊る姿はほのぼのとしていいものです。

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十夜法会はとは浄土宗独自の法要で、御仏や御先祖に秋の穣を供え、報恩感謝を表す法事の事です。十夜法会では念仏行進と双盤念仏が行われます。念仏行進は講によるもので、独特の服装で念仏を唱えながら喜多見を回ります。知らないで遭遇するといくら喜多見とはいえビックリするようで、何これ~と立ち止まる人も多いです。

双盤念仏は双盤という打楽器を使用する念仏のことで、太鼓一人、平鉦(双盤)4人が組になり、太鼓打ちが音頭を取り、鉦張り4人と共に調子を合わせて「引声念仏」を合唱します。掛念仏とも言われ、独特の音色というか、阿波踊りとお囃子を足して適当に割ったような感じというか、なかなか面白い念仏です。近年では双盤を行える人が少なく、区の無形文化財にも指定されているといった貴重なものです。この行事では農産物の無料配布も行っていて、そちらも人気があります。

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それから百景の文章に出てくる「いかだ道」ですが、これはかつて奥多摩で伐採した木を江戸などに運ぶのに多摩川を利用して流していました。何本もの木を筏のように束ねてそれに筏師が乗って運ぶといったもので、3~4日掛けて多摩川の下流である六郷に運んでいたそうです。

筏を無事に下流へ運んだ後に筏師は再び奥多摩に帰っていくわけですが、現在のようにバスや電車に乗ってという訳にはいかないので、なるべく最短距離になるように多摩川沿いを歩いて帰っていました。その道が筏道といわれているものです。

実際にこの道が栄えていたのは大正時代までで、鉄道や車といった交通の発達によって大正末期にはいかだ流しは行われなくなりました。いかだ道自体は今でも多摩川沿いのあちこちに残っているのでそう珍しい物ではありませんが、このいかだ道と水道道路を覚えると迷路のように入り組んだ喜多見で迷う事が少なくなります。

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またこの界隈はせたがや地域風景資産に数多く登録されています。正直言ってやり過ぎといった感もありますが、「慶元寺三重塔の見える風景」は慶元寺の東側にある稲荷塚古墳から見た五重塔の風景で、「畑の間の土の道」は慶元寺の北側を通る土の道で、この畑の一部は先にあげた稲荷塚古墳から見える畑と被っています。こちらは歴史的な価値よりも農業の風景と言うことなので、別の項目に記載しています。

そしてもう一つが、「喜多見・歴史の道 慶元寺・氷川神社界わい」で、慶元寺と西隣にある氷川神社を含めた一帯ということになります。江戸氏の菩提寺である慶元寺、そして江戸氏が再興した氷川神社は古くから喜多見の文化の中心的存在であり、地域の人々の崇拝を集め、伝統が守られてきました。参道がよりよい状態で残っているのがその象徴で、この付近は比較的開発から免れている感じがします。

とりわけ慶元寺の白い塀と樫の並木がある部分が特徴的でしょうか。塀に引っ付くように並んでいる木はちょっと窮屈そうな感じですが、面白い風景を作り上げています。そして氷川神社との間の道は木がうっそうと茂り、世田谷らしからぬ風景というか、雰囲気を感じます。

<せたがや百景 No.60 喜多見慶元寺界わい 2009年10月初稿 - 2015年10月改訂>
( せたがや地域風景資産 No.2-28、喜多見・歴史の道、慶元寺・氷川神社界わい )