世田谷散策記 せたがや百景のバーナー
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せたがや百景 No.22

世田谷城址公園

初代吉良氏が南北朝のころ、関東管領足利基氏から戦の手柄により武蔵国世田谷領をもらいうけて、築城したのが始まりといわれる。平城で、三方を塀で囲んだ防備の堅固な城であったが、現在はわずかに小高い台地の中に枯山水風の谷や小川があり、緑の茂る公園となっている。(せたがや百景公式紹介文の引用)

・場所 : 豪徳寺2-14
・備考 : 都指定旧跡、区立公園

*** 世田谷城址公園の写真 ***

世田谷城址公園の様子を写した写真
公園前の交差点から

とっても色彩豊かです。

世田谷城址公園の様子を写した写真
桜の時期に城山通りから

遊具やトイレが置いてある広場もあります。

世田谷城址公園の様子を写した写真
世田谷城址公園の石碑

入り口付近にあります。

世田谷城址公園の様子を写した写真
同じく公園内

この付近は庭園っぽい雰囲気です。

世田谷城址公園の様子を写した写真
土塁の様子(下から)

石垣が整えられた城跡です。

世田谷城址公園の様子を写した写真
土塁の様子(下から)

奥の方は原生林といった感じです。

世田谷城址公園の様子を写した写真
土塁の様子(上から)

川の流れのような感じです。

世田谷城址公園の様子を写した写真
土塁の様子(上から)

鬼ごっこやかくれんぼをするには最高です。

世田谷城址の遺構を写した写真
豪徳寺参道の横の土塁

放置された土の山といった感じです。

世田谷城址の遺構を写した写真
世田谷城址公園から住宅地へ続いている土塁

今後保存されるのでしょうか。

世田谷城址公園の様子を写した写真
紅葉の時期1
世田谷城址公園の様子を写した写真
紅葉の時期2

* 世田谷城址公園について *

豪徳寺のすぐ近くに世田谷城の跡地を利用した世田谷城址公園があります。烏山川の舌状台地に築かれた中世の城郭跡なのですが・・・、それにしても世田谷城って現在のイメージで考えるとなんとも響きのいい名前ですね。高級感漂うというか、下手をしたらドイツの古城なんて想像してしまいそうです。って、私のもの凄く勝手な妄想ですが・・・。

でも区外の人は世田谷に城があった事自体知らないのではないでしょうか。近代的な住宅地のイメージばかりで中世に栄えていたイメージがわいてこないと思います。実際には世田谷に中世の城址跡がわかっている範囲内で6カ所あります。この数だけから考えると昔から栄えていたように感じますが、どれも規模の小さな城址でほとんど遺構が残っていないものばかりです。その中でも一番規模が大きく、かつ城マニアや歴史好きな人以外にもちょこっと名が知れているのが世田谷城址です。

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世田谷城は、世田谷周辺を支配していた吉良氏の居城だった城です。正確な築城時期はわかっていませんが、室町時代の15世紀中頃には存在していたと考えられ、一説によると貞治4年頃(1365年)ではないかと言われています。吉良氏に関しては他のせたがや百景にも頻繁に出てきますが、足利義継を祖とする高貴な家柄です。一時期はせたがや殿と賞されるほど地位があり、小田原の北条氏も一目を置く存在でした。

しかしながら群雄割拠の戦国時代、そして地位や身分よりも力がものをいう下克上の風潮が強まると、力のない吉良氏は徐々に北条氏の支配下に組み込まれていき、最終的には北条家の配下となります。その北条氏は天正18年(1590年)の小田原の役で豊臣秀吉によって滅亡させられ、世田谷城の当主だった吉良氏朝は下総国に逃げて世田谷城は抵抗もなく落城し、城は廃城となりました。

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世田谷城址公園の歴史は古く昭和15年に開園しています。世田谷区内唯一の「歴史公園」で「東京都指定文化財」にもなっています。公園は世田谷線上町駅から北へ、烏山川緑道を越えた先の交差点の所にひっそりとあります。この付近は古くからのアパートが多く、今はどうか知りませんが、値段が比較的安かったです。私の友人もこの近くに下宿していたので、懐かしいなと友人の暮らしていたアパートの横を通りながら改めて訪れてみました。

さすがに昔と変わっていなく、というより変わりようがないのでしょうが、相変わらずひっそりとした公園でした。近年遊具やトイレのあるスペースが整備されましたが、それ以外は特に何があるわけでもなく、ただこんもりとした丘に歩く道が整備されているだけといった感じです。芝生でくつろぐといったスペースがほとんどないから人があまり訪れないのはしょうがないといったところでしょうか。

ただ子供達にとっては起伏があり、死角も多くできるので、鬼ごっこをするには絶好の公園となるようで、よく子供が走り回っている光景を見かけます。後は紅葉が意外ときれいなので、紅葉時期の散策はちょっと楽しいです。

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城について検証してみると、現在ある世田谷城址公園は世田谷城の南東端の一部だったのではと言われている部分です。かつての世田谷城は北側に広がる広大な豪徳寺境内をも敷地に持っていて、豪徳寺のある部分が本郭部分だったのではと考えられていますが、その規模の程ははっきりと分かっていません。

吉良氏の権力を考えると大きかったような気もするけど、実際はそこまで大きくなかったのかもしれないといった感じでしょうか。ちゃんとした記録がないので発掘頼りになりますが、周辺に住宅が建ってしまっているので正確なところはわかっていません。ただ当時の世田谷の人口の少なさを考えると、そんなに立派なものではなかったような気はします。

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現在城址公園で見ることができるのは、わずかな空堀と土塁の痕跡だけだったりします。これは16世紀前半に大改築されたものだとか。一応立派な石垣がのこっているではないか・・・と思っていたら、よく見ると近代的な崩落防止用の石垣でした。公園として整備するときに近年作ったもののようで、昔はあくまでも掻き揚げの土塁で囲まれた城だったそうです。そう考えると石垣を作ってしまっては・・・といった画竜点睛のような公園化にも思えてしまいます。

奥の方にはフェンスが張り巡らされていて、その向こう側にも土塁が続いているようですが、そちらは入れないようになっていました。おそらくこの部分が正真正銘の当時の遺構となるのでしょう。といっても素人目には木がぼうぼうの小山でしかなのですが・・・。城に詳しい人、城に無関心な人のどちらから見ても中途半端な城址公園だと思います。

その他、遺構ではありませんが、上町の駅から城址公園の前を通り、世田谷八幡宮、経堂、祖師谷大蔵に抜ける道が城山通りだったり、豪徳寺の東にある小学校が城山小学校として名残をとどめています。思えば世田谷に城山通りなどといった歴史ある名前の通りがあるのもがあるなんていうのも新たな発見でした。

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また、世田谷城址は遠藤周作氏の縁の場所でもあったりします。遠藤氏は世田谷縁の文学者でよくこの付近を散歩していたそうです。そしてこの城を知ることによって中世の城郭に興味を持つきっかけになったとか。そのことは短編集の「埋もれた古城(1971年著)」の「身近な城あと世田谷城」などに記されています。

「それは今、バスが通り、アパートが建っている場所に埋もれて往時を偲(しの)ぶ何ものもないかも知れぬが、しかしそこにはやはり歴史が生きているのである」 「けれども今日、この城の存在さえ世田谷の区民は知らぬであろう」などといった言葉は言い得て妙であり、現在でも状況は変わらないといったところでしょうか。

それとともに世田谷への愛情を感じる言葉でもあるような気もします。まあ彼ほどの知識人ともなると、私と違って多くの目に見えない部分が見えてしまうようですね・・・。何も残っていないとぼやくよりも、遠藤氏のような感性で見学するのがこの世田谷城址の正しい見学方法なのではないでしょうか。私も見習わなくては・・・。

<せたがや百景 No.22 世田谷城址公園 2009年3月初稿 - 2015年10月改訂>