世田谷散策記 せたがや百景のバーナー
せたがや百景の案内板の写真

せたがや百景 No.27

宮ノ坂勝光院と竹林

世田谷城主吉良家の菩提寺。江戸期には家康から御朱印寺領30石を与えられた格式の高い寺で、境内には風格のある庭木も見られる。とくに美しいのは竹林で、竹垣とあいまって品のよい雰囲気をかもし出している。鐘楼の梵鐘は、戦争中応召されたが、鋳つぶされず、10年ほど前に元の姿で無事戻ってきた。(せたがや百景公式紹介文の引用)

・場所 : 桜1-26-35
・備考 : 吉良氏墓所(世田谷区指定史跡)、梵鐘(世田谷区指定有形文化財)

*** 勝光院の写真 ***

勝光院の参道<の写真
勝光院の参道

といっても普通の住宅街になっていました・・・

山門の写真
敷地の下から

敷地の右側が竹林で左側が墓所になっています

山門の写真
山門

 

境内の写真
境内

整然とした感じです。

本堂の写真
本堂

整然とした建物です。

本堂の額字の写真
本堂の額字

昔の山号興善山の名残でしょうか

鐘楼と竹林の写真
鐘楼と竹林

竹林を背に鐘楼があります。

梵鐘の写真
勝光寺の梵鐘

世田谷区指定有形文化財、区内で2番目に古いとか

梅の季節の写真
梅の季節

ここの枝垂れ梅はなかなかです

お地蔵様と竹林の写真
お地蔵様と竹林

雰囲気のいいお地蔵様です。

吉良家の墓所の写真
吉良家の墓所

墓石は大きくないもののこの一角は貴賓がありました

墓石群の写真
一番奥の古い墓石群

よく墓石を見ると結構バラバラです。

* 勝光院について *

ちょっと昔のことですが、都内の大名墓地など古い時代の墓地に興味を持ち色々と歩き回ったことがあります。その時に世田谷でも豪徳寺の井伊家の墓地、松陰神社の吉田松陰氏の墓所、そしてこの勝光院を訪れたことがあるので、百景を回る前から知っていたお寺です。

でもその時は吉良氏・・・、だれ?忠臣蔵の悪人役?といった程度の知識しかなく、特に何もない寺だなと何となく写真を撮って後にしただけでした。改めて吉良氏というものを理解して訪れてみると、なんというか全く雰囲気が違って見えるものですね。そう考えると旅には予備知識というスパイスが必要なんだなと思った次第です。

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この勝光院(しょうこういん)ですが、現在の宗派は曹洞宗、山号は延命山です。案内板によると、建武二年(1335年)に吉良治家氏(法名興善寺殿月山清光大居士)によって創建され、初めは臨済宗の金谿山龍鳳寺と名付けられていたようです。「新編武蔵風土記稿」によると、開山は吟峯公禅師となっています。

その後は衰退していったようで、天正元年(1573年)に吉良氏朝が天永琳達禅師を中興開山として、父頼康の院号(勝光院殿脱山浄森居士)により興善山勝光院と改称し、この時に臨済宗から曹洞宗に改宗しました。天正十年には客殿(旧本堂)の建立を行い、その時に家臣の関加賀守が現在の本尊である虚空蔵菩薩像を寄進したようです。

天正十九年(1591年)には徳川家康から寺領三十石を与えられています。前年の1590年には小田原の役で北条氏とともに世田谷城も陥落。吉良氏もこの地から追われており、新たに赴任してきた家康が吉良氏縁の寺領を約束することでこの地の安定化を計りました。その後家康に寺領と家柄(蒔田姓に改変)を安泰されたことで、氏朝の子頼久(吉良から蒔田に改称)以降は勝光院が一族の墓所となりました。そして時が流れ、元文二年(1737年)に山号を延命山に改めたようです。

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現在の勝光院は住宅街の中に埋まっているというか、かろうじて旧道に参道っぽい道が面しているといったロケーションです。昔は150mほどの参道の両側にはソメイヨシノが植えられていて、ちょっとした桜並木になっていたそうですが、今ではまるで面影がありません。宅地化の波なのか、桜が枯れてしまったのかわかりませんが、参道は住宅街にある普通の道に近い感じになってしまっています。

その道を進んでいった奥まった丘にお寺があります。大通りに面していないし、住宅街の奥にあるので、全体的に落ち着いた雰囲気に満ちていて、特に寺の右側に広がる竹林は新緑の時期に訪れるとすがすがしさを感じます。山門の前には竹林の背にして一体のお地蔵様が立っています。まるで竹林を守っていらっしゃるといった感じで、とても趣きを感じるお地蔵様です。

竹林に関してはよく手入れが行き届いていると思います。この竹林、というよりも勝光院自体は戦略的に世田谷城の防御砦の一部として配置されていました。そして防御手段として竹林があちこちに配置されました。この竹林も恐らくそういった名残ではないかと思われています。竹林を配すことによって敵からの眺望をさえぎるだけではなく、いざというときにも敵の人馬が進めないような防御壁になるからです。

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境内は手入れが行き届き、品のいい感じになっています。建物も厳かな雰囲気を出していて、整然とした境内によく似合っています。さすがは朱印領を与えられた格式あるお寺と言ったところでしょうか。いやそれよりもしっかりとした宗教観、檀家さんへの忠義に満ちているというべきなのでしょうか。とても雰囲気が良かったです。

表側から見えませんでしたが、本堂の裏手には書院があり、これは文政六年(1823年)に再建されたもので区の有形文化財に指定されています。また境内の隅、竹林を背に鐘楼が建っています。この鐘は、元禄十一年(1698年)に制作されたもので、区内で2番目に古い梵鐘となっています(1番は豪徳寺)。制作者は八王子の加藤吉高氏。加藤鋳物師の一人で鐘は優美で均整が取れいて(近くで見れないのでよくわかりませんでしたが・・・)工芸品としても価値が高いとか。それに鐘の内部には勝光院の名の由来や家康から朱印領三十石を受けていた事などが記されているので、当時の資料としても価値があるそうです。その上ちょっとした曰くがあり、太平洋戦争時に軍事物資として供出に応じたものの、難を逃れ、葛飾区の金蓮寺に伝えられていたのが、昭和52年にめでたく無事に戻ってきたようです。その時に鐘楼も新しく再建されました。

その他では寺宝として「火蛇の爪」といった変わったものが伝えられているそうです。なんでも葬式の時に怪物が襲ってきて、それを数珠で追い払ったところ、爪を落として退散したとかなんとか。ゲゲゲの鬼太郎の世界ですね。ぜひ実物を見てみたいのですが、一般の参拝者にはなかなか難しそうです。また常盤伝説に出てくる常盤愛用の短刀もかつて保存されていたという話ですが、現在はなくなってしまったそうです。

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この勝光院は吉良氏の菩提寺となっていて、墓地内の一角に世田谷区指定史跡の吉良氏の墓所があります。先に書いたように勝光院は天正元年(1573年)に氏朝が中興開基したもので、案内板によるとここの墓所には氏朝の孫・義祗以降の一族の墓が所在するとのこと。墓石は全二十八基と墓所内の隅に集積された墓塔が十数基が残っているようです。

しかしながら並べられている宝篋印塔は地震などで崩れてしまい正しい組み合わせが判らなくなってしまったとか。明らかに石質の異なる組み合わせで積まれているお墓もありますが、墓石に刻まれている文字が磨耗している現状ではしょうがないことでしょう。隅っこには重ね方の分からない石や壊れた石も並べてあり、石が積まれているだけましなのかな・・・とちょっと痛々しく感じてしまいました。墓地には吉良氏以外にも幕臣の広戸備後正之の墓もあるようです。

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吉良氏とはどんな家柄の人でしょう。一番有名な吉良氏といえば忠臣蔵に登場する吉良氏ですが、世田谷吉良氏と同族で清和源氏・足利氏の支族で三河国吉良荘から起こりました。忠臣蔵の吉良氏はそのまま三河に留まった三河吉良氏で、世田谷吉良氏は、室町時代初期に陸奥管領をつとめた奥州吉良氏の後裔となり、吉良治家のとき世田谷に本拠をかまえたと言われています。

世田谷吉良氏の歴史については不明な点が多く、戦国期の吉良氏は「太田道灌状」などに現れる程度です。しかしながらその家柄、格式は高く、道灌の書状で「せたがや殿」といわれるほどだったようです。文明年間(1469~87)に成高は太田道灌と結び数度の合戦に及んだようで、蒔田(横浜市南区)にも居館を構えました。

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道灌亡き後は小田原の後北条氏に接近し、子の頼康は北条氏綱の娘さき姫(高源院)を夫人に迎えています。1560年頃には、頼康の家臣団のほとんどが北条氏直属となり、吉良氏は名門という地位があるだけの飾りの存在に成り下がってしまいました。さらには頼康の跡を継いだ氏朝は高源院が前夫堀越(今川)貞基との間に設けた子であるので、実質的にはここで血が途絶えてしまったことになります。

そして天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏が滅ぼされると、氏朝も世田谷に留まることはできず、下総国生実(現千葉市)に逃れました。翌年、氏朝の子頼久が徳川家康に招かれ、上総国長柄郡寺崎村に1125石を与えられ旗本に列し、以後蒔田氏を名乗るようになり、幕末まで旗本として存続したそうです。

<せたがや百景 No.27 宮ノ坂勝光院と竹林 2009年3月初稿 - 2015年10月改訂>