世田谷散策記 せたがや百景のバーナー
せたがや百景の案内板の写真

せたがや百景 No.26

弦巻實相院界わい

吉良家開墓の寺院で、正式には鶴松山實相院。禅寺にふさわしく、境内には木々がうっそうと茂り、森閑としている。まちの中の寺とは思えない風情があり、鳥の声に耳を澄ましたくなる。代官屋敷のちょうど裏手あたりになるが、この辺は江戸時代の世田谷の中心だったところだ。(せたがや百景公式紹介文の引用)

・場所 : 弦巻3-29-6
・備考 : ーーー

*** 弦巻實相院の写真 ***

松丘小学校側の入り口の写真
松丘小学校側の入り口

普段は開かずの門となっています。

山門の写真
山門

 

境内の様子を写した写真
山門から入り口を眺める

紅葉の時は結構きれいです。

境内の様子を写した写真
山門から本殿の間

木が繁りうっそうとした感じがします。

本堂の写真
本堂

昭和32年に改築したものです。

天水桶の写真
天水桶と五三桐の紋

吉良家の紋です。

賽銭箱の写真
賽銭箱

こちらにも吉良家の紋と、他はなんでしょう?

朱印寺の石碑の写真
朱印寺の石碑と竹林

昔の格式の名残です。 

仏塔の写真
仏塔

近年新しく建てられたものです。

境内の様子を写した写真
仏塔の裏側の施設

地下納骨堂なのでしょうか。

駒留通り沿いの入り口の写真
駒留通り沿いの入り口

立派な門構えですが、こちらは裏側になります。

境内の様子を写した写真
桜の時期の裏参道

ピンク色の絨毯になっていました。

境内の様子を写した写真
巨石の配置されている庭

配置するのが大変そうです。

江戸城の残石の写真
江戸城の残石

なぜここにあるのか不明?

境内の様子を写した写真
六地蔵と紅葉

墓地の守り番です。

高橋是清翁之鬚墓の写真
高橋是清翁之鬚墓

元首相である高橋是清の鬚を祀った祠です。

境内の様子を写した写真
大陸的な石像
境内の様子を写した写真
変わった物1
境内の様子を写した写真
変わった物2

* 弦巻實相院について *

駒留通りの西側の端、中央図書館のある通りと交わる付近に實相院があります。この付近は用賀方面へ抜ける裏道として時々使う事があるので、昔からそこに大きなお寺があることは知っていたのですが、新しい塀や門から特に見所のない普通のお寺だと思っていました。今回百景に選ばれているのを知って訪れてみたのですが、ちょっとビックリしました。

何が驚いたというと、駒留通り側は寺の裏側だった事です。松丘小学校側の細い路地の方にちゃんとした門がありました。普段見慣れた物でも裏返しにしてみると新たは発見があったりするものですが、今回はまさにそんな感じの訪問となりました。

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この實相院(実相院)ですが、正式には實相禅院(実相禅院)で、宗派は曹洞宗、山号は鶴松山。開基は吉良氏朝で、開山は天永琳達大和尚によるものです。ということは次の項に出てくる勝光院と開基の経緯が似ていて、勝光院の末寺という関係になるようです。

氏朝といえば、吉良家の菩提寺勝光院を中興開山し、小田原の役(1590年)の際に世田谷城を明け渡し、世田谷領を追われ下総に下り、しかも吉良家とは血のつながりのない北条家からの養子であるというお方です。その氏朝が下総から世田谷に戻ってきて、1603年に他界するまで夫婦で静かに閑居したのがこのお寺だそうです。

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私の中で氏朝に関しては、今まで世田谷吉良氏を崩壊させたダメ殿だといった印象が強かったのですが、これを知って少し見方が変わりました。もしかして思いやりのあるいい殿様だったのでは?あまり当時の状況がわからないので勝手な推測でした書けませんが、世田谷吉良氏が事実上滅亡した後にその土地に戻ってくるということは、それなりに覚悟がいるはずです。

下手な滅亡のさせ方をしていれば戻ってこれないはずだし、戻ってきても恨み辛みで昔からの家臣や土地の人に殺されかねないはずです。それをわざわざ戻ってきたということは、誰しもが納得する降伏劇だったのでは。そもそも世田谷城は立地上攻めやすく守りにくい城だったと思われるので、家臣や農民が戦火に巻き込まれないように降伏したとも考えられる気がしました。それは吉良家のために寺を造り、またこの地に夫婦で戻ってきていることから私が勝手にそう思ったのですが、真実はどうなのでしょう。

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実際に訪れた感想としては、先に挙げたように駒留通り沿いの入り口が裏門なのには驚きました。こっちが正門だと思って入ったものだから、あれっ本堂がない!とぐるっと回って本堂に辿り着きました。現在の本堂は昭和32年に改築された新しい建物で、近年にも補修されたようで屋根などは新しくなっていました。本尊は薬師如来が祀られています。

建物自体は新しいので特筆することはないのですが、堂の前に置かれた賽銭箱や天水桶に吉良家の紋である五七の桐が結構目立つように付けられています。吉良氏のお寺というと勝光院の方が知られていますし、実際に史跡の墓所がありますが、訪問時に受ける印象としてはこちらの方が吉良氏縁といった雰囲気があるように感じます。

「新編武蔵国風土記稿」によると、「今境内二氏朝夫妻ノ碑アリ、氏朝ノ碑面ニハ実相院殿四位下学翁玄参大居士 慶長八年(1603年)九月六日ト刻シ、夫人ノ碑ハ鶴松院殿快窓寿慶大姉トアリ。」と、記されていますが、現在この墓碑は所在が不明で、氏朝の位牌のみが本堂に安置してあるという話です。もし墓碑が残っていればもっと知名度やお寺の存在感が上がったのかなと思ってしまいます。

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本堂でお参りした後にどう見てもこっち側が参道になるのだろうと反対側に出てみてようやく入り口がこっち側だと納得しました。正門の真ん前は松丘小学校。本当の入り口である場所には現代的な門が付けてあったのですが、開かないようになっていて駐車場から敷地内へ入らなければならないようになっていました。これは小学生がむやみやたらと入ってこれないようにする為なのかな。それとも通り抜けをしにくくする為なのかな。なんか色んな事を考えてしまいますが、正面の門を閉じているお寺も結構あるので、考え過ぎなのかもしれません。

それよりもこちら側に緑が多いのには驚きました。通りから山門にかけてはモミジが沢山植えられているような雑木林といった感じで、山門から本殿の間はまさに森の中といった感じです。こういった景観も駒留通りからは想像も出来ませんでした。庭も広く、庭には色んなものが置いてありました。なんだか変わった形の石の置物が多いのが面白いところ。きっと住職の好みなのでしょう。

また巨石のオブジェが多く、極めつけは江戸城の残石が敷地の隅に山積みになっていました。恐らく石垣に使われたと思われる石なのですが、何でこんな所にあるのといった感じです。しかも中途半端な量が・・・。何かに使おうとして持ってきたのだろうか・・・、色々と考えるもののその存在理由がよく分かりませんでした。

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その他では朱印寺の石碑が竹林の中にありました。これは慶安元年(1648年)7月17日に将軍家光から朱印地十石二斗二升を賜ったことの名残です。ただその後は檀家数が少なくなり、慶応四年(1868年)には朱印地を返上したという経緯があります。近年(たぶん2012年)では駒留通り側に大きな仏塔、二重の塔が建てられました。

昔訪れたときは何か庭の造成工事をしているなとしか思わなかったで、久しぶりに訪れたらこんな立派な建物が出来上がっていてビックリしました。その後塔の周辺には永代供養の碑や地下納骨堂のようなものが造られたりと寺の様子が少し変りました。

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その他では参道の林の中に「高橋是清翁之鬚墓」などというものもあります。高橋是清といえば昭和恐慌に豪腕で対処し、2・26事件で暗殺された元首相です。世田谷の岡本に別荘があり、それがせたがや百景に選ばれているので世田谷とも少し縁があるお方です。その是清翁の墓がなぜここに。しかも名前からすると髭だけが葬られているお墓という事になるようです。ちゃんとしたお墓は多磨霊園にあるようですし・・・。もしかしてえらい人はその英霊にあやかって首塚、髭塚、胴塚といったようにバラバラにされて各地で崇拝されるとか・・・。

気になって調べてみると、翁の愛顧を受けた永井如雲画伯がその鬚を生前にもらい受け保存していて、それを昭和61年に高橋家の了解を得て埋葬したのがこの「高橋是清翁之鬚墓」となるようです。

<せたがや百景 No.26 弦巻實相院界わい 2009年3月初稿 - 2015年10月改訂>