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せたがや地域風景資産 No.2-10

旧・新町住宅地の桜並木

1913年(大正2年)に分譲が始まった「新町」住宅地は、Y 字型の骨格道路の両側に合計千余本のソメイヨシノが植えられました。後に「桜新町」と呼ばれるようになりました。(紹介文の引用)

・場所 : 深沢7・8丁目、桜新町1丁目
・登録団体など : 深沢・桜新町さくらフォーラム
・備考 : ーーー

*** 旧・新町住宅地の桜並木の写真 ***

旧・新町住宅地の写真
旧新町住宅地の入り口

この交番の所に住宅地への入り口がありました。

長谷川町子美術館の写真
長谷川町子美術館のサザエさん達

旧新町住宅地の一画にあります。

サザエさん公園の写真
サザエさん公園

美術館の裏手にあります。

サザエさん公園の写真
サザエさん達の像

駅前の像に比べると原作に近い感じです。

旧・新町住宅地の写真
信託住宅発祥の地の碑

信託が開発した住宅としては最初になるようです。

旧・新町住宅地の桜並木の写真
桜並木の案内板

桜並木と昔の様子が写真入りで解説してあります。

旧・新町住宅地の桜並木の写真
桜並木の様子1
旧・新町住宅地の桜並木の写真
桜並木の様子2
旧・新町住宅地の桜並木の写真
桜並木の様子3
旧・新町住宅地の桜並木の写真
桜並木の様子4
旧・新町住宅地の桜並木の写真
桜並木の様子5
旧・新町住宅地の桜並木の写真
桜並木の様子6
旧・新町住宅地の桜並木の写真
桜並木の様子7
旧・新町住宅地の桜並木の写真
桜並木の様子8

* 旧・新町住宅地の桜並木について *

桜新町といえば、やはりサザエさんの町という印象が強いかと思います。近年では駅前に置かれたサザエさん一家の像で話題に上る事も多かったので、全国的に周知されたのではないでしょうか。ただ・・・、いたずらで波平さんの髪の毛が抜かれたり、高額の税金が請求されたりとイメージの悪い報道ばかりでしたが・・・。

桜新町がサザエさんの町となっているのは、サザエさんの生みの親である長谷川町子氏が暮らした町で、サザエさんに描かれている日常の世界観は桜新町での生活体験が多く含まれているからです。商店街での様子はアニメで見るとちょっとイメージが違って見えますが、人情味ある人間模様は今なお健在で、個人的には様々な商店街のイベントの様子などから世田谷で一番子供を大切にしている商店街ではないかと思っています。

長谷川町子美術館があったり、駅前商店街にサザエさんの像が置かれたり、商店街の店にパネルが設置されていたり、秋にはサザエさんの絵が描かれたネブタが運行されたりと、近年では町全体でサザエさん一色となっています。ちなみに長谷川町子氏には、家族漫画を通じ戦後の日本社会に潤いと安らぎを与えたとして国民栄誉賞が授与されています。世田谷で出身ではないものの、世田谷が誇れる人物の一人ということができます。

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また桜新町は学生が多い町でもあります。周辺には駒沢大学付属高校、戸坂女子高校・中学校、都立桜町高校、都立深沢高校、都立園芸高校、日本体育大学、その他幾つかの専門学校もあり、生徒が個々の交通事情に合わせて桜新町の駅を利用しています。渋谷から田園都市線に乗る場合、桜新町駅と次の用賀駅で値段が結構違うし、桜新町で急行の通過待ちがあるしと、実際は用賀駅の方が近くても桜新町を利用する生徒も多いようです。

そういったわけでサザエさんに登場するような古くからの人情味ある商店街でありながら、若い者向けのカジュアルな部分もあったりと、全体的に雰囲気のいい商店街となっているように感じます。

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そんなサザエさん精神が息づく商店街、通称サザエさん通りを駅から南に向かうと、国道246号の手前でY字型の交差点に突き当たり、その付け根部分に交番があります。これを右に曲がってすぐのところに長谷川町子美術館があり、この付近から桜並木を見ることができます。そして246号を渡るとこの二つに枝分かれした道は平行に続いていて、その道沿いにはひたすら桜並木が続きます。

これは明治45年(1912年)から大正2年にかけて整備された「新町分譲地」の区画の名残りです。この分譲地は関東で最初なのか、東京で最初なのか、日本で最初なのか、記述されている文献によって違いますが、いちおう日本で最初の分譲住宅地として知られているのは、明治43年(1910年)に大阪の箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)が開発した池田の室町分譲住宅地になるようです。

こういった分譲地は行政、鉄道会社、民間のどこが開発したのか、どういった階級の人を対象にしているか、近郊なのか、郊外なのか、鉄道の沿線沿いなのか、地方の避暑地的な分譲地なのか・・・、等々で区別されるようで、そのため文献によって何番目という言い方が微妙に食い違っているようです。いちおう交番の横に信託住宅発祥の地の碑が建てられているので、信託が分譲した最初の住宅地となるのでしょう。

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この新町分譲地は玉川電気鉄道の株主でもあった東京信託(現日本不動産)が当時、山林だった駒沢村深沢と玉川村下野毛飛地(現深沢7・8丁目と桜新町1丁目の南半分)を鉄道沿線型、郊外型の高級分譲住宅地として開発したものです。今でいうなら桜新町といえば都心から近く、通勤に便利な立地条件となりますが、この時代の桜新町は誰が見ても納得するような立派な郊外だったようです。

関東大震災以前の郊外住宅街というのは、今でいう通勤用の住宅地よりも金持ちの別荘的な家といった使われ方をされていました。鉄道といっても雨量が多いとすぐ冠水して運行できなくなってしまうような時代なので、郊外から都心に電車で通うというのはあまり一般的な方法ではなかったようです。

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そもそも当時の世田谷というのは畑や林ばかりの土地で、名産といえば自然の山林と湧水を利用したタケノコでした。自然豊かといえば聞こえはいいのですが、大きな街道以外では普通に追いはぎが出るし、水道や電気といったインフラもあまり整っていなく、普通の人が生活するには少々不便な土地だったのです。

そういった何もない土地だったので、等々力、駒沢には林を切り開いてゴルフ場が造られたりもしています。そういった郊外にお金持ちが週末を過ごすための別荘を建てるというのが当時の流行であり、とりわけ見晴らしのいい崖線付近に政財界の要人の別荘が並んでいたのは有名な話でしょうか。

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新町分譲地に話を戻すと、現在の桜新町駅の南側、桜新町1丁目から深沢7・8丁目にかけての地域に造成されました。ちょうど呑川西側の高台にあたる部分です。この付近は呑川に流れ込む湧水が多く、ちょっとした渓谷っぽい雰囲気だったようです。とりわけ自然の山林と湧水を利用して良質のタケノコを生産していて、特に呑川付近で取れる深沢産のタケノコは市場でも高値で取引されたとか。そんなタケノコの産地のすぐそばにできたのがこの新町住宅街ということになります。

また当時の新町分譲地とは直接関係ありませんが、現在の深沢高校付近には元わかもと製薬社長長尾鉄弥氏の広壮な京風の邸宅好田荘があり、深沢高校が建てられる際に離れの茶室だけが好田荘唯一の遺構として残されました。この茶室は崖地を利用して、地上階の約半分が列柱により支えられた木造住宅(懸造り)となっています。

建てられたのが昭和6年ということなので、その当時の人が呑川の渓谷的な風景を楽しみたいといった意図を感じられる貴重な建物となります。今では清明亭と命名され、深沢高校の自慢の一つになっていて、時々茶道部などによってお茶会が催されたりしています。

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この新町分譲地を有名にしているのは歴史の古さなどよりも、分譲地の道沿いが桜並木となっていることになるでしょうか。ここに並ぶ桜は分譲地を開発したときに記念として道の両側に4、5m間隔で千数百本植えられたものだそうです。その後の区画整理などで横の道にも植えられて、この界隈のいたるところで桜並木を見ることができます。おそらくここの桜並木は日本で最初の住宅地用に植樹された桜並木となるのではないでしょうか。

当時は桜、とりわけソメイヨシノは園芸用の木と認識されていて、過酷な生育環境となる街路樹には向かないとされていました。その常識を覆したのがここの桜並木ということになり、この後に作られた上北沢の住宅地を始め、成城などの住宅地に広がっていきました。いわゆる高級住宅地に桜並木といったイメージの先駆けであるのは間違いありません。

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この桜並木は人々の心配を他所に無事に成長していき、毎年美しい花を咲かせ、立派な大木となっていきました。そして桜並木が新町の象徴的な風景となり、桜新町と駅名が付けられ、後に新町の半分が分かれて桜新町という町名が付けられました。現在では駅前の通りにも植樹され、春には大きな桜祭りが行われ、桜新町の桜といえばこちらの方が知られています。ちなみに「新町」というのは新しい町という意味ではなく、この地が江戸時代の万治年間に開拓された農地であり、その時に「新しい田」といった意味で世田ヶ谷新町村と名付けられた事に由来しています。

もちろん深沢界隈の旧・新町分譲地の桜並木も健在です。しかしながら、いかんせん月日を重ねすぎていて、多くは伐採され、残った木も老木となってしまっています。新しく苗木が植えられている場所もありますが、全体的には治療中の木が多く、少し痛々しい感じのする桜並木となっています。

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現在の新町分譲地というか、この地域の住宅地はそれなりに大きな敷地を持ったお宅もありますが、そこまで特別な存在の住宅地ではないように感じます。開発当時はお金持ちの別荘的な住宅街だったのですが、関東大震災を機に郊外住宅の安全性が認識され、郊外の開発が急ピッチに進んでいきました。また交通網の整備が進み、郊外から都心へ通勤する人も増えていきました。そういった時代の流れの中で新町住宅地も別荘的な分譲地から徐々に閑静な高級住宅地に変化していきます。

そして国道246号のバイパス化で新町住宅地は大きく変ってしまいます。桜新町駅前の通りはかつて玉川通りの本線で、路面電車の玉電の線路の敷設されていました。戦後には東京オリンピック開催を機にと共に道幅の拡張がされ、その後の高度経済成長期には玉電の地下化、そして頭上に首都高が設置されます。その際に新町から二子玉川にかけてバイパス工事も行われ、新町住宅地を横切るように道が設置されたことで、完全に新町住宅街は分断されてしまいました。

更には住宅地のメイン通りはバス通りであり、駒沢通りと246号の抜け道でもあり、学生の通学路でもありと、今では閑静な高級住宅街の趣きが薄くなってしまった感じです。実際、新町分譲地が造成された当時からこの地に暮らしている住民はほとんどいないという話です。とは言うものの、一般人からすると桜並木があって、雰囲気が良くて、憧れの高級住宅街には変わりないですが・・・。

<せたがや地域風景資産 No.2-10、旧・新町住宅地の桜並木 2011年8月初稿 - 2015年10月改訂>