駒繁神社と例大祭
下馬4-27-26蛇崩川沿いの小高い丘の上にある神社で行われるこぢんまりとした祭り。夜には神楽殿で地元の民舞会による民舞の奉納が行われます。
1、旧下馬村と駒繁神社について
蛇崩川沿いにあります。
下馬の蛇崩川沿いの高台に駒繁神社があります。読み方は「こまつなぎ」になります。
神社の名前が駒繋で、付近の氏子地域の住所が下馬、近くには上馬、あるいは駒沢と馬(駒)の文字が入った地名が多くあります。このことから、かつてこの付近一帯は野生馬の産地だったのでは・・・と推測する人もいるでしょう。
古墳時代、野毛にある大塚古墳を造った勢力は、関東の野生馬を関西に輸出して力を付けたという話なので、この付近に野生馬が多くいた可能性もあるかもしれませんが、地名の由来は野生馬とは関係なく、源氏伝説にまつわるものです。
時は天喜四年(1056年)。前九年の役(安倍氏征伐)で、源頼義、義家親子が奥州に進軍する途中、この地を通りがかりました。
この時、土地の者たちから出雲大社の分霊を勧請して祀った「子の神(子明神)」があることを聞き、ここでこの度の戦勝を祈願することにしました。そして無事に勝利することができました。
時が流れ、文治五年(1189年)。源頼朝が奥州征伐(奥州藤原氏討伐)へ向かう途中、この地を通りがかりました。そして、祖先の義家にならって子の神に戦勝を祈願しました。この時に、頼朝は愛馬芦毛から降り、馬(駒)を松に繋いで参拝したとされています。
この伝承の真偽は分かりませんが、明治以後に子の神神社(子明神)から駒繁神社と名が改められました。
また、参拝の際に周辺がぬかるんでいたため、頼朝一行は下馬して神社へと参拝したことから、駒繁神社一帯を「下馬(しもうま)」と呼び、乗馬した地を「上馬(かみうま)」と呼ぶようになったとかなんとか。
これは俗説となり、正しい解釈は、地面がぬかるんでいたため、頼朝が馬を引いて移動したことから馬引沢という地名ができ、それが上馬引沢村、中馬引沢村、下馬引沢村と分裂し、後に短縮し、上馬、下馬となりました。中馬は、昭和7年に名前の響きがいい三軒茶屋と改名されています。
駒沢は新しく付けられた合成地名で、1889年(明治22年)に町村制施行に伴い荏原郡上馬引沢村、下馬引沢村、野沢村、弦巻村、世田ヶ谷新町、深沢村の6村が合併した際に、下馬、上馬の「馬(駒)」と深沢、野沢の「沢」を当ててつくられた駒沢村が始まりとなります。町名としての駒沢は、1967年(昭和42年)の住居表示の実施時に、現在の町域があてがわれました。
*国土地理院地図を書き込んで使用
源氏所縁の伝説を持ち、下馬引沢村の村社だった駒繋神社は、蛇崩川緑道沿いの高台に立地しています。
神社の下を流れる蛇崩川は、全長4kmほどの二級河川。といっても、昭和50年に川筋のほぼ全てに蓋がされ、今では遊歩道を兼ねた緑道に変わっています。
蛇崩川とはなかなか面白い名称です。名前に蛇という文字が入っていることから想像が付くことでしょう。かなり曲がりくねった川です。現在の川筋は、耕地整理や河川の流路変更でかなり整えられていますが、それでも部分的にはよく曲がっている川で、今の川を見ても蛇崩川の名前がふさわしく感じます。
ただ、名前の由来に関しては色々な説があり、必ずしも曲がりくねっているから蛇崩川というわけではなく、地名的には「蛇崩=崖崩」と解釈されていたり、崖から大蛇が出てきたという伝説も残っていたりします。
暗渠となっても昔の雰囲気があります。現在は少し様子が違うようです。
世田谷の川は、耕地整理の際に川筋が真っ直ぐに整えられることが多いので、川を埋めて作られた緑道も直線的で、昔の川の面影が残っていない場合が多いです。
そんな中でここ駒繋神社付近では、緑道が神社の敷地に沿ってきれいな弧を描いていて、かつて川だった雰囲気がよく残っています。
その暗渠となった蛇崩川緑道上、ちょうど鳥居の前に朱色の神橋が不自然に架けられています。かつての蛇崩川に架けられていた橋で、昭和26年に建造されたものとか。
この朱色の橋と、神社の鳥居、そして境内に繁る木々の緑が合わさった風景は、古くからの原風景というか、とても素敵でした。
しかしながら、2019年に工事が行われて、ビルが鳥居の背後に建てられてしまったようです。色々と事情があるのでしょうが、ちょっと残念です。
結構きつい坂です。
この神橋が神社への入り口となります。橋を渡ると鳥居があり、その先は階段と急な坂が待っています。
一見男坂が階段の方で、女坂が坂道といった感じを受けますが、実際に登ってみると、坂の方がきつい感じがします(個人的な感想)。
まだ新しい建物です。
登ると、本殿、神楽殿、御輿舎、境内社などの建物がある広場があります。現在の社殿は新しいもので、昭和38年に完成した鉄筋コンクリート製です。ただ、所々に埋め込まれるように設置されている木の彫刻は見事です。
社殿前の狛犬や石灯ろうも新しいものなので、今時の神社といった佇まいですが、中に設置されている本殿は、明治31年に建造されたものになるようです。
開けっぱなしなので、落ち葉が溜まっていました。
この神社の境内で趣きを感じるのは神楽殿。シンプルな感じの建物で、明治25年に建てられたものです。神社のホームページを見ると、時代劇をはじめテレビ、映画の撮影に使われることもあるとか。
秋の例大祭では奉納行事として、地域の民舞連合による民舞がこの神楽殿で行われます。その時の様子は、強烈に昭和レトロを感じるものなので、そういった雰囲気を求めて使われているのでしょうか。
それはともかく、普通、使わない時には扉が閉められていたり、雨戸を取り付けたりするものですが、ここでは解放したまま。落ち葉が舞台に降り積もっていました。ちょっと心配になってしまいます。
一番大きな境内社です。
この他、境内には幾つか境内社があります。一番大きなのが招魂社。国家のために殉難した人の霊を祭る神社です。隣には日露戦争の記念碑が建てられているので、日露戦争に関する人のために建てられたのでしょうか。
その他には、三社宮、そして稲荷神社が幾つかあります。説明書きがないので、いわれはよくわかりませんが、おそらく下馬地域にあった神社が移されたものでしょう。
2、盆踊り大会
そこそこ賑わいます。
夏には駒繋神社の境内で盆踊り大会が行われていました。過去形になっていますが、近年では行われなくなってしまったようです。
下馬では何故かはわかりませんが、民舞が盛んです。多くの会があり、秋祭りの奉納演芸では2日間に渡って民舞が行われます。その流れで盆踊りの方も熱心に行われていたのですが、一般の方の参加者が少なかったということでしょうか。それとも予算等の問題でしょうか。
近年の世田谷では、秋祭りを簡素化し、その代わり盆踊り(夏まつり)を盛大にやるという流れがトレンドになりつつありますが、珍しく逆になっています。
2011年の盆踊り
雰囲気はいいのですが、観客がいなく寂しい感じでした。
秋祭りを訪れたときに、奉納演芸で民舞が2日間にわたって行われていて、その様子がとても素敵でした。盆踊りも民舞をやる婦人会の人が中心になって、盛り上がっているんじゃないかな・・・と期待して訪れました、
最初に訪れたのは、2011年。訪れると、踊りに関してはそろいの浴衣を着た婦人会の方が熱心に踊られていて、予想通りといった感じ。しかし、盛り上がりに関しては、人が少なく、期待外れでした。
ただ、木々に囲まれた境内に櫓が設置されていて、その中で行われる盆踊りの雰囲気はとてもよかったです。
2013年の盆踊り
踊りの輪が二重になっていました。
2013年に再び訪れてみると、踊り手が増えていて、踊りの輪が二重になっていました。観客も増え、とても賑やかな感じ・・・、いや、前回が酷かったので、普通の盆踊りの状態になっていました。
前回は土曜日。今回は日曜日。曜日の違いなのか、たまたまなのかわかりませんが、活気のある様子はいいものです。
とはいえ、ここの境内はあまり広くありません。人が増えると、今度は手狭な感じがして、踊りも窮屈な印象になっていました。
3、駒繁神社の秋祭りについて
駒繁神社の秋祭り(例大祭)が行われるのは、9月の第三日曜日とその前日の土曜日です。
土曜日の夜には宵宮祭が執り行われ、日曜日の14時から例大祭が拝殿で行われます。参加者はそこまで多くなく、ひっそりと行われるといった感じでした。
大祭日の昼間に行われます。
神輿に関しては、神輿舎に立派な御神輿が飾ってあるのですが、その神輿が担がれることは滅多にありません。
せっかく神輿があるのだから時々担げばいいのに・・・と部外者としては思ってしまうのですが、聞くと担ぎ手が集まらないからだとか。本当に滅多に担がれなく、恐らく世田谷で一番稀少価値の高い神輿渡御になるはずです。
神社の宮神輿は担がれませんが、普段は町会神輿が渡御していまするようですが、やはり小さな子供神輿ばかりとなるようです。
二日間にわたって行われます。
二日間とも夜6時から9時までの間、神楽殿で奉納演芸として各町民舞会による民舞が奉納されます。民舞だけの奉納演芸というのは、世田谷ではここだけでしょう。かなり独特です。
民舞というのは・・・、日本舞踏の一種というぐらいの認識しかなかったので、この機会にどう違うのか少し調べてみましたが、よくわかりませんでした。
民謡というのは、「人々の生活の中から生まれ、口伝えによって歌い継がれてきた郷土食の強い歌謡」となります。民謡舞踊は、「民謡に合わせて踊られる、人々の生活から生まれ、地域社会に伝承されてきた踊り」となります。
演劇っぽい踊りもあります。
民舞は民謡舞踊の省略したものかと思ったのですが、そうではないようで、各地の民衆の生活や信仰に根ざし、古くから伝わってきた踊りの総称となるようです。
なので、盆踊りやエイサーなどの地域のお祭りで踊られる踊りも民舞の一種となるようで、民舞=民俗舞踊といった表現が適切になるみたいです。
と、いまいちよくわからないので、細かいことはさておき、ここの民舞は結構凝っていて、寸劇のような出し物だったり、舞踏だったりと、色々と趣向を凝らしていました。
様々な踊りが行われます。
神楽殿には「かがやきの会」「おもと会」「花沢会」・・・といった民舞会の提灯が沢山ぶら下がっていたので、毎年それぞれの会がこの日のために演技に磨きを掛けて頑張っているのでしょう。
雰囲気的には、ちょっと大げさに言うなら歌舞伎とかの地方巡業っぽい感じでしょうか。そのため縁日っぽい感じが強烈にしていいのですが、ただ・・・、訪れたときは見ている人はあまり多くありませんでした。
哀愁漂う縁日というか、昭和的な感じがして、これはこれで心に訴えるような素敵な雰囲気でした。って、失礼な言い方ですいません・・・。
静かで緑が美しく感じました。
夜はそこそこ人で埋まりますが、昼間は閑散とした感じです。
神社の御神輿は担ぎ手がいなくて運行されないし、奉納演芸も見ている人が少ないし、例大祭の参加者も少ないしと、あまり盛り上がらない秋祭りといった印象を持ってしまいますが、露店の数はなかなか多かったりします。
本殿前の広場だけではなく、上側の参道、神橋付近、そして蛇崩川緑道のところにも少し出ます。神社の横が区立駒繋公園になっていることから、露店で食べ物を買って、公園で遊んでいる子供も多く見受けられました。
時間帯によっては参拝客の列ができますが、。
昼間は閑散としていても、夜になるとどこともなく人が集まってきて、時間帯によっては境内が混み合います。
とはいえ、境内がそこまで広くないので、人が少し増えると賑わったように感じてしまうだけかもしれません。拝殿前も列ができるようなことはほとんどなく、奉納民舞を見る人は少なく、露店ばかりがにぎわっているといった感じでした。
蛇崩川緑道沿いに店が並びます。
夜になると人が多くなります。
また、近年では稚児行列が復活したと聞きました。駒繋神社の祭礼で伝統行事として受け継がれてきたのが「お稚児さん行列」となるようです。
これまでは式年祭などの記念年に行われていましたが、平成23年(2011年)より4年に一度の恒例行事として執り行われる事となったそうです。
稚児行列は、日曜日の10時に駒留中学校から出発し、神社に向かいます。行列は神社の旗、雅楽の演奏、神職、そしてお稚児さんと続き、神社に到着すると、社殿で子供達の健やかなる成長と下馬の町の繁栄をお祈りします。
4、駒繋神社の神輿渡御
毎年神輿舎の中に飾られています。
駒繋神社の秋祭りを初めて訪れたのは、2009年の宵宮の日。神輿舎に神輿がライトアップして飾られていました。
ここの神輿は昭和11年に浅草の宮本重義によって建造されたもので、台座が二尺八寸、金梨地の唐破風軒屋根、勾欄造りで、吹き返しの彫金が見事なのが特徴です。
世田谷では黒屋根のものが多いし、ここの神輿は特に光沢がきれいで、金梨地が印象的に感じます。渡御している様子はさぞ素敵なんだろう・・・。
そばのテントにいた方に「何時に御神輿は出発するのですか?」と聞くと、「残念ながらこの御神輿は出ないのですよ。」と返ってきました。なんでも担ぐ人がいないとか。でも何年か前に式年祭を行った際に担いだから、また何年かしたら出るかもよとの事でした。
金梨地の唐破風軒屋根は世田谷では珍しいです。
帰ってからちょっと調べてみると、平成19年(2007年)に鎮座950年式年大祭が執り行われ、25年ぶりに宮神輿が運行されたとなっていました。そのときは神幸祭といった形で神主さんは馬上の人となるような大がかりに執り行い、結構盛り上がったみたいです。
2012年の秋祭りに再び訪れ、その時に「次はいつ担ぐ予定ですか?また何十年も担がれないのですか?」と、氏子さんに尋ねてみると、「来年(2013年)、氏子の間で運行しようかといった話があるんですよ。」といった前向きな感じだったのですが、残念ながら翌年訪れてみると立ち消えに。またしばらく運行されないような感じでした。
2015年に稚児行列が行われるとのことで、その時に・・・と少し期待したのですが、この時も担がれず。で、鎮座960年にあたる2017年に10年ぶりに担がれました。この流れだと、次は鎮座970年にあたる2027年に担がれることになるのでしょうか・・・。
ここの神輿は世田谷区内の神社にある神輿の中でも、なかなか担がれないものの一つです。10年単位では長いので、せめて5年に1度といった頻度でも定期的に宮神輿が運行されてくれると、見物人としてもありがたいところです。
宮神輿は滅多に担がれませんが、普段の祭りでは日曜日に町会神輿が運行されています。幾つの町会が神輿を運行しているのか分かりませんが、同じように人手不足とのことで、子供神輿が中心になるようです。
町会神輿は昼頃から渡御が行われ、順次宮入をしてきます。ネットで調べてもあまり情報がなくてよくわかりませんが、なかには神輿をレンタルして運行している町会もある(あった?)とか何とか。
そこまでするなら神社の神輿をと思ってしまうのですが・・・。なかなかそうもいっていられない事情があるようです。
下馬新生地区の張り紙を見ると、子供の山車引きと神輿の担ぎの募集していました。よく見ると、地元有志による民舞パレードとなっています。奉納演芸で民舞が盛んですが、神輿と一緒に民舞パレードもしていたのですね。気が付きませんでした。
5、感想など
黄昏時の境内はとても雰囲気がいいです。
源氏伝説が残る駒繁神社。その真偽は定かではありませんが、秋祭りで印象的だったのは、宵宮、本宮の両日に行われる民舞。各町会の団体が競い合うかのように演技を行い、その様子は芝居の地方巡業のような雰囲気というのは大袈裟ですが、とても味わいのあるものでした。
ただ、祭り全体としては、いまいち盛り上がりに欠けるかなといった印象を持ちました。担ぎ手がいなくて宮神輿の運行ができないのもありますし、境内の賑わいもそれほどでもなかったからです。
それは何故か・・・と考えると、地図を見るとなんとなく理解できました。
*国土地理院地図を書き込んで使用
江戸時代までは駒繁神社を中心に村が広がり、蛇崩川沿いには田畑が広がっていたはずです。明治になると玉川電鉄、昭和に東横線が開通し、宅地開発が進みました。
下馬という町域は世田谷の端に位置していて、6丁目まであるほど大きな町域です。それにも関わらず鉄道の駅がなく、最寄り駅も拡散している状態です。目黒区の祐天寺駅や学芸大学駅の方が便利のいい人も多くいます。
そういった事情から人々のベクトルは四方八方に向いてしまうし、地域の中心となるような大きな駅前商店街がないしと、こういったイベント的なものに関してはスポンサー不足だったり、団結が薄いのかもしれません。
そういったわけで、大きな町域の割にはとっても地味でこぢんまりとしたお祭りになっている感じがします。でも、人が無駄に多く集まればいいというものでもないし、あまりガチャガチャしていない雰囲気で行われるお祭りもいいものです。
ただ、神輿が数年に1度運行できるぐらいの活気は欲しいところですし、せっかく各町の民舞会の方々が熱演しているのだからそれを盛り上げるような試みがあってもいいような気がしました。
世田谷の秋祭り #3駒繁神社と例大祭 2025年9月改訂 - 風の旅人
・地図・アクセス等
| ・住所 | 下馬4-27-26 |
|---|---|
| ・アクセス | 最寄り駅は東急東横線祐天寺駅(徒歩15分)、東急田園都市線三軒茶屋駅(徒歩20分)駅から離れています。 |
| ・関連リンク | 駒繋神社(公式) |
| ・備考 | ーーー |