上馬の駒留八幡神社
世田谷の秋祭り#6駒留八幡神社とこまどめまつり
上馬5-35-3鎌倉時代後期、このあたりの地頭だった北条左近太郎入道成願は、八幡宮の勧請を誓い、乗った馬の留まったところに社殿を造ろうとした。これが現在の地で、馬が留まったところから駒留と名付けられたといわれる。戦国時代には吉良氏との縁も深く、常盤と死産した吉良頼康の子が祀られている。(せたがや百景公式紹介文の引用)
1、上馬と駒留八幡神社について
三軒茶屋は世田谷を代表する商業地のうちの一つです。二子玉川、下北沢とともに東京以外で暮らす人々にもその名が広く知られているでしょうか。
三軒茶屋が位置しているのは、国道246号(玉川通り)から世田谷通りが分かれていく三軒茶屋交差点付近。この交差点を中心に賑やかな商業地域が広がっています。
国道246号線はかつての大山道をなぞって整備された幹線道路になります。ただ、現在ではバイパス化が行われているので、かつての道筋と重なる部分は少ないです。
三軒茶屋からの道筋も、現在では玉川通りの方が交通の本筋となっていますが、江戸時代は世田谷通りの方が大山道の本筋で、玉川通りの方は玉電が敷設されるまでは道が狭く、あまり人通りが多くありませんでした。
*国土地理院地図を書き込んで使用
江戸時代の三軒茶屋は、大まかに世田谷通りの北側が太子堂村、南側が馬引沢村に分かれていました。街道筋は少し栄えていたものの、明確に〇〇村と呼ぶことができなかったので、追分となっていた交差点付近に三軒の茶屋があったことから、この界隈のことを三軒茶屋と人々が呼ぶようになり、明治以降に駅名や地名になりました。
世田谷通りの南側を占めていた馬引き沢村。江戸時代は一つの大きな村でしたが、内部では上馬引沢(現在の上馬、駒沢の一部)、中馬引沢(現在の三軒茶屋)、下馬引沢(現在の下馬)に分かれていました。
明治になると、それぞれが村として独立するものの、明治12年に中馬引沢村が上馬引沢村に編入しました。
後に、上馬と下馬と略称が住所表記に使われることになりますが、中馬引沢村だった地域は、世田谷区の成立の際に三軒茶屋と名付けられたので、現在では上馬と下馬が隣接していないといった不自然な配置になっています。
馬引沢という地名は、源頼朝に起源を持つと言われています。頼朝が奥州征伐に向かう際、先祖の源頼義、義家親子に倣って子の神(駒繋神社)に参拝しようとこの地を訪れました。
この時に乗馬していた芦毛の愛馬が突然暴れて沢に落ち、従者が慌てて引き上げるものの、馬は死んでしまったとか。その馬を供養して埋めた場所を芦毛塚(下馬5丁目41)とし、落ちた沢を芦毛田とし、後に馬引沢という名がこの地に付いたそうです。
別の説もあり、同じく頼朝が東北へ遠征に向かう途中、この地で土砂崩れに遭い、「以後ここを渡る際は、馬を引いて渡れ」と命じたことが由来とされています。この説の方は馬牽澤古事として江戸名所図会に書かれています。
環七から少し入った路地沿いにあります。
上馬引沢村の村社だったのが、駒留八幡神社になります。神社の由緒は鎌倉時代にまでさかのぼり、徳治三年(1308年)、この地の領主だった北条左近太郎入道成願が、信仰している八幡宮を召致した事に始まるようです。
どこに神社を建てようか。場所の選定に迷っていたところ、夢に八幡神が現れ「私を祀るところは愛馬に聞け」と言ったとかで、翌朝に馬の手綱を緩くし、馬の好きなように歩かせると、ある場所で馬が止まりました。それがこの場所で、ここに経筒を埋めて、塚を築き、その上に本殿を建てたそうです。そして「経塚駒留八幡宮」と名付けました。
拝殿の後ろの本殿はこんもりとした塚の上に建てられています。
室町時代、1300年代の中ごろから後半に、この地は室町幕府の足利家の血を引く吉良氏の領地となります。実際に世田谷に土着したのは1400年代になってからで、世田谷城を築いて、世田谷を治めるようになります。
12代目の吉良頼康の時代。1500年代の前半になるでしょうか。吉良家では大事件が起きました。
側室であった常盤は、なかなか子ができなかった頼康の子を身ごもりました。待望の子供。しかし他の側室たちからは妬まれ、策略によって不義の疑いをかけられました。
神社の北西、世田谷通り近くにあります。
このままでは命が危ない。子供を助けなければ・・・。と、常盤は身重ながら城を脱出し、逃亡を図るものの、追手をまくことができず、子どもを身籠もったまま自害しました。
自害した場所は神社の北西、世田谷通りのすぐそばにある常盤塚。いわゆる常磐伝説とか、さぎ草伝説と言われているやつです。(次項No.20 さぎ草ゆかりの常盤塚参照)
鷺草の造花と琵琶が供えられていました。
後日、鷺に託された常盤の手紙を読んで真実を知ったとか、家臣の進言で知ったとか、死産の子から吉良の五七の桐の紋が現れて無実を確信したとか伝えられていますが、真実を知った頼康は他の妃たちを処刑し、死産した子どもをこの神社に祀り、若宮八幡と改称しました。また、常盤を弁財天として厳島神社に祀ったとされています。
ただ、これはあくまでも伝説であり、常盤は架空の人物とされています。実際のところはわかりませんが、頼康には跡継ぎがいなく、北条から養子を迎えているので、似たようなお家騒動が起きたのかもしれません。
神社の改称についても、跡継ぎとなるはずの子の死産だったのかもしれませんし、全く違った経緯だったのかもしれません。このあたりははっきりとしません。
木造で落ち着いた感じの建物です。
江戸時代になると、世田谷の大部分は彦根藩の所領となります。天和二年(1682年)には、当地を知行した旗本大久保忠誠が、社殿の寄進と石段の修理を行っています。
明治になり、5年に村社に列格、40年に社号を駒留八幡宮と改称し、42年には合祀令に則って三軒茶屋(旧・中馬引沢村)にあった天祖神社が合祀されています。
時代が進んで、昭和41年に社務所、神楽殿、神輿庫などを改築し、昭和53年には、およそ250年前の作と推測されている絢爛豪華な宮神輿を修復し、近年も鳥居だったり、弁財天だったり、一年おきに訪れると、どこかしら新しくなっているといった感じです。
松が印象的な神社です。
駒留八幡神社は、環七と世田谷通りが交わる若林交差点の近く、環七からほんの少し入った場所にあります。
地図を見て知ったのですが、弦巻通りと駒留通りと環七が交差する陸橋は、駒留八幡に因んで駒留陸橋で、世田谷通りが環七と交差している橋は、常磐伝説にちなんで常盤陸橋という名が付けられています。
日本を代表する大動脈に、世田谷の古き良き時代の名残を見て取れるのはうれしいものです。
古く、無骨な感じのする拝殿です。
環七沿いにも脇参道がありますが、神社の正面は細い路地にあり、近年塗り替えられた一の鳥居をくぐり、少し階段を上ったら二の鳥居があり、狛犬や神楽殿、本殿があります。大きな交差点付近にありながら結構落ち着いた感じのたたずまいです。
境内は平坦で、あまり趣があるとは言えませんが、鳥居付近や拝殿前に何本か立派な松が植えられていて、飾り気のないちょっと渋めの建物と相成って部分的には重厚な印象も受けます。
拝殿の後ろの本殿は経筒を埋めて塚を築いたという伝説になぞられてなのか、こんもりと盛られた塚の上に建てられています。
境内の左奥は常盤弁財天などの小さな祠が沢山あります。
拝殿の左手には鳥居があり、その先には小さな社が幾つも祀られています。沢山の社が並んでいるので、この一角は雰囲気が少し神秘的な感じがします。
これらの社はかつて旧上馬引沢村と中馬引沢村に祀られていたもので、合祀令や宅地開発などの際に移されました。
境内社の中で一番大きいです。
小祠は御嶽社・三峯社・榛名社・菅原社です。
常盤に関連するものでしょうか。謂れが気になります。
拝殿のすぐ横、境内社で一番大きく目立っているのが戦没者慰霊殿。その名の通り戦争で亡くなられた方を慰霊する社です。
敷地の隅っこで拝殿の方に向かってある社は、大きいのは駒留稲荷神社、その横には御嶽社と、三峯社・榛名社・菅原社の三社宮があります。
これらの社と並んで女塚社もあります。一体何が祀られているのでしょう。特別ないわれとかあるのでしょうか。気になる存在です。
池の中に建てられています。
こういった祠の一番奥に、常盤伝説に登場する常磐を祀った弁財天(厳島神社)があります。この社だけ人工の池に囲まれる形で祀られていますが、コンクリートの池には水が溜められる気配がなく、ちょっと侘しい雰囲気が漂っています。
*国土地理院地図を書き込んで使用
この弁財天ですが、戦前までは神社前に「中の池」があり、その池の中島に祀られていたという話です。
戦前の航空写真を見てみると、神社前、現在、駐車場になっている付近に何かあるような・・・感じです。不鮮明なのでよくわかりませんが、これが中の池になるのでしょうか。蛇崩川からもそんなに離れていないので、水も融通できたのかもしれません。
中の島の名残でしょうか。
人工の池の近くには無造作に常盤橋の石盤が置かれています。これは中の島があった頃に弁財天(厳島神社)のある中の島へ渡るために架けられていた橋の名残りになるのでしょうか。
常盤橋といえば、「江戸名所図会」には、常盤塚の他に「二子街道中馬牽沢村世田ヶ谷入口、三軒茶屋の往還角の所より向へ三町計入て、小溝に渡す石橋をしか(常盤橋)名づく」とあり、「江戸砂子」にも「瘧を病む者が常盤橋の辺りに甘酒を供えると忽ち治る」とあります。
もし、そういった歴史的な橋だったらロマンを感じるのですが、無造作に置かれているところから考えるに、中の島に架けられていた橋をとりあえず置いているといった感じなのでしょう。
2、駒留八幡神社の秋祭り
駒留八幡神社の例大祭は毎年10月15日に本祭、前日に宵宮が行われていましたが、今では氏子などの都合により神事のみ15日の午前中(たぶん10時半頃)にひっそりと社殿内で行われ、それ以外の行事は15日以降の週末、だいたい第三週末に「こまどめまつり(例大祭神賑行事)」として行われています。
15日が第三日曜日と重なる場合、今までは普通に祭りを行っていましたが、今後は式年祭みたいな感じにして、貴重な江戸時代の宮神輿を運行させるようです。
町中で大道芸が行われます。
こまどめまつりが行われる10月第三週末といえば、三軒茶屋では三茶de大道芸という町を挙げての大道芸のイベントが行われる日でもあったりします。キャロットタワーを中心に大道芸を行う場が幾つも設けられ、昼間は三軒茶屋全体が大道芸を見に来ている人々で賑わいます。
秋祭りも大道芸みたいなもの・・・。そういう見方もできますが、大道芸人はその技や芸でお金を稼ぐ専門の人たち。そういったパフォーマンスと神社で行われる素人奉納演芸を比べるのは酷というもの。
昼間は大道芸の方へ人が流れ、神社の方は・・・閑散としています。ただ、夜になると大道芸を見終わった人や地元の人が集まってきてにぎわいます。
屋台が並んで賑やかな感じになります。
飲食関係の出店が多いです。
あいにくの空模様でも多くの人が訪れていました。
その理由は、多くの屋台が並ぶから。駒留八幡神社の境内はそこそこ広いので、多くの屋台が境内に並びます。しかも、ここでは飲食関係の店がとても充実しています。いかにも祭りの露店といったものから、本格的な店まであり、さながら屋台村といった感じ。境内にはとても香ばしい匂いで充満します。
なので、食べ物や祭りの雰囲気に誘われ、夕方から徐々に人が集まってきて、普段はひっそりとしている境内から想像できないほどにぎわいます。
屋台は賑わっていましたが、こちらは微妙でした。
海外の踊りです。
2012年頃は舞踊が中心でした。
土曜、日曜の夕方から神楽殿にて奉納演芸が行われます。訪れたころ、2009年~2012年は演芸の内容は地域の日本舞踊会の舞が中心でした。
2009年のプログラムを見ると、土曜日、日曜日ともに17組もの民舞の出演者がいます。下馬の駒繋神社でも民舞が盛んに行われているので、世田谷の中でも旧馬引沢村地域では舞踊が伝統的に盛んなのかもしれません。
ただ、2025年の奉納演芸のプログラムを見てみると、奉納演芸の時間が拡大し、内容もキッズダンスが中心になり、大道芸のプログラムも入っています。驚いたのが、今まで盛んだった民舞は日曜日の6組程度の出演だけ。一気に変わってしまったものです。
奉納演芸は年寄りが楽しむもの。なんかそんなイメージがありましたが、近年では子供たちが頑張り、友人や家族が応援するといった風景に変わりつつあるようです。
若駒連によって奉納されます。
獅子舞はいつの時代でも人気です。
後の世代にうまく継承できるといいですね。
その他、若駒連によってお囃子や獅子舞が奉納されます。かつては宮司舞として天の岩戸などの神楽が行われていたり、上馬ばやしも盛んに行われていたそうですが、多くの人が舞や囃子の意味が分からなくなってきたことから昭和30年頃には行われなくなってしまったそうです。
その後伝統芸能を復活させようと結成されたのが駒留お囃子若駒連で、現在では祭りの余興や神輿渡御を盛り上げています。日曜日の正午から1時間ほど、三崎遊漁などの神楽の奉納も行っています。
3、宮神輿渡御の様子(2009年)
普段の祭りでは神輿舎に飾られます。
現在世田谷にある神輿のほとんどは昭和に建造されたもので、古くても大正時代です。昔の世田谷は純農村地帯だったので人口は少なく、村民がお金を出し合って立派な神輿を買えるほど裕福でもなかったため、祭りで担がれる神輿といえば樽でつくった樽神輿が中心でした。
大正期から世田谷の開発が本格的に始まり、農村地帯から近郊都市へと変わり始めます。大きな転機は関東大震災。都心部から郊外への移住の動きが活発化し、世田谷がどんどん切り開かれます。
この時、建築需要にこたえるため、下町から多くのとび職人も移住してきました。このことにより、世田谷に江戸の神輿文化が根付いていくことになります。
また、鉄道が敷かれたことで駅前から宅地化が進み、氏子の人口が増えた場所では、お金を出し合って立派な神輿を建造できるようになりました。隣町が神輿を買ったと聞けば、我が町も負けていられないといった感じで、昭和初期には次々と立派な神輿がつくられました。
神輿は浅草に注文するのが主流で、江戸神輿(三社型)がほとんどです。そんな世田谷にあって例外で特別な神輿がここ駒留八幡神社にある宮神輿です。
鳳輦型(箱型)の神輿です。
駒留八幡神社の宮神輿は、江戸時代の宝暦12年(1762)、文化15年(1818)、天保10年(1839)の銘があり、今より260年程前の神輿だと言われています。
神輿の形は世田谷で一般的な江戸神輿(胴体の部分がくびれている)とは異なり、その一時代前の形を残している鳳輦型(胴体が箱形になっている)と呼ばれるもので、この型の古神輿は東京にも数基しかなくとても貴重です。
大きさも台座が5尺、高さが6尺、重さ約90貫(約300kg)と大きく、担ぎ棒も親棒が6m、脇棒が5.5mあり、大きさとしてもなかなか立派です。というか、とてもでかいです。
この神輿は元から神社にあったものではなく、大正時代に縁あって赤坂氷川神社より譲り受けたものです。長年担がれることなく神輿庫に傷んだまま置かれていましたが、昭和53年に氏子の方々によって修復が行われ、再び担がれるようになりました。
2009年、平成天皇陛下御即位20年を記念して担がれました。
再び担がれるようになったとはいえ、貴重な神輿だけあって特別なときにしか担がれることがありません(費用や手間の面でも)。
一番最近では、令和元年(2019年)に令和御大礼奉祝として担がれました。その前は、平成21年(2009年)に天皇在位20年を祝して担がれています。
更に遡ると、平成13年(2001年)には西暦で21世紀になった時代の節目を祝い、平成2年(1990年)には平成の御大典として担がれています。
その前はかなり間隔が空いていて、昭和2年の昭和御大典で担がれたとなっています。ただ、昭和53年に神輿を修理しているので、この年か次の年に何らかの形で担がれたのではないでしょうか。
過去の事例から考えると、基本的には皇室に関わる記念年に担がれることになります。ということは、次は令和天皇の御即位10年の2028年か、2029年になるのかな・・・と、神社のサイトを見ると、これからは例大祭の10月15日が日曜日と重なる年に担ぐことにしたとありました。
ということは、次に担がれるのは・・・、15日が日曜日ということは1日が日曜日の年ということになり、次回は2028年。うまい具合に令和10年と重なり、盛り上がりそうです。その次も調べてみると、2034年、2045年となるようです。
担がれない年も境内の左手にある神輿舎で飾られます。興味があれば是非ご覧になってください。
・式典、宮出しの様子
2009年(平成21年)は、天皇在位20年を祝して8年ぶりに担がれることになりました。当日は朝8時半から神事が行われるということで、朝早く起きて向かうものの、到着は時間ピッタリとなってしまい、境内ではもう神事が始まっていました。
多くの人が見守る中で行われます。
太陽の光が当たり、まぶしそうでした。
たすきをかけているのは責任者です。
早朝の境内で厳かに行われました。
朝早い時間にもかかわらず、境内には多くの関係者が集まっていました。そして朝の淡い太陽光が差し込む中で行われる神事はとても美しいものでした。
特に印象的だったのが、朝日が拝殿を照らし、拝殿前に並ぶ総代などに朝日がまともに当たり、神々しく感じたこと。ただ、本人たちはさぞまぶしかったことでしょう。
手締めを行って担ぎ上げます。
少しだけ境内で練ります。
神社から出て町へ向かいます。担ぎ手の表情が誇らしそうです。
神事が終わると、すぐに担ぐ準備が行われ、担ぎ手が神輿に付きます。担ぎたい人が誰でも担げるわけではなく、予め睦会で話し合いが行われていて、担ぐ人や場所が決まっています。
担ぎ棒は縦に四本。この神社に所属しているのも四つの睦会。棒ごとに担当の睦会が決まっていて、決められた半纏を着て担ぎます。また、町会ごとに鉢巻きで色分けがされています。
朝一番だし、他の睦会との関係もあるし、決められた手順通りといった感じで、淡々とした感じで神輿が担がれていました。ただ、地域の誇りの神輿を久しぶりに担げるということで、担ぎ手の表情はとても誇らしげでした。
脇参道から出ていきますが、とても窮屈そうでした。
少し境内を練った後、宮出しを行います。宮出しは鳥居のある表参道ではなく、環七に面した脇参道で行います。
トラックが通れる広さはあるものの、神輿の横幅、特に担ぎ棒の幅が広いので、幅がギリギリ。かなり窮屈そうな宮出しになっていました。
神輿が大きいので壮観です。鉢巻の色で睦が分かれています。
かつては大神輿が担がれるときは神幸祭といった形で金棒、伶人、馬上の神主、天狗に紋付羽織姿の各総代が神輿の前を進み、神輿の担ぎ手は白い装束に鳥帽子といった格好で静かに整然と担いでいたそうです。
といってもこれは戦前の話で、神輿が壊れていて近年まで担がれることがなかったので、今ではそういった時代絵巻のようなことは行われなくなってしまいました。
神社の横ですぐ収めます。この当時は神社横に鯉の養殖場がありました。
トラックに載せて運びます。
神社の外は環七の側道。広い場所に出るので、ここからが本番。勢いよく担ぎ始めるのだろう・・・と思っていたのですが、30mも進まないうちに神輿を下してしまいました。そして神輿をトラックに載せ、担ぎ棒を外しにかかりました。
おいおい、どうなっているの?まさかの展開に唖然。脱力感を感じながら尋ねてみると、これから三軒茶屋の商店街までトラックで運んで、そこから担ぎ始めるのだとか。
どうやら宮出しと宮入は4つの睦会で協力して行い、それ以外はそれぞれの睦会(町会)ごとに担ぐ事になっているようです。
・三軒茶屋(栄通り)の渡御の様子
担ぎ棒を再び取り付けます。
宮神輿が運ばれていったのは、国道246の南側にある栄通り商店街。神社から急いで栄通りに向かうと、南側の入り口付近に神輿が置かれていました。もう担ぎ棒は取り付けられていて、最終調整が行われていました。
渡御前に写真を撮っている団体は関係がうまくいっているところが多いです。
準備が整うと、記念撮影。8年ぶりに自分たちの町にやって来た宮神輿。担ぎ手たちの表情はとても嬉しそうでした。
ここは茶屋睦の管轄になります。商店街と密接に関りのある睦会は仲がいい所が多いです。普段からイベントなどで協力しているからです。
商店街でも飲食関係の店が多い所と、普通の商店が多いところとでは、また違った雰囲気を感じます。ここは飲食店が多く、阿波踊りもやっていることから、私の中では下北沢の新野睦と印象が被ります。
賑やかな三軒茶屋の商店街を進んでいきます。
店から出てきて出迎える人の姿もありました。
横から見ると、神輿が大きいのを実感します。
狭い路地を担ぎ手が押し寄せる感じです。
若駒連が努めます。
準備が整うと、栄通りを渡御していきます。時刻は10時前。朝早いという時間帯ではないものの、日曜日だし、飲食店が多いしと、商店街は閑散とした感じでした。
その商店街を若駒連が務めるお囃子者を先頭に、高張提灯、神輿と進んでいきます。栄通り商店街は昔ながらの商店街で、道が狭いです。担ぎ手と神輿が狭い路地を溢れんばかりに進んで来るといった感じになります。
道沿いでは、久しぶりに神輿がやって来るということで、路上で出迎える人の姿もありましたが、そこまで多くありませんでした。
ちなみに、この通りでは昨年の2008年に大事件が起きました。それはディスカウントショップのセキゼンが倒産したこと。2000年以前は三軒茶屋はもとより、世田谷でディスカウントショップといえばセキゼンというぐらい知名度がありました。
町の再開発とともに大手のディスカウントショップが三軒茶屋に進出してきて、経営が苦しくなってしまったようです。この栄通りにはセキゼンの本店があり、昔はとても活気がありました。
246手前で休憩となります。
栄通りを進んだ神輿は、国道246号の手前で一旦神輿を収めました。国道246の向こう側の商店街も昭和的な味があります。そこを神輿が進む様子も素敵だと思いましたが、他の神社の神輿も見たかったので、ここで離脱することにしました。
地中海的なパチンコ屋さんです。
レインボーカラーなパチンコ屋さんです。
栄通り商店街にはパチンコ屋が2店あり、とても派手な外観をしていました。そんな中を進んでいく神輿は、また違った趣を感じます。
神輿は絢爛豪華できらびやかなもの。昔話の時代、神様を見ると目がつぶれると言われたように、きらびやかな神輿を見ると目がつぶれると表現していました。
この神輿が造られた江戸時代は、きっとそんな言葉が似合うような渡御風景だったことでしょう。でも、現在の世の中、特に商店街では神輿が目立たないほど周囲の風景が派手になりました。建物も道の両脇に聳えるように並んでいて、神輿が目立たなくなっています。これも時代の流れになるでしょうか。
かつて栄華を誇っていたセキゼンもなくなってしまったこともあり、ちょっと物悲しさみたいなものを栄通りの渡御で感じてしまいました。
・宮入の様子
駒留陸橋の下から宮入道中が始まります。
宮入は18時ころからということなので、その時間に再び神社を訪れると、環七と駒留通りが交わる駒留陸橋の脇に神輿が置かれ、担ぎ手たちが待機していました。
駒留陸橋をくぐり、環七の側道を通って神社に向かいます。
宮入道中はここから始まり、駒留陸橋をくぐり、環七の側道を北上していき、神社の脇参道へ向かいます。
ここからは朝の宮出しと同じように担ぎ棒ごとに睦会が分かれて担ぎます。ただ、この年は何かいざこざがあったようで、一つ睦会が不参加でした。
境内にどっと担ぎ手がなだれ込んでくる感じでした。
境内が大勢の担ぎ手の熱気に包まれます。
なかなか呼吸が合わず、何度もやり直していました。
責任者が担ぎ手たちに気合を入れます。
宮出しと同じように環七側にある脇参道を使って神輿が入ってきます。神輿と担ぎ手が境内になだれ込むように入って来るので、静かだった境内が一気に湧き上がります。
神輿が重いのであんまり派手には動けませんが、境内でもみ合った後、拝殿前で収めます。終わりたくない思いが強いのか、なかなか収まらなく、何度も戻され、やり直しをしていました。
無事に収まり、境内が熱気に包まれていました。
無事に収まると、手締めで終了。担いでいた人たちにとっては感動のフィナーレといった感じでしょうか。担ぎ手の人達が感無量といった表情をしていたのが印象的でした。
毎年担げる神輿もいいけど、このように滅多に担げない神輿もいいものです。
4、町会神輿渡御の様子(2010年)
駒留陸橋付近から宮入道中が始まります。
賑やかな三軒茶屋の商店街の睦なので一番活気がありました。
日曜日は各町会の神輿渡御が行われます。駒留八幡神社には宮元、茶屋、一三、東西の4つの睦会が所属していて、それぞれの町域を回った後、夕方前になると神社に宮入してきます。
宮入は年によって異なり、連合でやってきて境内で勢揃いしたり、一つの睦会が終わると別の睦会が入ってきたり、個別にやって来たりします。事前に今年はどういう形にするのか、祭礼前の会合で決めているようです。いずれにしても、宮入が始まると静かだった境内が一気に賑わい、境内が熱気にあふれます。
*写真は後日追加します。
5、感想など
雨上がりでちょうど人の少ない時間帯でした。
常盤伝説所縁の駒留八幡神社。境内には立派な松が植えられていて、武骨な感じの社殿と相成って素晴らしい空間となっています。特に薄暗くなってからは伝説の世界に吸い込まれそうな雰囲気になります。
しかしながら、常磐弁天の池が干上がってしまっているのが現状をよく表していて、一昔前には世田谷区の案内板に鷺草伝説が本当にあったかのように書かれていたのが、今では伝説と現実が混乱するという理由なのか、架空の人物といった記述が目立つようになってしまいました。
伝説はあくまでも伝説にすぎませんが、そういった話が残っていること自体がとても素晴らしいことであり、駒留八幡神社の魅力の一つになっているように思います。
せたがや百景 No.19上馬の駒留八幡神社 世田谷の秋祭り#8
駒留八幡神社と例大祭 2025年10月改訂 - 風の旅人
・地図・アクセス等
| ・住所 | 上馬5-35-3 |
|---|---|
| ・アクセス | 最寄り駅は田園都市線三軒茶屋、駒沢、世田谷線若林など。駅から少し離れています。 |
| ・関連リンク | 駒留八幡神社(公式) |
| ・備考 | ーーー |