世田谷の秋祭りについて
世田谷で行われている秋祭りについてのあれこれを書いています。
1、世田谷の秋まつりについて
過度に住宅が密集し、畑が希少な存在となっている世田谷。現在の世田谷から考えると、収穫を祝う秋祭りとは縁のない土地だと感じます。
しかし、明治までの世田谷は、ほぼ全域が農村地帯で、人口は少なく、畑や雑木林ばかりの土地でした。
明治後半から大正初期にかけて、東京郊外にあたる世田谷に開発のスポットが当たるようになり、鉄道が郊外にまで延びたり、郊外住宅地が開発されたり、ゴルフ場が造成されたりと、世田谷が切り開かれていきます。
繁華街近くでも川沿いを中心にまだ田畑が多く残っています。
*国土地理院地図を書き込んで使用
世田谷の開発が爆発的に加速したのは、関東大震災後。密集した都内から郊外へ移転する動きが加速し、郊外へ伸びる小田急線や京王線なども開通しました。
戦後になると、住宅不足から更に土地の開発が進み、東京オリンピックが開催された昭和39年頃には、駅に近い場所は住宅で埋め尽くされ、川の治水工事が行われたことで、川沿いの低地にも住宅が立ち並ぶようになりました。
この頃には駅から離れた一部の地域以外は農村だった面影がなくなり、逆に田畑のある様子が貴重な風景に感じるようになりました。
世田谷区内では昭和初期まで農村の名残が随所で見られたので、その名残から今でも多くの地域で昔ながらのスタイルの秋祭りが行われています。
各町の神社で行われるので、その数は50以上もあり、こんなに多いとは・・・・と、調べ始めてから驚きました。それがまた大体9~10月の週末に集中して行われるので、祭礼をきちんと見学しようとすると、何年も掛かってしまいます。
数の多い世田谷の祭りですが、その多くは昔と比べると規模が縮小しています。それが顕著に現れているのが露店の数です。2000年になってから下り坂となっているところが多く、極端に減ってしまった神社も多いです。
露店商も店を開いて商売にならないのなら、来年は他の神社の祭りへ出店しようとなるのは当然の流れです。格差社会という言葉をよく聞きますが、祭りに関しても露店が多いところは多い、少ないところは少ないと、極端な様相となりつつあります。
地域に暮らす住民自体は増え続けているので、住民が秋祭りに関心がなくなりつつあったり、露店の存在に魅力を感じなくなったり、自分の氏子神社がどこなのか知らなかったり、氏子地域とか関係なく好きな神社の祭りを訪れたりと、一般住民の祭りに対する意識の変化が大きいのかなと感じます。
それに娯楽の多い現在の都会では、秋祭り自体に高揚感を感じる人が少なくなってきています。血気盛んな若者が神輿を担いで・・・なんていうのは過去のお話。昔は神輿を担ぐことに憧れたり、生きがいのようにしていた人も多かったのですが、バブルのころからそういった人は減少していき、担ぎ手が集まらなく、神輿をやめた神社もあります。
また、こういった地域のお祭りにお金を出したり、接待に協力する地主とか、有力者、個人も減っていて、担ぎ手不足なのも相まって運行を一年おきにしたり、渡御コースを短くしたり、一部を台車に載せて移動したりと、全体的に規模は縮小傾向にあります。
かつては、神輿文化は村社会の象徴でした。村を挙げてとか、村同士の対抗といった言葉がよく似合い、川向こうとか、道の向こう、丘の向こうとかで対抗意識が芽生え、向こうが盛大にやるならこっちも・・・なんて張り合っていたものです。
しかし、川は埋め立てられ、斜面にもびっしりと住宅が密集している現状では、そういった村意識が芽生えなくなるのも当然です。
それに、町会という氏子よりも強力な地域組織が新たにでき、昔のように地域をあげて祭りに取り組むといった意識も薄くなりました。
そう、神様に頼むよりも町会で話し合って物事を決めたり、災害、防犯対策をする方が現実的です。神輿をみんなで力を合わせて汗水たらして担ぎ、地域の結束をとか、隣の町域にわが村の結束を見せつけて・・・なんていうのも前時代的な話となりました。
とはいえ、なんやかんやで人口80万人も暮らすのが世田谷。過疎化が進む地方とは違い、もの好きが集まり、なんとか祭りがこなせていたりします。この環境は地方の人間からすると、うらやましいと感じるはずです。
2、世田谷の祭りあれこれ
せっかく世田谷の祭りを全て載せているので特徴的なことをいくつかピックアップしてみました。
1、神輿、太鼓について
・古神輿

区内にある多くの神輿は、大正後期から昭和初期にかけて浅草などに注文して建造した江戸神輿(三社型)です。
そんな世田谷にあって唯一例外で特別な神輿が駒留八幡神社にあります。この神輿は大正時代に縁あって赤坂氷川神社より譲り受けたもので、神輿には江戸時代の宝暦12年(1762)、文化15年(1818)、天保10年(1839)の銘があり、今より250年程前の神輿だと言われています。
神輿の形も一般的な江戸神輿(胴体の部分がくびれている)とは異なり、その一時代前の形を残している鳳輦型(胴体が箱形になっている)と呼ばれるもので、東京にも数基しかない貴重なものです。
大きさも台座が5尺、高さが6尺、重さ約90貫(約300kg)と大きく、担ぎ棒も親棒が6m、脇棒が5.5mあり、大きさとしてもなかなか立派なものです。
この神輿は長年担がれることなく神輿庫に傷んだまま置かれていましたが、昭和53年に氏子の方々によって修復が行われ、不定期ながら再び担がれるようになりました。
・大きな神輿
そこそこ大きな神輿はありますが、周辺地域に名を轟かせているような極端に大きな神輿はありません。北澤八幡神社の惣町睦会の神輿は同じ北澤八幡神社の氏子地域の四南睦にあったもので、戦時中に東京で3番目に大きい神輿と言われていました。昭和初期に作られたもので「百貫御輿」といった愛称で呼ばれているように、その重さは400キロ以上あります。
戦時中の日本が巨大戦艦大和を建造したように、昔は、大きなものは正義。大は小を兼ねる。という風潮もありましたが、バブル期頃から担ぎ手が減少し、大きすぎて担げないと、小ぶりな神輿に造り替えた地域もあります。
・川神輿
昔は多摩川沿いの町域では、多摩川に神輿が入っていたこともありました。特に野毛では秋祭りとは別に水神祭が夏に行われ、川に入るための専用の神輿がありました。現在ではそういった渡御は行われていませんが、水神祭に使われていた神輿が野毛に残っています。
・万灯神輿
かつては経堂の夏祭りで2基の万灯神輿が盛大に担がれていましたが、担ぎ手不足から行われなくなりました。
現在、区内では代田八幡神社に所属する下代田東町会のみが万灯神輿を秋祭りで担いでいます。昼間はあまり見栄えがしませんが、日が落ちて神輿に灯が入ると、とても美しく、また担ぎ手の魂にも灯が入るようです。
・大太鼓

大太鼓といえば関東では府中の大国魂神社が有名です。区内では大国魂神社に縁があったり、講の流れを汲む神社がかあり、府中にあやかって大きな太鼓を持っている神社も幾つかあります。
特に稲荷森稲荷神社の「あ・ん太鼓」は、大きさは直径六尺(約2m)、重さが2トンもあり、新調当時は全国で三番目の大きさだったとか。現在でも東京都23区内では一番大きい太鼓と言われています。
給田六所神社の太鼓も大きく、区内では二番目になります。そのほか、坂の多い土地柄なのでハンドルや強力なブレーキを取り付けた自作の独特な太鼓車も見かけます。
2、神輿の担ぎ方、宮入
・連合宮入

神輿には神社所有の宮神輿と、町会や睦会が所有する町会神輿(町神輿)があります。
宮神輿の場合は一基、あるいは女神輿が運行される場合は二基での宮入となりますが、町会神輿を運行している神社で所属する町会が多い場合には、町会が集まって次から次へと宮入りする連合宮入が行われます。特に華やかなのは8つの睦会が所属する北澤八幡神社の宮入で、世田谷一の盛り上がりを見せます。
このほかにも等々力の玉川神社、奥沢神社、三軒茶屋の太子堂八幡神社、松原の菅原神社、代田八幡神社、上馬の駒留八幡神社などでも、年によって違う場合もありますが、連合での宮入が行われます。
連合宮入というわけではありませんが、烏山では旧甲州街道を3町会の神輿が一駅分の距離を連合で渡御するといった連合渡御が行われていて、こちらも結構人気があります。
・崖線の宮入

神社というのは見晴らしのいい高台にあって、村を見守る存在・・・というのは、田舎の漁村や農村でよくある風景です。
世田谷では山がないのであまりそういった風景はありませんが、小さな丘の上や川沿いの高台などに立地している神社が多いです。
山がない世田谷でも例外的に急な斜面があります。それは多摩川、野川沿いに続く国分寺崖線です。崖線を町域に持っている町では崖線上に神社が鎮座している所が多く、岡本八幡神社、瀬田玉川神社、上野毛稲荷神社、野毛六所神社、尾山宇佐神社などが崖線の斜面にあります。
この中でも瀬田玉川神社の宮入は神輿にロープを付けて階段を引っ張りあげるといった山神輿みたいな大掛かりな宮入となります。
岡本八幡では狭く急な階段を器用に担ぎ上げるといった素朴で、力強い宮入が行われ、野毛では派手ではありませんが、崖線の下から長い坂を一気に神社まで登るので、地味に大変です。
・城南担ぎ

神輿はみんなが同じ方向を向いて、「わっしょい」と叫びながら担ぐもの。そう思っている人が多いと思いますが、色々例外はあります。
奥沢神社に所属する「南町会睦」は、奥沢銀座会(奥沢銀座商店会)と、その先に続く奥沢親交会商店街が中心となってりる奥沢4丁目の睦会です。
この睦会の特徴は、世田谷で唯一城南担ぎで神輿が担がれる事です。城南担ぎは一般的な江戸前神輿と違い、担ぎ棒が横に組まれ正面を向かず向かい合って担ぎ、もんだり、さしたりしながら「おいさ」のかけ声で横にカニ歩きのような形で進んでいきます。
これはお神輿に乗っている神様にお尻を向けずに担ぐ為です。また神輿の堂の脇に括り付けられた「太鼓」とその周りで吹く「笛」の拍子に合わせ、「ちょいちょい」と小刻みに激しく神輿をもむのも特徴です。
3、文化習慣
・奉納相撲

世田谷八幡神社では江戸時代から伝統的に奉納相撲が行われています。江戸時代、相撲は歌舞伎や神楽に並ぶほどの娯楽であり、各地で盛んに行われていました。
世田谷八幡宮での奉納相撲もそういった娯楽の一部でしたが、その規模や知名度は高かったようで、江戸時代には「江戸三大奉納相撲」(江戸郊外三大奉納相撲かも?)に数えられるぐらい有名だったようです。
現在は秋祭りの宵宮に奉納相撲が行われています。相撲を努めているのは農大相撲部で、神事、相撲の稽古、取り組みなどを見ることができます。
ここの素晴らしいのは、ちゃんとした土俵があり、円形劇場のような観客席があること。しかも大学の相撲部なので本格的な相撲を見ることができること。更には、ちょうど大相撲の秋場所とも重なるので、場内が盛り上がることだと思います。
・厄除け大蛇のお練

奥沢神社では土曜日に藁で作った大蛇を担いで町内の各神酒所を回っていくといった古風な行事が行われています。
これは江戸時代中期の宝暦年間(1751~64年)に、奥沢の地に疫病が流行し、病に倒れる者が続出したとかで、村人が困り果てていると、ある夜、名主の夢枕に八幡大神が現われ、「藁で作った大蛇を村人が担ぎ村内を巡行させるとよい」というお告げをしたそうです。
早速、村人は新藁で大きな蛇を作り、その蛇を担いで村内を巡行すると、たちまちに疫病が収まっていき、村人は相談してその大蛇を八幡神社の鳥居にかかげたというのが、この行事の始まりとなっています。
現在でも鳥居に大蛇が巻かれていて、厄除大蛇として親しまれ、疫病退散、健康を祈念する人が多いそうです。
・おひねり

祖師谷といえばウルトラマンが有名で、商店街もウルトラマン商店街と名づけられています。
この商店街を神輿が進むときに、おひねり(小銭を紙で包んだもの)を神輿に投げるといった変わった習慣があります。昔はそれなりにあったようですが、現在では神輿におひねりを投げること自体珍しく、これほどの規模で行われるのは極めて珍しいといえます。
小銭とはいえ、金属でできているので当たると痛いし、道に落ちたものを拾うのも面倒だし、用意するほうも大変です。そういった理由で世間一般的に行われないのは見ていて一目瞭然です。
でもこの地域ではずっと続いているというのは、なんていうか面倒をものともしないといった地域の絆が強いからかもしれません。
・神楽・囃子

現在でも比較的大きな神社では神楽を行っていますが、どこも区外の社中(団体)に依頼しています。昔は神楽を舞う人が区内にいましたが、徐々にその内容を理解できる人が少なくなり、担い手もいないことから衰退しました。
神楽が行われている時の境内の閑散とした様子を見ると、時代の流れだなと感じ、今後も神楽を行う神社の数が減っていくのではないかと思います。
お囃子の方は、戦前は他の地域にも遠征するほど盛んに行われ、世田谷の囃子はそこそこ有名でした。特に船橋や等々力の囃子は近隣に名が知れていて、府中市では船橋流の囃子が現在でも継承されているほどです。
しかしながら徐々に担い手がいなくなり、お囃子の文化も衰退しました。近年では古い文化を残そうと各地域の保存会の方々が継承に取り組んでいるものの、お囃子を熱心に耳を傾ける人は少なくなっているのが実際です。ビンゴ大会や餅撒きの前座になってしまっている感があります。
・奉納演芸

祭りの楽しみは奉納演芸を見ること。というのはやっぱり過去の話となるでしょうか。昔は景気のいい年や式年大祭には芝居を呼び、村中の人が祭りにやってきたといった話が残っています。
現在では地元の団体による舞踊や演奏、カラオケ大会などが宵宮に行われ、本祭の日にはプロの人を呼んでパントマイム(道化)や演歌などの演奏を行っているところが多いです。
ただ、よほど有名な人とか、面白いものを呼ばない限り境内が人で埋め尽くされるということはなく、一部の人が楽しんでいるといった感じになります。
娯楽の多い時代に若い人がこういった奉納演芸に積極的に訪れるといったことはなくなり、お金も掛かることから奉納演芸を行っていない神社も多くあります。
また奉納演芸をやっても人が集まらないので、ビンゴ大会を行うようにしたら人が沢山集まるようになった・・・という神社もあります。人を集めようとすると何かしらメリットがないと難しい時代なのでしょうね。
世田谷の秋祭りについて 2025年9月改訂 - 風の旅人